三日間の暗闇
主はモーセに言われた。「天に向かって手を伸ばしなさい。すると闇がエジプトの地に臨み、誰もが手探りで闇を感じるようになる。」
モーセが天に向かって手を伸ばすと、暗闇がエジプト全土に三日間臨んだ。
三日間、人は互いに見ることも、自分の場所から立ち上がることもできなかった。しかし、イスラエルの人々が住む所には光があった。
出エジプト記10章21~23節(聖書協会共同訳)
この箇所を読むたびに思うのは、
エジプトは闇、イスラエルには光、というわかりやすい二極の対比のゆえ、「イスラエル」には光なのだから、わざわいの時には間違いなくそちら側に立っているべきということであったり、キリスト教徒ならば光の中に置かれる、という確認の思いだったりするわけですが、
今朝は何となく、「でも、ちょっと待ってよ、三日間も暗闇だったとしたら・・・」
なんとなく、エジプト人側に立って考えたくなりました。
ご存じのように三という数字は聖書の中では特別な数字であるとされています。
そして、この三日間というものが私たちの生活の中にある三日間と完全に同質のものであるのかは、まあ教会によって解釈はいろいろありましょうが、場合によって異なるような気が「私」はしております、例えばサムエル記下24章13節の「疫病が三日間」という話は約24時間×3だったらうらやましい限り(;´Д`A ```で本当???とか思ってしまいますし、エズラ記8章32節のような「私たちはエルサレムに到着しそこに三日間とどまった」にある三日間が千年は一日のよう~を適用して3000年・・・などということがあるはずはない。
そういう感覚でこの十の災いの箇所を読んだとき、
まあ、私たちの知る約24時間×3もしくはそれに近いような時の長さで、人間の感覚として「もう十分、もう嫌だ」となるような、「完全」というようなニュアンスを表現する日数なんだろうか、と思いました。
で、自分がもしもエジプト側の人だったとしたら、
どうでしょうかみなさん、エジプトの人々は三日間何もせずにぼーっとしているでしょうか?
24時間×3であろうが、完全数であろうが、たぶん、まず暗闇がスタートした一日目、
「何が起こったんだ??」と驚いて、現状分析を開始しそうな気がします。
真っ暗なのに分析できるのか、と思われるかもしれませんが、目の不自由な方にとってはいつものことですからね、いつものように動くことができるわけですから人々の大騒ぎを察して光のあるらしい所とない所の違いについて分析できたのではないでしょうか。
そうなれば、相変わらず暗闇の続く二日目、彼らの分析をもとに、晴眼者たちも、少なくとも個人的には考えることができたでしょう。
そして迎える三日目、まだまだ暗闇なのですから、そろそろ行動に移す頃でしょう。
そして大雑把に言えば二種類の人たちに分かれるような気がします。
恐怖心があったり頑なな何かがあってそこから動かない人、
目の不自由な方に導いてもらってとにかく光のある所まで移動しようとする人。
王さまはともかく、
それ以外の人々は各々の決断で動く三日目ではないでしょうか。
ここまで書いてふとサウロのことを思い出しました。
サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。
使徒言行録9章9節(聖書協会共同訳)
主の弟子たちを迫害し続けていたサウロは脅迫のためにダマスコに乗り込む途中、
イエスさまのみ声を聴き、直後に視力を失いそれが三日間続いたという話。サウロにとっての三日間の暗闇。
サウロの視力はそのダマスコにいた主の弟子のアナニアを主ご自身がお用いになって回復させられるという劇的な、そしてこれも何か象徴的なものを感じさせるストーリーですが、
出エジプト記においても使徒言行録においても、
そこにおられるのは同じ神さまですからね、
何となくそんな行間(暗闇の中にいたエジプト人たちのそれぞれの三日間)があったのではないか、と想像してしまいました。
三日目に誰がどう行動するのか、
そしてこの後いよいよ最後のわざわいに突入していくのです。