「解放」「自由」「流れる」

どうしてそうしたのか記憶がないのですが、Strong's  Hebrew  1865をお気に入りフォルダに入れていたことに気付きました。

דְּרוֹר 

derorと見出しに書いてある、 deh-rohr' と発音されるヘブライ語です。

そう、
外国語をひとりで学んでいると困るのは発音がわからないことです。いつだったかセファルディム式のヘブライ語の発音でヘブライ語聖書の章ごとのMP3音声録音を公開してくださっているサイトを知り、
https://mechon-mamre.org/p/pt/ptmp3prq.htm
利用させていただいています。
もっとも、私はただのおばちゃん信者であって研究者ではないのと、聖書ヘブライ語は「日本語もよくご存じである」神さまの「み言葉を聴くためのことば」だと割り切り、(そうしないと難しすぎて、教科としての英語がそうだったように毛嫌いしてしまう結果が見えているので)コムズカシイことは完全スルーしております。ヘブライ語も赤ちゃんがお母さんの言葉を聴くような気持ちで「眺めております」ので覚えようとか頑張ろうとかそういう発想は全くありません。音声を聴く時も、最近始めたラジオ講座の中国語の音声と同じように、歌のような気分で聴いております。でもきっと、よく言われるように1万時間くらい聴けば何か得るものはあるんじゃないかと、思っています。ぼぉ~っと聴いていても、そう、わずか半年、ドラマを見てセリフを聴いているだけでも中国語の単語かなり覚えられたようですよ。初めての1週間だったからということもあるとは思いますが、ラジオ講座を聴いていると、既に知っている言葉がたくさんあり驚いています。テキストで、これまでは音しか知らなかった言葉の「文字」を初めて確認し、へぇ~っとなる日々です。
英語の苦手意識が外国語全体の苦手意識となっていましたが、最近はそういう気持ちもなくなりました。完全に未知の言語を使っている国に移住しても、どうにか暮らせるような気がする今日この頃。お金は相変わらず無いですが、災害でもなんでもきっかけさえあれば国内外どこでも行くよ、という変な勢いが最近の自分にはあります。(おばあちゃんになったということだろうか)

話がずれました(;^_^A 年を取るとどうも余談が多くなりますね。

話を元に戻します。


Strong's  Hebrewの1865番דְּרוֹרには、

「解放」「自由」「流れる」という意味がありました。

そして、お気に入りフォルダにはもうひとつ、ギリシャ語の859番が入れてありました。

ギリシャ語のストロングの辞書859番は
ἄφεσις aphesis で、
これも「解放」「許し」「自由」「赦免」という意味でした。


BIBLE HUBのイングリッシュコンコルダンスによれば、ギリシャ語の859番が使われている箇所は17か所あるとのことでしたが、
今日はルカによる福音書4章のみ言葉が心に残りましたので口語訳聖書から引用します。


それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとしてお立ちになった。
預言者イザヤの巻物が手渡されたので、それを開いて、こう書いてある箇所を見つけられた。

「主の霊が私に臨んだ。
貧しい人に福音を告げ知らせるために
主が私に油を注がれたからである。
主が私を遣わされたのは
捕らわれている人に解放を
目の見えない人に視力の回復を告げ
打ちひしがれている人を自由にし
主の恵みの年を告げるためである。」

ルカによる福音書4章16~19節(口語訳)

太字にした解放という箇所に859番ἄφεσιςアフェシスが使われています。

そして、このルカの4章に書かれているイザヤの巻物にあった箇所というのはイザヤ書61章のところで

主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、
貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、
わたしをつかわして心のいためる者をいやし、
捕われ人に放免を告げ、
縛られている者に解放を告げ、

主の恵みの年と
われわれの神の報復の日とを告げさせ、
また、すべての悲しむ者を慰め、

シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、
灰にかえて冠を与え、
悲しみにかえて喜びの油を与え、
憂いの心にかえて、
さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、
主がその栄光をあらわすために
植えられた者ととなえられる。

イザヤ書61章1~3節(口語訳)

太字で解放としたところが
Strong's  Hebrewの1865番 דְּרוֹר デロールです。

気になったのは、「解放」「自由」と訳されるデロールには同時に「流れる」という意味があるということです。

流れるものは、良くも悪くも(最近の自然災害を思うとこういう言葉を付け加えたくなるわけですが)「自由」です。だから、「流れる」ことと「自由」ということが同じ言葉で表現されても不思議ではないわけですが、何が流れることがデロールなのか、ということは、聖書の語る「解放」を信じる自分にとって非常に興味深いことです。

Strong's  Hebrewの1865番 דְּרוֹר デロールは、聖書の中に8回登場します。
ギリシャ語のἄφεσιςアフェシスもそうですが、意外に登場回数が少ない。(皆さんはどうかわかりませんが、私としては意外でした)
しかもアフェシスは、マタイに1回、マルコに2回、ルカは5回ですがヨハネにはありません。そして使徒に5回、エペソとコロサイにそれぞれ1回ずつ、そしてヘブライ人への手紙に2回、それで終了。


で、ヘブライ語の方、自由や解放という意味に訳されているデロールは上に引用したイザヤ書 61章1節のほか、
…数が少ないので口語訳聖書から全部引用させていただきます。


まずは、「解放」とか「自由」という感じで訳されているものを引用してみます。

レビ記 25章10節
その五十年目を聖別して、国中のすべての住民に自由をふれ示さなければならない。この年はあなたがたにはヨベルの年であって、あなたがたは、おのおのその所有の地に帰り、おのおのその家族に帰らなければならない。

エレミヤ書 34:8
ゼデキヤ王がエルサレムにいるすべての民と契約を立てて、彼らに釈放のことを告げ示した後に、主からエレミヤに臨んだ言葉。

エレミヤ書 34:15
しかしあなたがたは今日、心を改め、おのおのその隣り人に釈放のことを告げ示して、わたしの見て正しいとすることを行い、かつわたしの名をもってとなえられる家で、わたしの前に契約を立てた。

エレミヤ書 34:17には2度登場
それゆえに、主はこう仰せられる、あなたがたがわたしに聞き従わず、おのおのその兄弟とその隣に釈放のことを告げ示さなかったので、見よ、わたしはあなたがたのために釈放を告げ示して、あなたがたをつるぎと、疫病と、ききんとに渡すと主は言われる。わたしはあなたがたを地のもろもろの国に忌みきらわれるものとする。

エゼキエル書 46:17
しかし彼がその奴隷のひとりに、嗣業の一部分を与える時は、それは彼の解放の年まで、その人に属していて、その後は君たる人に帰るのである。彼の嗣業は、ただその子らにだけ伝わるべきである。


そして、「流れる」と意味で使われているのは出エジプト記30章23節
太字にした液体のというところだけでした。

あなたはまた最も良い香料を取りなさい。すなわち液体の没薬五百シケル、香ばしい肉桂をその半ば、すなわち二百五十シケル、におい菖蒲二百五十シケル、

流れるのはなんと、液体の没薬 ちょっとびっくりしました。

30章22節のところから引用してみます。こういう感じのことが書いてある箇所です。

 主はまたモーセに言われた、

「あなたはまた最も良い香料を取りなさい。すなわち液体の没薬五百シケル、香ばしい肉桂をその半ば、すなわち二百五十シケル、におい菖蒲二百五十シケル、
桂枝五百シケルを聖所のシケルで取り、また、オリブの油一ヒンを取りなさい。
あなたはこれを聖なる注ぎ油、すなわち香油を造るわざにしたがい、まぜ合わせて、におい油に造らなければならない。これは聖なる注ぎ油である。

「液体の没薬」という言葉の中に、イエスさまの十字架による「解放」「自由」を表す言葉とまったく同じ言葉が使われているということに、なんだかじわっと来るものがあります。

で、この箇所に「液体の」、とわざわざ書いてあるのは、
天然の没薬(ミルラ)は採取された直後こそ液体ですが、ゴム樹脂なので、時間がたつと水分が抜けてしまい乾燥して固まってしまうから、ということのようです。ウィキペディアの「没薬」というところに詳しく書かれていました。


今日読んだみ言葉を思い返すと

דְּרוֹר デロール も
ἄφεσις アフェシス も

「解放(釈放)=罪からの解放」
「(ヨベルの年に規定されているような)自由」

ということで、


イエスさまが地上に来られ=仮庵となられ
もたらされた良い知らせを思い出させる言葉でありました。

ヘブライ語のデロールにあるもう一つの意味

「流れる(没薬)」をふまえ

もう一度主の語られた御言葉を読み直してみたいと思いました。


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追記(10/3)

    この記事を書いた後、さらにいろいろ調べておりましたら、そうそう単純な話でもなかった、と悟りまして、引き続き調べ学習することにしました。

ロボットさんたちにはできないことを楽しくおこなっていきたいと思います。

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仮庵の祭り期間中だからということではなく

毎日毎日、地上ではいろいろなことは起こりますが

すべては「わたしたちの主」の支配下にあります。

それを信じ、落ち着いて静かに「いつもどおり」
毎日を過ごしていきたいと思います。