詩篇76篇10節(4+)
詩篇76篇10節のところを読んで(結局まだ考えています)
תודך という言葉を知ったのですが、
以下「詩篇76篇10節(4)」から引用
תודך という形で登場するのは聖書の中ではわずか2回で
詩篇76篇のここと、もう一か所はイザヤ書38章18節です。
「陰府は、あなたに感謝することはできない。死はあなたをさんびすることはできない。墓にくだる者は、あなたのまことを望むことはできない。」
イザヤ書38章18節(口語訳)
引用以上
で、これは יָדָה
ストロングの辞書で言うと3034番の単語がもとになっているということでした。
で、
תודךをじっと眺めていた時、綴りがなんとなくあれに似てる気がしたんです。イザヤ書8章20節に登場するteudah
תְּעוּדָה Strong's Hebrew 8584
8584番も、聖書に3回しか登場しない言葉で、そのうちの2回はイザヤ書です。
で、8584番は5749番のuwdという単語がもとになっているとBIBLE HUBに書いてあります。5749番はアインから始まる三文字
עוּד これは、「証言する」という意味があります。
עוּד 証言する と
יָדָה さんびする を合わせると
תְּעוּדָה っぽい気がします。意味もそれっぽい。
(ロボットは絶対しないであろう気ままな人間の発想です(笑)
以前イザヤ書8章20節について書いたときには
תְּעוּדָה が תורה
Torahトーラーという単語の綴りに似てると書いたことがあり、
תְּעוּדָה が תורה
Torahトーラーという単語の綴りに似てると書いたことがあり、
あれも結構なこじつけというか、パンダと狆(ちん=日本の国犬)が似てると言ってしまうぐらいの突拍子のなさというか、素人ならではの怖いものなし感に満ちていたわけですが https://kyudochu.blogspot.com/2023/02/820.html
それでも、いろいろな経験をしていろいろな言葉に出会うことでいろんな見方や考え方が広がっていくのだと思います
(と、めずらしく自己肯定感高め。)
(と、めずらしく自己肯定感高め。)
そう、素人のこういう突拍子のない思い付きが案外おもしろいところに発展していったりするんじゃないか、とも思っています。
昭和時代の日本国内だけで学校教育を受けた自分は、
どんな教科であっても、
たとえそれが道徳であっても、
正答があるとされる問題だけが与えられ、正答を導き出すための道筋を暗記して解答する、という生活習慣を身につけました。
そして、そんな学校教育を受けたあと、
こんどは「教義」をきちんと学んで信じるキリスト教徒となり、
どんな教科であっても、
たとえそれが道徳であっても、
正答があるとされる問題だけが与えられ、正答を導き出すための道筋を暗記して解答する、という生活習慣を身につけました。
そして、そんな学校教育を受けたあと、
こんどは「教義」をきちんと学んで信じるキリスト教徒となり、
自分の頭で考えない、権威を鵜呑みにし、科学的にぃと叫びながら科学をしない人間になったような気がします。
・・・いや、そうではないな、
考えてはいたのです、一生懸命。
しかしそれは柵の中から一歩もはみ出さない中での思考、思索、
考えてはいたのです、一生懸命。
しかしそれは柵の中から一歩もはみ出さない中での思考、思索、
はみ出さないため、仲間を失わないための思索、格闘にすぎなかったような気がします。
最近思うんです。
ロボットには「直感」とか「その日の気分」ってないんだよな、と。
たいそう有能なはずで、人間の代わりができるらしいと聞きますが、連中には絶対マネできないことはあるよな、と。
そして、思いました。
神さまが人間にお与えになられた「特別」とは
私たち人間特有の弱さとかテキトーさとかそういうところかもしれない、と。
なんか甘いものが食べたいなあ、とか、あーだるい、とか、あーめんどくさい、とか
そういう「気分」がなければ、人を思いやることもできないでしょうし発明などできないでしょう。
そして、そういう心身の弱さがあるから、ロボットが考えつかないような突拍子もない関数式を、隙間だらけのデジタルデータの点と点の間に入れ込む可能性がある。だから、ロボットには予測できないことを人間は行う…そのせいで、やらかして失敗をしたとか言われてしまうこともあるわけだけれども、
生殖行動とは全く関係がない「愛し合う」というような全然合理的ではないこともできるのですよね、私たちには。
生殖行動とは全く関係がない「愛し合う」というような全然合理的ではないこともできるのですよね、私たちには。
だとしたら、
そういうロボットにはない特性、
人間に特有のものを
神さまの「教え」が否定したりつぶすようなことをするはずはない。
詩篇76篇10節(3)で、ユダヤ教の書物に書いてあるたくさんの思索の言葉について、私は「わからない」と書きましたが、
しかし、その思索の言葉、過程は否定されるべきものではないと思います。
書物を読んだり経験を通して得たものによって、あーじゃないこーじゃない、と疑問に思ったり、思いをめぐらしたり、だれかと議論したり、
そうすることが人間の営みとして自然、人間らしいこと、
そうすることが人間の営みとして自然、人間らしいこと、
つまりは、そうすることこそ
神さまが人間に期待していらっしゃることではないかなあと思うのです。
神さまが人間に期待していらっしゃることではないかなあと思うのです。
さて、それはともかく、
今朝ふと←出たぞまた「ふと」
今朝ふと←出たぞまた「ふと」
寝すぎてパンパンになってしまった首を、ま~たやっちまったなあ、とかつぶやきながらさすっていたら、
「ふと」תורה Torah の תוって何だろうって思いまして、
ストロングの辞書を眺めることにしました。
תוってתודךのתוでもあります。
まあ、文法的にというか、厳密に言えばそういうことではないのかもしれませんが、
ストロングの辞書を眺めることにしました。
תוってתודךのתוでもあります。
まあ、文法的にというか、厳密に言えばそういうことではないのかもしれませんが、
とりあえず思いついたので
תוの付く単語を調べて記録しておくことにしました。
תּוּר
探検する、偵察する、探す、調査する
תּוֹר
装飾、回転、標準
תּוּר
ハト、キジバト
תּוֹר
キジバト、しばしば(比喩的に)愛情を込めた呼び名として使われる
תּוֹר
成熟した雄牛
תּוֹשָׁב
滞在者、外国人居住者、一時滞在者
תּוּשִׁיָּה
知恵、確かな知識、成功、機知
תּוֹתָח
武器、おそらく棍棒
数が少なくてほっとしましたが(笑)
さすがתורה Torah の תו というような単語ばかりで興味深い「気分」になりました。
きっといつか何かの役に立つ…かもしれません。
今ふと思ったのですが(またふと思う)
バベルの塔のあと言葉が混乱しましたけれど、
これは今後また一つに戻る予定はあるのでしょうか。
神の国は一つなので言語も一つが便利な気がします。
神の国は一つなので言語も一つが便利な気がします。
(中国語とハングルの学習が一向に進まないのでこんなことを言ってる気もします。よし、決めた、10月からNHKのラジオ講座始めよう。)
平安時代と現代を比較して、とかではなく、私が子供のころと最近の言葉を比べても、日本語がずいぶん変化している気がするのですが、そうやっていろいろな言葉が徐々に変化して、気が付いたら一つに戻ってたらおもしろいな~。
とは思うけど、
勉強しよ。
なんのために?
・・・字幕なしでドラマを見るため(笑)・・・と、
近所の人とお話しするため!
アメリカと中国が~とか日本は~とかニュースを見ているといろいろ思うことはありますが、
庶民には庶民の暮らしがあります。
みんな仲良くできるように
言葉は大切にしたいです。
文化や生活習慣の理解もね。
海外のドラマはとても良い教材なので感謝しています。
…最近ポルトガル語やってないな