לתורה ולתעודה אם לא יאמרו כדבר הזה אשר אין לו שחר׃
何が気になっていたのかというと Strong's Hebrew 8584 תְּעוּדָה です。
旧約聖書にはわずか3回しか登場しないこの言葉
Definitionでは testimony, attestationとされるこの言葉をどう受け止めればよいのだろうか、と思ったからです。
לתורה ולתעודה
torahとteudah
torahはtorahですからそれでよいのですがteudahとは?
それによらなければשחרにならないとイザヤは言っている。
שחרは夜明けです。見事な「絵画」のような単語です。
ש ח ר שחר
ר地平線に真っ赤な真っ直ぐな光が走る
חやがて太陽がわずかに顔をのぞかせる
שそしてまばゆいばかりの光が地全体を照らす
闇の世にはどうしたら夜明けが訪れるのか
לתורה ולתעודה
torahとteudah
torahとteudahの前にはそれぞれラメドלが付いています。
ラメドとは何だろうと考えるときに思い浮かぶ二つの単語
למדは教えられて学ぶということ、לקחは与えられたものを受け取ること
תורה
תעודה
torahとteudahという単語をじっと眺めているとteudahという単語は
תとוのあいだにעが入りこみ
רがדに入れ替わっているのだということに気付きました
それはまるでイザヤが、「 torah」という言葉を土台にして「teudah」という単語を造語したのでなはないかと思わせるような類似性だと私は思いました。
両者共通の文字תはヘブライ文字の最後の文字ですから「これより後はない=完成され何も付け加えなくてよい」という意味を持つものです。
そしてוは、創世記の各節の頭についている途切れることのないことを表現すると同時に神さまיが天から地に下ってきたことを表す文字でもあります。
torahという語のתとוの間にעが入り込んでいるということは
עという文字は「目」であり、「見る」わけですから
付加する必要のないものを第一とした人が「見る」
torahを第一とした人が「見る」=神を信じた人が何かを見る=経験した わけです。
その経験の後にוという文字=天の神さまが地に居る私たちの生活に介入されたことに気付く=神さまが業(わざ)を見せてくださったと悟る
torahという単語はוの次にרが在るので、רは頭を表す文字ですから、その前に置かれた文字のあらわすものについて「一番上」置いたり、据えたり、ということだったり、頭で良く考えるという意味になるわけですが
teudahはרではなく、רとは形が似ているのだけれども異なる文字、「角」をはっきりつけるדを次に持ってくる。דは扉です。つまり、その前に置かれた文字であらわしたものを扉をしっかり閉めてとじ込めてしまうのです。
אבדのように、אבアブ=父 をドアの前において閉ざしてしまうと
Strong's Hebrew 6 אבד abad 「滅び」てしまうわけですが
torahを第一とした人、神を信じた人が経験したことを心の中にしっかりとどめておいたらどうなるかと言えば
扉に向こうには
ה=アブラムがアブラハムになった時の「ハ」が待っている。
הは神さまの聖い霊、神さまの与えたもう永遠の命。
つまり、
torah תורה は付加する必要のないものが神さまから与えられたので、それをまず第一とし、もしくはしっかり考えて行うならばהに至る
teudah תעודה は torahをまず第一とする人が神さまによって経験させていただいた事をしっかりと心にとどめるならばהに至る
teudahתעודהが「証し」と訳される理由が分かったような気がしました。
と、そこまで考えたとき、
イザヤが8章20節で語った torahとteudah
これは申命記にある御言葉を意識しているのではないか、と思いました。
これは、いきなりそう思いついたわけではなく、間に一つ
「イエスさまが申命記を好んで読んでおられた」ということがふっと頭をよぎったからなのですが。
申命記の該当箇所と考えられるものを口語訳聖書から引用します。
ただあなたはみずから慎み、またあなた自身をよく守りなさい。そして目に見たことを忘れず、生きながらえている間、それらの事をあなたの心から離してはならない。またそれらのことを、あなたの子孫に知らせなければならない。
申命記4章9節
彼はあなたのさんびすべきもの、またあなたの神であって、あなたが目に見たこれらの大いなる恐るべき事を、あなたのために行われた。申命記10章21節
しかし、あなたがたは主が行われたこれらの大いなる事を、ことごとく目に見たのである。申命記11章7節
いにしえからこのかた、
あなたのほか神を待ち望む者に、
このような事を行われた神を聞いたことはなく、
耳に入れたこともなく、目に見たこともない。
それでも自分には否定できないことがあるということに気付きました。
それは、これまでの人生における「神懸かった」と言うしかない経験の数々です。
(正しく申し上げると、私が改ざんまたは悪意をもって訳された文章の存在に気付いたのは新約聖書と旧約の預言書であってモーセ5書ではないのですが、未知の、最悪の事態を仮定して書こうと思います)
その神さまに祈り、
何か(teudah≒testimony, evidenceになり得るもの)が起こったのであれば、
たとえtorahの記述に誤りがあったりtorahの理解が万全でなかったとしても
マタイによる福音書9章6~8節しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と言い、中風の者にむかって、「起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。すると彼は起きあがり、家に帰って行った。群衆はそれを見て恐れ、こんな大きな権威を人にお与えになった神をあがめた。マルコによる福音書5章18~20節イエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人がお供をしたいと願い出た。しかし、イエスはお許しにならないで、彼に言われた、「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい」。そこで、彼は立ち去り、そして自分にイエスがしてくださったことを、ことごとくデカポリスの地方に言いひろめ出したので、人々はみな驚き怪しんだ。ルカによる福音書14章1~4節ある安息日のこと、食事をするために、あるパリサイ派のかしらの家にはいって行かれたが、人々はイエスの様子をうかがっていた。するとそこに、水腫をわずらっている人が、みまえにいた。イエスは律法学者やパリサイ人たちにむかって言われた、「安息日に人をいやすのは、正しいことかどうか」。彼らは黙っていた。そこでイエスはその人に手を置いていやしてやり、そしてお帰しになった。ヨハネによる福音書8章4~11節「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕ヨハネによる福音書11章43、44節こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。
聖書の世界に生きていようが生きていまいが、誰もがわかること、
マタイによる福音書13章24~30節また、ほかの譬を彼らに示して言われた、「天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである。人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。 芽がはえ出て実を結ぶと、同時に毒麦もあらわれてきた。僕たちがきて、家の主人に言った、『ご主人様、畑におまきになったのは、良い種ではありませんでしたか。どうして毒麦がはえてきたのですか』。主人は言った、『それは敵のしわざだ』。すると僕たちが言った『では行って、それを抜き集めましょうか』。彼は言った、『いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう』」。
主なる神は言われる、「見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである。彼らは海から海へさまよい歩き、主の言葉を求めて、こなたかなたへはせまわる、しかしこれを得ないであろう。
地הארץの特殊性、そしてすばらしさ、被造物の不思議。