ドマについての託宣。セイルから私を呼ぶ者がいる。「見張りの人よ、今は夜の何時か。見張りの人よ、今は夜の何時か。」
見張りは言った。「朝は来る、だが、まだ夜だ。尋ねたければ尋ねよ。もう一度来るがよい。」
イザヤ書21章11、12節(聖書協会共同訳)
2020年の8月に「闇」という記事を書きましたが、
2022年が明けた今もまだ、私たちは暗闇のような世界におります。
今日、群馬の空がどんなに青かろうが、
猛烈に吹き付けるからっ風に苛立ちながら、下を向き歯を食いしばって
継ぎ目だらけのアスファルトを見つめて歩く。
右から左からごうごうと吹き荒れる風の音。
そしてその隙間から聞こえてくる救急車の音。
闇の中、わけがわからなくなってしまった世の中にあふれる
敵意、憤り、ねたみ、
そして責任のある立場の人たちの行いとはとても思えない
不品行、不正。
世界中混乱の上に混乱。
なにがなにやら
わけが分からない!
昨日、三日間の暗闇について考えましたが、
世を覆いつくす「暗闇」がどんなに長かろうとどんなに暗かろうと
光のある所で暮らしているはずの私たちには忘れてはいけないことがあります。
一つめは、その暗闇を「許可した」のは天の父なる神さまである、ということ。
二つめは、インマヌエルであるということ。
そして三つめは、主の造られたこの地球で暮らしているものであれば全員が分かっている自然が示すTorahトーラー、天地が造られてから一度も変更されることのないルール
夕になり、夜が更けたあとには、必ず朝が来る、ということ。
聖書には暗い夜から夜が明ける頃までに起こったエピソードがいろいろ書かれています。
創世記32章では何者かが「夜明けまで」ヤコブと格闘しています。
そして、マルコによる福音書6章ではイエスさまが「夜明け頃」湖の上を歩いて弟子たちのところへ行かれます。
また、ヨハネによる福音書21章では「夜が明けた頃」にイエスさまが岸に立っておられるのです。
(それぞれのストーリーはよく知られたものですが、もう一度ぜひお読みください!)
詩編139編を新共同訳で読むと、11節にこんな御言葉があります。
「闇の中でも主はわたしを見ておられる。」
当然のことながらこれは、闇で苦しめてやろう、あなたが躓き倒れるのを見てやろうという話ではありません。
詩編139編でダビデは、神さまについてこんなふうに証しし、そういう流れの中で「闇の中でも主は…」と語っているのです。
主よ、あなたはわたしを究め
わたしを知っておられる。
座るのも立つのも知り
遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
歩くのも伏すのも見分け
わたしの道にことごとく通じておられる。
わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに
主よ、あなたはすべてを知っておられる。
前からも後ろからもわたしを囲み
御手をわたしの上に置いていてくださる。
その驚くべき知識はわたしを超え
あまりにも高くて到達できない。
どこに行けば
あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。
天に登ろうとも、あなたはそこにいまし
陰府に身を横たえようとも
見よ、あなたはそこにいます。(1~8節 新共同訳)
先日、「死の陰」という記事に書きましたが、
「神さまの支配下にあり必要な通り道である死の陰。次から次へとひどい患難があるときにもそこに羊飼いなる主がいらっしゃる。巨大な山の間にある深い谷を歩むようなことはあったとしても羊飼いは意味もなく羊たちをそんな谷に導いたりしません。その谷を過ぎたところに、きっと羊が安息できる場所がある。」
インマヌエルです。主は私たちとともにいてくださるのです。どんなときにも。
しかし、おそらく、
今、
世界中の兄弟姉妹が長い長い暗闇の中で望みを失い、
ある方々は信仰の危機ともいえる状況になっているそんな気がします。
ちょうどあの時のペテロのように。
ペテロは外で中庭にすわっていた。するとひとりの女中が彼のところにきて、
「あなたもあのガリラヤ人イエスと一緒だった」と言った。
するとペテロは、みんなの前でそれを打ち消して言った、
「あなたが何を言っているのか、わからない」。
そう言って入口の方に出て行くと、ほかの女中が彼を見て、そこにいる人々にむかって、
「この人はナザレ人イエスと一緒だった」と言った。
そこで彼は再びそれを打ち消して、
「そんな人は知らない」と誓って言った。
しばらくして、そこに立っていた人々が近寄ってきて、ペテロに言った、
「確かにあなたも彼らの仲間だ。言葉づかいであなたのことがわかる」。
彼は「その人のことは何も知らない」と言って、激しく誓いはじめた。
するとすぐ鶏が鳴いた。
マタイによる福音書26章69~74節(口語訳)
これも夜の間から鶏が鳴くころまでに起こった出来事です。
この時、おそらくペテロは暗闇の中でたった一人、どうしたらよいかわからなかったのです。きっと頭の中は大混乱です。
人間はひどく動揺し、混乱してくると、どんな人であれ信仰よりも恐怖が勝ち、恐怖を覚えると逃げたい隠れたい衝動に駆られるものです。
そして、ペテロはイエスさまと一緒にいたことをとにかく否定します。
ペテロがこれまで費やしてきたすべての時間、歩んできた人生のすべてを否定するのです!
おそらく彼は主を強く否定する言葉を吐いて、一瞬の解放感と一瞬の自由を感じたはずです。
自戒の意味も込めて申し上げますが、長く続く暗闇と混乱、そして圧政の中で、羊たちはこの時のペテロのようになってしまう可能性があります。
エデンの園で出会ったあの誘惑者の高笑いが聞こえてくるようです!😠
しかし、イエスさまは愛する者たちのために適切な先手を打っておられました。鶏が鳴く前に3度主との関係を否定することさえあらかじめ見通すことができた「全知」というイエスさまご自身の神性を、ペテロに思い出させることに成功したのです。
ペテロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。
マタイによる福音書26章75節
暗闇の中にある時私たちが成すべきことは、平時に得ていたはずのインマヌエルの喜びを思い出すことです。
見るべきは「神」
人ではありません。
聴くべきは「神の言葉」
私はすぐに来る。あなたの冠を誰にも奪われないように、持っているものを固く守りなさい。
ヨハネの黙示録3章11節
奪いたくて仕方がない者がいるのです。
私たちは、エデンの園にいたあの誘惑者の言葉を再び聞き入れるようなことがあってはいけません。
神の言葉を超える最上級のルールがあるかのように語る者の言葉を聴いてはいけません!
どんなに権力があり、どんなに高学歴で、どんなに博識で、どんなに人気のある人が
あなたに向かって好ましい優しい言葉をかけてくれたとしても
判断停止、思考停止して(眠った状態で)その言葉に身をゆだねてはいけません!