2016年8月1日月曜日

新しいのか古いのか

そして、イエスはたとえを話された。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。
また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。
新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。
また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」
ルカによる福音書5章36~39節

3日間、ルカによる福音書5章の後半部分で足踏みをしていました。

昔、「新しい服の布」「新しいぶどう酒」と言われているのは「イエスさまの教え」のことで、イエスさまの教えは力強く発酵する新しいぶどう酒のような力に満ちた教えであるから、既存の律法主義的なユダヤ教=古い革袋 の中には収められない?のだ、と教わったなあ…と思い、そうそう、そういう話だった、ということで読み終えようと思ったのですが、ふと見たら「もう一節」ありまして
 
また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」
ルカによる福音書5章39節


ずっと前からこの節もあったはずなのですが(そりゃ当然)
しかし、マタイによる福音書9章やマルコによる福音書2章には無いのと、
5章38節までのところについて昔習った「解説の印象」がとても強かったので「分かったつもりになっていて」飛ばして読んでいたような気がしてきました。

いや、読んではいたのだけれどもなんの違和感を感じなかったのだと思います。
が、今回はどうしたことかとても違和感を感じたのです。
 
で、一日中39節のことを考えていたのですが、分からないスパイラルに陥ってしまったので、ちょうど休日だった夫に久しぶりに聖書の質問をぶつけてみました。
 
すると彼は聖書を開くこともなく
「古いぶどう酒=ユダヤ教 ということで、当時のユダヤ教指導者たちが 新しいもの=イエスさまの教え を欲しがらないという意味だよ」と即答。

あまりにもあっさりと「当然」という顔で言われたのには驚きましたが、
「…たしかにそう教わったんだ」と思い、夫の言葉にとりあえず肯いたのではあります。
しかし家事を終えて一段落し、聖書を読み返すとまた違和感。

最近私は新共同訳を通読に使っているので、そのせいかもしれないと思い
じゃあ、新改訳に戻って読んでみましょうと、新改訳を数回読み返したら違和感がおさまった感じがしたのですが、
新共同訳に戻って数回読み返すとまた違和感がぶり返す。
どうしてそういう違いが出て来るのか分からないのですが、
もしかすると私の脳の中では…新改訳の御言葉についてはその一文一文が、かつて聴いたメッセージとしっかり固く結びついていて動かしようがないのかもしれません。


まあ、とにかく、違和感の原因が気になるので、新共同訳の御言葉を単なる「言語」として眺めてみることにしました。


で、気付いたのは、39節が「また、」という接続詞で始まっているということと、古いお酒を良いものとして評価しているというのが違和感の原因だ、ということです。

もしも「また」という接続詞ではなく「しかし」で始まっていれば、
前に提示された「新しいぶどう酒」に対立する「古いぶどう酒」ということになり、古いものにこだわっている人を批判してるように聞こえるのですが、
「また」で始まってしまうと、前に語ったものと同じような内容の話が追加されるだろうと予測しながら「また」以降の話を聞くことになるので、
これまで例示された二つの「新しい=イエスさまの教え=良いもの」に加え、もう一つ同様の何かが示されるのだろうと予測する。
ところが、同じことを言いかえるような付け加えの話ではなく、古いものを良いものとして評価する展開に!

うーーん

じゃあ、たとえば、
39節の話で古い物を良いと評価しているのは「イエスさま」ではなく、古いお酒を飲んだ「人」だと考えましょう。
古いお酒を飲んだらおいしかった、と。新しい物よりも古い物の方が良いと知っているから新しい物は要らないと「その人が思った」と。そういうイエスさまではない「人」の感覚的なものについて語っていると考えれば、イエスさまの教えを受け取らない人々への批判という理解に到達できるかもしれません。
でもそういう解釈はできないわけです。
なぜならイエスさまは「古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。」と、かなり断定的におっしゃっているのです。断定的におっしゃっていると思えるのは「だれも~しない」という表現によるわけですが、
なので、「かたくなな一部の人が」新しいぶどう酒を拒否するというよりは一般論としてだれもが「古いものの方がよい」と思っているという話なのですよね。つまりイエスさまも古いぶどう酒の良さを認めていらっしゃる。

うーーーん

何かがおかしい。

どうも納得がいかないので、33節から39節まで通して考えなおしてみることにしました。

人々はイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは、飲んだり食べたりしています。」そこで、イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」そしてイエスはたとえ話を話された。「だれも新しい服から布きれを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」
ルカによる福音書5章33~39節

だれも新しい服から布きれを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。
また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。
また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。

あれれ?
イエスさまの教えって「新しい」側に入っていますか?


「だれも新しい服から布きれを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。」っていうところの「だれも」に「神さまは」という言葉を代入し…古い服がユダヤ教だと考えるなら、…古い布で継ぎを充てなければなりませんよね?







このたとえ話が語られたのはこういう指摘があったときのことでした。

人々はイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは、飲んだり食べたりしています。」 で、この指摘の前にもイエスさまは
「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」
と言われていました。
また、このたとえ話のあとには有名な安息日の論争。
イエスさまはユダヤ教の指導者たちから
「律法や慣習を無視する新しい教えをひろめている」と思われていたわけですよね。

むむむ

これって

イエスさまは、「新しい教えをひろめている」わけではないよ!!と語られているのではないでしょうか?

よく考えてみれば、マタイによる福音書5章17節にあるように、
イエスさまというお方は律法を完成するために来られたわけですよね?
だとしたらイエスさまの教えは「新しい教え」ではない。
完成という言葉はもともとあるものに足りなかった最後のピースを入れて完成する、という事ではありませんか??

そうだそうだ。
道であり真理でありいのちであるお方は、
父なる神さまと同じお方であって、
一番始めにおられた方です。
そして昨日も今日もそして永遠に変わらないぶれのないお方であったはずです!

イエスさまはメシア(救い主)なのであって、新しい宗教の開祖ではありません。
イエスさまは世界の始めから存在していた生ける御言葉であって、宗教改革者ではありません。
つまり、ユダヤ教の指導者たちがイエスさまのことを「良くない新しい教えを説く者」と評価するのは間違っている、ということではありませんか?
本家本元はイエスさま。ユダヤ教の指導者たちこそが本筋からずれた人たち。
ずれているのにずれていると気付かず、行くところまで行ってしまって、でも自分たちは正しいと信じているから、
古くて正しいものを見て「新しい教え」とか、「変だ」と思っているということを
イエスさまは指摘しておられるのではないでしょうか。