「苦しみ」の原因やきっかけはこのヨブのようなケースもありましょうが、たいていの場合は「自分の罪がもたらした結果の刈り取り」もしくは「他人の罪に巻き込まれたゆえ」そして「両者の混合」なのではないかと思っています。
しかし、私は全てのことに神さまのご計画があり、神さまがご存じないところで物事が勝手に起こってしまうことはないという信仰を持っていますから、苦しみの中にある方に対して、もしくは苦しみを得た方の周辺の方々に対する「神さまからの期待」が込められた教育、訓練としての苦難、つまりは意味のあることであると思っています。
しかし、いずれにしても、苦しみの渦中にあるときに「なぜ」と問うたところでわかることはほぼ無く、数年から数十年という時を経て、それぞれの苦難の持つ意味を「ふと」気付くことになると思いますし、ヨブのように徹底的に苦しんだからこそ、砕かれ、主と真に出会う事が出来る、そんなふうにも思います。
ただ、黙示録を読んでいると、もはや後々になって意味がわかるということもない「手遅れな」苦しみというものがあるのだと知ります。もうそれは最後の最後でありますから「その後」はない。
だからその一歩手前にあるこんな場面にも私たちは気付かねばなりません。
すると、獣の刻印を受けている人々と、獣の像を拝む人々に、ひどい悪性のはれものができた。ヨハネの黙示録16章2節b黙示録には、人々がその罪のゆえにどうなっていくのかということがたくさん記述されています。読んだことのない方に豆知識としてお伝えしておくならば、聖書には、この書だけでなくあちこちにそのような類の預言とでも申しましょうか、厳しいことが書かれているのです。いつどこでどうなるのかという具体的なことは伏せられてはいますが。
しかし、伏せられているとは言え、神さまは偽りのないお方であるという信仰を持っている自分は、いつどういうかたちであったとしても「そういうことが起こる」のだという、現実に直結した問題であるととらえています。
さて、このみ言葉には悪性のはれものが出来るという苦しみが書かれております。御使いが鉢を地に向けてぶちまけた結果こうなるというふうに書かれているだけでありますから、天使がいったい何をぶちまけるのか、とか、いつそんなことになるのかということは神のみぞ知ることとして今日は脇に置いておきたいと思います。そういうことではなくて、このみ言葉を読んでどんなメッセージが聞こえてきたのかということを今日は少し書いてみようと思います。
なぜ、「獣の刻印を受けている人々と獣の像を拝む人々」には悪性のはれものが出来るのでしょうか?
獣の像を拝むという人々は、聖書で言うところの獣という語の意味を踏まえて考えるならば、ざっくり言って天地をつくられた創造主たる神さまの存在を認めない人々です。
人はその一生の中で、「この世界は偶然生まれた」という科学っぽいことがらに「本当かなあ?」という疑問や不思議を感ずることが一度くらいはあるのではないでしょうか。この世界という広いモノを考えられなくとも、自分自身とは何なのか、生きているとはどういう事なのか、とか、そんなことを考えることがあるかもしれません。
そんなとき、神さまはこの自然界にあるいろいろな素晴らしいものやシステムを私たちに示し、よく考えるようにし向けられる事が多いのですが、中にはそうした機会によく「考えない人」というのがいるのですね。
タマネギとにんじんとジャガイモと肉と水とカレールーを鍋に入れ火にかけたら知らぬ間においしいカレーができあがるわけではなく、それぞれを適切な形に切り、適切な量用い、適切なタイミングと調理時間という、作ろうという意志を持って思考して作らなければ作れないということを知っていながら、どういうわけか、生物に備わった複雑な免疫系はたまたま出来たのだと言い切る人々。
また、一見するとよく考えている風であって本当は一つも考えてなんかいない、他人の言説によって世の中の全ての事象が理解できた気になっている人々。
その「いい加減さ適当さ愚かさ」に気付かず創造主に対する信仰を馬鹿げたことだと言って遠ざけ、「偶然」という創造よりも想像しにくいものを「科学」と呼んで正しいとする。
本来「科学」とは、既にある自然をよく知ろうとすることであり謙虚で地道な実験と観察の積み重ねでしかないのに、アンチ創造こそ「絶対神」であるとしていっこうに自然を見ようともしない。
目の前に示されたところで、見ない。開いていても見えない目。
聞かされたところで、聞かない。儲け話は聞こえるのに神の言葉を聴かない耳。
それが獣の像を拝む人々です。
蚊の針のデザインが優れていることも、ミツバチの巣のデザインが優れていることも知りながら、
創造主を認めない
それが獣の像を拝む人々です。
すると、獣の刻印を受けている人々と、獣の像を拝む人々に、ひどい悪性のはれものができた。ヨハネの黙示録16章2節b
万能であるはずの神さまが、天地創造に6日間もかけて私たちが理解できるように教えて下さったように、イエスさまが病む方の身体に触れてお癒しくださったように、
ここでも神さまは「御使いに鉢をぶちまけさせる」という私たちが理解しやすい方法によって悪性のはれものをもたらされます。
獣の刻印を受けている人々や獣の像を拝む人々と、神さまを信じる人々とを分ける
そのためにぶちまける何か。
鉢をぶちまけるという行為によってひどい悪性のはれものが出来る原因がもたらされるのですから、たとえば獣の刻印を受けている人々と獣の像を拝む人々は結果その原因物質を摂取し、神さまを信じる人々は摂取しないというような、ちょうど旧約聖書の食物規定のような情報が神さまを信じる人々だけが知りうる情報がもたらされるのかもしれません。
そして、その結果与えられる苦しみ。
人間の身体が本来の姿をとどめず悪性のはれものができるようになるのは遺伝子が傷付いてしまったときです。遺伝子には修復能力がありますが、その限度をこえてしまったとき、その生物がもともと持っていたオリジナルな自己形成のための遺伝子、そして子孫に伝えうる遺伝子はもともと備わっていたものとは異なるものとなってしまいます。生物にとっての究極的な苦しみ!
情報はあったのに、自分の頭でよく考えず、悪い結果を刈りとらざるを得ない人は自己責任であって仕方がないことでしょうが、世の中には他人を苦しみに巻き込んだり地の底に突き落とそうとする邪悪な人がいます。目先の利益を重視し小さな子どもたちや弱い人々の命をないがしろにする人、お金のために情報を操作したり隠蔽する人!
聖書は、目先よりも少し先、邪悪な人の最後について教えます。
真実から目を背け、自然に謙虚に向き合わず、小さき者をないがしろにする者がどういう結果を見ることになるのか。獣の像を拝み、創造主を無視し続ける者の未来がどうなっていくのか、
旧約の時代から新約聖書ヨハネの黙示録に至るまで聖書は繰り返し繰り返し警告しています。
あなたはどう思うのか。
神さまはあなた自身に問うておられます。
あなたはどうするのか。
良心に背を向け聞かなかったふりをして身を隠し続けるつもりなのかと問うておられます。
いつまでも何も起こらないさ。
聖書?神?そんなくだらない!
自分は関係ない!
持っているはずの良心に従うことはなく
自分の頭で考えない獣側の人々。
やがて、あなた自身があなた自身の刈り取るべき実を刈り取ることになります。
自分の頭で考えない獣側の人々。
やがて、あなた自身があなた自身の刈り取るべき実を刈り取ることになります。