主に拠り頼む

今日はⅡ歴代誌15章と16章が通読の箇所でした。
久々に、聖書を読んで思ったことについて書こうと思います。


アサは、神の霊が臨んだオデデの子アザルヤからこう言われました。
あなたがたがとともにいる間は、主はあなたがたとともにおられます。もし、あなたがたがこの方を求めるなら、あなたがたにご自身を示してくださいます。もし、あなたがたがこの方を捨て去るなら、この方はあなたがたを捨ててしまわれます。歴代誌第二15章2節
この言葉を受けて、アサはとともに いることを選び、実際、は守って下さり平和と繁栄が与えられます。

しかし、アサの治世の第三十六年、彼の心に変化が起こります。(この第三十六年という年の問題はとりあえず今日は無視します)イスラエルの王バシャがユダに上ってきたときのことです。その際、アサが主に拠り頼むことよりもアラムの王に拠り頼んだ、というのです。


実は、ここを読んだとき、思ったのです。たかだかその程度のことで…と。
スイマセン、落ちこぼれなもので、浅い理解で軽ーくに文句を言い放ってしまう傾向があります。でもね、アラムの王に拠り頼んだって言ったってねえ、クリスチャンの人たちだってよくやってるじゃないですか、有名人に広告塔になってもらうとか。(ちょっと違うかな)
それに、アサ王がそれまでやってきたことの大きさに比べたら、ちょっと失敗しちゃったみたいに読めなくはない。うっかり、ちょこっと、と。


でも、読み返してみると、実はそうではないのではないかということに気付きます。16章10節に見られる予見者に対する彼の態度を見ると、彼の心の中はかなり悪い状態だったように思えます。
行間を想像するに、もしかしたらここに書かれていないようなちょっとしたきっかけでから心がわずかに離れたのもしれません。で、そのときさほど不都合を感じなかったので(アダムとエバのごとく目が開かれとでも表現しましょうか)、まあいいかまあいいかと繰り返すうちに、アサの心はからかなりの距離まで離れてしまったのかもしれません。王という立場で、実績も上げ、人々からおだてられ、尊敬されるうち、人間の弱さというか罪深さというか、自分の知恵と力で事はどうにでもなるんじゃないかと勘違いを始め、主がなさせて下さった、という大切なことを忘れてしまったのかもしれません。

ふと、詩篇1篇のみ言葉を思い出しました。
「幸いなことよ。(略)その人はのおしえを喜びとし、昼も夜のそのおしえを口ずさむ。(略)その人は何をしても栄える(略)」

アザルヤはアサにこう言いました。
「あなたがたがとともにいる間は、主はあなたがたとともにおられます。」
ともにいるということは、ここに引用した詩篇1篇のような事ではないでしょうか。
また、ヨハネの福音書の1章には「ことばは神であった」とありますから、神さまとともにいるということは神さまのみ言葉とともにあるということ。

予見者に怒りを発する、すなわち主のみ言葉を退けるという究極的な大罪を犯さないためには日々の歩みの中の小さな事「おしえを口ずさむ」という、「ことば」であられる神さまとの親しさを保ち続ける「意志」が重要なのでありましょう。目に見えないと忘れがちというのが人間の弱点でありますが、自然界の奇蹟と日々の生活の中の小さな一つ一つの恵みを言葉にして数え覚えることで神さまのご存在をくっきりと鮮やかなものとし、意志を持って聖書の言葉に触れる、そうし続けなければ過去の信仰がどうであれ、過去の栄光がどうであれ、私たちはアサ王のような間違いを犯す愚かな者なのです。



神さまは予見者を通してアサ王にみ言葉を伝えました。父なる神さまはこういうお方ですね。アサ王の何が問題だったのか明らかにされ、彼が悔い改めることに期待されるのです。
しかしアサは悔い改めなかった。それどころか、
(次のみ言葉は新共同訳聖書から引用します。)

アサは先見者のこの言葉を聞いて怒り、彼を獄に投じた。この事で、彼に対して激しく怒ったからである。また、アサはそのとき、民の中のある者たちを虐待した。16章10節
神さまの言葉を伝えに来た予見者(先見者)を獄に投じただけでなく、民の中のある者たち…どんな人たちなのでしょうか、いずれにしてもアサとしては気に入らない人たちだったのでしょう、殺したとは書いてないまでも、虐待したというのです。新改訳聖書で同じ所を読むと、虐待という言葉ではなく、踏みにじったと書いてあるのですが、この踏みにじったというのがどういう意味なのかわかりにくかったので新共同訳を引用したのです。NIVにはこう書いてあります。
Asa was angry with the seer because of this; he was so enraged that he put him in prison. At the same time Asa brutally oppressed some of the people.
brutally oppressedということなので、悪い方法で虐げたということですよね。つまりこうでしょうか、民の中のある者たちの尊厳を踏みにじるような非道な 方法で痛めつけたというような。

「民」ということは、王との関係で言えばとても弱い立場にある者たちです。アサ王は、神さまの言葉を退け、弱い者を虐げるという神さまが最もお嫌いになる行動をとったわけです。




それから、アサはその治世の第三十九年に、両足とも病気にかかった。彼の病は重かった。ところが、その病の中でさえ、彼はに求めることをしないで、逆に医者を求めた。16章12節(新改訳)
このみ言葉を一つだけ取り出して読み、悪意を持って曲解するとカルト教団のごとく祈祷だけで病を治す事を奨励しているみたいになりますが、前の箇所から読んでくると、そうではないということがわかります。


ここを読んでいたとき、ふと箴言3章5と6節のみ言葉が思い出されました。


心を尽くして主に拠り頼め。
自分の悟りにたよるな。
自分の身体という、最も自分の思い通りになりそうなところですら自由になんか出来ない私たち人間。なんとちっぽけであって無力であるか。
しかし一方では、母の胎の中の私たちを見られたかた、胎のうちで私たちを組み立てられたおかただと聖書は語ります。(詩篇139篇参照)


「その病の中でさえ、彼はに求めることをしないで、逆に医者を求めた。」と歴代誌の著者はアサ王の様子を容赦なく書き残します。書きながらきっと著者である方は、否、彼にこれを書かせた大元締めである神さま、父なる神さまは、きっと私たちにこんなメッセージを語って下さっているに違いありません。

アサには、かたくなにならず、拒まず、悔い改めてわたしに求めてほしかったよ…。





イエスさまの十字架によって罪が清算されているクリスチャンであっても、罪人の生活習慣がひょこっひょこっと顔を出すことがあります。
しかし、み言葉に親しみ、失敗したら悔い改めて軌道修正、
人の浅知恵ではなくに拠り頼む、そういう人生を送らせていただきたい
今日の聖書の箇所からはそんなことを学びました。