2019年10月1日火曜日

神さまのつくられたルールとシステムのなかで

新共同訳聖書を読むようになり、詩編19編の真ん中に「律法」という文字があることを知りました。

 

私は新改訳聖書を使っている教会や集会に通っておりましたので、長い間その部分には「みおしえ」という言葉がありました。

 

「律法」だって「みおしえ」だってどっちだっていいじゃないか、と言われるかもしれませんが、
詩編で言うと
詩編19編8節だけではなく詩編94編12節もそうですし、
119編 なんて1節、18節、29節、34節、44節、51節、53節、55節、61節、70節、72節、77節、85節、92節、97節、109節、113節、126節、136節、142節、150節、153節、163節、165節、174節
こんなに大量にתּוֹרָהTorahがあったのです。
תּוֹרָהTorahתּוֹרָהTorahなのに「律法」と訳さないで「みおしえ」や「おしえ」というごく一般的な名詞で書かれていた場合
かなり話が変わってしまうと思うのは私だけでしょうか?
もちろん、説教をされる先生方がしっかり解説してくださる教会に所属しているならばそういう聖書を読んでいてもよいのかもしれません。しかし、私はそうではなかったので詩編で見つけた「律法」という言葉には本当にショックでした。
だいたい、律法と言えばガッチガチにしめ上げるルールだと思っていましたし、よくないものだと思っておりました。頭に残っている言葉は「律法学者」に「律法主義」。しかも既に律法は終わったと思っているわけです。なのでダビデが詩編119編の1節2節で
いかに幸いなことでしょう
まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。
いかに幸いなことでしょう
主の定めを守り
心を尽くしてそれを尋ね求める人は。
詩編119編1節2節

と「別の聖書を読んでいる人たちには」言っていたのだと知った時には大変にショックでした。

だって私にダビデは20年間こう言っていたのです。

幸いなことよ。
全き道を行く人々、
主のみおしえによって歩む人々。
幸いなことよ。主のさとしを守り、
心を尽くして主を尋ね求める人々。
詩篇119篇1節2節(新改訳聖書)
だいたい「主の律法に歩む」ってどうすればいいのですか?律法は守らなくていいんでしょ?
ダビデがずっとみおしえだって言ってたから
「そうか、みおしえか、みおしえって言うのは聖書のことば全部ね。」
と20年もの間脳内で変換していたわけです。もちろん、新約は旧約の注解のようなものですからそれはそれでいいかもしれませんが、教理も教義も「みおしえ」だと思っていました。
だからこそ律法は守らなくてよかったはずなのです。なのに「律法」って・・・


だからほかの聖書なんて読まない方がいいし?余計な知識はない方がいい?ですか?余計なことを知れば悩みが増えるから?
ってそう思いますか?

原典において誤りがないという教えを通り越して自分の聖書が絶対だと思っていた私にとって、本当に衝撃ではありましたが、自分としては気付いてよかったと思っています。
そのことによってתּוֹרָהTorah律法という訳語について自分がかなり間違った認識を持っていたということに気付きましたから。
もっとも、これはとても不思議なことでありますが、ちょうどそのタイミングで聖書の原典に何が書かれているのかということについて興味を持たせてくださる方がWeb上におられ、いろいろなことを教えていただきまして
本当に目が開かれた、目からうろこが落ちた、そういう思いがしました。

・・・神さまの御心、神さまの「時」であったのかもしれない、と今では思っております。


さて、話を戻します。今日は詩編19編について書こうと思っていたのです。
実は詩編19編という箇所は、新改訳聖書を読んでいた頃にはよくわからなかったのだけれど「律法」という訳語を得たことによって以前よりも理解が深まったと思えた箇所なのです。この記事の最初に書いた「詩編19編の真ん中に「律法」という文字」これを手掛かりにして読むと「みおしえ」という訳語では得られなかった理解が得られるような気が「私」個人としてはしています。


天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう。そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。
太陽は、花婿が天蓋から出るように
勇士が喜び勇んで道を走るように
天の果てを出で立ち
天の果てを目指して行く。その熱から隠れうるものはない。
詩編19編2節~7節(新共同訳)

主の律法は完全で、魂を生き返らせ
主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。
主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え
主の戒めは清らかで、目に光を与える。
主への畏れは清く、いつまでも続き
主の裁きはまことで、ことごとく正しい。
金にまさり、多くの純金にまさって望ましく
蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。
あなたの僕はそれらのことを熟慮し
それらを守って大きな報いを受けます。
知らずに犯した過ち、隠れた罪から
どうかわたしを清めてください。
あなたの僕を驕りから引き離し
支配されないようにしてください。そうすれば、重い背きの罪から清められ
わたしは完全になるでしょう。
どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない
心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。
詩編19編8節~15節(新共同訳)


詩編19編を前半と後半に分けて引用しました。
前半と後半と書きましたが、私がずっとわからなかったのは、この詩は一つである必要があるのだろうか、ということです。
二つに分けてもそれぞれ完結しているものがなぜ一つになっているのだろう、と思うわけです。
しかし、作者ダビデとしてはこれは一つの詩であると考えている、なぜ?
一つであるとすれば前半と後半には共通する大きなテーマが貫かれているはずです。それはいったい何だろう。

「神さまの素晴らしさ」?

そんな大きすぎることを言ったら、詩編全体が一つになってしまいます。

しかし、後半部分の一行目が「主のみおしえは完全で」だと信じ切っていた時代が過ぎ去り
「主の律法は完全で」と読んだ瞬間ひらめきました。
ルール、規則!

聖書を信仰の書として読む私たちがけっこう忘れがちなこととして、ダビデ王はいったいいつごろ王さまだったのか、ということがあります。あの方は紀元前10世紀ごろに王さまだった方です。
紀元前10世紀です!私たちは21世紀に生きていますがダビデは大昔の人です!
どんなに偉くてもどんなにすごくても紀元前10世紀の人は日本で言えば縄文時代の人です。電気もないしパソコンもない紀元前10世紀の人です。
その人がどういう状況でどういう思いで前半の詩を書いたのかということを想像しますと、
おそらく彼はまいにちただひたすら天の現象の観察をしていたのです。面白いなーとか不思議だなーとか考えつつ空を眺めているのです。そして
「ああ空があるよ、雲があるよ、暗い夜があって明るい昼があるんだよ。太陽がね動いていくんだよ毎日ね、天の果てから嬉しそうに飛び出してくるんだよ、そして反対側の天の果て目指していくんだよ。神さまがお造りになられたすべてのものは神さまのルールに従ってるんだ!そして太陽は私たちを照らしている。神さまが造られた明るく熱い光」

ダビデは空を見上げながら創造主である神さまが決められたルール、法則というか秩序というか規則正しさの美しさ完璧さを見いだしたのではないでしょうか。
同じように神さまに造られた人間としてダビデは「主の律法」תּוֹרָהTorahについて思考した・・・
「そう、神さまが大空にそして世界に与えてくださったルールは完璧なんだよ!
神さまが私たちに守るように言われたתּוֹרָהTorahは完璧なんだ!生きるためにתּוֹרָהTorahは不可欠なんだ。תּוֹרָהTorah知り守ることによって知恵が与えられるんだよ。
太陽が天の果てに一直線、喜び勇んで走っていくように、תּוֹרָהTorahに従えば間違うことはない!私たちだって間違うことなくまっすぐに喜びながら歩んでいける!」



21世紀。
私たちはダビデの時代よりも神さまのつくられたルールとシステムの素晴らしさを知っています。
健康診断でいろいろな数値を知らされますが、通常の状態ではその数値以内におさまり続けている恒常性というシステムの素晴らしさ。
放射線や化学物質でDNAが傷ついても神さまがお造りになられたシステムとルールに従って回復させることのできる素晴らしさ。
プレートテクトニクスという安定した地球環境を保つためのシステムの素晴らしさ。

しかしそれでも神さまに気付かず神さまを見失いתּוֹרָהTorahを捨て
滅びに向かう人類。
「産めよ、増えよ、地に満ちよ」の逆を行く世界。
ああ。



【調べ学習】信頼できる大きな岩について、そしてエクレシアという言葉の問題 

詩編18編でダビデが神さまのことを信頼できる大きな岩であると考えていたというところから、
主はわたしの岩、砦、逃れ場
わたしの神、大岩、避けどころ
わたしの盾、救いの角、砦の塔。
詩編18編3節
聖書に登場する「岩」という語句について今日は調べてみることにしました。
引用聖句は新共同訳聖書です。


まず、ダビデが語るような「神こそが岩」という表現がどこから始まっているのかという観点をもっていつものように語句検索をしてみると、申命記32章(モーセの歌)にこういうみことばがありました。


主は岩、その御業は完全で
その道はことごとく正しい。真実の神で偽りなく
正しくてまっすぐな方。
申命記32章4節

このみことばで使われている「岩」はヘブライ語で
צוּר tsur

この言葉は出エジプト記17章に登場するホレブの「岩」に使われている言葉と一緒です。



見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。
出エジプト記17章6節

詩編18編の
「主はわたしの岩」に使われているヘブライ語は
סֶלַע sela

ですが、民数記20章8節の「岩」もこのselaという言葉が使われていたので
「あなたは杖を取り、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたはその岩から彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい。」

民数記20章8節の「岩」と、出エジプト記17章6節の「岩」は同じ話の中での岩ですから、ほぼ同じ意味と考えていいのかなあと思いましたが、

詩編18編の「わたしの神、大岩、避けどころ」の「大岩」という言葉に使われているのは
צוּר tsur
で、日本語の聖書の訳語から違いを見ると岩と大岩なので大きさの違いなのかしら、と思うわけですが、

סֶלַע selaの方は
Strong's Concordanceで見てみると
a crag(ごつごつの岩,険しい岩山), cliff(崖)
NAS Exhaustive Concordanceで見ると
NASBでの訳語としてはcliff (4), cliffs (4), crag (2), crags (3), mountain* (1), Rock (1), rock (39), rocks (4), rocky (1), Sela (1)だと書いてありました。
で、Strong's Exhaustive Concordanceによると
ragged rock, stony, strong holdとあり、
raggedとか言うと、なんとなくボロボロな感じがしてしまいますけれども(私個人のイメージでしょうか)
ボロボロなのではなく「ごつごつの,でこぼこの,ぎざぎざの」という意味のようです。
stonyは石が多い?そしてstrong holdは「要塞」という意味だそうです。



צוּר tsurの方は
Strong's Concordanceで見てみるとrock(岩), cliff(崖)で、
NAS Exhaustive Concordanceで見ると
NASBでの訳語としてはRock (10), rock (54), rocks (7), rocky (1), stones (1), strength (1)だと書いてありました。
Strong's Exhaustive Concordanceには
edge, mighty God one, rock, sharp, stone, strength, strongとあり
edgeやsharpは鋭い?イメージがあるということなのでしょうか
そしてmighty God は力強い神さま、strength, strongという訳も力強そうです。
そういう意味とともにrockとstoneが出ている・・・。


ちなみに、聖書協会共同訳聖書でも新共同訳と同じように「岩」「大岩」と訳されています。


運動が苦手で体幹のしっかりしていない私の個人的な興味としては
詩編40編3節にあるような「岩」の場合、どんな単語が使われているのかということがありましたので調べてみましたが

滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ
わたしの足を岩の上に立たせ
しっかりと歩ませ
詩編40編3節


ここにある「岩」という言葉にはסֶלַע selaが使われていました。





さて、
神さまが岩であると語っているのはダビデだけのことではなく
イザヤ書26章4節にも
どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩。
ハバクク書1章12節でも
岩なる神よ、
とあります。

イザヤ書ではほかに
恐れるな、おびえるな。既にわたしはあなたに聞かせ
告げてきたではないか。あなたたちはわたしの証人ではないか。わたしをおいて神があろうか、岩があろうか。わたしはそれを知らない。
イザヤ書44章8節
とあり、主ご自身がご自身を「岩」と表現しておられる箇所もあります。

ただ、間違ってはいけないのは、「岩」は神さまではないということです。(当然!)
イスラエルの地勢というか地形というか地質というか、行ったことがないのでよくわかりませんけれど(;^_^A ・・・そういうあたりからの比喩でしょう。
そのあたりの人々の共通理解?として「依り頼むもの」を「岩」と表現しているのだろうと思います。根拠となるみことばを引用しておきます。

しかし、彼らの岩は我々の岩に及ばない。我々の敵もそのことは認めている。
申命記32章31節

主は言われる。「どこにいるのか、彼らの神々は。どこにあるのか、彼らが身を寄せる岩は。申命記32章37節
ちなみに、この申命記32章の「岩」についてはすべて
צוּר tsur
が使われています。

しかし、いずれにしても、みことばをたどって確認するとやはりすべての大元は תּוֹרָהTorahにありそうでした。
主は岩、その御業は完全で
その道はことごとく正しい。真実の神で偽りなく
正しくてまっすぐな方。
申命記32章4節

そして、当然のことですが「岩」という物体が神なのではなく、
イエスさまがマタイによる福音書やルカによる福音書で語られた

そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。
マタイによる福音書7章24節、25節

それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。
ルカによる福音書6章48節



この意味における「岩」なのだと思います。
何を自分の土台(基礎)部分とするのか、自分はどこに立つのか、
そういう意味での「岩」。
頑丈で崩れることのない、全人生をかけて信ずるに足る、自分の心からも身体からもすべてから力を抜き去って委ねることのできる、依り頼むのにふさわしい「岩」
それが聖書の神さまである、そういう事だと思います。





また、

見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。
出エジプト記17章6節
神さまの奇蹟が岩から起こり、水が岩から湧き出たというイスラエルの実体験が、岩を見るたびに思い起こされ、その奇蹟は繰り返し繰り返し語られるのです。


荒れ野では岩を開き
深淵のように豊かな水を飲ませてくださった。
詩編78編15節

主が岩を開かれると、水がほとばしり
大河となって、乾いた地を流れた。
詩編105編 41節

岩を水のみなぎるところとし
硬い岩を水の溢れる泉とする方の御前に。
詩編114編8節

炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、
申命記8章15節

彼らが飢えれば、天からパンを恵み
渇けば、岩から水を湧き出させ
必ず与えると誓われた土地に行って
それを所有せよと命じられた。
ネヘミヤ記9章15節

主が彼らを導いて乾いた地を行かせるときも
彼らは渇くことがない。主は彼らのために岩から水を流れ出させる。岩は裂け、水がほとばしる。
イザヤ書48章21節







ところで、
ここまで書いてきてふと思ったことがあります。


わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。
マタイによる福音書16章18節
イエスさまは、ほんとうにこんなふうにおっしゃったのだろうか・・・

マタイによる福音書16章のこの辺りのこと(ペトロの信仰告白)はマルコによる福音書8章27~30節とルカによる福音書9章18~21節にもあるのですが
そこにはマタイによる福音書16章18節のような部分はありません。

ヨハネによる福音書では1章でいきなりケファと呼ぶという話が出てくるのですが、
そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。
ヨハネによる福音書1章42節
ここもペトロの信仰告白に絡んで出てくる話なのでとにかくそのタイミングでイエスさまがシモンにアラム語でケファ(岩)という愛称をつけたのでしょう。
ヨハネはそれ以上のことには言及していません。
Κηφᾶς Képhas という言葉は新約聖書には9回登場するようです。ヨハネによる福音書に1回、コリントの信徒への手紙一に4回、ガラテヤの信徒への手紙に4回。
ただ、ケファは岩には違いないのですが、
「ケファ」と呼んでいるパウロの話を聞いていると


わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。
コリントの信徒への手紙一9章5節
それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、
ガラテヤの信徒への手紙1章18節
また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。
ガラテヤの信徒への手紙2章9節
さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。
なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。
そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。
ガラテヤの信徒への手紙2章11節~13節
ケファさんの相変わらず・・・な感じが…まあ、パウロ先生も…人間らしい方ですが・・・
(;´Д`A ```

ケファという単語ではなく教会(エクレシア)という単語に注目してみても
Strong's Greek 1577 ἐκκλησία エクレシアは新約聖書中に114回登場しますが、
福音書ではこの「この岩の上にわたしの教会を建てる」とイエスさまがおっしゃったというマタイの16章18節に1回と、マタイ18章17節の「もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。」という計3回登場するだけで、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書には登場しません。そして使徒言行録に23回、以降、書簡には何度も登場するので新約聖書におけるエクレシアの登場回数は合計114回という事になるわけですが
このようなことを考えたとき、
このマタイによる福音書に書かれている3回の「エクレシア」という語は何かの間違いではないか、と思えてくるのです。




2019年9月30日月曜日

詩編18編とヨハネの黙示録6章

少々長めな詩編18編を読んでいると、あちこちにいつかどこかで読んだ記憶のある見覚えのあるフレーズが登場します。もちろんサムエル記下の22章はこの詩編の故郷のようなものですからそっくりであるのは当然のことなのですが、小預言書や詩編のほかの箇所に繰り返されるフレーズを読むと、ダビデがどのような信仰を持っているのか明確に示されるような気がします。
たとえば144編。

主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。
主はわたしの岩、砦、逃れ場
わたしの神、大岩、避けどころ
わたしの盾、救いの角、砦の塔。
ほむべき方、主をわたしは呼び求め
敵から救われる。
詩編18編2~4節(新共同訳)


主をたたえよ、わたしの岩を
わたしの手に闘うすべを
指に戦するすべを教えてくださる方を
わたしの支え、わたしの砦、砦の塔
わたしの逃れ場、わたしの盾、避けどころ
諸国の民をわたしに服従させてくださる方を。
詩編144編1、2節(新共同訳)

単なる定型的な文が繰り返されているだけだと考えることもできるかもしれませんが、ダビデが本当に心の底から神さまを信頼できる大きな岩であると信じていたのだと考えることもできます。
繰り返し語られるダビデの言葉は
彼の証言であると同時に未来に向かっての宣言でもあり
読んでいる者の心に唱和する者たちの心に力強い励ましを与えてくれます。

定型的な文が繰り返されている:儀式の式文のようなものであったとしても、儀式の式文とし反復させることで後世へ重大なメッセージを遺している可能性があるかもしれません。祭儀自体がメッセージであればなおさらで、それを知る者たちだけの気付く何か、または知ることのできる何かによって羊と山羊を分けるという可能性も考えられます。

 







実は、詩編18編のこのあとの箇所(5節以下)を読みながら、唐突かもしれませんがヨハネの黙示録6章9節~17節を思い出しておりました。

小羊が第五の封印を開いたとき、神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂を、わたしは祭壇の下に見た。
彼らは大声でこう叫んだ。「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。」
すると、その一人一人に、白い衣が与えられ、また、自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なお、しばらく静かに待つようにと告げられた。
また、見ていると、小羊が第六の封印を開いた。そのとき、大地震が起きて、太陽は毛の粗い布地のように暗くなり、月は全体が血のようになって、
天の星は地上に落ちた。まるで、いちじくの青い実が、大風に揺さぶられて振り落とされるようだった。
天は巻物が巻き取られるように消え去り、山も島も、みなその場所から移された。
地上の王、高官、千人隊長、富める者、力ある者、また、奴隷も自由な身分の者もことごとく、洞穴や山の岩間に隠れ、
山と岩に向かって、「わたしたちの上に覆いかぶさって、玉座に座っておられる方の顔と小羊の怒りから、わたしたちをかくまってくれ」と言った。
神と小羊の怒りの大いなる日が来たからである。だれがそれに耐えられるであろうか。
ヨハネの黙示録6章9節~17節(新共同訳)


ダビデの叫びが神殿に響く様子、そしてダビデの叫びが主の御耳に届いて怒りが燃え上がった場面の描写などが自分の頭の中にあった黙示録6章9節~17節のイメージと重なり似ていると思ったからであると思います。
「地上の王、高官、千人隊長、富める者、力ある者、また、奴隷も自由な身分の者もことごとく、洞穴や山の岩間に隠れ」という部分にはイザヤ書2章10節のイメージも重なるこの箇所ですが、

岩の間に入り、塵の中に隠れよ
主の恐るべき御顔と、威光の輝きとを避けて。
イザヤ書2章10節


明らかなことはこの黙示録の箇所もダビデの詩編18編8節~16節に描写されていることも
報復、復讐であるということです。


死の縄がからみつき
奈落の激流がわたしをおののかせ
陰府の縄がめぐり
死の網が仕掛けられている。
苦難の中から主を呼び求め
わたしの神に向かって叫ぶと
その声は神殿に響き
叫びは御前に至り、御耳に届く。
主の怒りは燃え上がり、地は揺れ動く。山々の基は震え、揺らぐ。
(略)
わたしのために報復してくださる神よ
詩編18編5~8節、48節(新共同訳)

「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。」
ヨハネの黙示録6章10節(新共同訳)



ダビデは大地震に揺れ動く大地に主の怒りを感じます。
そして火山の噴火を見、雹と火の雨、そして稲妻を見ます。
そして、その怒りは
「海の底は姿を現し
世界はその基を示す」(18編16節より)
激しい災いであると語ります。
神さまの報復、復讐。

しかしそのような災いの中にあったダビデはダビデにもたらされる「主の御手による救い」のあることを語るのです。


主は高い天から御手を遣わしてわたしをとらえ
大水の中から引き上げてくださる。
敵は力があり
わたしを憎む者は勝ち誇っているが
なお、主はわたしを救い出される。
彼らが攻め寄せる災いの日
主はわたしの支えとなり
わたしを広い所に導き出し、助けとなり
喜び迎えてくださる。
詩編18編17節~20節(新共同訳)


ダビデは詩編144編5節~7節でもこのように語ります。

主よ、天を傾けて降り
山々に触れ、これに煙を上げさせてください。
飛び交う稲妻
うなりを上げる矢を放ってください。
高い天から御手を遣わしてわたしを解き放ち
大水から、異邦人の手から助け出してください。

これがダビデの信じることでした。
ダビデは神さまについて
こういうお方である、こうしてくださるお方であると確信していたのですね。

そしてを信じに従うダビデには究極的な勝利を与え、
(新改訳聖書の真似をして太字で書いてみました)
ダビデとその子孫を永遠に慈しみのうちにおかれるということを
ダビデは18編51節において預言的に語っています。

主は勝利を与えて王を大いなる者とし
油注がれた人を、ダビデとその子孫を
とこしえまで
慈しみのうちにおかれる。



そして、異邦人である私たちについても。

あなたはわたしを民の争いから解き放ち
国々の頭としてくださる。わたしの知らぬ民もわたしに仕え
わたしのことを耳にしてわたしに聞き従い
敵の民は憐れみを乞う。
詩編18編44節45節(新共同訳)



主のほかに神はない。神のほかに我らの岩はない。詩編18編32節(新共同訳)


2019年9月29日日曜日

熱狂から分離され切り離されること

昔教会の先生に「異端って何ですか」と尋ねた時にその先生はこうおっしゃいました。

「簡単に言うとね、聖書は読むには読んでいるのかもしれないんだけど、権威ある別の本というのを持っていて、その本の方が聖書より上だと信じている人たちってことかなあ。
クリスチャンはね、聖書は神さまの言葉であって最も権威があると信じているんだよ。」

しかしよくよく考えてみると、クリスチャンが異端と呼んでいる方ではなくとも、クリスチャンは全員が全員そういうことをやっているわけです。聖書は読むには読んでいるのかもしれないんだけど、権威ある別の本を全員が持っている。



以前、「不正な管理人」の例えの解釈についていろいろ考えた挙句、よくわからないのでネット検索をしていくつかの記事を読ませていただいたことがありました。
すると、それが見事なまでにバラバラな解釈で、しかし、不思議なくらいどの方も自信満々、断定的に述べていらっしゃる。たぶん、それぞれの方が、それぞれ所属している教会で「先生からそう教わったので」それが正しいと信じておられ、自信をもって書かれたのでしょう。

大学生のころ「聖書研究部」という超教派のサークルに所属していたときに、若気の至りという部分もありましょうが教派教団による考え方の違いが原因で、ときどき論争、悪く言えばケンカのようなことが起こりました。
弁の立つ学生がいて、自分の教会の正統性を聖書を示して主張するわけです。
まあ、私などは当時は洗礼を受けたか受けないかというあたりだったので黙ってやり取りを聞いているしかなかったわけですが、
しかし、論争の終着点はいつも同じ。権威ある有名な先生の説であるか否か、というところでした。
本当は論争でもなんでもない。右から左に流してるだけ。ご自分がみことばを読んで異議を唱えているわけではなく、通り良き管として(笑)聞きかじった知識を流し出しているだけ。他人の権威を着てケンカをしているだけのことなのです。問題意識なんてありゃしない。そして本当は教義の問題でもない。自分のよりどころとしている派こそが正しいと言いたい思いたいだけ。自己肯定のために。


統計を取ったわけでもないのに断定的に語りますが、教会に所属しておられるほとんどのクリスチャンは教義を理由に教会を選んで通い始めたわけではありません。
もちろんごくたまに、教派や教団について考え、積極的な理由をもって教派を選んで転籍したりする私のような人間もいるにはいますけれども、
たいていの場合は、なんとな~くそこに居ついた?はずです。親が~とか友だちが~とか近所で~とかイベントが~とかそういう理由。
で、求めていたことがそこにあって、それは教えという点だけでなく居心地の良さであったりするわけですが、そうやって教会に居続けることになるわけです。
しかしある時、別の教会の教義や文化を当然のことのように語るクリスチャンに出会ったとき、それまで考えてもいなかった自分の教会の正統性というものを自分自身の存在の肯定と同一のもののように思えて戦いたくなるんでしょうね、特に男性は。
本当は聖書にも教派にもそれほど詳しくないのに、
そう、だからこそそこで登場するのです、聖書ではない別の本が。
別の本とは、所属教会で教わった信仰のイロハと根拠となるみことば、そしてその解釈がまとめられているであろう手引きのことですが、
それだけをたよりに空っぽの論争をする様子を眺めていたむなしい青春時代を思い出します。

さて、クリスチャンのほとんど全員が持っている有形無形の権威ある別の本は、第一章にあるであろう「神」という項目以外、多くの部分が新約聖書にあるパウロやお弟子さんたちの言葉に基づいて作られています。
パウロが熱心に述べ伝えた結果の実がキリスト教会なのですからそれは当然のことでしょうし、異邦人にとって聖書の神さまはわかりませんから、パウロ先生やお弟子さんたちの言葉に一生懸命耳を傾けるのは当たり前です。

しかし、これがズレの原因なのではなかろうか、と近年は思っております。

パウロは一生懸命語り一生懸命書いたのですが、旧約聖書と呼ばれる部分をほとんどよくわからない異邦人にとって、パウロの言葉は非常に難解です。
だから教会は、
ほぼほぼ旧約聖書の注解書みたいなものであったパウロの言葉だったにもかかわらず、そのパウロの言葉を解釈するための注解書、つまりは注解書の注解書を作る必要が出てきたわけです。(;´Д`A ```
パウロが生きていた頃ならば、本人に真意について確認を取ることも出来たのかもしれませんが、今パウロはいません。
しかも、そもそもパウロの書簡の原本というものは現存しておらず写本が残っているだけだというのですから・・・絶対何かしらの間違いはあります。(ないと信じている方は多いと思いますけれど・・・人間がやることは人間だからこそ間違いが無くはないと思っています。無ければいいのですが・・・)
それに、生きる時代によって物の見方や考え方は大いに変化しますから、人の集合体であるキリスト教会もその時代の影響というものを少なからず受けると思うのですね。
それゆえのズレ、というか、そういうことからいろいろな解釈の違いが出たり、極端な場合には教派となっていく。
また、そして教派とまではいかぬまでも、ときどき小さなさざ波が起こり、
初めはさざ波でも同じ時代を生きる者の共感は得やすいので小さなさざ波はやがてうねりとなったりすることが少なからずあると思うのですね。
そのさざ波やうねりが良いのか悪いのかということについては注意ぶかく聖書を読むしかないのですが、「著名な誰々先生がこの説を支持しておられる」という一言で正しいか否か考えることすらやめてしまう。
著名な誰々先生という言葉が偶像となっているということにも気付かずにーーー。


たとえ多くの人々が支持する教えであっても、よく考えず他人の判断に身をまかせることはとても危険だ、と私は思います。
主がなんどもなんども「目をさましていなさい」とおっしゃったのは、
私たちが個人的または時代的な何らかの岐路に立たされた時、
権威ある指導者から道が示され、しかも大多数の信者がそれに付き従っているというようなときに、
自分の判断を停止した状態でついていきたい衝動に駆られるかもしれないが、
そんなときであっても「考えること」はやめるなよ、ということだったのではないかと思っています。

人々が『見よ、彼は荒野にいる』と言っても、出て行くな。また『見よ、へやの中にいる』と言っても、信じるな。マタイによる福音書24章26節(口語訳)

この間「聖」という言葉の意味が「分離する」とか「切り離す」というのが 原意であったと書きましたが、熱狂が起こっている時こそ、踊らされることなくそこから身を引き、しずかにしずかに、心を静まらせてかすかな細い声に聞こうとすること、


聖とは徹底してそういうものであるのではないか


そして神さまは私たちにはそうあってほしいと願っておられるのではないかと

私は思っています。


2019年9月28日土曜日

聖ということ

いのちのことば社1985年9月20日発行新聖書辞典で「聖」という言葉を調べてみました。

聖とは
まずバビロニア語のquddushu「明るい、輝かしい」が語源であるという説が書いてあって、しかし、有力ではないということらしく
ただ、1985年の辞書なのでちょっと古すぎる感じもしたためとりあえずquddushuというつづりで検索したところ、こんな辞書に出くわしました。

קָדוֹשׁ adj. 1 holy, sacred. 2 saint, saintly. MH 3 martyr. [From קדשׁ. Related to Phoen. קדש, Aram.–Syr. (also BAram.) קַדִּישׁ, Arab. qaddīs, qiddūs (= holy, sacred), Akka. quddushu (= shining, pure).]

https://www.sefaria.org/Klein_Dictionary%2C_%D7%A7%D7%93%D7%93_%E1%B4%B5.1?lang=bi&with=all&lang2=en

しかし、1985年の聖書辞典だけでなく日本の諸教会では聖という言葉について検索すると「分離する」とか「切り離す」というのが 原意とする説を取っておられるようなので
そういうふうに覚えようと思いました。

辞典には

すべての冒涜的事象や行為から分離され切り離されて
神との関係を持つという意味で用いられている

とあり、
また、旧約聖書における「聖」について書かれた項には

どのような事物も人格的存在もそれ自体は聖ではないが、それが神との関係におかれるときに聖なるものとされる。
ただし、神の霊性は恒常的かつ永遠であるが、神以外の事物や人格的存在の聖性は極めて不安定なものであって、神との関係に置かれている時だけのものであるということを忘れてはならない。

と書いてありました。
新約における「聖」については

聖ではあり得ない罪人が神の愛によりキリストの贖いによって救われ、聖霊の働きにより聖なるものとして受け入れられるということが述べられている。

とありました。


新共同訳聖書の詩編2編と3編に登場した「聖なる山」という言葉が気になって「聖」という言葉にこだわって調べてきましたが、

こだわって調べて理解できたことは、
私がこれまでに思い描いていたよりも「聖」という概念は重要であるようだ、ということです。

前回の調べ学習で書いた通り
 קֹ֫דֶשׁ (qodesh) という言葉とその派生語は464カ所に登場します。
https://biblehub.com/hebrew/strongs_6944.htm

前回は出エジプト記とレビ記の数を数え、そのあと疲れてやめましたが
疲れが回復した本日(笑)民数記以降を数えてみましたところ

民数記 55カ所
3:28
3:31
3:32
3:47
3:50
4:4 2カ所
4:12
4:15 2カ所
4:15
4:16
4:19 2カ所
4:20
5:9
5:10
6:20
7:9
7:13
7:19
7:25
7:31
7:37
7:43
7:49
7:55
7:61
7:67
7:73
7:79
7:85
7:86
8:19
18:3
18:5
18:9 4カ所
18:10 3カ所
18:16
18:17
18:19
28:7
28:18
28:25
28:26
29:1
29:7
29:12
31:6
35:25

 
申命記 4か所
12:26
26:13
26:15
33:2
 

ヨシュア記 2カ所
5:15
6:19

サムエル上 3カ所
21:5
21:6
21:7

列王記上 12カ所
6:16 2カ所
7:50 2カ所
7:51
8:4
8:6 2カ所
8:8
8:10
15:15 2カ所

列王記下 3カ所
12:4
12:18 2カ所

歴代誌上 17カ所
6:49 2カ所
9:29
16:10
16:29
16:35
22:19
23:13 2カ所
23:28
23:32
24:5
26:20
26:26
28:12
29:3
29:16

歴代誌下 27カ所
3:8 2カ所
3:10 2カ所
4:22 2カ所
5:1
5:5
5:7 2カ所
5:11
8:11
15:18
20:21
23:6
24:7
29:5
29:7
30:19
30:27 
31:6
31:12
31:14
31:18
35:3
35:5
35:13

エズラ記 6カ所
2:63 2カ所
8:28 2カ所
9:2
9:8

ネヘミヤ記 7カ所
7:65 2カ所
9:14
10:31
10:33
11:1
11:18

詩編 たくさん!
2:6
3:4


というわけで、数え間違いがあるかもしれませんが
しかしはっきりしていることはモーセ五書にたくさん!たくさん!登場しているということです。
まあ、それは当然と言えば当然です。辞典にある通り「神との関係におかれるときに聖なるものとされる」のですが、神さまとのかかわりは律法を守ることによるのだからです。

ところで、今日も詩編4編をあさいちで読んだのですが、קֹ֫דֶשׁ (qodesh) ではないけれども「分ける」という意味の פָלָה (palah)という言葉がありました。

主の慈しみに生きる人を主は見分けて
呼び求める声を聞いてくださると知れ。
おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語り
そして沈黙に入れ。〔セラ
詩編4編4、5節(新共同訳)

פָלָה (palah)はほかに

出エジプト記の中でこんなふうに使われています。
(以下口語訳聖書から引用)

8:22
その日わたしは、わたしの民の住むゴセンの地を区別して、そこにあぶの群れを入れないであろう。
9:4
しかし、主はイスラエルの家畜と、エジプトの家畜を区別され
11:7
しかし、すべて、イスラエルの人々にむかっては、人にむかっても、獣にむかっても、犬さえその舌を鳴らさないであろう。これによって主がエジプトびととイスラエルびととの間の区別をされるのを、あなたがたは知るであろう。 


そう言えば、少し前にこだわっていた「マタイによる福音書25章」にこんな箇所がありました。

 25:32
そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け

これは ἀφορίζω aphorizó という言葉が元になっているギリシャ語で
使徒行伝13章2節にも使われているのですが

一同が主に礼拝をささげ、断食をしていると、聖霊が「さあ、バルナバとサウロとを、わたしのために聖別して、彼らに授けておいた仕事に当らせなさい」と告げた。

聖別するという意味でも用いられてます。

使徒行伝ではほかに19章9節に使われていて

ところが、ある人たちは心をかたくなにして、信じようとせず、会衆の前でこの道をあしざまに言ったので、彼は弟子たちを引き連れて、その人たちから離れ、ツラノの講堂で毎日論じた。 


またローマ人への手紙1章1節

キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロから―― 


さらにはコリント人への第二の手紙6章17節でも使われているのですが、

だから、「彼らの間から出て行き、
彼らと分離せよ、と主は言われる。
そして、汚れたものに触てはならない。

これはイザヤ書52章11節からの引用なので

去れよ、去れよ、そこを出て、
汚れた物にさわるな。
その中を出よ、主の器をになう者よ、
おのれを清く保て。




ヘブライ語の סוּר (sur)に ギリシャ語の ἀφορίζω をあてたものなのかもしれません。
ただ、ヘブライ語の סוּר (sur)が使われている箇所をあたってみたのですが、ほとんどが単純に「取り除く」とか「離れる」という意味のみことばだったので、特に「聖」というニュアンスはないのかもしれません。ギリシャ語として直訳したというような感じなのでしょうか。




あちこち行ってしまいましたが、

しかし、神さまは聖なる方であり、
レビ記19章2節において語られている通り

「イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、『あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。 

イスラエルもそうですけれどもクリスチャンも意志をもって罪から離れ、悪から分離していかねばならないのだと思います。
新聖書辞典の著者が語るように、「聖ではあり得ない罪人が神の愛によりキリストの贖いによって救われ、聖霊の働きにより聖なるものとして受け入れられる」にはちがいありませんが、だから何も考えなくてもどうにかなるということではないと思うのです。
聖という言葉が新聖書辞典の著者が語るように「すべての冒涜的事象や行為から分離され切り離されて神との関係を持つ」
ということであれば、
私たちは異邦人であることを理由に、
そして、現代は旧約時代とは異なりイエスさまの血潮があるから最終的に悔い改めればいいので何をやってもOKだというような
・・・ある面それは真実ではあるのですが、
しかしほんとうにそれを前面に押し出していれば?よいのでしょうか。

まあ、基本的にクリスチャンは「感じの良い人?」が多いですから、いいのかもしれませんけれど・・・

でも、
やろうと思い努力はしたが結果としてできなかったというのと
やる気は毛頭なく、結果、当然のこととしてできなかったというのは
結果においては同じでも・・・違うような気がするのは私だけでしょうか。
あ、律法について言っております。
本当に異邦人クリスチャンは律法を無視していてよいのでしょうか。
あ、教会によっては道徳律法だけは無視しないということは知識として知っておりますが・・・


ペテロ第一の手紙1章14~17節にはこうあります。

従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。 あなたがたは、人をそれぞれのしわざに応じて、公平にさばくかたを、父と呼んでいるからには、地上に宿っている間を、おそれの心をもって過ごすべきである。 

ペテロはレビ記19章2節を引用しているのです。
なぜペテロがレビ記を引用するのか
ペテロは何を考えながらこの手紙を書いていたのか


・・・心におきつつ新約聖書を読もうと思います。



2019年9月27日金曜日

【調べ学習】聖なる山

新共同訳聖書の詩編2編と3編に登場した「聖なる山」という言葉について調べてみました。

聖なる山シオンで
わたしは自ら、王を即位させた。
詩編2編6節(新共同訳)

まずはBIBLE HUBで英語の聖書を

“I have installed My King on Zion, upon My holy mountain.”
 Psalm 2:6 Berean Study Bible


即位という言葉は英語でインストール。
installとは(式などを行なって)就任させる、任命する、(正式に)就任させる、つかせるという意味だと書いてありました。
パソコン用語のインストールってそんな重い意味だったのですね。

Holman Christian Standard Bibleという聖書ではインストールの代わりにconsecrateという「聖別する、聖職に任命する」という言葉を使っていたり
JPS Tanakh 1917という聖書ではestablishで定着させるようなニュアンスのある?「就かせる」をつかっています。




【聖なる】



ヘブライ語ではMy holyにあたる部分が
קָדְשִֽׁי  qāḏ·šî

詩編2編6節のほか
イザヤ書11章9節、56章7節、57章13節、65章11節、25節、66章20節、エゼキエル書20章40節、ヨエル書2章1節、3章17節(新共同訳聖書の場合は3章ではなく4章17節になります)、オバデヤ書1章16節、ゼファニヤ書3章11節の「聖なる(わたしの)」山
という表現に用いられていました。

山のほかにはレビ記20章3節、22章2節、32節の「聖なる」名であったり、
聖所や安息日(聖なる日)、また、ダビデに注がれた「聖なる油」というところに使われていました。

主に向かって声をあげれば
聖なる山から答えてくださいます。〔セラ
詩編3編5節(新共同訳)
To the LORD I cry aloud, and He answers me from His holy mountain. Selah
Psalm 3:4  Berean Study Bible 

ヘブライ語ではHis holyにあたる部分が
קָדְשׁ֣וֹ qā·ḏə·šōw

詩篇3篇4節(新共同訳では5節)のほか、
詩篇48篇1節(新共同訳では2節)、99篇9節(新共同訳も同じ)で「聖なる(彼の)」山
という風に使われていました。

他には聖所、聖なる宮(temple or habitation)、聖なる天、聖なる名、聖なる王座、聖地、聖なる御腕、聖なる御言葉、聖なる霊、



以上29カ所中、歴代誌上下各1カ所、エズラ記一か所、イザヤ書3か所、エレミヤ書2カ所、ミカ書ハバクク書ゼカリヤ書各1カ所のほかはすべて詩編の表現でした。




qāḏ·šî も qā·ḏə·šōw も
もとの言葉は
קֹדֶשׁ  qodesh コデシュ

だそうです。
qodeshをEnglishman's Concordancesで検索してみると
https://biblehub.com/hebrew/strongs_6944.htm

6944. קֹ֫דֶשׁ (qodesh) — 464 Occurrences
ということで464カ所にいろいろ形を変えて登場するようです。

上の二つの形のほかに

qō·ḏeš というのがあって、これは147カ所に登場する最も多い形です。
https://biblehub.com/hebrew/kodesh_6944.htm

次に多いのが haq·qō·ḏeš で111カ所。
https://biblehub.com/hebrew/hakkodesh_6944.htm

464カ所のうち出エジプト記には70カ所
出エジプト記
 3:5
12:16に2か所
15:11
15:13
16:23
22:31
26:33に3か所
26:34に2カ所
28:2
28:4
28:29
28:35
28:36
28:38に2カ所
28:43
29:6
29:29
29:30
29:33
29:34
29:37に2カ所
30:10に2カ所
30:13
30:24
30:25に2カ所
30:29に2カ所
30:31
30:32に2カ所
30:35
30:36に2カ所
30:37
31:10
31:11
31:14
31:15
35:2
35:19に2カ所
35:21
36:1
36:3
36:4
36:6
37:29
38:24に2カ所
38:25
38:26
38:27
39:1に2カ所
39:30に2カ所
39:41に2カ所
40:9
40:10に2カ所
40:13


レビ記には92カ所

レビ記
2:3に2カ所
2:10に2カ所
4:6
5:15に2カ所
5:16
6:17に2カ所
6:25に2カ所
6:29に2カ所
6:30
7:1に2カ所
7:6に2カ所
8:9
10:4
10:10
10:12に2カ所
10:17に3か所
10:18に2カ所
12:4
14:13に3か所
16:2
16:3
16:4に2カ所
16:16
16:17
16:20
16:23
16:27
16:32
16:33
19:8
19:24
20:3
21:6
21:22に3か所
22:2に2カ所
22:3
22:4
22:6
22:7
22:10に2カ所
22:12
22:14に2カ所
22:15
22:16
22:32
23:2
23:3
23:4
23:7
23:8
23:20
23:21
23:24
23:27
23:35
23:36
23:37
24:9に2カ所
25:12
27:3
27:9
27:10
27:14
27:21
27:23
27:25
27:28に2カ所
27:30
27:32
27:33










【山】

全部は多すぎるので詩編2、3編以外で気になった箇所だけを引用します。
 
主はシナイより来り
セイルから人々の上に輝き昇り
パランの山から顕現される。主は千よろずの聖なる者を従えて来られる。その右の手には燃える炎がある。
申命記33章2節
 
その日が来ると、大きな角笛が吹き鳴らされ
アッシリアの地に失われて行った者も
エジプトの地に追いやられた者も来て
聖なる山、エルサレムで主にひれ伏す。
イザヤ書27章13節
 
彼らはあなたたちのすべての兄弟を主への献げ物として、馬、車、駕籠、らば、らくだに載せ、あらゆる国民の間からわたしの聖なる山エルサレムに連れて来る、と主は言われる。それは、イスラエルの子らが献げ物を清い器に入れて、主の神殿にもたらすのと同じである、と主は言われる。
イザヤ書66章20節
 
わたしの聖なる山、イスラエルの高い山で、と主なる神は言われる。そこにおいてのみ、この地にいるイスラエルの家はすべて、こぞってわたしに仕える。そこでのみ、わたしは彼らを受け入れ、その所で、献げ物と聖なる最上の供え物を求める。
エゼキエル書20章40節
 
海とあの『麗しの地』の聖なる山との間に天幕を張って、王の宿営とする。しかし、ついに彼の終わりの時が来るが、助ける者はない。
ダニエル書11章45節
 
シオンで角笛を吹き
わが聖なる山で鬨の声をあげよ。この国に住む者は皆、おののけ。主の日が来る、主の日が近づく。
ヨエル書2章1節
 
あなたたちは知るようになる。わたしがあなたたちの神なる主であり
わが聖なる山シオンに住む者であることを。エルサレムは聖なる地となり
もはや、異国の民がそこを通ることはない。
ヨエル書4章17節
 
しかし、シオンの山には逃れた者がいて
そこは聖なる所となる。ヤコブの家は、自分たちの土地を
奪った者の土地を奪う。
オバデヤ書17節
 
神はテマンから
聖なる方はパランの山から来られる。〔セラ
その威厳は天を覆い
威光は地に満ちる。
ハバクク書3章3節
 
主はこう言われる。わたしは再びシオンに来て
エルサレムの真ん中に住まう。エルサレムは信頼に値する都と呼ばれ
万軍の主の山は聖なる山と呼ばれる。
ゼカリヤ書8章3節
 
わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。
ペトロの手紙二1章18節
 
この天使が、“霊”に満たされたわたしを大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、天から下って来るのを見せた。
ヨハネの黙示録21章10節
 

2019年9月21日土曜日

マタイによる福音書25章(10)まとめ 義人の中にいる悪人

そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。 その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。 夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。
マタイによる福音書25章1~13節(口語訳)

十人のおとめについて、ここまでで分かったことを整理してみます。

花婿とは小羊=再臨のイエスさま
花嫁とは聖なる都エルサレム=大きな、高い城壁があって、十二の門があり、それらの門には、十二の御使がおり、イスラエルの子らの十二部族の名が、それに書いてあった。都の城壁には十二の土台があり、それには小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。
ヨハネの黙示録21章9~14節

そして油は聖霊さま
ゼカリヤ書4章1~6節、ヨハネの手紙第一2章18~29節

そして、十人のおとめはクリスチャンと書きました。




昨夜、またマタイによる福音書を読み返していて、25章ではない他の章にあるたとえ話を読んで、これはちょっと…と思ったので、それについて今日は書きたいと思います。

まずは13章47節からのたとえ話から


また天国は、海におろして、あらゆる種類の魚を囲みいれる網のようなものである。それがいっぱいになると岸に引き上げ、そしてすわって、良いのを器に入れ、悪いのを外へ捨てるのである。世の終りにも、そのとおりになるであろう。すなわち、御使たちがきて、義人のうちから悪人をえり分け、そして炉の火に投げこむであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
マタイによる福音書13章47~50節(口語訳)



この13章のたとえ話で注目していただきたいのは49節です。

すなわち、御使たちがきて、義人のうちから悪人をえり分け
この箇所を私の持っているほかの聖書3冊から引用してみます。
御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け(新改訳聖書第3版4刷)
天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け(新共同訳)
天使たちが来て、正しい人々の中から悪い者をより分け(聖書協会共同訳)

つづいておなじみBIBLE HUBで検索し、Berean Literal Bibleから同じ箇所を引用してみますと
Thus will it be in the consummation of the age: The angels will go out and will separate the evil from the midst of the righteous,

で、ギリシャ語はμέσου
原型はμέσος読み方はmesos


なぜこの言葉にこんなにこだわっているのかと言いますと、
この49節をこんなふうにこだわって読んだことがなかったからです。
読んだことがなかったために勘違いして読み流していたようだったからです。
どう勘違いしていたのかというと、
網の中に入った魚を分けるという行為を小学生の頃の臨海学校でやった地引網のイメージに引きずられて、
良いものも悪いものも同じように入っている「この世界」というごちゃごちゃのところから悪いものを取って捨てるのだと思っていたのです。
こんな感じの世界があって、この中から悪いものを取り出して捨てる





しかし、49節にはそう書いていなかったのです。
midst 良いものの中に悪いものが紛れ込んでいる
悪の丸印を一つしか書きませんでしたが一つとは限りません



やはりそうか…と悟りました。
マタイによる福音書でイエスさまはこういうお話を何度もされるのです。
7章22節の「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」というみ言葉もそうでした。招かれる者は多いが、選ばれる者は少ないとされた22章のたとえ話もそうでした。
とすると、
十人のおとめのたとえも、花婿を出迎えるというところまでは一緒に行動をしているのに、全員が中に入れない・・・これは同じ流れであって、
世の終りには、それまでずーっと一緒に教会に集い、集会に集い、行動を共にしていた仲間であっても、
・・・実は全員が同じ未来を迎えるわけではなく、人によって違う、そういう事があるのではないか・・・

・・・それともイエスさまはイスカリオテのユダを念頭に?・・・


しかし、
あれだけ 目をさませ=警戒しなさい
とおっしゃっていたところを見ると
・・・相当危険なのだろうと思います。





最後にマタイによる福音書24章のたとえ話を引用します。

主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、 その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、 その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、 彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう。彼はそこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
マタイによる福音書24章45~51節


結局、タラントのたとえも、十人のおとめのたとえも
この24章のたとえ話にある「忠実で思慮深いか否か」でまとめられるような気がします。
神さまから言われたことはその真意(みこころ)をきちんと察して賢く行いなさいね、と。

神さまの求めておられることとは、

・(律法の)最も小さな掟の一つでもそれを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる5章19節
・人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である7章12節
・イエスさまが求めるのはあわれみであっていけにえではない、ということ。
マタイによる福音書9章13節、12章7節
この言葉とほぼ同じみことばがサムエル上15章22節、ホセア6章6節、箴言21章3節、ミカ書6章8節、コヘレト4章17節、イザヤ書1章11~17節、エレミヤ書7章22、23節にも見られる。


そしてこれが具体例

人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。 そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、 羊を右に、やぎを左におくであろう。そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。 いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。 また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。 そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。 そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。
マタイによる福音書25章31~46節(口語訳)

マタイによる福音書25章(9)油

十人のおとめのたとえで語られている油とは一体何なのか、どうすることなのか、
今日も日本聖書協会の聖書本文検索をつかって「油」という言葉を検索してみました。
すると、とてもたくさんのみことばがヒットしました。

創世記では記念碑に注ぎかけるものとして油が登場しました。
出エジプト記~申命記では
常夜灯の油、聖別するときに注ぐ油、パンの材料、ささげもの、
清めるための油、祭司職に任命されるときに注がれる油、
士師記以降では王が任命されるときに注がれる油
預言者の任命のための油というのもありました。

そして、非常に直接的な油をゼカリヤ書とヨハネの手紙に見つけました。



わたしと語った天の使がまた来て、わたしを呼びさました。わたしは眠りから呼びさまされた人のようであった。彼がわたしに向かって「何を見るか」と言ったので、わたしは言った、「わたしが見ていると、すべて金で造られた燭台が一つあって、その上に油を入れる器があり、また燭台の上に七つのともしび皿があり、そのともしび皿は燭台の上にあって、これにおのおの七本ずつの管があります。 また燭台のかたわらに、オリブの木が二本あって、一本は油をいれる器の右にあり、一本はその左にあります」。 わたしはまたわたしと語る天の使に言った、「わが主よ、これらはなんですか」。 わたしと語る天の使は答えて、「あなたはそれがなんであるか知らないのですか」と言ったので、わたしは「わが主よ、知りません」と言った。 すると彼はわたしに言った、「ゼルバベルに、主がお告げになる言葉はこれです。万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。
ゼカリヤ書4章1~6節


子供たちよ。今は終りの時である。あなたがたがかねて反キリストが来ると聞いていたように、今や多くの反キリストが現れてきた。それによって今が終りの時であることを知る。彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである。もし属する者であったなら、わたしたちと一緒にとどまっていたであろう。しかし、出て行ったのは、元来、彼らがみなわたしたちに属さない者であることが、明らかにされるためである。しかし、あなたがたは聖なる者に油を注がれているので、あなたがたすべてが、そのことを知っている。わたしが書きおくったのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、それを知っているからであり、また、すべての偽りは真理から出るものでないことを、知っているからである。偽り者とは、だれであるか。イエスのキリストであることを否定する者ではないか。父と御子とを否定する者は、反キリストである。御子を否定する者は父を持たず、御子を告白する者は、また父をも持つのである。 初めから聞いたことが、あなたがたのうちに、とどまるようにしなさい。初めから聞いたことが、あなたがたのうちにとどまっておれば、あなたがたも御子と父とのうちに、とどまることになる。これが、彼自らわたしたちに約束された約束であって、すなわち、永遠のいのちである。 わたしは、あなたがたを惑わす者たちについて、これらのことを書きおくった。あなたがたのうちには、キリストからいただいた油がとどまっているので、だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。それはまことであって、偽りではないから、その油が教えたように、あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい。
そこで、子たちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、彼が現れる時に、確信を持ち、その来臨に際して、みまえに恥じいることがないためである。 彼の義なるかたであることがわかれば、義を行う者はみな彼から生れたものであることを、知るであろう。
ヨハネの手紙第一2章18~29節(口語訳)




油はまちがいなく聖霊さまのことですね。

マタイによる福音書25章(8)世の光

「そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。
マタイによる福音書25章1~4節」



おとめたちの持つ「あかり」そして「油」というものを考えていましたら幕屋の常夜灯を思い出しました。
出エジプト記を見ると幕屋の常夜灯というものがありますけれども
真っ暗な幕屋の中で朝までともされる常夜灯というものはじつに象徴的です。

「あなたはイスラエルの人々に命じて、オリーブを砕いて取った純粋の油をともし火に用いるために持って来させ、常夜灯にともさせなさい。
常夜灯は臨在の幕屋にある掟の箱を隔てる垂れ幕の手前に置き、アロンとその子らが、主の御前に、夕暮れから夜明けまで守る。これはイスラエルの人々にとって、代々にわたって守るべき不変の定めである。
出エジプト記27章20、21節(新共同訳)」


テレビで
真っ暗な部屋の中、女性が涙を流されていた場面を見ました。
台風15号による大規模停電で、すでに一週間もの間、懐中電灯だけで生活されているのだそうです。暗闇の中、ひとりぼっちでさみしいといって泣いておられたのです。
リポーターの方が停電が続く夜の町を取材しておられる場面も見ました。
テレビ局が撮影のために点灯していたライトを消すと
・・・あたり一面真っ暗。真っ暗闇。

真っ暗な夜、光がない、ということが、こんなにも不安でさみしくそして恐ろしいことなのか、と改めて気づかされました。




「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。 また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
マタイによる福音書5章13~16節(口語訳)」



「あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」


私たちは暗闇のような世の中にあって光。
イエスさまは私たちに、人々の前に光を輝かせ続けるように求めておられる。
光を輝かせるために必要なもの、それが油。
暗闇の中にあって「世の光であり続けたい」と願う時に必要なものが油。

油を入れ続け光らせ続ける
暗い夜の間、私たちは常夜灯の光をともし続ける。

花婿と花嫁の婚礼の時まで。

マタイによる福音書25章(7)律法、預言者、天の国



前回は、イエスさまが『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』というような厳しい言葉をおっしゃった箇所と、それとは逆のことをおっしゃった箇所をピックアップしました。
イエスさまはいったい何に怒られたれたのでしょうか。

調べた言葉をじっくり眺めながら
イエスさまが問題にしておられたことは、おもに、
律法、預言者、天の国(神の国)という3つのテーマであるということに気付きました。


1.律法について
・イエスさまは律法や預言者を完成させるために来られた5:17
・律法を守るように教える人は天の国では大いなるものとされる5:19
・ファリサイ人の義に勝っていなければ天の国に入れない5:20
・天の父が完全であるように完全なものとなりなさい5:48
・律法の言わんとしていること=天の父の御心=人にしてもらいたいと思うことは何でもあなたがたも人にしなさい7:12
・主よ主よというものが天の国に入るわけではなく天の父の御心を行う者だけが天の国に入る。7:23
・律法を形式的、表面的に行うのは偽善=人の目を意識して人前で善行6:1、人前で信仰深そうに祈る6:5、人に気付かれるような断食6:16
・イエスさまの言葉を聞いて行う者は岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている7:24


2.預言者について
・イエスさまは律法や預言者を完成させるために来られた。5:17
・預言者を預言者として受け入れる人は預言者と同じ報いを受ける。10:41
・偽預言者=良い実を結ばない木 を警戒しなさい。7:15


3.神の国について
・わたし(イエスさま)が、神の霊で悪霊を追い出しているのであれば神の国はあなたたちのところに来ているのだ12:28
・人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者はこの世でも後の世でも赦されることがない。12:32
・イエスさまが派遣した弟子たちが病人をいやしたり悪霊を追い払うとすれば、それも聖霊さまの働きだから、そういう弟子たちを迎え入れもせず弟子たちの言葉に耳を傾けようともしない者がいたらその町はソドムやゴモラよりも重い罰を受ける。10:5~



補足として、
バプテスマのヨハネとイエスさまが全く同じことを語る箇所がありました。
「悔い改めよ天の国は近づいた」
3:2バプテスマのヨハネの言葉
4:17イエス様の言葉

「良い実を結ばない木は切り倒されて火に投げこまれる」
3:10バプテスマのヨハネの言葉として
7:19イエスさまの言葉として

木とその実については12:33~
悪い人間に良いことは言えない。人の口からは心にあふれていることが出て来る。
人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて裁きの日には責任を問われる。
自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪あるものとされる。




さて、それでは、以上のことを踏まえた上でもう一度たとえ話を読んでみます。
以下口語訳聖書より引用


「そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。 夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。 そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。 ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。 すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。 しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。 だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。」




この話は、ごく大雑把にとらえれば、
「やるべきことをやった人とやっていなかった人がいてその人たちが再臨の時にどうなったかという話」です。
この粗さで語るならば、タラントのたとえもそういう話になります。
「やるべきことをやらなかった人」は『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』という結末を迎えるわけです。
で、
何かをやらないことによってそういう結末を迎えるというケースにはどういうことがあるのかマタイによる福音書の全体から確認した結果、
それは
「律法を行わない」つまり神さまの御言葉を聞いても理解せず従わないというケース
だということが分かりました。


ただ、このたとえ話では十人のおとめたちの半数がそれに該当するわけですが
これまで自分が教会や集会で教わってきた花婿は再臨のキリスト花嫁は教会(信者)ということで考えた場合、十人のおとめは教会でもなければ信者ではないはずですから、イエスさまが誰に従うよう求めておられるのか、ということがわかりません。
なので、そういう知識とは関係なく改めて聖書を調べてみることにしました。
花嫁、嫁、花婿、婿、妻、夫、結婚、婚、婚礼、エルサレム・・・
日本聖書協会の本文検索をつかって調べてみました。




わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。
小羊の婚姻の時がきて、
花嫁はその用意をしたからである。
彼女は、光り輝く、
汚れのない麻布の衣を着ることを許された。
この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」。
それから、御使はわたしに言った、「書きしるせ。小羊の婚宴に招かれた者は、さいわいである」
ヨハネの黙示録19章7~9節


また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。
ヨハネの黙示録21章2節


最後の七つの災害が満ちている七つの鉢を持っていた七人の御使のひとりがきて、わたしに語って言った、「さあ、きなさい。小羊の妻なる花嫁を見せよう」。 この御使は、わたしを御霊に感じたまま、大きな高い山に連れて行き、聖都エルサレムが、神の栄光のうちに、神のみもとを出て天から下って来るのを見せてくれた。その都の輝きは、高価な宝石のようであり、透明な碧玉のようであった。 それには大きな、高い城壁があって、十二の門があり、それらの門には、十二の御使がおり、イスラエルの子らの十二部族の名が、それに書いてあった。東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。また都の城壁には十二の土台があり、それには小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。
ヨハネの黙示録21章9~14節




シオンよ、さめよ、さめよ、
力を着よ。
聖なる都エルサレムよ、美しい衣を着よ。
割礼を受けない者および汚れた者は、
もはやあなたのところに、はいることがないからだ。
捕われたエルサレムよ、
あなたの身からちりを振り落せ、起きよ。
捕われたシオンの娘よ、
あなたの首のなわを解きすてよ。
イザヤ書52章1、2節




エルサレムの荒れすたれた所よ、
声を放って共に歌え。
主はその民を慰め、
エルサレムをあがなわれたからだ。
イザヤ書52章9節


あなたを造られた者はあなたの夫であって、
その名は万軍の主。
あなたをあがなわれる者は、
イスラエルの聖者であって、
全地の神ととなえられる。
捨てられて心悲しむ妻、
また若い時にとついで出された妻を招くように
主はあなたを招かれた」と
あなたの神は言われる。
イザヤ書54章5、6節




「さあ、かわいている者は
みな水にきたれ。
金のない者もきたれ。
来て買い求めて食べよ。
あなたがたは来て、金を出さずに、
ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。
なぜ、あなたがたは、
かてにもならぬもののために金を費し、
飽きることもできぬもののために労するのか。
わたしによく聞き従え。
そうすれば、良い物を食べることができ、
最も豊かな食物で、自分を楽しませることができる。
耳を傾け、わたしにきて聞け。
そうすれば、あなたがたは生きることができる。
わたしは、あなたがたと、とこしえの契約を立てて、
ダビデに約束した変らない確かな恵みを与える。
見よ、わたしは彼を立てて、
もろもろの民への証人とし、
また、もろもろの民の君とし、命令する者とした。
見よ、あなたは知らない国民を招く、
あなたを知らない国民は
あなたのもとに走ってくる。
これはあなたの神、主、
イスラエルの聖者のゆえであり、
主があなたに光栄を与えられたからである。
あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、
主を尋ねよ。
近くおられるうちに呼び求めよ。
悪しき者はその道を捨て、
正らぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。
そうすれば、主は彼にあわれみを施される。
われわれの神に帰れ、
主は豊かにゆるしを与えられる。
イザヤ書55章1~7節




主なる神の霊がわたしに臨んだ。
これは主がわたしに油を注いで、
貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、
わたしをつかわして心のいためる者をいやし、
捕われ人に放免を告げ、
縛られている者に解放を告げ、
主の恵みの年と
われわれの神の報復の日とを告げさせ、
また、すべての悲しむ者を慰め、
シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、
灰にかえて冠を与え、
悲しみにかえて喜びの油を与え、
憂いの心にかえて、
さんびの衣を与えさせるためである。
こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、
主がその栄光をあらわすために
植えられた者ととなえられる。
彼らはいにしえの荒れた所を建てなおし、
さきに荒れすたれた所を興し、
荒れた町々を新たにし、
世々すたれた所を再び建てる。
外国人は立ってあなたがたの群れを飼い、
異邦人はあなたがたの畑を耕す者となり、
ぶどうを作る者となる。
しかし、あなたがたは主の祭司ととなえられ、
われわれの神の役者と呼ばれ、
もろもろの国の富を食べ、
彼らの宝を得て喜ぶ。
あなたがたは、さきに受けた恥にかえて、
二倍の賜物を受け、
はずかしめにかえて、その嗣業を得て楽しむ。
それゆえ、あなたがたはその地にあって、
二倍の賜物を獲、
とこしえの喜びを得る。
主なるわたしは公平を愛し、
強奪と邪悪を憎み、
真実をもって彼らに報いを与え、
彼らと、とこしえの契約を結ぶからである。
彼らの子孫は、もろもろの国の中で知られ、
彼らの子らは、もろもろの民の中に知られる。
すべてこれを見る者は
これが主の祝福された民であることを認める。
わたしは主を大いに喜び、
わが魂はわが神を楽しむ。
主がわたしに救の衣を着せ、
義の上衣をまとわせて、
花婿が冠をいただき、
花嫁が宝玉をもって飾るようにされたからである。
地が芽をいだし、園がまいたものを生やすように、
主なる神は義と誉とを、
もろもろの国の前に、生やされる。
イザヤ書61章


見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。
さきの事はおぼえられることなく、
心に思い起すことはない。
しかし、あなたがたはわたしの創造するものにより、
とこしえに楽しみ、喜びを得よ。
見よ、わたしはエルサレムを造って喜びとし、
その民を楽しみとする。
わたしはエルサレムを喜び、わが民を楽しむ。
泣く声と叫ぶ声は再びその中に聞えることはない。
イザヤ書65章17~19節




主は火をもって、またつるぎをもって、
すべての人にさばきを行われる。
主に殺される者は多い」。
「みずからを聖別し、みずからを清めて園に行き、その中にあるものに従い、豚の肉、憎むべき物およびねずみを食う者はみな共に絶えうせる」と主は言われる。
「わたしは彼らのわざと、彼らの思いとを知っている。わたしは来て、すべての国民と、もろもろのやからとを集める。彼らは来て、わが栄光を見る。 わたしは彼らの中に一つのしるしを立てて、のがれた者をもろもろの国、すなわちタルシシ、よく弓をひくプトおよびルデ、トバル、ヤワン、またわが名声を聞かず、わが栄光を見ない遠くの海沿いの国々につかわす。彼らはわが栄光をもろもろの国民の中に伝える。彼らはイスラエルの子らが清い器に供え物を盛って主の宮に携えて来るように、あなたがたの兄弟をことごとくもろもろの国の中から馬、車、かご、騾馬、らくだに乗せて、わが聖なる山エルサレムにこさせ、主の供え物とする」と主は言われる。「わたしはまた彼らの中から人を選んで祭司とし、レビびととする」と主は言われる。
「わたしが造ろうとする新しい天と、新しい地が
わたしの前にながくとどまるように、
あなたの子孫と、あなたの名は
ながくとどまる」と主は言われる。
「新月ごとに、安息日ごとに、
すべての人はわが前に来て礼拝する」と
主は言われる。
「彼らは出て、わたしにそむいた人々のしかばねを見る。そのうじは死なず、その火は消えることがない。彼らはすべての人に忌みきらわれる」。
イザヤ書66章16~24節



花嫁は聖なる都エルサレム
そして花婿はイエスさま。
では十人のおとめは誰なのか・・・

やはり伝統的な解釈の通りクリスチャンなのでしょうか。
とすると10人中5人は・・・

たしかに、律法は終わったと思っているクリスチャンはたくさんいます。
しかし実際には律法は終わっていないからこそ罪が明らかになるわけです。
律法があるからこそ罪のあるなしが分かるわけで、
律法がないならば罪は明らかにはならないのですからイエスさまによる救いも必要ないのです。
そして、
上の「1.律法について」というところに書きましたが
「ファリサイ人の義に勝っていなければ天の国に入れない5:20」
「天の父が完全であるように完全なものとなりなさい5:48」
ということであるからこそ、律法を努力して守ったところで到底無理であるので、イエスさまに救っていただくしかないわけです。
マタイによる福音書10章5~7節において
「イエスはこの十二人をつかわすに当り、彼らに命じて言われた、「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町にはいるな。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け。 行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。」


異邦人ではなくイスラエルという律法を与えられた人々に対して御言葉を述べ伝えるように語っておられますから、
律法を知らない異邦人クリスチャンに律法を守るように言っているわけではないということを聞きますが、
だとしたらこの福音書の言葉はイスラエルの人々へのものであって私たちには何のかかわりもないことになるはずです。
マタイによる福音書を正典として読み、自分への教えとして戒めとしてここにある主の言葉を適用させるということであれば、私たちは主の御言葉をその通りに受け取らなければならないのだろうと思います。しかし、イスラエルの人々のものなのであれば、異邦人用の聖書から除外すればいいことです。聖書は誤りなき神の言葉であるという教えを土台に据えてこの聖書を読むのであれば、律法は守らなければいけないのです。

ローマ人への手紙2章でパウロはこのように言っていますが、
「神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。すなわち、一方では、耐え忍んで善を行って、光栄とほまれと朽ちぬものとを求める人に、永遠のいのちが与えられ、他方では、党派心をいだき、真理に従わないで不義に従う人に、怒りと激しい憤りとが加えられる。悪を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、患難と苦悩とが与えられ、善を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、光栄とほまれと平安とが与えられる。なぜなら、神には、かたより見ることがないからである。
そのわけは、律法なしに罪を犯した者は、また律法なしに滅び、律法のもとで罪を犯した者は、律法によってさばかれる。なぜなら、律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者が、義とされるからである。 すなわち、律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである。そして、これらのことは、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日に、明らかにされるであろう。」

日本に生まれ育った人の心には「天と地をお造りになられた全能なる神さま」はありません。神さまを求める空虚な部分があったとしても、美しい桜の花の咲く場所にはほとんど異教の施設があるようなそういう国にあってまことの神さまを知るということはふつうのことではありません。「律法なしに罪を犯した者は、また律法なしに滅び、律法のもとで罪を犯した者は、律法によってさばかれる。とパウロは言いますが、律法の一丁目一番地を持たない異邦人は教えられてまことの神さまを知るのです。
パウロがここで言っていることだけを表面的にとらえて論ずるならば、まことの神さまを教えられなかった多くの日本人は、律法の一丁目一番地であるまことの神さまの存在がわからないけれどもそれでよいということになり、いわゆるキリスト教の教義は成立しないこととなります。
日本人であってもまことの神さまを知らずに済ませることは出来ないうえ、十字架による救いが必要なのは神さまがイスラエルに与えられた律法を私たちがパンくずをいただくごとく知ったからで、当初、イスラエルのものであったメシアによる王国が異邦人にまで拡大された段階で神さまの支配がおよぶところではどこでもその律法は有効になったのです。だからこそマタイによる福音書が正典となり得るし私たち異邦人もまことの神さまに聞き従わなければならないのであり、ゆえにイエスさまによる救いが必要ということになります。
まことの神さまは永遠から永遠まで変わらぬお方ですから、話が途中で変わるはずはないのです。
ならばなぜ食物規定を守らずに済むのかと言えば、守らずに済むように変わったということではなく、人間は結局律法を完璧には守れない者であるというところによるのだ私は思っています。
「ファリサイ人の義に勝っていなければ天の国に入れない5:20」
「天の父が完全であるように完全なものとなりなさい5:48」
ファリサイ人のように厳格にやっている人よりももっと正しく、
そう、天の父のようにパーフェクトになりなさい!
と言われてできる人はいないということをイエスさまはよくご存知であったからです。

食物規定について私はいろいろな意味や根拠があると感じています。たとえばブタ。日本人は大好きですけれども、豚という動物は与えれば何でも食べちゃいますよね。まずは信仰者としてそういう「態度」はだめなわけです。教えはよく吟味しないと。そして、アトピーの子供を育てた経験から言わせていただくと動物の肉を食べる場合その動物がどんなものを食べて育ってきたのかということがとても重要で、そう視点からは、「素性のわからない豚」はちょっと怖いと感じます。


イエスさまが罪の身代わりになってくださったのですが、それは借金の肩代わりをしてくださったようなもので、人間自体の性質は全く変わらないのです。
白い衣を着ているか着ていないかという話がありますが、
着ているか着ていないかということであって、身体自体は何も変わっていないわけです。
変わっていないからこそ、クリスチャンなのに平気で人の悪口を言い、理想的な教会は作れず、聖職者が犯罪を犯すような事態までが起こるわけです。私たちはロボットではありませんので、自由に選べますからね。


律法は神さまの御心を理解するための土台です。律法なしに神さまの御心を理解することはできません。しかし律法はどんなに努力しても完璧には守れないから律法自体によってエデンの園からの追放がなかったことにできないわけです。守ろうとすればするほど自分のダメさが明らかになり、そして、ダメな人ですから神さまとの交わりは絶対に回復できないわけです。神さまが聖すぎて人は死んでしまう!
だからこそイエスさまの十字架が必要だった。神さまと親しく交わることのできるエデンの園のような世界というものはイエスさまの十字架で「完成」されたのですね。罪のない聖い御子の血潮によって私たちはきよめられ、預言者を介さずともイエスさまのお名前(権威)によって神さまとお話(お祈り)ができるようになった。
預言されていたメシアがついに来られ、神さまの御心である律法の本質が示された。
ですから今も律法はあるのです。
律法は一点一画も失われることはないのです。
「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。
マタイによる福音書5章17節~19節」




ま、いろいろなクリスチャンはいるのだと思います。
黙示録の7つの教会というのが真実であるならば。
イエスさまを閉めだしてドアをノックさせている教会すらあるようですから。



マタイによる福音書25章(6) 聖書のことばを探してみる

注解書や辞典には頼らず、聖書のことばを探そうと考えました。
で、どんなふうにすればいいだろうかと考え、祈っておりましたが、ふと「マタイのことはマタイに聞いたらいいのかも」と思いつきました。
マタイは著者ですし、なにしろお弟子さんですから、たとえ話の深いところについてよく理解してはずです。理解した上で福音書全体を書いているとすれば、彼の書いた文章に何かヒントがあるかもしれません。

そこで、
イエスさまが『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』というようなことをおっしゃった箇所と、それとは真逆のことをおっしゃった箇所を
全体をざっと読んでチェックし、記録することにしました。
そうすることで、マタイがイエスさまから学んだ良いことと悪いことの基準がはっきりするかと思ったからです。


イエスさまの厳しいみことば(概要と箇所)

・塩に塩気がないのはだめ(役に立たない)5章13節
・ファリサイ派の人々の義にまさっていなければ天の国に入れない5章20節
・(従来の教えよりも厳しい基準を示され)天の父が完全であられるように完全な者になれ5章48節
・人の目を意識した偽善はダメ6章1節、5節
・良い実を結ばない木(偽預言者)は切り倒されて火に投げ込まれる。7章15節、19節
(バプテスマのヨハネも3章10節で同様のことを言っている)
・天の父の御心を行う者だけが天の国に入る(行わなければ入れない)7章21節
・イエスさまの言葉を聞くだけで行わない者は砂の上に家を建てた愚かな人に似ている7章26節
・イエスさまが派遣したお弟子さんたちの言葉に耳を傾けようともしない者はソドムとゴモラよりも罪が重い10章14節、15節
・人々の前でイエスさまを知らないと言う者はイエスさまも天の父の前でその人を知らないと言う10章33節
・イエスさまよりも父や母、息子や娘を愛する者はイエスさまにふさわしくない10章37節
・自分の十字架を担ってイエスさまに従わない者はイエスさまにふさわしくない10章38節

・数多くの奇跡の行われたのに悔い改めなかった町々はティルスやシドン、ソドムよりも罪が重い。11章20節
・人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。12章32節
・人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。12章36節
・律法学者とファリサイ派の人々がイエスさまにしるしを見せるよう要求、しかしそれは与えられないとし、ニネベの人たちと南の女王が裁きの時今の時代の者たちと一緒に立ち上がり彼らを罪に定めるであろうと語る。12章38節~42節
・ファリサイ派とサドカイ派のパン種(教え)に注意16章11節、12節
・律法学者とファリサイ派の人々は偽善者 23章14節
・主人が帰ってきた時主人に言われた通りにしていないしもべは厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。24章 51節



イエスさまが推奨されたこと(概要と箇所)

・(律法の)最も小さな掟の一つでもそれを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる5章19節
・人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である7章12節
・狭い門から入る7章13節
・イエスさまの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている7章24節
・だれでも人々の前で自分をイエスさまの仲間であると言い表す者はイエスさまも天の父の前でその人をイエスさまの仲間であると言い表してくださる10章32節
・預言者を預言者として受け入れる人は預言者と同じ報いを受け正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける10章41節
・イエスさまの弟子だという理由で冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は必ずその報いを受ける 10章42節
・自分を低くして子供のようになる人が天の国でいちばん偉い18章4節
・イエスさまが求めるのはあわれみであっていけにえではない9章13節、12章7節
(この言葉とほぼ同じみことばがサムエル上15章22節、ホセア6章6節、箴言21章3節、ミカ書6章8節、コヘレト4章17節、イザヤ書1章11~17節、エレミヤ書7章22、23節にも見られる)




マタイによる福音書25章(5)十人のおとめに生じた「差」


そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。 その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。 夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。
マタイによる福音書25章1~13節(口語訳)


クリスチャンはキリストの十字架によって罪が赦された=義としていただいた者であるはずなのに、なぜ『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言われたのでしょうか。



「十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。 その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。」

花婿を待ちわび、迎えに行く者は信者でしょう?
なぜ、主人は『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言われたのでしょうか。ただ、そういうことを考える前に気付くべきことはこの十人は「花嫁」ではないということです。
再臨のキリストが花婿で教会(信徒)が花嫁であると教会や集会に通っていた頃に習いましたが、このたとえ話に登場する十人は花嫁ではありません。
信者が花嫁であるというのならこの人たちは信者ではないということになります。


行って、エルサレムに住む者の耳に告げよ、主はこう言われる、
わたしはあなたの若い時の純情、
花嫁の時の愛、
荒野なる、種まかぬ地で
わたしに従ったことを覚えている。
エレミヤ書2章2節(口語訳)

若い者が処女をめとるように
あなたの子らはあなたをめとり、
花婿が花嫁を喜ぶように
あなたの神はあなたを喜ばれる。
イザヤ書62章5節(口語訳)

ヨハネの弟子とパリサイ人とは、断食をしていた。そこで人々がきて、イエスに言った、「ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいるのに、断食ができるであろうか。花婿と一緒にいる間は、断食はできない。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう。
マルコによる福音書2章18~20節(口語訳)




ただ、とにかく十人のおとめのうち半数は思慮が浅く、半数は思慮深い者、いや、割合で言わない方が良いでしょうか、五人は思慮が浅く五人は思慮深い者だった。
口語訳は思慮が浅い深いという表現をしていますが、新共同訳では文語の聖書と同じように愚か賢いと翻訳されています。



「思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。」

十人全員「あかり」は持っていたのです。なのでおそらくは初めのころには全員が明るく点灯させていたのではないでしょうか。
しかし、補充用の油を持っている人と持っていない人がいて、イエスさまは持っている人の方を思慮深い者と呼び持っていない人の方を思慮の浅い者と呼ばれた、と。




「花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。 夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。」

思慮が深いおとめも浅いおとめも寝ています。
とりあえず寝るのは全員だということが分かります。花婿の到着が遅れに遅れて夜中だったのですから寝るなというのは可愛そうな気がしますが、
呼ぶ声がしたので彼女らは全員起きてあかりを整えた。ところが、


「ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。」


このやり取りで分かるのは、この「油」については、たとえ不足していて困ってる人がいたとしても融通してあげることができない、ということです。でも、店には売っているようです。



「彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。」

思慮深いおとめ五人は花婿を迎え一緒に楽しそうな婚宴の部屋へ。そして部屋のドアが閉められます。
油を買いに行っていた思慮深くない五人は時間切れでアウト。しめだされてしまいました。


「そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。」


開けてくださいと頼んでも、主人からは「あなたがたを知らない」と言われてしまいました。
そしてイエスさまはこうおっしゃるわけです。「目をさましていなさい。」
注意すべきことは、
イエスさまは「目をさましていなさい」と言われたということです。
油を買っておきなさいではないのですね。
十人全部が寝ていましたし、思慮深いおとめと思慮の深くないおとめの差は「予備の油」だけだった気がするのですが、目をさましていなさいとはどういう意味なんでしょうか。



マタイによる福音書25章(4)「天の国」


日本聖書協会様の聖書本文検索を使って調べてみたところ「天国(口語訳)、天の国(新共同訳)」という言葉はマタイによる福音書と旧約続編のエズラ記(ラテン語)2章37節(新共同訳)だけにしかない言葉のようでした。

天とは神さまのお名前の代わりに用いられている言葉なので、マタイが言うところの天の国とは、マルコ、ルカ、ヨハネによる各福音書、使徒、ローマ、コリント第一、ガラテヤ、コロサイ、テサロニケ第二、そして天の国と表現していないマタイの5カ所で使われている「神の国」という言葉と同じ意味だと考えられます。

ところで、「天の国」「神の国」という言葉は新約聖書には上述のように多用されているわけですが、旧約聖書では見られない言葉です。
そう言うと、ユダヤ教とキリスト教に違いや分断があるように聞こえるかもしれませんが、そうではなく、そういう語句が見られないというだけで、預言者によって預言されていたことです。だからこそ人々は「その国」を待望し、「王(メシア)」を待望していたのです。


ちょうど、今朝は詩編145編が通読箇所として与えられました。
145編を読むと、「天の国」「神の国」という言葉はなくとも、神さまは私たちの王なのだ、と思いますし、「天の国」「神の国」を理解することができます。




第145篇(口語訳)
ダビデのさんびの歌
わが神、王よ、わたしはあなたをあがめ、
世々かぎりなくみ名をほめまつります。
わたしは日ごとにあなたをほめ、
世々かぎりなくみ名をほめたたえます。
主は大いなる神で、
大いにほめたたえらるべきです。
その大いなることは測り知ることができません。
この代はかの代にむかって
あなたのみわざをほめたたえ、
あなたの大能のはたらきを宣べ伝えるでしょう。
わたしはあなたの威厳の光栄ある輝きと、
あなたのくすしきみわざとを深く思います。
人々はあなたの恐るべきはたらきの勢いを語り、
わたしはあなたの大いなることを宣べ伝えます。
彼らはあなたの豊かな恵みの思い出を言いあらわし、
あなたの義を喜び歌うでしょう。
主は恵みふかく、あわれみに満ち、
怒ることおそく、いつくしみ豊かです。
主はすべてのものに恵みがあり、
そのあわれみはすべてのみわざの上にあります。
主よ、あなたのすべてのみわざはあなたに感謝し、
あなたの聖徒はあなたをほめまつるでしょう。
彼らはみ国の栄光を語り、あなたのみ力を宣べ、
あなたの大能のはたらきと、
み国の光栄ある輝きとを人の子に知らせるでしょう。
あなたの国はとこしえの国です。
あなたのまつりごとはよろずよに
絶えることはありません。
主はすべて倒れんとする者をささえ、
すべてかがむ者を立たせられます。
よろずのものの目はあなたを待ち望んでいます。
あなたは時にしたがって彼らに食物を与えられます。
あなたはみ手を開いて、
すべての生けるものの願いを飽かせられます。
主はそのすべての道に正しく、
そのすべてのみわざに恵みふかく、
すべて主を呼ぶ者、誠をもって主を呼ぶ者に
主は近いのです。
主はおのれを恐れる者の願いを満たし、
またその叫びを聞いてこれを救われます。
主はおのれを愛する者をすべて守られるが、
悪しき者をことごとく滅ぼされます。
わが口は主の誉を語り、
すべての肉なる者は世々かぎりなく
その聖なるみ名をほめまつるでしょう。




恵みふかく、あわれみに満ち、怒ることおそく、いつくしみ豊かな王。
倒れそうな人をささえ、かがむ者を立たせられる王。
国民を愛し守られる王。
その王国は永遠に続く・・・

ハレルヤコーラスを思い出します。

King of Kings and Lord of Lords
and He shall reign for ever and ever
Hallelujah



そして、その神さまご自身が
「わたしはある」というお方ご自身が人となってこの世界に来てくださった。



神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
出エジプト記3章14節(新共同訳)

だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」
ヨハネによる福音書8章24節(新共同訳)

そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。
ヨハネによる福音書8章28節(新共同訳)

イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」
ヨハネによる福音書8章58節(新共同訳)

事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。
ヨハネによる福音書13章19節(新共同訳)


そして、「わたしはある」というお方はこう言われました。


モーセは、全イスラエルを呼び集めて言った。イスラエルよ、聞け。今日、わたしは掟と法を語り聞かせる。あなたたちはこれを学び、忠実に守りなさい。
申命記5章1節(新共同訳)

וַיִּקְרָ֣א מֹשֶׁה֮ אֶל־כָּל־יִשְׂרָאֵל֒ וַיֹּ֣אמֶר אֲלֵהֶ֗ם שְׁמַ֤ע יִשְׂרָאֵל֙ אֶת־הַחֻקִּ֣ים וְאֶת־הַמִּשְׁפָּטִ֔ים אֲשֶׁ֧ר אָנֹכִ֛י דֹּבֵ֥ר בְּאָזְנֵיכֶ֖ם הַיֹּ֑ום וּלְמַדְתֶּ֣ם אֹתָ֔ם וּשְׁמַרְתֶּ֖ם לַעֲשֹׂתָֽם׃ (注)ヘブライ語の文は右から左に書かれています


שְׁמַ֤ע シェマー (聞け)
יִשְׂרָאֵל֙ イスラエル 

イスラエルよ、聞け。



神さまは、私たち人間がみことばを聞き、
聞いたことを受け入れて従う(行う)ことによって
「神さまの支配」を受け入れた
つまり「神の国、天の国の国民」となると教えられました。
イエスさまも「聞く耳のあるものは聞きなさい」ルカ8章8節(新共同訳)とおっしゃいました。
マタイによる福音書7章21節において「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」と言われました。
みことばを聞き、聞いたことを受け入れて従う(行う)こと。


だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」
マタイによる福音書7章12節

マタイ25章31節からのところをまた思い出しました。

マタイによる福音書25章(3)「目を覚ます」という言葉


だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。
マタイによる福音書25章13節(口語訳)


タラントのたとえを考えつつ、ふと目の行ったマタイによる福音書25章13節のみことばを読みました。
聖書ではどのくらいの数、上のマタイのみことばのようなニュアンスで「目を覚ます」という言葉が使われているのでしょうか。
日本聖書協会様の聖書本文検索
http://www.bible.or.jp/read/vers_search.html
を利用し調べてみましたら。驚くような数!
とても引用しきれないので
福音書に限定してどんなものがあったのか引用させていただこうかと思います。

以下口語訳聖書から引用、文末のカッコ内に新共同訳と書いてあるところだけ新共同訳聖書から引用


だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。マタイ24:42


このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。マタイ24:43


そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。マタイ26:38


それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。マタイ26:40


誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。マタイ26:41


気をつけて、目をさましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである。マルコ13:33


それはちょうど、旅に立つ人が家を出るに当り、その僕たちに、それぞれ仕事を割り当てて責任をもたせ、門番には目をさましておれと、命じるようなものである。マルコ13:34


だから、目をさましていなさい。いつ、家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、にわとりの鳴くころか、明け方か、わからないからである。マルコ13:35


目をさましていなさい。わたしがあなたがたに言うこの言葉は、すべての人々に言うのである」。マルコ13:37


「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目をさましていなさい」。マルコ14:34


それから、きてごらんになると、弟子たちが眠っていたので、ペテロに言われた、「シモンよ、眠っているのか、ひと時も目をさましていることができなかったのか。マルコ14:37


誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。マルコ14:38




三度目にきて言われた、「まだ眠っているのか、休んでいるのか。もうそれでよかろう。時がきた。見よ、人の子は罪人らの手に渡されるのだ。 マルコ14:41




主人が帰ってきたとき、目を覚しているのを見られる僕たちは、さいわいである。よく言っておく。主人が帯をしめて僕たちを食卓につかせ、進み寄って給仕をしてくれるであろう。ルカ12:37


主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。ルカ12:38(新共同訳)


これらの起ろうとしているすべての事からのがれて、人の子の前に立つことができるように、絶えず目をさまして祈っていなさい」。ルカ21:36




祈を終えて立ちあがり、弟子たちのところへ行かれると、彼らが悲しみのはて寝入っているのをごらんになって 言われた、「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」。 ルカ22:45、46





一番初めに引用したマタイ25章13節のみことば
だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。
マタイによる福音書25章13節(口語訳)

これは英語の聖書だとこう訳されています。



Therefore keep watch, because you do not know the day or the hour.
(New International Version)


Watch therefore, for ye know neither the day nor the hour wherein the Son of man cometh.
(King James Version)



また、マルコの14章37節 も
それから、きてごらんになると、弟子たちが眠っていたので、ペテロに言われた、「シモンよ、眠っているのか、ひと時も目をさましていることができなかったのか。マルコ14:37

英語の聖書ではこうなっていて、
Then he returned to his disciples and found them sleeping. "Simon," he said to Peter, "are you asleep? Couldn't you keep watch for one hour?
(New International Version)

「弟子たちが眠っていた」「眠っているのか」という日本語については英語でも同様なのですが、「目をさましていることができなかったのか」という言葉は「Couldn't you keep watch」となっています。
これは、ギリシャ語ではγρηγορέω 読み:grégoreó で、
Strong's Exhaustive Concordanceによるとbe vigilant, wake, be watchfulということであるらしく、つまりvigilantとは油断なく番をする、油断のない、用心深い
そして、be watchfulも(常に注意・警戒を怠らず)用心深い、警戒する、(…を)用心して、警戒してということで、
まあ、wakeは目覚めるという意味ですが、
単純に眠らず起きてるという話ではなく、「警戒しているように」イエスさまがおっしゃっていたのだ、ということがわかります。
そして、その数から考えさせられることは、
それだけ何かが危険である、ということです。



マタイによる福音書25章(2)聖書の世界の「財産管理」


また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。五タラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントをもうけた。二タラントの者も同様にして、ほかに二タラントをもうけた。
マタイによる福音書25章14~17節(口語訳)

今日は聖書の中で財産という言葉を含む場所を検索してみました。



すると農夫たちは、その子を見て互に言った、『あれはあと取りだ。さあ、これを殺して、その財産を手に入れよう』。マタイ21章38節(口語訳)

アブラハムは、全財産をイサクに譲った。
創世記25章5節(新共同訳)

その人が息子たちに財産を継がせるとき、その長子である疎んじられた妻の子を差し置いて、愛している妻の子を長子として扱うことはできない。
疎んじられた妻の子を長子として認め、自分の全財産の中から二倍の分け前を与えねばならない。この子が父の力の初穂であり、長子権はこの子のものだからである。
申命記21章16、17節(新共同訳)


財産を「もらえる」のは子どもですが、タラントのたとえのように、信頼できるしもべに財産を管理させるというシステムがあったようです。

創世記24章にはアブラハムが財産を管理させている様子が登場します。上で引用したイサクに財産を譲ったのが25章ですからその前の出来事です。

アブラハムは年が進んで老人となった。主はすべての事にアブラハムを恵まれた。さてアブラハムは所有のすべてを管理させていた家の年長のしもべに言った、「あなたの手をわたしのももの下に入れなさい。わたしはあなたに天地の神、主をさして誓わせる。あなたはわたしが今一緒に住んでいるカナンびとのうちから、娘をわたしの子の妻にめとってはならない。 あなたはわたしの国へ行き、親族の所へ行って、わたしの子イサクのために妻をめとらなければならない」。 しもべは彼に言った、「もしその女がわたしについてこの地に来ることを好まない時は、わたしはあなたの子をあなたの出身地に連れ帰るべきでしょうか」。アブラハムは彼に言った、「わたしの子は決して向こうへ連れ帰ってはならない。 天の神、主はわたしを父の家、親族の地から導き出してわたしに語り、わたしに誓って、おまえの子孫にこの地を与えると言われた。主は、み使をあなたの前につかわされるであろう。あなたはあそこからわたしの子に妻をめとらねばならない。けれどもその女があなたについて来ることを好まないなら、あなたはこの誓いを解かれる。ただわたしの子を向こうへ連れ帰ってはならない」。そこでしもべは手を主人アブラハムのももの下に入れ、この事について彼に誓った。
創世記24章1~9節(口語訳)

ルカによる福音書には「不正な管理人」のたとえがあります。

イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』
ルカによる福音書(新共同訳)

主人は僕に財産を預けて運用を任せたということなのですね。
そういうふうに考えると
1タラントの預かった人は増やすように努力するのは当然の仕事ですから、穴を掘って埋めたなんて、怒られて当然だったようです。
で、少額をうまく増やせた人は主人から信頼を得て大きな額を任せてもらえるようになる、そういう話だったわけですね。


それにしても、
1タラント預かった者は損失を出したわけではなく全額返還できるのに、主人はなぜ「持っていない人」と評価して外の暗い所に追い出すまでの仕打ちをするのでしょうか。

かつて教会や集会で教わったのは、「タラントは才能のことで、その才能をつかって主のために働くこと、つまり、教会や集会で奉仕したり家族や親族友人知人を教会や集会に誘ったりして伝道することこそがタラントを活用して増やすことである」ということでした。
しかしもしそうであるならば教会も集会もやめてしまった今の自分にはそんなことはできないわけです。
もっとも、それでもどうにかして主のために働かなければいけないという強迫観念のようなものがあったのでこのブログもはじめたわけですが、

タラントのたとえとは本当にそういう教えなのでしょうか。




マタイによる福音書25章(1)「怠惰から臆病へ」 翻訳の違いで気付いたこと


一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。
マタイによる福音書25章24~27節(口語訳)



タラントのたとえを読むたびに、

1タラント預かった者は損失を出したわけではなく全額返還できるのに、主人はなぜ「持っていない人」と評価して外の暗い所に追い出すまでの仕打ちをするのか。
1タラントを紛失することもなく保全するのにも労力はゼロではなかったはず。主人はなぜ「悪い怠惰な僕」と評価するのか。

そんな疑問を持ち続けておりました。

しかし、
先日購入することのできた聖書協会共同訳でこの箇所を読み、ある言葉が別の言葉に翻訳されていたのを読み、その瞬間、これまでわからないわからないと思っていたことがするするとほどけていくような気分になりました。

そのある言葉とは、口語訳では「悪い怠惰な僕よ」という言葉。
それが、聖書協会共同訳ではこう訳されていたのです。
「悪い臆病な僕だ」
・・・おくびょうなしもべ?なまけ者じゃないんだ?


「怠け者」ではなく「臆病」だという主人の評価を読んだとき、
そうか、と思いました。
主人は旅に出かける前、3人と個人的にいろいろ話したのではないかと。
そして最後に主人は3人に「私はお前たち3人には特別に期待しているのだ。目をかけて個人的に訓練もしてきたのだからな。大丈夫、お前たちならきっとできるぞ。万一失敗したって大丈夫だ。責任は私が取るから。いいか、お前たちは何も恐れることはないんだ。自分の思った通り、恐れないで精一杯チャレンジしてごらん?」というようなことを言ったのでは?と思ったのです。
もしもそういうやり取りがあったのであれば、1タラント預かった人がなにもせずに1タラントをそのまま差し出したのでは主人は納得できないはずです。たとえ減っていなかったとしても、「そういうことが問題ではない!」と叱りたくなる
…いや、主人は悲しい思いにだったに違いありません。1タラント預かった僕が「わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。」と言うのですから。
特別に選び、かわいがり、期待して大切な財産を任せたのに、「酷な人」呼ばわりか?と。






ところで、このたとえ話は、そもそもどんな話題から語られたたとえ話だったのかといいますと、


また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。
マタイによる福音書25章14節(口語訳)


ここの箇所をBible Hubのサイトでギリシャ語Stephanus Textus Receptus 1550で読んでみると
文頭は「また天国は」とはなっていなくて

Ὥσπερ γὰρ ἄνθρωπος ἀποδημῶν ἐκάλεσεν τοὺς ἰδίους δούλους καὶ παρέδωκεν αὐτοῖς τὰ ὑπάρχοντα αὐτοῦ

Ὥσπερは英語で[It is] like
γὰρ ἄνθρωποςは英語でfor a man
ἀποδημῶνは英語でgoing on a journey
というふうに書いてありますから、その前の10人のおとめのたとえの冒頭にある
Τότε ὁμοιωθήσεται ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν δέκα παρθένοις αἵτινες λαβοῦσαι τὰς λαμπάδας ἀυτῶν ἐξῆλθον εἰς ἀπάντησιν τοῦ νυμφίου
というみことばの中の
ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν
英語では「the kingdom of heavens」という訳になりますが、
そこを受けてὭσπερは英語で[It is] likeといっているのですね。
で、日本語に訳した時に主語がないとわかりにくいので「また」という並列の接続詞をつけて「天国or天の国or天の御国」は~のようなものであると訳しているのでしょう。
いずれにしてもこのタラントのたとえ話は前段の十人のおとめと同様な事柄について語られているということが分かります。

なぜこのようなくどい言い方をしたのかと言いますと、
ここで語られている天国が日本人が一般的に使っているような、「~さんは亡くなって今は天国にいる」という表現に登場する天国とは意味が違うということを確認しておきたかったからです。
メシアが再臨し世を裁き天の国を確立するという、その天国の話。

しかし、タラントのたとえ話の前にある十人のおとめのたとえ話とともに
救われているはずの信者が最後に天国に行けないような内容となっています。


彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。 そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。 しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。
マタイ25章10~13節(口語訳)


さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。
マタイ25章28~30節(口語訳)


いったいどうしたことなのか
少しの間考えてみたいと思います。



2019年8月23日金曜日

詩編127編 読み比べ

聖書協会共同訳聖書を読み始めてからハッとさせられることばかりなのですが、
今朝は詩編127編1,2節を読んでいて特に2節を読んだとき、少々驚いたような心持になりまして、思わずこの文章を書き始めてしまいました。

私が持っている4つの聖書からそれぞれ1節と2節の本文部分を書き出し、それぞれの聖書から自分はどう読んでいたのかということをお話します。




口語訳聖書

 主が家を建てられるのでなければ、
建てる者の勤労はむなしい。
主が町を守られるのでなければ、
守る者のさめているのはむなしい。
あなたがたが早く起き、おそく休み、
辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。
主はその愛する者に、眠っている時にも、
なくてならぬものを与えられるからである。



口語訳聖書では、
人が家を建てる場合に
主ご自身がそういうご意志を持っておられ、人がそのご意志に従うということにより建てるということでなければ、建設にかかわる人の勤労はむなしい=意味がない
というのです。
また、主ご自身が町を守ろうと考えられて、人がそのご意志に従って守るのでなければ
夜の間ずっと起きていて町を守るというのはむなしい=意味がない
というのです。で、夜の間中起きているというような話題を受けて、でしょうか、早起きしたり遅く寝たり、という話が登場します。そして、辛苦のかてを食べるという言葉が並列されているので、早起きや遅く寝ることになるようなイレギュラーなことを好んでもいないのに強いられるということを辛苦のかてと表現しているのか、
もしくは早起きや夜遅く寝るということのような不快なこととともに辛苦のかてを食べると表現するようなつらく苦しい仕事を、
神さまの御心でもないのに、もしくは、神さまと関わりを持つこともなく行うなどということは、むなしい=意味のないことだ、と聞こえるのです。

で、問題はその次です。
「主はその愛する者に、眠っている時にも、
なくてならぬものを与えられるからである。」というのですが、
「からである」という表現ですから、何かに対しての理由や説明を述べているわけですね。
じゃあどこと関連があるのかと言えば、「眠っている時にも与えられる」と言っていることから、「守る者のさめている」あたりからの一連の睡眠不足におちいってまでの苦しい労働に関わる話であるということが推測できます。
しかしここで「主はその愛する者に、眠っている時にも、
なくてならぬものを与えられるからである。」と言われてしまうと、この文にはその前の文をすべて吹き飛ばすほどの破壊力があり、

だったら、主に愛されてる人間は労働などしなくてもいいのではないかしら??と思えたりするわけです。


新改訳聖書

主が家を建てるのでなければ建てる者の働きはむなしい。
主が町を守るのでなければ守る者の見張りはむなしい。
あなたが早く起きるのも、おそく休むのも、
辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。
主はその愛する者には、眠っている間に、
このように備えてくださる。

新改訳聖書でも、口語訳と同じように「主が家を建てる」という主ご自身の御心に沿った労働でなければ「むなしい」といいます。
ただ次の「町を守る」ことについて、口語訳聖書では夜の間中起きているということにむなしさの中心がありましたが、こちらでは起きているというよりも「見張る」という労働行為にむなしさの中心を置いています。もちろん、見張りは夜回りのことでしょうから次の「あなたが早く起きるのも、おそく休むのも」という言葉につながっていくのだとは思います。
口語訳聖書と大きく異なるのは「あなたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、」という具合に「~のも」という言葉で事柄を並べているところです。
その言葉と語感のゆえに口語訳聖書よりも「むなしい」ことをシリーズとして並べている印象を受けます。ただ、「~のも」という言葉のせいで決定的に違う印象を与えているのが「辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。」という言葉です。口語訳聖書では「辛苦のかて」が睡眠不足と関連するのかしないのかはっきりしませんでしたが、新改訳聖書の「~のも」という表現により「早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、」ということになり、辛苦の糧は睡眠不足とは別の話だ、ということが分かります。

で、新改訳聖書でも問題はその次のみことばにあります。
「主はその愛する者には、眠っている間に、
このように備えてくださる。」というのですが、まずは「このように」ということばどのようになのかがわからない。
ソロモンが書いているということが分かっていますので、ソロモンが「このように」といっているとすれば、神さまがソロモンにしてくださったように、ということでしょうか。
そしてもう一つの問題はとても大きな問題で、「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」というみことばはいったい何が言いたいのかがわからないのです。
もちろん意味は分かります。が、なぜそんなことをこの場所で唐突に言うのかがわからない。口語訳聖書の場合は「からである」という言葉で無理はあっても上の文とくっついており、関係がありましたが。
ただ、しかし、ここでも口語訳聖書と同じようにこの一文が前段のすべてを吹き飛ばしてしまうのです。
そのため、新改訳聖書を読んでいた20年くらいの間、この箇所をこんなふうに読んでいたのです。
「神さまに愛されてない人関わりを持っていない人のやることはみんなむなしいよね。みんな必死にやるけどさ、そんなことしなくたって神さまはみんなやってくださるのにね」



新共同訳聖書

主ご自身が建ててくださるのでなければ家を建てる人の労苦はむなしい。
主ご自身が守ってくださるのでなければ町を守る人が目覚めているのもむなしい。
朝早く起き、夜おそく休み
焦慮してパンを食べる人よ
それは、むなしいことではないか
主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。


新改訳聖書だけを読むという生活を20年くらいした後で新共同訳聖書を読むようになったため「町を守る人が目覚めている」という細かい描写に、見張りが夜の見張りであるということをはっきり理解したのでした。しかし、それはそうと口語訳と新改訳でごちゃついていた「睡眠不足と辛苦の糧問題!?」について、新共同訳聖書は私に驚くような言葉で語って聞かせるのでありました。これは衝撃的でした。
「朝早く起き、夜おそく休み
焦慮してパンを食べる人よ
それは、むなしいことではないか」
「辛苦の糧を食べる」だとずっと思っていたところが「焦慮してパンを食べる人よ」という呼びかけになっていて本当に驚きました。焦慮という言葉を辞書で調べると「あせっていら立つ」ということらしいのですが、
「睡眠不足でつらく苦しいけれども辛抱していた」ことがむなしい=意味がない のではなく「超絶忙しくてバタバタしててムカついた~!」なんてむなしいよね、とソロモンに言われているようなそんな感覚になり・・・。
しかも、です。
口語訳新改訳と、眠っている間に何かしらを神さまが備えてくれていたはずだったのですが、主が与えてくださっていたのは「眠り」だったという!
これには本当にぶっ飛びました。
 ただ、わからなかったのです。なぜここでいきなり眠りが与えられるという話になるのか。
なので、口語訳と新改訳聖書のみことばと、他の詩編の箇所も踏まえ、
神さまに愛され神さまを信じている人には「主に愛され主を信じる者には眠っている間も主ご自身が働いてくださりあふれるばかりの祝福を与えてくださるので私たちには眠りという平安な休息が与えられる」
のだろうと思うことにしておりました。

そんな中出会った新しい聖書・・・


聖書協会共同訳聖書

もし、主が家を建てるのでなければ
それを建てる人々は空しく労苦することになる。
もし、主が町を守るのでなければ
守る人は空しく見張ることになる。
空しいことだ
朝早く起き、夜遅く休み
苦労してパンを食べる人々よ。
主は愛する者には眠りをお与えになるのだから。

この聖書協会共同訳聖書を読んで、あっと思ったのはここの箇所以降です。
「空しいことだ
朝早く起き、夜遅く休み
苦労してパンを食べる人々よ。」

「空しいことだ」ということばが先に来ることによって
新共同訳の
「朝早く起き、夜おそく休み
焦慮してパンを食べる人よ
それは、むなしいことではないか」
という文から感じる焦慮してパンを食べる人に対する疑問や確認のようにとれるイメージとは異なる中学の頃英語で習った「感嘆文」のように読めたので
「朝早く起き、夜遅く休み 苦労してパンを食べる人々」が「とても空しい」という嘆きのように聞こえたのです。
で、その瞬間そのあとにある「主は愛する者には眠りをお与えになる」という一文が、特に、「愛する者には」の「には」という言葉が、ぐぐぐっと音がするほどに「愛する者」という言葉の特殊性を引き出してくれたような気がしました。
ソロモンが「それは、むなしいことではないか」と言った「朝早く起き、夜遅く休み 苦労してパンを食べる人々」と「愛する者」とが比較されくっきりと対照的であることを教えられたのです。
それゆえ次の瞬間、主の与えてくださる「眠り」というものが、ただの眠りではなく、
主の愛する者であるイスラエルに対する安息
「安息日」について書かれた十戒を想起させてくれたのです。
神さまと愛の関係にあるイスラエルに与えられている掟を。
十戒(律法)は「縛り」ではなく「恵み」であるのだ!ということを。
「主は愛する者には眠りをお与えになる」のです。
主は愛する者だけに眠りという安息をお与えになるのです。
眠りは主が選び愛される者たちに与えられた特権。
眠りという安息は主が選び愛される者たちに与えられた特権。
律法は縛りではなく特権!


そこからさかのぼって1節に戻り読んでみました。
そう、愛する者に、愛するイスラエルには、主が建ててくださるのです。
愛する者を、愛するイスラエルを主はお守りになる。
主は主の愛する者たちに主は主を愛する者たちに一方的な恵みの契約を与えてくださり
神さまの契約の民は約束の祝福を受けることができる。





まあ、どの聖書を読んでいても大筋では同じかもしれませんが、

かゆくて仕方のないところに指の先がちょっとだけ届いた「ような気がする」というのは
かゆくて仕方のない私にとっては、とてつもない喜びなのです(笑)

2019年8月3日土曜日

自分の前に神を置くということ、そして、神さまご自身が私たちの前に置かれたもの

新共同訳で詩編54編を読んでいて5節が気になりました。

異邦の者がわたしに逆らって立ち
暴虐な者がわたしの命をねらっています。
彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。
詩編54編5節


「 彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。」

創造主である神さまを「置く」という表現に、ちょっと違和感を感じつつも、置くということがどういう意味であるのかしばらく思いを巡らしておりました。


「置く」という日本語は、人間が何かを自分の手で持ち、テーブルだの棚だの自分の望むところに持っていき固定するとか、役職等に人員を配置するというような意味ですよね。

だから、異邦の暴虐な者たちが「自分の前に神を置こうとしない」というのはどういうことなのか、と言うと、
まずはポジション(位置)の問題として「自分の前」ではないということ。
では、「自分の前」とはどこでしょう。英語の翻訳を併せて考えると
(Bible hubでヘブライ語聖書も見たのですがよく分からなったので英語を参考にしました)
これはbeforeであり、 in front ofなので、「not far from 自分」であることが分かります。自分のすぐ前。はっきり見えるポジション。拡声器を使わずに対話できる位置。


「 彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。」

そして、ここにはポジションの問題のほかに、置こうとするのかしないのかという「意志」という問題があるわけです。
「置こうとしない」という日本語訳に忠実にそのニュアンスをとらえようとするなら、過去、現在、という時の流れの中でいくらでも置くチャンスはあるにもかかわらず、「置く」という行為を選択しようとしない「彼ら」がいる。この詩編の作者であるダビデ、自分の前に神を置こうとし神を置くダビデには理解できない「異邦の暴虐な者たち」がいるのです。


ただ、なぜ私が「彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。」と語るダビデの言葉に思いを巡らしているのかと言うと、自分の前に神を置こうとしないのは「異邦の暴虐な者たち」だけのこととして読み済ませてよいのか、と思ったからです。
本当に私たちは、
「神を信じていると公言している」私たちは、
神さまを自分の前に置いているだろうか、と思うのです。
日々の歩みにおいて、祈りにおいて、様々な場面において私たちのすぐ前に神さまを置いているでしょうか。

 
 
 

 


神よ、傲慢な者がわたしに逆らって立ち
暴虐な者の一党がわたしの命を求めています。
彼らはあなたを自分たちの前に置いていません。
詩編86編14節
今日の「自分の前に神を置く」という言葉は、新共同訳聖書の詩編86編14節のところからの引用です。

詩編54編のところで登場した「自分の前に神を置く」という言葉をまた詩編86編14節のところで読みました。
二つの詩が全く別のものなのか、そうではないのかはわかりませんが、両方ともダビデの詩と書いてありますので、とにかくダビデは、「傲慢な者や暴虐な者は神さまを自分たちの前に置かない」と言っている。
そんなことを考えながら最近詩編91編を読んでおりましたところ、「自分の前に神を置く」という言葉のイメージが少し膨らんだような気がしました。

いと高き神のもとに身を寄せて隠れ
全能の神の陰に宿る人よ
主に申し上げよ
「わたしの避けどころ、砦
わたしの神、依り頼む方」と。
神はあなたを救い出してくださる仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。
神は羽をもってあなたを覆い翼の下にかばってくださる。神のまことは大盾、小盾。
詩編91編1~4節

1節「 隠れ」「陰に宿る」

自分の前に神を置いている人は、自分の前の神さまに身を寄せて隠れ、神さまの陰にとどまっている人です。

4節「覆い」「翼の下にかばう」「盾」

神さまを前に置いている人を神さまは覆い、翼の下にかばってくださり盾になることがおできになる。
 
 
 
導く雲は先を行き、羊飼いも羊の前を行くのです。
わたしは在るという方が私たちの前にあり、
私たちが迷わぬように導き、私たちを守ってくださる。
 
ですから私たちは決して神の先を歩いていかない。
私たちは神さまを前に置き、神さまの後について行くのです。
 
 

 
新共同訳から95編の10、11節を引用します。
四十年の間、わたしはその世代をいとい
心の迷う民と呼んだ。
彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。
わたしは怒り、
彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。
(新共同訳)

次に新改訳から同じ箇所を引用します。

わたしは四十年の間、
その世代の者たちを忌みきらい、そして言った。
「彼らは、心の迷っている民だ。
彼らは、わたしの道を知ってはいない」と。
それゆえ、わたしは怒って誓った。
「確かに彼らは、わたしの安息に、入れない」と。
(新改訳)



私は長い間新改訳聖書だけで読んでおりました。で、新改訳だけで「読み流して」いたので「彼らはわたしの道を知ろうとしなかった」というニュアンスを読み取ることができずにおりました。新共同訳と新改訳を読み比べてみると、言わんとしていることは間違いなく一緒なのですが、「道」を「知ろうとしないから」知らないという、人間の意志によって行うか行わないかという問題の存在については新共同訳の方がわかりやすいかな、と思います。

「彼らはわたしの道を知ろうとしなかった」という御言葉を読んで思い出したのは、詩編37編23節の御言葉です。
これもまずは新共同訳聖書から引用してみます。

主は人の一歩一歩を定め
御旨にかなう道を備えてくださる。
(新共同訳)
次に同じ箇所を新改訳から引用します。

人の歩みは主によって確かにされる。
主はその人の道を喜ばれる。
(新改訳)
一歩一歩を定めるのも確かにされるのもニュアンスとしては同じ感じもしますし、道を備えてくださるのも道を喜ばれるのもざっくり言えば同じ方の同じ行為と言えなくはないのですが、「彼らはわたしの道を知ろうとしなかった」とおっしゃる神さまに「いかにしたら彼らは(私たちは)道を知ることができたのですか?」と尋ねた場合、新共同訳の詩編37編が回答となっているような気がするのですね。神さまこそが道を備えてくださるお方、しかも神さまは42.195キロの道を作られて「はいどうぞ」と与えるお方ではなく「一歩一歩」私たちの歩むべきことを定めるとおっしゃってくださる。
神さまは私の前を行ってくださり私たちは神さまの後にいるのですから、当然神さまの定められたように歩むしかないのであります。「歩むしかない」というと、非常に消極的かつイヤイヤな感じに聞こえるかもしれませんが、そうではなくて、「限定される」という意味での「しか」です。
とすればその一歩一歩は、つまり毎日毎日の一瞬一瞬、次々と突き当たる良いことも悪いこともすべての物事は神さまの与えてくださった私たちの歩むべき一歩であると理解出来ます。
だとすれば、自分の前に神さまを置く人に起こる出来事はどんなことであれ、あやしんだりおそれたりする必要はないのです。この一歩こそが御旨、神さまが私にそしてあなたに与えてくださった一歩であり、その先は私たちにとっての最良なもの、安息であり、憩いの地であるからです。

上で私は、

「導く雲は先を行き、羊飼いも羊の前を行くのです。
わたしは在るという方が私たちの前にあり、
私たちが迷わぬように導き、私たちを守ってくださる。」
と書きましたが、

イエスさまがヨハネによる福音書14章6節で「わたしが道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(新共同訳)」と語られたことを思うと、わたしは在るという方は単純に私たちの前を行ってくださるわけではないような気がします。
私たちが自分の前に神さまを置くとき、私たちの意識としては先を行く導く雲であり羊飼いであるかもしれませんが、一歩一歩私たちは先を行かれる主に負われさらには主を踏んで、その結果至ることのできる場所に至る、そんな気がします。
困難に直面した時、私たちはたった一人先頭に立って困難にぶつかっていくのではないのです。神さまを信じる者=神さまを自分の前に置く者 は前を行かれる主が私たちを背負い主ご自身が私たちをかばって真っ先にぶつかり、ご自身の犠牲をもって私たちを次に行かせてくださる・・・私たちの日々は、一歩一歩とは、御旨にかなう道とは、安息に至る道とは、そういうものなのだと思います。




 


申命記を読んでいて、神さまご自身が私たちの前に置かれたものがあることに気付きました。
わたしがあなたの前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてあなたに臨み、あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こし、あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。
申命記30章1~3節(新共同訳)
見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。もしあなたが心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕えるならば、わたしは今日、あなたたちに宣言する。あなたたちは必ず滅びる。ヨルダン川を渡り、入って行って得る土地で、長く生きることはない。わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたの命であり、あなたは長く生きて、主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地に住むことができる。
申命記30章16~20節(新共同訳)


神さまは私たちの前に、自由に選んで取ることのできる二つの選択肢を置いてくださったのです。

「わたしがあなたの前に置いた祝福と呪い」
「見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。」
「生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。」


それを踏まえるならば、もしかすると
ダビデの語った「自分の前に神を置く」という表現は、
神さまが置かれた二つのものから、呪いを排除して「祝福、命、幸い」を選び取ったということなのでしょうか。
 

結局、聖書における「祝福」とは新約旧約どの場面においても、
人が罪を犯す前のエデンの園、エデンの園にいたころの日々であり
呪いとは、そこから追放されたことによってもたらされたもの。
で、神さまがくださったチャンスをしっかりものにして!?神さまとの交わりを回復すること=エデンの園の頃のような祝福
ということなのでしょう。

御子の十字架によって完全な交わりの回復がもたらされた今、
命の木の実をいただくことができるまでに!
 
 

【調べ学習】耕す者 悪しき者

「耕す者はわたしの背を耕し畝を長く作った。」(3節 新共同訳)

聖書協会共同訳で同じ箇所を読みましたところ

「悪しき者らは私の背に鋤を当て長い畝を作った。」(3節 聖書協会共同訳)

と書かれていました。

以前からこの箇所は比喩のように読んで理解していたつもりでしたが、
耕す者が悪しき者と訳されるのならばもう一つの耕すという言葉はどうなってしまうのか、という素朴な疑問もあったので、
いつものようにBIBLE HUBで3節について調べてみることにしました。

まずは「背」。
これはgab·bîという言葉で גַבּ gab がもとになっているようでした。
https://biblehub.com/hebrew/1354.htm
で、この単語には背という意味はあるのですが、新共同訳聖書の翻訳で言うところの
ヨブ記13章の(土くれの盾にすぎない)弁護という部分がこの語であり、同じくヨブ記15章の厚い盾という部分がこの語。そしてエゼキエル書16章の祭儀台という言葉がこの語なのだとかいてありました。
そしてStrong's Exhaustive Concordanceによるとgabというのはthe top or rim, a boss, a vaultだということなので、
背も形状としてのイメージがそうなのかもしれません。


次は「畝」。
https://biblehub.com/hebrew/4618.htm
 מַעֲנָה maanahとあり
サムエル上14:14 と詩編129:3に登場する単語なのだそうです。
で、maanahという語はanahが起源だと書いてあったのでanahのページを見ると
https://biblehub.com/hebrew/6030b.htm

意味としてto be occupied busiedと書いてありました。
何だかとても忙しそうな言葉でありますが、
とにかく何か一定の範囲をいっぱいにしてしまって他のものが入らないような状況が頭の中にイメージされました。
たしかに、日本語で考えると畝というのは作物を植えるために盛り上げた土のことですから畑一面につくるわけで、maanahという語がanahが起源だというのは理解できます。
で、NASBはanahにafflicted (1), keeps him occupied (1), occupy (1)という語を訳語として当てているということでした。


そして鋤。
charashだそうです。意味はto cut in, engrave, plow, devise
https://biblehub.com/hebrew/2790.htm
129編の3節全体を眺めるとcharashの形の変わったものが2度登場していてその一方が耕す者と訳されている。
ヘブライ語と英語を並記しているものを参考にすると
https://biblehub.com/interlinear/psalms/129-3.htm
(鋤で)耕作する者が私の背中を耕して長い畝を作る、ということで、新共同訳の訳と同じように読めます。
聖書協会共同訳はギリシャ語の底本から翻訳して「悪しき者ら」としたと言っていますが、それはヘブライ語をあたっただけではわからないということなのですね。
しかしそれにしてもギリシャ語の底本は鋤で耕す人を悪しき者としているのだとすると、charashという鋤にあたる言葉自体にも本当は何か良くないイメージがあるのかもしれません。
鋤は鍬と違って、地面に刃を刺して土を向こうに押しだすようにして使う道具ですから、耕作すると言っても鍬とは違って向こうに向けて刺すというのがよろしくないイメージなのかなぁ。


以上のことをまとめると
「耕す者」はわたしの「背gab」を「耕しcharash」「畝を長くanah」作った
→悪い者たちがイスラエルの「背gab」を「耕しcharash」「長い畝anah」を作った
→悪い者たちがイスラエルの「アーチ型の突起部gab」を「鋤で突き刺すようにしてcharash」「占領したanah」
→悪い者たちがイスラエルの「丘gab」の「住民を襲って追い出しcharash」「占領したanah」
悪い者たちがイスラエルの丘の住民を襲って追い出し占領した???

6節のことを踏まえるとこの悪い者たちとはアッシリアのことでしょうか。
「抜かれる前に枯れる屋根の草のようになれ。」(6節 新共同訳)
6節のこのみことば、
「屋根の草」と言えばイザヤ書37章27節そして列王記下19章26節です。
「穂をつける前にしなびる屋根に生える草のようになった。」(新共同訳)
「育つ前に干からびる屋根の草のようになった。」(新改訳)
Psalm 129:6
as the grass(ka-ḥă-ṣîr)[on] the housetops(gag-gō-wṯ;)

Isaiah 37:27
the grass(ḥă-ṣîr) on the housetops(gag-gō-wṯ,)


「屋根の草」・・・
なんとなくこの「屋根」は、形状からするともしかしたら「背」と同じヘブライ語gabなのでは ?と思って調べたら
gag·gō·wṯ

違いました(笑)gabではなくてgagでした。




129編
1節 šîr,  ham-ma-‘ă-lō-wṯ  rab-baṯ  ṣə-rā-rū-nî  min-nə-‘ū-ray;  yō-mar-  nā  yiś-rā-’êl. 
2節 rab-baṯ  ṣə-rā-rū-nî  min-nə-‘ū-rāy;  gam  lō-  yā-ḵə-lū  lî.
3節 ‘al-  gab-bî  ḥā-rə-šū  ḥō-rə-šîm;  he-’ĕ-rî-ḵū,  [lə-ma-‘ă-nō-w-ṯāmḵ]   (lə-ma-‘ă-nî-ṯām.q)
4節 Yah-weh  ṣad-dîq;  qiṣ-ṣêṣ,  ‘ă-ḇō-wṯ  rə-šā-‘îm.
5節 yê-ḇō-šū  wə-yis-sō-ḡū  ’ā-ḥō-wr;  kōl,  śō-nə-’ê  ṣî-yō-wn.
6節 yih-yū  ka-ḥă-ṣîr  gag-gō-wṯ;  šeq-qaḏ-maṯ  šā-lap̄  yā-ḇêš. 
7節 šel-lō  mil-lê  ḵap-pōw  qō-w-ṣêr,  wə-ḥiṣ-nōw  mə-‘am-mêr.
8節 wə-lō  ’ā-mə-rū  hā-‘ō-ḇə-rîm,  bir-kaṯ-  Yah-weh  ’ă-lê-ḵem;  bê-raḵ-nū  ’eṯ-ḵem,  bə-šêm  Yah-weh.



gab gagということに気付いたので transliterationを書き写してみましたが
音として眺めると韻を踏んでいるとかそういう技巧的なこともあるのでしょうか。
音を楽しみながら、イスラエルならばだれもが記憶にあることを語り賛美する
そういう作品なのでしょうか。

しかしいずれにしても「背中を耕されたらいたいよね~苦しいよね~」ということではないような気がしました。(ざっくりとそう思っていたので)

2019年6月30日日曜日

「神の栄光をあらわす」ということについて考えた

コリント人への第一の手紙にこんな箇所があります。

6章20節
 あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。
10章31節
 だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。
(それぞれ口語訳より引用)

先日朝、聖書を読んでいるときに、その箇所との関連は全くなかったのですが、突然これらのみことばが思い起こされました。
・・・そういえば最近新約聖書を読んでないなあ、と思いながらこの箇所を開いてじーっと眺めたら何とも言えぬ「違和感」を感じ、
「神の栄光をあらわすだの神の栄光のためになにかをするとか、人間の分際でおこがましいんではないかい?」(;´Д`A ```とかつぶやいてしまいました。

おそらく、
ここのところ旧約ばかり読んでいたということが違和感を感じた原因だと思います。

なぜなら、旧約の中に表現されている「主の栄光」とは人間の意志とは全く関係ないものだからです。
旧約の中で「主の栄光」とは「現れる」ものであって「人があらわす」ものではないですから。

例えば
出エジプト記16:10
それでアロンがイスラエルの人々の全会衆に語ったとき、彼らが荒野の方を望むと、見よ、主の栄光が雲のうちに現れていた。

出エジプト記24:16
主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日のあいだ、山をおおっていたが、

レビ記9:5、6
彼らはモーセが命じたものを会見の幕屋の前に携えてきた。会衆がみな近づいて主の前に立ったので、モーセは言った、「これは主があなたがたに、せよと命じられたことである。こうして主の栄光はあなたがたに現れるであろう」。

民数記14:10
ところが会衆はみな石で彼らを撃ち殺そうとした。
そのとき、主の栄光が、会見の幕屋からイスラエルのすべての人に現れた。


旧約聖書ばかり繰り返し読んでいると、「主の栄光」という表現を見たときに、主が太陽にまさる光を放ってご臨在されているさまが思い浮かぶのです。

ただ、詩編96編を読むとパウロの言わんとしていることが分からなくはない気がしてきます。
(以下引用は口語訳聖書詩篇96篇)
新しい歌を主にむかってうたえ。
全地よ、主にむかってうたえ。
主にむかって歌い、そのみ名をほめよ。
日ごとにその救を宣べ伝えよ。
もろもろの国の中にその栄光をあらわし、
もろもろの民の中にそのくすしきみわざをあらわせ。
主は大いなる神であって、いともほめたたうべきもの、
もろもろの神にまさって恐るべき者である。
もろもろの民のすべての神はむなしい。
しかし主はもろもろの天を造られた。
誉と、威厳とはそのみ前にあり、
力と、うるわしさとはその聖所にある。
もろもろの民のやからよ、主に帰せよ、
栄光と力とを主に帰せよ。
そのみ名にふさわしい栄光を主に帰せよ。
供え物を携えてその大庭にきたれ。
聖なる装いをして主を拝め、
全地よ、そのみ前におののけ。
もろもろの国民の中に言え、
「主は王となられた。
世界は堅く立って、動かされることはない。
主は公平をもってもろもろの民をさばかれる」と。
天は喜び、地は楽しみ、
海とその中に満ちるものとは鳴りどよめき、
田畑とその中のすべての物は大いに喜べ。
そのとき、林のもろもろの木も
主のみ前に喜び歌うであろう。
主は来られる、地をさばくために来られる。
主は義をもって世界をさばき、
まことをもってもろもろの民をさばかれる。


さらに、コリント人への第一の手紙6章20節
 あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。

というみことばをじーっと眺めていたら、イザヤ書44章22~23節の言葉が思い出されました。

わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、
あなたの罪を霧のように消した。
わたしに立ち返れ、
わたしはあなたをあがなったから。
天よ、歌え、主がこの事をなされたから。
地の深き所よ、呼ばわれ。
もろもろの山よ、林およびその中のもろもろの木よ、
声を放って歌え。
主はヤコブをあがない、
イスラエルのうちに栄光をあらわされたから。


そして、イザヤ書44章のみことばを読んでいたら、
新共同訳詩編102編19節のみことばが思い出されました。

後の世代のために
このことは書き記されねばならない。
「主を賛美するために民は創造された。」

 

2019年4月16日火曜日

【調べ学習】杖について聖書辞典と本で調べてみた

今日も朝から杖について考えておりました。
で、そろそろ辞典を見てもいいかな、ということで
いのちのことば社から1985年に発行された新聖書辞典で調べてみました。


辞典にはまず、杖には四つのヘブライ語(辞典本文ではヘブル語となっている)があると書いてあります。

マッケール、マッテ、ミシュエネス、シェーベトゥで4つともほぼ同じ意味だそうです。

ギリシャ語で杖はラブドスと言うのだそうです。

で、ちょっと驚いたのは、杖はときとして鞭と同義だと書いてあったこと。
でそれについては詩篇23:4が示されていました。

前回疑問だったレビ記の27章とエゼキエル書の20章のところの杖の下をくぐるとか杖の下を通らせるという表現についても辞典には言及があり、
羊の数を数えるということのようでした。そこから、神の選民を数えるときにも象徴的に使われ、
あとは、黙示録21章15,16節の、新改訳聖書では「さお」と訳され、新共同訳聖書では「ものさし」と訳されているものが元の言葉としては「杖」??

辞典にそう書いてあったのでBIBLE HUBでギリシャ語を検索したのですが…
黙示録21章15,16節のところ「さお」「ものさし」はκάλαμον、καλάμῳと書いてあり、https://biblehub.com/greek/2563.htm
見渡しても杖という意味のῥάβδος rhabdos(ラブドス)がない。

Revelation 21:15
https://biblehub.com/texts/revelation/21-15.htm
Καὶ ὁ λαλῶν μετ’ ἐμοῦ εἶχεν μέτρον κάλαμον χρυσοῦν, ἵνα μετρήσῃ τὴν πόλιν καὶ τοὺς πυλῶνας αὐτῆς καὶ τὸ τεῖχος αὐτῆς.
Revelation 21:16
https://biblehub.com/texts/revelation/21-16.htm
καὶ ἡ πόλις τετράγωνος κεῖται, καὶ τὸ μῆκος αὐτῆς ὅσον τὸ πλάτος. καὶ ἐμέτρησεν τὴν πόλιν τῷ καλάμῳ ἐπὶ σταδίους δώδεκα χιλιάδων· τὸ μῆκος καὶ τὸ πλάτος καὶ τὸ ὕψος αὐτῆς ἴσα ἐστίν.


κάλαμον、καλάμῳは
NASB の翻訳では
measuring rod , pen , reed , rod と訳されており、 reedとは、葦のことですよね・・・。杖と言うよりも棒・・・。

で、聖書協会の検索で杖という語を検索してみたところ
黙示録21章ではなく、
黙示録11章1節のこのみことばが辞典の言うところの杖がものさしとしているされている箇所ではないかと思いました。

それから、わたしは杖のような物差しを与えられて、こう告げられた。「立って神の神殿と祭壇とを測り、また、そこで礼拝している者たちを数えよ。 

この11章1節のみことばのギリシャ語をBIBLE HUBで調べたところ、


Καὶ ἐδόθη μοι κάλαμος ὅμοιος ῥάβδῳ, λέγων· Ἔγειρε καὶ μέτρησον τὸν ναὸν τοῦ θεοῦ καὶ τὸ θυσιαστήριον καὶ τοὺς προσκυνοῦντας ἐν αὐτῷ.
と書いてありました。
https://biblehub.com/texts/revelation/11-1.htm




辞典では、
杖の用途として
人が歩くとき、羊を保護するとき、
武器として、
羊を数えるとき、子どもを懲らしめたり奴隷に対してつかわれていたとし、

また、神の怒りを表したり、権威の象徴として、杖という言葉が用いられていると書かれていました。


あと、今日は1979年に発行された
「羊飼いが見た詩篇23篇」
W・フィリップ・ケラー 著/ 舟喜順一 訳
という本の110ページから123ページ、「あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです」という項を読んでみました。
ものすごく深い話で感動し、そして驚きました。


「杖の下を通る」ということは上で書きましたように羊を数えることには違いないようなのですが、この本の著者W・フィリップ・ケラー氏によると、
杖の下を通るということで、まずは「所有者の支配と権威の下に入る」という意味があるらしいのですね。で、それは具体的には「所有者である彼の注意深い、細かい、直接の検査を受けるということ」「念入りな注意をもって、健康を確かめるために調べられた」ということのようなのですね。
羊は毛が長いために病気や傷を探し出すのが大変らしいのですが、良い羊飼いは羊が囲いを出て門を通るときに、一頭一頭「棒」で止め、「棒」で毛をあけ注意深く調べるのだそうです。
また、羊飼いにとって「杖」とは
羊を引き寄せて親しい関係に入れるための道具として
羊を打つのではなくやさしく脇腹にさわり、親しく触れ合いながら導いていくための道具として
羊が緑の草をむさぼって海に落ちてしまったときや、同じような理由で野ばらやいばらの中で毛がからまって動けなくなってしまったときに救い出す道具として
使うものなのだそうです。


本には、私たちにとっての「杖」が何であるのか、
そこまでの言及もあり


深い深い神さまの愛をあらためて知ることができました。


2019年4月15日月曜日

【調べ学習】詩編2編の鉄の杖

詩編2編9節
お前は鉄の杖で彼らを打ち 陶工が器を砕くように砕く。」


詩編2編9節鉄の杖の「杖」という語はבְּשֵׁ֣בֶטでbə·šê·ḇeṭ
https://biblehub.com/hebrew/beshevet_7626.htm
詩編2編9節のほか
Judges 5:14
2 Samuel 7:14
Isaiah 11:4
Lamentations 3:1
で使われています。

そのほかの「杖」という単語でBIBLE HUBを見ていて気になったものをピックアップします。日本語の聖書は口語訳です。

Psalm 110:2 maṭ·ṭeh
https://biblehub.com/hebrew/matteh_4294.htm
HEB: מַטֵּֽה־ עֻזְּךָ֗ יִשְׁלַ֣ח
主はあなたの力あるつえをシオンから出される。
あなたはもろもろの敵のなかで治めよ。

Psalm 23:4 šiḇ·ṭə·ḵā
https://biblehub.com/hebrew/shivtecha_7626.htm
HEB: אַתָּ֥ה עִמָּדִ֑י שִׁבְטְךָ֥ וּ֝מִשְׁעַנְתֶּ֗ךָ הֵ֣מָּה
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、
わざわいを恐れません。
あなたがわたしと共におられるからです。
あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。

Psalm 89:32 ḇə·šê·ḇeṭ
https://biblehub.com/hebrew/veshevet_7626.htm
HEB: וּפָקַדְתִּ֣י בְשֵׁ֣בֶט פִּשְׁעָ֑ם וּבִנְגָעִ֥ים
わたしはつえをもって彼らのとがを罰し、
むちをもって彼らの不義を罰する。

Micah 5:1 baš·šê·ḇeṭ
https://biblehub.com/hebrew/bashshevet_7626.htm
HEB: שָׂ֣ם עָלֵ֑ינוּ בַּשֵּׁ֙בֶט֙ יַכּ֣וּ עַֽל־
今あなたは壁でとりまかれている。
敵はわれわれを攻め囲み、
つえをもってイスラエルのつかさのほおを撃つ。

Micah 7:14 ḇə·šiḇ·ṭe·ḵā
https://biblehub.com/hebrew/veshivtecha_7626.htm
HEB: רְעֵ֧ה עַמְּךָ֣ בְשִׁבְטֶ֗ךָ צֹ֚אן נַֽחֲלָתֶ֔ךָ
どうか、あなたのつえをもってあなたの民、
すなわち園の中の林にひとりおる
あなたの嗣業の羊を牧し、
いにしえの日のようにバシャンとギレアデで、
彼らを養ってください。



杖という言葉を調べていてレビ記の27章とエゼキエル書の20章のところで
杖の下をくぐるとか杖の下を通らせるという表現に出会いました。
Leviticus 27:32 haš·šā·ḇeṭ
HEB: יַעֲבֹ֖ר תַּ֣חַת הַשָּׁ֑בֶט הָֽעֲשִׂירִ֕י יִֽהְיֶה־
牛または羊の十分の一については、すべて牧者のつえの下を十番目に通るものは、主に聖なる物である。
Ezekiel 20:37 haš·šā·ḇeṭ
HEB: אֶתְכֶ֖ם תַּ֣חַת הַשָּׁ֑בֶט וְהֵבֵאתִ֥י אֶתְכֶ֖ם
わたしはあなたがたに、むちの下を通らせ、数えてはいらせ、あなたがたのうちから、従わぬ者と、わたしにそむいた者とを分かち、その寄留した地から、彼らを導き出す。しかし彼らはイスラエルの地に入ることはできない。こうしてあなたがたはわたしが主であることを知るようになる。
https://biblehub.com/hebrew/hashshavet_7626.htm
杖の下をくぐるとか杖の下を通らせるとは、これまで全く意識したことがありませんでしたが「分ける」という意味なのでしょうか、羊は右で山羊は左というような感じの・・・?


そのほか、日本聖書協会の検索を利用し杖という語を検索した結果
ちょっと気になった箇所

イザヤ書14章5節
主は、逆らう者の杖と 支配者の鞭を折られた。

イザヤ書36章6節
今お前はエジプトというあの折れかけの葦の杖を頼みにしているが、それはだれでも寄りかかる者の手を刺し貫くだけだ。エジプトの王ファラオは、自分を頼みとするすべての者にとってそのようになる。

イザヤ書10章24節
それゆえ、万軍の主なる神はこう言われる。「シオンに住むわが民よ、アッシリアを恐れるな。たとえ、エジプトがしたように 彼らがあなたを鞭で打ち、杖を振り上げても。

 
イザヤ書9章3節
彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を あなたはミディアンの日のように 折ってくださった。 


エレミヤ書48章17節
周囲の民よ、皆モアブのために嘆くがよい。その名を知っている者はすべて 「威力の笏、栄光の杖は折られた」と言え。

哀歌3章1節
わたしは 主の怒りの杖に打たれて苦しみを知った者。

エゼキエル書21章15節
殺戮のためにそれは研がれ 稲妻のように磨かれた。我らは喜びうるか わが子の王笏が 他のすべての杖を侮るのを。

エゼキエル書21章18節
それは試みを経たものである。もし、それが侮る杖でないとしたら、一体何であろう、と主なる神は言われる。

出エジプト記4章20節
モーセは、妻子をろばに乗せ、手には神の杖を携えて、エジプトの国を指して帰って行った。
民数記17章17節
イスラエルの人々にこう告げなさい。彼らのうちから、父祖の家ごとに杖を一本ずつ取りなさい。すなわち、彼らの父祖の家の指導者すべてから十二本の杖を取り、その杖におのおのの名前を書き記し、


杖は

モーセの杖、アロンの杖であらわされた主のみわざを想起させるものであったり、
王のように権力のある者の力を思い起こさせるものであったり、
杖の下をくぐるという表現で見たような選別するようなニュアンスがあったり、
主の怒りを表す杖であったり、

これまで私は詩篇23篇のこの箇所などを
「私は羊だから」程度の気分でさらっと読み流していましたが

たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、
わざわいを恐れません。
あなたがわたしと共におられるからです。
あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。(口語訳)

 いろいろなみことばにおける杖という言葉を眺め渡した場合に、
あなたのむちと、あなたのつえがどうしてわたしを慰めることになるのか
ということについて
単に「私は羊だから」ではないもっと深い部分があるのだ、と思うに至りました。

で、そういうこと全部を合わせてみて、
その上で「鉄の杖」と考えたとき、

材質が木ではなく、鉄であるということによって
「ただ事ではない事態」「とんでもないおそろしさと強さ」を
調べる前よりも感じております。

2019年4月9日火曜日

【調べ学習】白い馬に乗っている者の冠(黙示録6章と黙示録19章)

小羊がその七つの封印の一つを解いた時、わたしが見ていると、四つの生き物の一つが、雷のような声で「きたれ」と呼ぶのを聞いた。そして見ていると、見よ、白い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、弓を手に持っており、また冠を与えられて、勝利の上にもなお勝利を得ようとして出かけた。
ヨハネの黙示録6章1~2節(口語訳)


日本の個人や教会のいろいろなサイトを見ていたら黙示録6章に出て来る白い馬に乗っている者について、本物のキリストだと言っている方と偽キリストだと言っている方がおられ、
特に何も考えることもなく読み過ごしていた「教会にも行かず年数だけ長い信者」の私は驚いてしまいました。
で、ヨハネの黙示録の19章に登場する白い馬に乗っている者が本物のキリストである、という点では共通していて、
論点は騎手の「冠」という言葉のギリシャ語と
あとは持ち物。
6章の人は鉄の杖ではなく弓を持っているのでニセモノだという話と、
あと真偽はともかく弓はあるのに矢はどこだ?と言っている方がいらっしゃったので
なんだかとても興味をひかれました。
なので、6章と19章の冠と6章の弓、または矢、鉄の杖について
自分でも調べてみることにしました。



まずはBIBLE HUBで調べてみました。
黙示録6章2節の冠についてはギリシャ語でστέφανος
https://biblehub.com/greek/4735.htm
stephanosというらしいのですが
(ステパノさんの名前に似てる)

BIBLE HUBで見られるEnglishman's Concordanceによれば
この言葉と派生語は
箇所と回数について引用させていただきますとこのように書かれていました。

*この項の口語訳聖書はhttp://bible.salterrae.net/ さまからコピペさせていただきました。

Matthew 27:29
27:29また、いばらで冠を編んでその頭にかぶらせ、右の手には葦の棒を持たせ、それからその前にひざまずき、嘲弄して、「ユダヤ人の王、ばんざい」と言った。

Mark 15:17
15:17そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、

John 19:2
19:2兵卒たちは、いばらで冠をあんで、イエスの頭にかぶらせ、紫の上着を着せ、

John 19:5
19:5イエスはいばらの冠をかぶり、紫の上着を着たままで外へ出られると、ピラトは彼らに言った、「見よ、この人だ」。

1 Corinthians 9:25
9:25しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。

Philippians 4:1
4:1だから、わたしの愛し慕っている兄弟たちよ。わたしの喜びであり冠である愛する者たちよ。このように、主にあって堅く立ちなさい。

1 Thessalonians 2:19
2:19実際、わたしたちの主イエスの来臨にあたって、わたしたちの望みと喜びと誇の冠となるべき者は、あなたがたを外にして、だれがあるだろうか。

2 Timothy 4:8
4:8今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。

James 1:12
1:12試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。

1 Peter 5:4
5:4そうすれば、大牧者が現れる時には、しぼむことのない栄光の冠を受けるであろう。

Revelation 2:10
2:10あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。

Revelation 3:11
3:11わたしは、すぐに来る。あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。

Revelation 4:4
4:4また、御座のまわりには二十四の座があって、二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていた。

Revelation 4:10
4:10二十四人の長老は、御座にいますかたのみまえにひれ伏し、世々限りなく生きておられるかたを拝み、彼らの冠を御座のまえに、投げ出して言った、

Revelation 6:2
6:2そして見ていると、見よ、白い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、弓を手に持っており、また冠を与えられて、勝利の上にもなお勝利を得ようとして出かけた。

Revelation 9:7
9:7これらのいなごは、出陣の用意のととのえられた馬によく似ており、その頭には金の冠のようなものをつけ、その顔は人間の顔のようであり、

Revelation 12:1
12:1また、大いなるしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、足の下に月を踏み、その頭に十二の星の冠をかぶっていた。

Revelation 14:14
14:14また見ていると、見よ、白い雲があって、その雲の上に人の子のような者が座しており、頭には金の冠をいただき、手には鋭いかまを持っていた。

Strong's Greek 4735
18 Occurrences

στέφανοι — 1 Occ.
στέφανον — 10 Occ.
στέφανός — 5 Occ.
στεφάνους — 2 Occ.



続きまして、黙示録19章11~16節を口語訳聖書から引用します。

またわたしが見ていると、天が開かれ、見よ、そこに白い馬がいた。それに乗っているかたは、「忠実で真実な者」と呼ばれ、義によってさばき、また、戦うかたである。その目は燃える炎であり、その頭には多くの冠があった。また、彼以外にはだれも知らない名がその身にしるされていた。彼は血染めの衣をまとい、その名は「神の言」と呼ばれた。 そして、天の軍勢が、純白で、汚れのない麻布の衣を着て、白い馬に乗り、彼に従った。 その口からは、諸国民を打つために、鋭いつるぎが出ていた。彼は、鉄のつえをもって諸国民を治め、また、全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏む。その着物にも、そのももにも、「王の王、主の主」という名がしるされていた。
ヨハネの黙示録19章11~16節


そして今度は19章2節の冠についてBIBLE HUBで調べるとギリシャ語でδιαδήματα
https://biblehub.com/greek/1238.htm
diadémaというのだそうです。

BIBLE HUBで見られるEnglishman's Concordanceによれば
この言葉についてこのように書かれていました。

Revelation 12:3 
12:3また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、大きな、赤い龍がいた。それに七つの頭と十の角とがあり、その頭に七つの冠をかぶっていた。

Revelation 13:1 
13:1わたしはまた、一匹の獣が海から上って来るのを見た。それには角が十本、頭が七つあり、それらの角には十の冠があって、頭には神を汚す名がついていた。

Revelation 19:12 
19:12その目は燃える炎であり、その頭には多くの冠があった。また、彼以外にはだれも知らない名がその身にしるされていた。

Strong's Greek 1238
3 Occurrences

διαδήματα — 3 Occ.

 
 




調べながらこんな顔になってしまったワタクシ→( ̄▽ ̄;)
どちらの言葉も良い意味にも悪い意味にも使われている気がしたからです。
stephanosという言葉で表現されている冠が、ネットのあちこちで言われているほど悪い意味にも感じられないし
diadémaという言葉で表現されている冠も、龍と獣のせいで言われているほど良い感じもしない(笑)


というわけで、次は弓です。
6章2節の弓はギリシャ語でτόξον
https://biblehub.com/greek/5115.htm
toxonというのだそうです。
BIBLE HUBで見られるEnglishman's Concordanceによれば
この言葉は新約聖書中では「ここだけに使われている」言葉だそうです。

なんてことだ!っていう感じ。

でも思いつきました。

旧約聖書の中で弓という言葉が出て来るところはないのだろうかと。
τόξονという語はなくても、「弓」ならばあるのでは…と思ったわけです。

今度は日本聖書協会の聖書本文検索http://www.bible.or.jp/read/vers_search.html

新共同訳で検索してみました。

すると弓という言葉はたくさんあり
創世記だけでも
創世記21章20節、創世記27章3節、創世記48章22節、創世記49章23節、創世記49章24節
ということで5カ所。
多すぎてすべて引用できませんので、
気になった箇所を引用させていただきます。

ハバクク書3章9節
あなたは弓の覆いを取り払い 言葉の矢で誓いを果たされる。〔セラ
あなたは奔流を起こして地をえぐられる。 (新共同訳)


このハバクク書3章が特に興味深かった点は、「言葉の矢」ということば。
黙示録6章のところの白い馬に乗っている者は矢を持っていないという話がありましたが、矢が言葉なのであればいわゆる矢は持っていなくて当然ということになりますから。
ただし、ここが矢という言葉であると認識したのは新共同訳を読むようになってからで、新改訳を読んでいるときには矢と訳されてはいなかったし、それどころか「ことばの杖の誓い」と訳されていたのでそもそも???という感じでした。言葉の矢という表現が適切なのかそうでないのか語学に疎い素人としては少々気になります。
ただ、BIBLE HUBで調べるとここはמַטּ֖וֹת
https://biblehub.com/hebrew/mattot_4294.htm
で、maṭ·ṭō·wṯというのはエゼキエル書19章11節でも使われていて、そこでは新共同訳聖書は「杖となる強い枝」と言うように訳されています。で、そのほかの箇所で使われているmaṭ·ṭō·wṯの英語訳として「tribes」があてられているところを見ると、生物分類的な発想で行くと要するに枝分かれしたみたいな感じなのかしら、という気がしたので、
ことばの杖(の誓い)も言葉の矢も、ことばが木の枝のような棒になっているということのような気がしますから、弓につがえるものという観点で分類すれば矢と言っちゃって良いのかもしれないですよね。

とりあえず矢について日本語の聖書検索してみました。
「言葉の矢」のような、矢としての形がなくてもOKな矢があるかしら、ということで。
その前に、一応、そもそも神さまは弓矢を使うのか(笑)という観点で「弓」を検索した時にチェックして見ておりましたが
けっこうな頻度で弓矢をお用いになられていることが分かりました。
例えばこんな感じで。

ゼカリヤ書9章14節
主は彼らの前に現れ その矢は稲光のように飛ぶ。主なる神は角笛を響き渡らせ 南からの暴風と共に進まれる。 (新共同訳)


以下引用した日本語の聖句は新共同訳聖書から

さて、それでは矢ではない矢について上のハバクク書以外で書かれている箇所です。
詩編64編4節
彼らは舌を鋭い剣とし 毒を含む言葉を矢としてつがえ
詩編127編4節
若くて生んだ子らは、勇士の手の中の矢。
イザヤ書49章2節
わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して
エレミヤ書9章7節
彼らの舌は人を殺す矢 その口は欺いて語る。隣人に平和を約束していても その心の中では、陥れようとたくらんでいる。
エゼキエル書5章16節
わたしは滅びに定められた者に対して悲惨な飢えの矢を放つ。お前たちを滅ぼすためにそれを放つとき、わたしは飢えをますますひどくし、パンをつるして蓄える棒を折る。


さて、次に「鉄の杖」という言葉を探すことにしました。
これについても日本聖書協会の聖書本文検索を利用し、新共同訳聖書の旧新約全体で鉄の杖という語はどこに出て来るのかということを調べました。
http://www.bible.or.jp/read/vers_search.html

ヨハネの黙示録では以下の三カ所で鉄の杖という表現が使われていますが、これも弓と同じで黙示録以外の新約聖書にはない表現です。

ヨハネの黙示録2章27節
彼は鉄の杖をもって彼らを治める、 土の器を打ち砕くように。
ヨハネの黙示録12章5節
女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた。
ヨハネの黙示録19章15節
この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める。この方はぶどう酒の搾り桶を踏むが、これには全能者である神の激しい怒りが込められている。 


なので、旧約聖書ではどうなっているのか調べたところ、イエスさまに関する預言として詩編のところにありました。

詩編2編9節
お前は鉄の杖で彼らを打ち 陶工が器を砕くように砕く。」




最後に、「口、剣」というキーワードで日本聖書協会の聖書本文検索をしてみました。
これは、ヨハネの黙示録19章の白い馬に乗っている者の口にはするどい剣が出ていると書かれているからです。

ヨハネの黙示録19章15節
この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める。この方はぶどう酒の搾り桶を踏むが、これには全能者である神の激しい怒りが込められている。
ヨハネの黙示録19章21節
残りの者どもは、馬に乗っている方の口から出ている剣で殺され、すべての鳥は、彼らの肉を飽きるほど食べた。



検索した結果はこんな感じになりました。

イザヤ書49章2節
わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して

ヨハネの黙示録1章16節
右の手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

ヨハネの黙示録2章16節
だから、悔い改めよ。さもなければ、すぐにあなたのところへ行って、わたしの口の剣でその者どもと戦おう。


イザヤ書49章2節は上の「矢」のところでも引用した箇所です。