思うところがあって今日は民数記20章を読みました。
イスラエル人の全会衆は、第一の月にツィンの荒れ野に入った。そして、民はカデシュにとどまった。ミリアムはそこで死に、その地に葬られた。地名の「カデシュ」、見た瞬間、ヘブライ文字のクフが付く単語に違いない、と気付きました。調べてみると、やはりStrong's 6946. Qadesh קָדֵשׁでした。sacred神聖という意味です。
さて、そこには会衆のための水がなく、彼らはモーセとアロンに詰め寄った。
「水」がない。
「荒れ野」における「水」問題。
私たちの人生(信仰生活)でも繰り返されるこの問題。
「水」「水とは?」「水はどこにある?」「水は誰が下さる?」
福音書でも話題になるこの問題はTorahを読めばきちんと書かれています。
主はモーセに告げられた。「杖を取り、あなたと兄アロンは会衆を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたは彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に水を飲ませなさい。」
忍耐深い神さまはモーセにリーダーとして行うべきことを指示されます。
「岩」!
岩については以前調べ学習しました。
そして、ここで使われてる岩という単語は岩と言っても סֶלַע selaなので、英語で言えばcragのこと。険しい岩山。
「岩」は調べ学習でも書いた通り、ダビデもイザヤもハバククも、
「より頼むことができる揺るがないお方」を表現するために用いていたたとえです。
「岩に向かって、水を出せと命じなさい」と新共同訳聖書には書いてあるところをヘブライ語聖書で見ると
אתה ואהרן אחיך ודברתם אל הסלע לעיניהם ונתן מימיו והוצאת להם מים מן הסלע והשקית את העדה ואת בעירם׃神さまがこの言葉をもって伝えられたことは、
「岩に言うと岩から水が出て飲める」ということです。
カデシュにとどまっている強い渇きを覚えた民たちがモーセに渇きを訴えたら「岩」のところに行くわけです。そして、神さまと民の間に立つ仲介者であるモーセは「岩」に言う、つまり民はモーセの向こうにいらっしゃる、見えないけれども恵み深い憐み深い「神さま」に仲介者モーセが話しているのを聴くわけです。
そして、死にそうなくらいのどが渇いて苦しむ自分たちを満たしてくださるのはほかの誰でもない「神さま」ご自身であるということを再度認識することができるはずだったわけです。
よりたのむに値する大きな岩、神々と言われる偶像とは比べることのできない唯一絶対、全能なるお方である!飲んでも飲んでも尽きることなく、渇くことのない水を与えてくださるお方!自分たちはその神さまとともにいるのだ、ということを、うなじのこわい民であってもそれはそれなりに改めて認識できるはずだった。
しかし、モーセは
モーセとアロンは会衆を岩の前に集めて言った。「聞け、反逆する者たちよ。私たちがあなたがたのために、この岩から水を出さなければならないのか。」
と語り、あたかも自分の力で水を与えているような発言をしたわけです。この瞬間、彼は彼の行動の根拠であった神さまの御言葉を民に正しく伝える仲介者ではなくなり、次の瞬間、言われていないことを行なったわけです。
モーセが手を上げ、杖で岩を二度打つと、水がたくさん湧き出たので、会衆も彼らの家畜も飲んだ。
神さまは「岩」に言えとおっしゃったのに「岩」を二度も叩いた。
岩を「叩いた」のです!
モーセは神さまから言われた通りに語らず行わなかった。仲介者として失格です。
そして岩を叩くという行為は岩なる主を冒とくする行為です。
この出来事は現代のキリスト教指導者に対する警告でもあります。
本当に神さまはあなたにそう言ったのか
注意深く注意深く私たちは神の言葉を調べていかなければいけません。