「つる植物」と格闘しながら考えたこと
つい先日、頑張って草取りや剪定をしたばかりなのに…と思ってよく見たら、住人不在で荒れてしまった隣家から伸びてきたあれやこれやの「つる植物」が我が家の木や草に絡みつき、大きな葉を茂らせてこんもりと見えていたのです。
それにしてもものすごい生長スピードだと思いました。寄生する性質のものではないように見えますが、この調子では絡みつかれた植物は日があたらなくなり枯れてしまうかも…。かわいそうになり…ベニカナメの上部を覆っていた「つる」に手を伸ばし引っ張ってみました。
すると、ずるずるずるずる、引いても引いても終わりません。力はさほど必要としないのですが、ずるずるずるずる、ベニカナメわずか二本に、大きなゴミ袋一袋がいっぱいになってしまうほどの量のつる植物が絡みついておりました。で、この調子では一体何枚の袋が必要になることかと不安になりましたので、つるを取り除いてゴミ袋に詰めることはあきらめ、つるのあちこちにチョキチョキ切込みを入れ、枯れるのを待つことにしました。
作業を終え、ゴミ出しも終え、流れる汗を拭きながら、ふと、
そう、40年以上クリスチャンをやっておりましたのでね、何を見ても結局聖書の言葉を思いついてしまうわけですが、つるにチョキチョキ鋏を入れながら「終末ってこうことなんだよなあ」と思ってしまったわけです。
それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい、『わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトびとの労役の下から導き出し、奴隷の務から救い、また伸べた腕と大いなるさばきをもって、あなたがたをあがなうであろう。出エジプト記6章6節(口語訳)
まずはこうやってごくたまにしか「み言葉」を思うこともしなくなった今の私が「つるにおおわれて光から遮られた樹木」であると「つる」をぎゅうぎゅうゴミ袋につめながら思ったわけです。種がまかれ芽を出したのに、おまえはつる植物に覆いつくされて死んでしまったのだ、と脳内の私が責めてくる。
でも本当にそうなのだろうか、と、「鋏」を手にしてチョキチョキつるを切りながら思ったわけです。「救い」とは…このチョキチョキ…こういうことのような気がする、と。
鋏を入れられた「つる」は、しばらくのあいだは青々しているでしょうが、強い日の光に照らされてやがてはしおれ、そして枯れていく。大切なものを覆いつくして殺そうとしていた者どもは、勝利した、成功したと喜びおどるその絶頂で、本人も気付かないままに枯れていく。こんもり茂った邪魔なつる植物は朽ち、30年間手入れをしてきた私にとって価値のある植物ベニカナメは残る。これが「救い」、「救済」。
さて、上に引用した出エジプト記6章6節のみ言葉の中にある「さばき」という言葉は、聖書ヘブライ語で「シェフェト」というようです。
שֶׁפֶט
Strong's Hebrew 8201
聖書にはたった16 回しか登場しない言葉です。
このシェフェトという言葉が登場する聖書の個所を読むと、
まずはシェフェトがどのようにもたらされるかということがわかります。
BIBLE HUBを見たらこんなふうにまとめてありました。
1.超自然的な災厄(出エジプト記6章6節、7章4節、12章12節)
2.軍事的敗北(歴代誌下 24章24節、エゼキエル書 11章9節)
3.飢饉、疫病、野獣(エゼキエル書 14章21節)
4.荒廃(エゼキエル書30章14,19節)
そして、シェフェトをもたらすことがおできになる方こそが主であるということを全世界は知るようになる。
わたしはモアブの上にさばきを行う。そのとき、彼らはわたしが主であることを知る。エゼキエル書25章11節(口語訳)
そして、シェフェトによって滅びる者と残りの者が分けられ、それぞれにふさわしい取り扱いを受ける。
それゆえ、あなたのうちで父はその子を食い、子はその父を食う。わたしはあなたに対してさばきを行い、あなたのうちの残りの者をことごとく四方の風に散らす。
それゆえ、主なる神は言われる、わたしは生きている。あなたはその忌むべき物と、その憎むべき事とをもって、わたしの聖所を汚したので、わたしは必ずあなたの数を減らす。わたしの目はあなたを惜しみ見ず、またわたしはあなたをあわれまない。
あなたの三分の一はあなたの中で疫病で死に、ききんで滅び、三分の一はあなたのまわりでつるぎに倒れ、三分の一は四方の風に散らされる。わたしはつるぎを抜いてそのあとを追う。エゼキエル書5章10~12節(口語訳)
チョキチョキと「つる」に鋏を入れながら、
やっぱり「救い」とはこういうものだ、と思いました。
自分で頑張ってどうこうなることではないし、人間が決めることではない。だから私の脳内が嘆きつづける必要はない。宗教活動を頑張っていないからどうのこうのと言われる筋合いのものではなく、
…ただひたすら、この世界に生きているゆえの苦しみに耐えながら、
でも時々は趣味だのなんだのを楽しみながら、大地を行く。すでに敷かれた道を一歩一歩歩く。
地軸の傾きを喜んだり嘆いたりしながら、地軸の傾きを決めた方の道を歩く。
今のこの地上は、良いものも悪いものもいろんなものが混ざっているからほんとうに大変だけれども、主の声を見分けるために耳を澄ませながら、ゴールを目指して歯を食いしばって一歩一歩歩いていく。
あなたはペテロがイエスさまから「下がれサタン」と言われたことを覚えていますか。
忘れてはいけない大切なことをイエスさまは教えてくださいました。
あのときペテロが語った言葉はサタン=キリストの邪魔をするものであると。あのペテロですら大間違いをした瞬間があったのです。
義人なし、正しい人完璧な人などどこにもいない。良かれと思ってやっても間違える。
間違えた?ペテロは何を間違えた?
間違えるという言葉は、大前提として「正しいこと」があるときに使える言葉です。正解はあるのに、それと異なることを行ったときに「間違えた」と言います。じゃあ、何が正しいことなのか、と言えば、それは「神さまのみこころ」です。ならば「みこころ」ってなんだ?
明確にみこころが示されているものがトーラーとネビイームですよね?しつこいようですがノモスではないですよ、トーラーね。そしてネビイーム預言者を通して語られた言葉、そこからずれていたらそれは間違い。それが罪であり、神さまの邪魔。
ルールがあるから罪がある。ルールがなければ罪はない。
しかし、ここには大前提がありますよね、それは、聖書に描かれている万物をご自身の「ルール」に基づいてつくられた創造主の存在を認めるかどうかということ。
創造主というお方の存在を「ある」と認めなければそのルールが自分に適用されるとは考えられないですよね?
そして、
創造主というお方の存在を「ある」と認め「ルール」があると考えられる人は、自分自身が創造主によってつくられたものであると考えるわけですから、創造主が自分よりも上の立場であり、その方の言葉は信頼に足るものであると認めることになりますよね?
つまりそれは、創造主であるお方を自分自身の王と認め、王であるお方の臣下となる、つまり、王である方のルールが自分に適用されることを認め王の治める国家の一員となるということですよね?
しかし、聖書に描かれる創造主は存在しない、とか、関係ないと考える人たちは創造主の言葉など気にも留めません。気に留めないのですから、ルールなんて知ったこっちゃない。知ったこっちゃないのだから守るわけもなく、結果、創造主とは全く関係がないと考え不遜な態度となるわけです。バベルの塔を建てようとしたニムロドのように。
創造主が地上に送ってくださった「メシアであるイエスさま」がトーラーとネビイームの神髄(いわゆる黄金律)を語られても、
自分が「人からしてほしいことかどうか」という、ただそれだけのことすら自分の脳で判断しようともせず、判断は他人任せ、ドグマ任せ。それどころか今どきは人でもないAI任せ。
たとえ石に何かを刻んで拝むことをしなかったとしても、
創造主から与えられた自分自身の高度な知性(タラント)を用いて思考せず、タラントは穴を掘って埋め、「埋めておけば絶対に間違わない」と言って柵の中にじっとしているクリスチャン。言葉巧みな「王のような」者を(思考しないから御心とずれていることにも気づかぬままに)礼賛し、創造主のつくられたルールの一つであるエントロピー増大の法則が適用される「人間の手でこしらえた」諸々に信頼を寄せているとすればこれは創造主に対する裏切り行為と同じことです。
与えられたタラントによって行うべきことを行わない=思考しない、判断しないならば結果として私たちは創造主である方に反逆することとなり、創造によってもたらされた美しく整えられたすべての秩序が失われてしまう。
メシアはルールを終わらせたのではなくて、
ルールを破る人を赦して赦して完全に赦して神さまとの交わりを回復させたのです。
ルールはあります。永遠に。
そうこうしているうちに、厄介な「つる植物」は枯れてしまいます。繁茂しているように見えていてもそれはすでに体はバラバラにされているのですから枯れるのです。
繁茂している、という言葉をタイピングしながら「群馬ならではのこと」を思いました。
恐ろしい暑さ、強すぎるように思える太陽の光をしのぐためには、案外この繁茂した「つる植物」が役に立っているのかもしれない、と。
暑い夏が過ぎたら一掃しましょう、大切な植物を救うために。
良い麦の付ける穂と毒麦の付ける穂はまるで異なるものだとはっきり認識できる時、悪い者が結ぶ実がはっきりと見えてきます。
そして当然のこととして
・・・解放はシェフェトと同時に起こる・・・
・・・そう、だから、起こっています。ね?