2015年7月23日木曜日

振り返らない

「そういえば、練り物をしばらく食べてないねえ」と昨日主人と話しました。

ずいぶん長い間口にしていません。材料を吟味してごくたまに購入することはあるのですが、三度の食事のこと、確認作業が面倒なので、特別なとき以外は確認不要な食品だけで生活を送っています。

まあ考えてみれば、日本で生まれ育ち日本で所帯を持っておりますから、手に入って当たり前食べて当たり前なものというものがいろいろあって、それが無いというのはなんとなーくつまらないことではあります。そして、いったん「無い」と気付くと無性に欲しくなるというのが人間の本能なのかもしれませんが

「肉が食べたーい」と荒れ野でつぶやいたイスラエルを思い出しました。
何も食べられずに餓死しそうだというのではない。要は舌から喉ごしまでの欲求!なのです。しかし、「どうしてもあれがが食べたい」という思いになる人間。そして、食べ物のことだけではありません。「あの頃は良かった」そういう思いは自制しないで放っておくといくらでもわき上がってくるのです。



戻すことの出来る過去を振り返り、自分や世界を過去のよりよかった一瞬に戻そうと努力することは価値のあることでしょう。しかし、いくら振り返ったところで、変えることの出来ない過去は振り返ったところで不幸しか生まないと思います。
(ただし、加害者と被害者がいる「過去」はきちんと精算する時を経て、振り返ることと決別すべきですね)





「振り返る」ということを考えていましたら、創世記に登場するロトの妻のことを思い出しました。せっかく神さまが救いの手をさしのべて下さったのに、「振り返るな」とのことばを守りきらず、塩の柱になってしまった。ロトの妻は、神さまによる救い、「差し迫った生死に関わること」=「命」よりも、生活していたあの土地に残してきた財産に未練を持って振り返ったのではないかと私には思えるんですが、とにかく振り返ったために塩の柱になってしまったわけです。
まあ、場所が場所だけに塩の柱なのか、とも思いますしよくはわかりませんが、要するに彼女は命を失ってしまったわけです。肉体の命だけでなくそれ以上のものも失ってしまった。


「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」マタイ16:26(新共同訳)


それでも振り返るのが人間なのでしょうか。それが人間の罪深さなのでしょうか。両手にぎゅっと握りしめたものを手放さない、手放してこそ握ることの出来るもっと良いものがあっても手放さず前に進まない。そして手放したかと思えたのにじーっと来し方を見つめている。


最も大切なわけでもない握りしめたものは放さねば。