2017年9月8日金曜日

中身は何も変わらない、着ているだけ

今朝デボーションをしながらふと思いました。

黙示録3章にあるサルディス教会のところに(新共同訳聖書を読んでいます)
「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。」
と書いてあるわけですが

白い衣を着せられているこの人自身は何も変わっていないんだなあ、と。

マタイ22章の婚宴のたとえにおいても、
その人自体が善であるか悪であるかということではなく
問われているのは「婚礼の礼服」を着ているか着ていないのかということ。


創世記3章にさかのぼると
罪を犯したアダムと女(エバ)に
「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」とあり
神さまは彼ら自身の状態はそのままに
動物に血を流させて皮を取り衣をつくって着せてくださったわけです。


つまり、人は衣を着せられるだけであって本質的には何も変わっているわけではない。


ルカ15章の放蕩息子のたとえにおいて、父親は、放蕩の限りを尽くした息子が、
しかし、どん底まで落ちた後に悔いて父親のもとに帰ってきた時、
「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、…」と語るわけですが、
神さまはまず良い服を着せてくださるわけです。
放蕩息子に着せられる「良い服」を「拡張自我」というような解釈をすれば、そういう方法での癒しがある可能性ということを考えたりしなくはないのですが、

信仰を持ったからといって本質が変わることはないのだ、と改めて思いました。


まずはボロボロの状態で神さま所に行って、すると、神さまは私たちを愛してくださったゆえの良い服を着せてくださるので、着せていただいた後は着せていただいたものをしっかりと身にまとい続けている これが信仰生活なのですね。



「見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである。」ヨハネの黙示録16章15節

夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。
ローマ人への手紙13章12~14節