ああ、私が前に進んでも、神はおられず、ヨブの苦しみ、
うしろに行っても、神を認めることができない。
左に向かって行っても、私は神を見ず、
右に向きを変えても、私は会うことができない。ヨブ記23章8,9節
それは彼自身の身体に起こっている問題や愛するものとの悲しい別れ、そして財産を失うことにとどまらず 、その苦しみを親しい友人にも理解してもらえないということであったと思います。
しかしそれ以上であったのは、神さまがわからなくなってしまったことなのだ、とつくづく思います。愛なる神さま、恵みに富みあわれみに富み豊かに与えてくださるはずの神さまがいったいどこに行ってしまわれたのか、
「ああ、私が前に進んでも、神はおられず、
うしろに行っても、神を認めることができない。
左に向かって行っても、私は神を見ず、
右に向きを変えても、私は会うことができない。」
クリスチャンにとっても、正直言って、こう感じざるを得ない、大いなる失望でも申しましょうか、そんなときが無くはない。
しかしです。
このヨブの言葉はそのまま真実なのでしょうか。
神さまはおられないのでしょうか。神さまは休暇を取っておいででしょうか。
そんなことはないのです。
聖書をまるまる一冊読むことの出来る現代の私たちには、ヨブがこのようにつぶやいた瞬間に、
神さまがいったいどこにおられたのかよくわかっています。
神さまは私の言葉の一部始終を聴いておられる方。
神さまは私の言葉を無視されない方。
神さまは共にいてくださり私を背負ってくださる方。
です。
そして私たちはヨブ記の最後をよく知っておりますから
ヨブよ、そうではないのだよ、と私たちは彼に語る事が出来るのであります。
今は山が微動だにせず、
事態はひたすら悪い方に行っているようであり、
まるで神さまがいらっしゃらないように感ずる時、
しかし、私たちはみ言葉を読み、
み言葉にそう書いてあるのだから、「信じる」。
神さまがそう言われたのだから、「信じる」。
それが「信仰」と呼ばれるものです。
ヨブさん、あなたには今はわからないと思いますが、
あなたのどん底のつらさと
あなたの人生の一部始終は
私たちの聖書に書いてあるんで私知ってるんですが、
もう少しで終わるから
そして、最後いい感じだから
もう、ちょっと、もうちょっとだけ耐えてください。
しかもあなたの苦しみによって私たちは、相当ななぐさめをうけております。
あなたの苦しみは世界中の人々を生かす深い意味のあるとてつもない価値のある苦しみなのですよ。
絶対さいごいい感じに終わるからね。(^O^)
そう。
だから私も
信じます。