仮庵の祭りのときに ヨハネによる福音書7章
口語訳の新約聖書 ヨハネによる福音書7章から引用します。
イエスさまが仮庵の祭りをどのように過ごしておられたか、そして何を語られたか、そしてその時、他の人々は何をしていたのか読み取れる箇所です。
2026年、
私たちは、どう過ごしているでしょうか。
以下引用
時に、ユダヤ人の仮庵の祭が近づいていた。(2節)
あなたがたこそ祭に行きなさい。わたしはこの祭には行かない。わたしの時はまだ満ちていないから」。(8節)
しかし、兄弟たちが祭に行ったあとで、イエスも人目にたたぬように、ひそかに行かれた。
ユダヤ人らは祭の時に、「あの人はどこにいるのか」と言って、イエスを捜していた。(10、11節)
祭も半ばになってから、イエスは宮に上って教え始められた。(14節)
イエスは宮の内で教えながら、叫んで言われた、「あなたがたは、わたしを知っており、また、わたしがどこからきたかも知っている。しかし、わたしは自分からきたのではない。わたしをつかわされたかたは真実であるが、あなたがたは、そのかたを知らない。
わたしは、そのかたを知っている。わたしはそのかたのもとからきた者で、そのかたがわたしをつかわされたのである」。(28、29節)
祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。
わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。
これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。(37、38、39節)
ほかの人たちは「このかたはキリストである」と言い、また、ある人々は、「キリストはまさか、ガリラヤからは出てこないだろう。
キリストは、ダビデの子孫から、またダビデのいたベツレヘムの村から出ると、聖書に書いてあるではないか」と言った。
こうして、群衆の間にイエスのことで分争が生じた。(41、42、43節)
引用以上
わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう
荒野、乾燥した砂漠
荒野、飲んでも飲んでも渇き
草の一本も育たないサソリのすみか
しかし
エデンから川が流れ出たように
ナイル川のように
ヨルダン川のように
エゼキエル神殿の川のように
生ける水が
あふれるように流れ出す。
貯水槽にたまった水ではありません。
よどんだ水ではありません。
「生きた」被造物の中ではたえず水が動いています。
小さな小さな原形質流動
そして、心臓のある動物なら拍動で血液は押し出され細かい細かい末端の血管にまでめぐります。
ああ、でも、細胞質も血液も外には流れ出しませんから、聖書が言っているのは東洋医学で良く言う「めぐり」とか、そういう話が書かれているわけではありませんね。
ちなみに、血液はヘブライ語で דם ダムです。日本語の発音で考えるならアダム=人間 の「ア」がない単語です。
が、そんな簡単なものではないと思います。
アダムはאדם と綴りますから、דם ダムとは「ア」がないのではなく、
神さまを表す「音のない文字であるאアレフ」がない単語です。
以下、いつもの通りぼんやりヘブライ語を眺めている私の勝手な解釈となりますが、
アダム=人間 は神さまが設計され心を込めて造られた特別な被造物、はなはだ素晴らしい被造物で、
神さまが愛しておられるゆえに、
神さまを表す文字אが先頭にあるのだと思います。
で、アダマ=土 から造られたからアダム=人 ということではありますが、重要な構成要素はダム=血液 だ、という声が聞こえてくる感じがします。血は命、という話につながります。
で、ダムとは、扉を表す ד ダレト があって
その扉の向こうに水である מים マイム を表すメムがある。
人間の中にある血液は外に出てはいけない特別な水だから扉の向こうにしまっておく。
そうそう、דם ダムの綴りを入れ替えた מד マド には鎧とか衣服、そして尺度とかカーペットという意味があるようです。ドアの手前に水があると鎧とか衣服になるというストーリーは・・・まだ考え付きません。(笑)血液を表すダムはストロングの辞書では1818番で聖書に360回登場するそうです。
マドという単語は4055番で11回登場するそうです。
・・・って、だいぶ話がずれてしまった。
話を元に戻します。
ヨハネによる福音書7章の
生ける水が腹から流れ出る
この箇所で「腹」というところに使われているギリシャ語は
κοιλία koilia です。
このギリシャ語は、ストロングの辞書によれば2836番で
「koilos(「空洞」)から派生した
空洞、すなわち(特に)腹部。
転じて母体。比喩的には心臓、腹、子宮。」
だそうです。
で、イエスさまがギリシャ語で話しているはずがないので、聖書ヘブライ語で語られたとすればどうなるだろうと考えるわけですが、
このギリシャ語に対応するであろうヘブライ語はストロングの辞書で990番の
בֶּטֶן
か、と一瞬思いましたけれど・・・その言葉が使われているみ言葉を思うと、ちょっと、その・・・胃だの子宮だのから水があふれるように流れ出ると困るような気がするので
エレミヤ書31章33節で使われている人間の内側を意味する言葉、
しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。エレミヤ書31章33節(口語訳)
ストロングの辞書で7130番の
קֶרֶב ケレブ がいろいろな意味で良いのではないかしら、と思いました。
最近は恐ろしい水害があまりにも多く、乾燥が恐怖であるということがイメージしにくいかもしれませんが、生き物たちにとって干からびるということは死を意味します。
適切な量が適切な時季に必要なところに与えられること
つまりは、神さまが創造の初めに定められたとおりであることが最良ですね。
世界が平和になること、神さまが造られた人間が神さまを中心にしてつながることができるように願いながら、私は今日からNHKラジオのハングルと中国語の語学講座を二つ聴き始めました。「英語リスニング入門」以来の挑戦。ハングルは所属していたキリスト集会で韓国の方々と交わることが頻度高くありましたので、ウン十年前の若かりし日に何度かチャレンジしたことがあるのですが、集会から落ちこぼれて以来ご無沙汰ですっかり忘れてしまいました。中国語は初めてです。
今はインターネットで聴けるのでいいですね。録音し忘れることもないし、公開期間は1週間とはいえ、期間中は何度も何度も繰り返して聴くことができるので忘れっぽい私にはありがたい。
中国語の第三声の声調が、ドラマのセリフや歌だとはっきりわからなかったのですが、楽譜のように書かれたテキストと、丁寧な発音指導で今日は「挨拶」ができるようになりました。たぶん。
歌を歌うような言語ですね、中国語は。驚きました。でも歌だと思えば、歌は好きなので適応できそうです。
そう、昨日中国語の予習をしていた時、声調というものを意識したら、夫と自分の「日本語のアクセント」がいろいろ違うことに気づかされました。それで、夫の持っていた日本語発音アクセント辞典を片手にチェックしてみたら、私はめちゃくちゃ訛っているということに気づきまして爆笑してしまいました。
衝撃的だったのは、夫の日本語は高低二種類の高さで発音が決められていたということでした。っていうかそれが普通なんですか日本語って!?
私は高低ではなくその間に「少なくとも」二つくらい高さがある。たとえば、英語ではなく日本語で「メロン」というひとつの単語だけを発音するとき、私は高低中という微妙な3種類の高さで言っており、そう、ロンをひとまとまりで考えられないんだな、たぶん。
で、いろいろ調べたところ、少なくとも三文字の外来語は英語で言わないと正しく発音ができないかもしれない疑惑が発覚。
ま~じで~訛ってんだわ~。
たぶん、文章も随所に謎の方言があるに違いない。
そう、「あるっていく」が最近まで方言だとは知らなかったのです。
娘に指摘されて初めて知りましたww
群馬以外の方は「歩いていく」というそうで
すみません、わたくし、かなり訛っております(笑)
ご了承ください。
わたしは、かわいた地に水を注ぎ、
干からびた地に流れをそそぎ、
わが霊をあなたの子らにそそぎ、
わが恵みをあなたの子孫に与えるからである。
こうして、彼らは水の中の草のように、
流れのほとりの柳のように、生え育つ。
イザヤ書44章3、4節(口語訳)
主は常にあなたを導き、
良き物をもってあなたの願いを満ち足らせ、
あなたの骨を強くされる。あなたは潤った園のように、
水の絶えない泉のようになる。
イザヤ書58章11節(口語訳)