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【調べ学習】かなかすを「取り除く」

銀から金滓を取り除け。 そうすれば、細工師は器を作ることができる。 箴言25章4節(聖書協会共同訳) 「銀から金滓を取り除け」とは銀にまざっている不純物を取り除け、という意味です。 「取り除け」と翻訳されているヘブライ語は  הָגָה  Strong's  Hebrew 1898 hagah この言葉は聖書の中にわずか3回しか登場しないレア語でした。 うち2回はこの箴言25章で、上に引用した4節と、もう一か所5節です。 王の前から悪しき者を 取り除け 。そうすれば、王座は正義によって確かなものとなる。箴言25章5節(聖書協会共同訳) そして3か所目はイザヤ書27章8節で あなたは彼女を追い立て、追放し、彼女と争った。東風の日に、その激しい風で彼女を 追い払われた 。 追い払われた という箇所が1898番です。 で、「激しい風で彼女を追い払われた」という言葉を見たときに、1898番のヘブライ語の文字構成が「風」で追い払う雰囲気になっていることに気づきました。 הָגָה という単語は ג ギメル「らくだ」という意味を持ち「大きいもの」を表す文字を中央において両側に ה ヘーがあります。 ה はアブラムがアブラハムになった時についた「ハ」であり、 神さまのお名前である神聖四文字のうちの二文字です。 ウィキペディアの「フェニキア文字」の項を見ますと、 ה ヘーは「窓」を表していると書かれています。そのイメージをもってこの文字を見る時、私には文字の左上にある「隙間」から風が入ってくる、そんなイメージがわきます。 ג ギメルという大きなものに風、 ה ヘーを吹き付けて、 ג ギメルの向こうに ה ヘーがもうひとつありますから、風は通り過ぎることができてしまったのか、それとも、おおきな ג ギメルが ה ヘーできよめられたということなのか。 そうそう、きよめるという意味のあるヘブライ語としてこんな言葉があります。ストロングの辞書では2891番です。 טָהֵר タヘル。先頭の文字は ט テットで、 ט テットの向こうに הר ハルがある。 הר ハルは山、「ハルマゲドン」の הר ハルです。 ט テットは壺とか器とかの形からできた文字です。器を山のところに持っていくときよくなる。 そして הר 「山」のむこうに ג 「らくだ」が置かれている単語は、 הרג ...

「完全」という意味を持つ二つのヘブライ語

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完全という意味を持つヘブライ語には二つあって、それがトムとタミムなのですが、 トムという単語に ים がつくとタミムになりますので、 トムという言葉が表す「完全」と タミムという言葉が表す「完全」を比較したら、 ים (イム) の意味が分かるのではないか、と思って比較してみたわけです。 ים という言葉は、一般的には複数形を表す、 つまり、英語でいうところのsとかesにあたる言葉 だとされているのですが、 もしも「いつでもとにかく ים イムを見たら複数と思え」ってことだとしたら、 …「完全」の複数形ってなんでしょう? リンゴが一個、リンゴが二個・・・ せんべいが一枚、せんべいが二枚・・・ 完全が一つ、完全が二つ??? この画像のもとになっている記事はこちら 「完全」という言葉(2)「エロヒム」と「タミム」のイム https://kyudochu.blogspot.com/2024/12/blog-post_10.html 追記: תם トム(タム)をベースにして 「ים」 が付き、 תמים タミム と当然のように書いていますが、 タミムは תמ に ים がついているのでは、と思われた方がおられるかと思います。 מ はメムと読み、普通はこの形の文字なのですが、 単語の最後にこの文字が使われている場合には ם という形になっています。 ヘブライ文字 22文字のうち5文字だけにこのような語末形(ソフィート)があります。 כ カフ 語末にくると  ך מ メム 語末にくると  ם נ ヌン  語末にくると  ן פ ペー 語末に来ると ף צ ツァディ 語末にくると ץ ヘブライ語聖書を読む上でウィキペディアはとても便利な参考書です。

あの日からずっと心にあったみ言葉

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今朝は月桂樹の剪定をしました。ヘクソカズラが絡みついていて大変でした。 3.11以降、 この木(ゲッケイジュ)も他の木同様いろいろありましたが なんとか生きつづけています。 さて、 ムラサキツユクサの花の変異を初めて目にしたとき思い浮かんだのは エゼキエル書33章のみ言葉でした。 このブログではなく あのブログ をずっと公開し続けてきたのは、 エゼキエル書33章4~6節のみ言葉のゆえです。 責任は果たさねば、と。   しかし人がラッパの音を聞いても、みずから警戒せず、ついにつるぎが来て、その人を殺したなら、その血は彼のこうべに帰する。 彼はラッパの音を聞いて、みずから警戒しなかったのであるから、その血は彼自身に帰する。しかしその人が、みずから警戒したなら、その命は救われる。 しかし見守る者が、つるぎの臨むのを見ても、ラッパを吹かず、そのため民が、みずから警戒しないでいるうちに、つるぎが臨み、彼らの中のひとりを失うならば、その人は、自分の罪のために殺されるが、わたしはその血の責任を、見守る者の手に求める。 エゼキエル書33章4~6節(口語訳)   画像は2015年12月10日6時34分の朝焼けを背景にしています。 その朝、空を見上げて、うわ~😖と思い、その時同時に頭の中に浮かんできたエゼキエル書33章4~6節を文字にして、上に貼ったような画像となりました。 全然関係ない話ですが、 自由研究をまだやっていないお友達は今日から二週間、毎日同じ時間の同じ場所から空の写真を撮ってみたらどうでしょう? 大人もね、あまり空なんて見上げない毎日かもしれませんが同じ空は二度とありません。 神さまのつくられた大空 朝も昼も夜も、とってもきれいですよ。

虹と弓

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  この画像のもとになった過去の記事 【調べ学習】弓とヘブライ文字ק(クフ) https://kyudochu.blogspot.com/2022/02/blog-post_3.html

創世記2章6節 私訳

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  これまで学んできたあれやこれやを考えながらインスタ用の画像をつくったことがありました。ただ、インスタはツユクサの変異専用にしたのでこれは没画像です。 既存の聖書の訳には少ない「水蒸気」という訳語をあてたのは、ここに使われているヘブライ語Strong's108番 אֵד が、BIBLE HUBのStrong's Exhaustive Concordanceではミストとか蒸気と定義されていたからです。 108番は、聖書ではもう一か所ヨブ記36章27節にしか登場しないレアな言葉です。で、そのヨブ記36章27節はよく言われるように地球における「水の循環」に関する記述となっているわけです。 彼は水のしたたりを引きあげ、その霧をしたたらせて雨とされる。 ヨブ記36章27節(口語訳) ただ、ここで問題なのは、ヨブ記36章27節の言葉を語った人はどうしてそのような「水の循環」などという高度な科学的な知見を語れたのか、ということです。 地球上で水が循環しているという考え方は16世紀以降の知見です。にもかかわらず、これが当然のこと、みんなが知ってる真理だよねと言わんばかり、断定的に語られているのはなぜなのか、という疑問が生まれます。 で、この疑問には二つの答えが予想できるわけですが、 一つはヨブ記の当時、すでに水の循環に関して断定的に語れるような共通認識があったから、ということで もう一つは、聖書の書かれた時期が嘘だから(-_-;) でも、極力!極力!後者は排除したいと思いますし、いくらなんでもここまで嘘ってことはないだろうと思いますので答えは前者ということで話を進めます。 で、前者であると仮定すると、たぶん、「トーラーにあることだから真理」だとみんな信じていた、ということではないか、と。 ならばそれはトーラーのどこにあったのか考えながらヨブ記36章27節をもう一度読んでみると、創世記2章6節の内容にリンクしている部分のあることに気づきます。 口語訳聖書から二つの文を引用し並べてみます。 しかし地から泉がわき あがって  土の全面を潤し ていた。 創世記2章6節 彼は水のしたたりを引き あげ 、その 霧をしたたらせて 雨 と される。ヨブ記36章27節 細かい表現に違いはありますが、要するに「水が上にあがり、あがったら地表に注がれる」ということであるわけです。 口語...

食べられる「雑草」

毎日恐ろしい暑さですね 何かが異変が起こったり何かに遭遇した時、人はいろいろな反応をするわけですが、それは当然それまでの人生経験と思考癖(思考パターン)に大きくかかわってくるはずです。 だから、もしも終末に一人が取られ一人が残されるという事態になるのだとすれば、そしてそれが淘汰のようなものならば、自分で判断する能力のない、そして経験の乏しい幼児には「たとえ彼らが一人の人間であったとしても」適用されないはずです。 ・・・というような、くだらないことをまじめに必死に考えていた日々は一応過ぎましたが、 そう、こういう条件設定でいくらでも変わり得る「無益な話」は「教え」として整える必要はないですよね。秘されている「行間」については個人が自由に思えばいいこと。統率する都合上、正答はあるほうがいいのかもしれませんが、それが間違いのもと。まあ、おおもとが改ざんじゃ、細かいことを真剣に議論する必要もない。  さて、 令和の米騒動がはじまったころ、 日照り、飢饉、という子供のころ読んだ昔話に頻度高く登場したその言葉を思い出してふるえておりました。 「いちいちあんたは過剰反応する」とみんなから嗤われるだろうなあと思いながら私がやったことは、植物図鑑を引っ張り出してきて身の回りにある植物を「食べられるか否か」分類することでした。 ☠毒 スイセン、ヒガンバナ科の花、オシロイバナ、チューリップ、アジサイ、ダリア、スズラン、フクジュソウ、スイートピー、シクラメン、アイビー、ポトス、ツルニチニチソウ、コニシキソウ・・・ シクラメン?はドラマ「朝鮮心医ユ・セプン」で猛毒な草として登場したのを見て以来恐怖でしかないわけですが(断邪草ってどう見ても小さめなシクラメンでしたよねえ?) 「薬屋のひとりごと」で猫猫(まおまお)が言っていた通り、私たちの身の回りには毒をもつ植物がたくさん生えています。 ね、だから、たとえばこういう毒草の知識によって取られるの取られないのと言う話になるのだとしたら・・・とか考えると・・・そういう淘汰がそんなところで適用されるというみことばだなんて誰も考えないだろうし、ありえないでしょう?そして、 コケは…安全みたいなのですが、我が家に生えている苔類は…いろいろとヤバいものを蓄えていそうな気がするのでこれは毒ではないけど食べない方がよいというか、最後の最後の食糧かな?とか...

「つる植物」と格闘しながら考えたこと

朝、ゴミ出しに行こうと思って外に出たら、あちこちがこんもりした緑に押しつぶされるような感じになっていました。 つい先日、頑張って草取りや剪定をしたばかりなのに…と思ってよく見たら、住人不在で荒れてしまった隣家から伸びてきたあれやこれやの「つる植物」が我が家の木や草に絡みつき、大きな葉を茂らせてこんもりと見えていたのです。 それにしてもものすごい生長スピードだと思いました。寄生する性質のものではないように見えますが、この調子では絡みつかれた植物は日があたらなくなり枯れてしまうかも…。かわいそうになり…ベニカナメの上部を覆っていた「つる」に手を伸ばし引っ張ってみました。 すると、ずるずるずるずる、引いても引いても終わりません。力はさほど必要としないのですが、ずるずるずるずる、ベニカナメわずか二本に、大きなゴミ袋一袋がいっぱいになってしまうほどの量のつる植物が絡みついておりました。で、この調子では一体何枚の袋が必要になることかと不安になりましたので、つるを取り除いてゴミ袋に詰めることはあきらめ、つるのあちこちにチョキチョキ切込みを入れ、枯れるのを待つことにしました。 作業を終え、ゴミ出しも終え、流れる汗を拭きながら、ふと、 そう、40年以上クリスチャンをやっておりましたのでね、何を見ても結局聖書の言葉を思いついてしまうわけですが、つるにチョキチョキ鋏を入れながら「終末ってこうことなんだよなあ」と思ってしまったわけです。 それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい、『わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトびとの労役の下から導き出し、奴隷の務から救い、また伸べた腕と大いなる さばき をもって、あなたがたをあがなうであろう。出エジプト記6章6節(口語訳) まずはこうやってごくたまにしか「み言葉」を思うこともしなくなった今の私が「つるにおおわれて光から遮られた樹木」であると「つる」をぎゅうぎゅうゴミ袋につめながら思ったわけです。種がまかれ芽を出したのに、おまえはつる植物に覆いつくされて死んでしまったのだ、と脳内の私が責めてくる。 でも本当にそうなのだろうか、と、「鋏」を手にしてチョキチョキつるを切りながら思ったわけです。「救い」とは…このチョキチョキ…こういうことのような気がする、と。 鋏を入れられた「つる」は、しばらくのあいだは青々しているでしょうが、強い日の光に照らされて...