新共同訳聖書を見ていると箴言30章1節から4節、そして5節6節がそれぞれひとつのまとまりになっているのでとりあえずここまでのところで一度振り返ってみようと思います。
まず、なぜ箴言30章のヘブライ語を眺めるに至ったのかと言えば、1節のところの訳があまりにもおかしいと思ったからでした。
それで、すこしのあいだ1節のところを考えていたのですが、
売っている聖書の訳がいろいろあるだけのことはあって(;´Д`A ```
とにかく1節をきちんととらえるために、
そのあとの言葉を眺めることでなにかひらめくかもしれないと考えて読み始めたわけです。
とにかくわからない日本語の聖書の30章1節
マサの人ヤケの子アグルのことば。イティエルに告げ、イティエルとウカルに告げたことば。箴言30章1節(新改訳2017)
マッサの人ヤケの子アグルの言葉。その人はイテエルに向かって言った、すなわちイテエルと、ウカルとに向かって言った、
箴言30章1節(口語訳)ヤケの子アグルの言葉。託宣。この人は言う、神よ、わたしは疲れた。神よ、わたしは疲れ果てた。
箴言30章1節(新共同訳)ヤケの子アグルの言葉。託宣。その人は言う。神よ、私は疲れた。神よ、私は疲れた。吞み尽くされてしまいそうだ。
箴言30章1節(聖書協会共同訳)
問題はまず、המשאを「マサ(マッサ)の人」と訳しנאםを「言葉」と訳すのか
המשא נאםとして「託宣」と訳すのかという事で
この点においては、伝承によってユダヤ社会でヤケの子アグルがソロモンのニックネームであると認識されているということと
נאםが神の発言や宣言を表すために用いられ、しばしば神、あるいは神に代わって語る預言者の言葉を指す言葉であることから、
המשאは、イザヤ書14:28、22:25、そして
エレミヤ書23:36、エゼキエル書12:10、ハバクク書1:1のהמשאと同じように
「重荷」のようにとらえ
したがってהמשא נאםとは神さまが反逆する者たちに宣言する重い予言すなわち託宣と訳すことが妥当だと考えたわけです。
そして、2節以降を訳しながらはっきりしたのは
やはり、託宣を告げられてしまうような不遜な男がいた(る)らしいということでした。
ところがおそろしいまでに次から次へと謎ワードが登場し、
読めば読むほど意気消沈。
よくもまあ40年近く「私は聖書のみ、プロテスタントの信者」だとか言って胸を張っていたものだと思ったわけです。
今はただ恐怖におののくばかり。
あんなにたくさんの謎ワードのある聖書をどうやったら訳せるのですか?
あんなにたくさんの謎ワードのある聖書を正しい聖書だと胸を張って販売できるのは、私のような愚かで狂信的な人間が信じ込んで思いこんで売っているから
…ではなく、
ほんとうは聖書翻訳という作業が、純粋に外国語を日本語に置き換える作業ではないからなのではありませんか?
אתという謎ワードが何千か所あろうと、
בוだのבךだの、訳の分からない単語が次から次に登場しようとも、
本当は聖伝、口頭伝承に沿って訳しているから「正しい聖書」だと言いきっているのではありませんか?
ただそうなのだとするとプロテスタントは破綻してます。
いや、そうではなかったとしたらもっとひどいことになります。
謎ワードをすっ飛ばして謎ワードがあったとも言わないのだとしたら・・・つまり、訳せないのに訳したふりをしているとしたら
それってインチキですよね?
謎ワードのことばかりではありません。
どうすればイティエルを「疲れた」と訳せるのでしょう。
どうすれば「くうき」と訳すしかないギリシャ語を「そら」と訳して信者が空中に引き上げられることにできるのでしょう。
伝承なり聖書以外の参考資料なりが無ければ、
・・・素直に直訳しようとしたら、そんな訳し方は思いつくはずがありません。
話を戻します。
箴言30章1節をこう読む、という「仮説を立てて」二節以降を読んでみたわけですが
1節
ヤケの子アグル
(すなわち トーラーを良く学び知識が豊富で人々にトーラーを教えるソロモン)による重い預言の言葉
勇敢で強じんな男
自分を完全無欠な王だと考えている者ウカル
または自分を完全無欠な王だと考えている者とウカルに対して:
1節のところで、この「託宣」を与えられる人間がいる、と考えて2節を読むと
2節
私は必ずあなたを火によって男の中から取り除く
完璧な理解力がありながら御手のみわざを学ばない人間
あーこの人は滅ぼされるんだ、という事が聞こえてくるわけです。
1節で「託宣」と訳したことを意識するならば聖書協会共同訳の「わたしは確かに人よりも愚かであり、わたしには人の悟りがない。」というような自己反省の文章にする必要はないわけです。(もちろん何らかの伝承があるとすればそうなるのかもしれませんが直訳しようと思うならそうはならないだろう、と思うのです)
בַּעַר単語をストレートに訳せば火によって不純物を取り除くこと、すなわち火によって邪悪なもの滅ぼすという意味の言葉をそこに置けばいいのです。
で、そうやって滅ぼされようとしている男がどんなやつなのか、というと
頭はいいのに、どんなものを見ても神さまのみわざを信じようとはしない人間、というわけです。
で、3節ではその人間について知恵と知識という言葉を用いて説明しています。
3節
そして絶対に知恵を学ぶことはない
そして聖なる知識を知らない
そして4節においては
ちょうどヨブ記の最後のところで
神さまがヨブに語りかけるように
語るのです。
4節
だれが天にのぼり、そしてくだるのか
だれが風を集めて両手の中に入れるのか
だれが水を服の中に入れてとどめるのか
だれがすべての地の果てを確かなものとしたのか
(そのすべてをお出来になる)彼の名前は何というのか
そして彼の息子の名前は何なのか
知っているのか
では、その男の対極にいるはずの信仰者は
何をもってこの4節の問いに対し答える事が出来るのでしょうか。
それはへりくだった思いで「自然」に向かい合う時
そこに「創造主」が「在る」ということに気付き
そしてそのお方について書かれたことば
それらのものから
私たちは創造主へのおそれを抱き
そしてその方への信仰という思いが呼び覚まされ
聖なる知恵があたえられ答えることが出来るわけです。
5節
神さまのすべての言葉は精錬されている。(不純物が無い)それ(or 彼=神さまの言葉)は 神さまに保護を求める者たちの盾となってくださる。
パウロはヘブライ人への手紙でこのように書いていますが
神の言葉は生きていて、力があり、いかなる両刃の剣より鋭く、魂と霊、関節と骨髄とを切り離すまでに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができます。
ヘブライ人への手紙4章12節(聖書協会共同訳)
この言葉を読むたび、不純物の無い御言葉の容赦なさを私は感じます。
不純物が混ざりこんでいるものという事を考える時
私はいつも日本の宗教観を思うわけですが
何でもアリ、とりあえず良いと言われることは何でもやっておく、判断をせず右に倣え、
このはちゃめちゃを良しとしている人には全く理解できないきびしさが
「不純物の無い」という言葉に感じられるのです。
5/3に入れた文→一生懸命御言葉を伝えようとし翻訳を頑張ったけれども訳し切れなかったことをきちんと書かない、または、間違っていると気付いたのにそのままにしたり都合で変更してしまったもの(通常これは改ざんと言う)は、不純物を人間が入れてしまったということになりますね。たぶん、そういうことをするのは聖書を知らない神さまへの恐れのない人です。ナダブとアビフもだめ、ウザもダメ、なのです。
少し前に、בראバラ=創造する を逆から書いたארבアラブは混ぜること混ざることという話を書きましたが
聖なるお方は聖であられますから
ק針の穴を通るようなそぎ落とされた聖さ
金属を精錬するような、タンパク質が主成分の生物は焼き尽くされてしまう強い火、高温できよめられた聖さ
だからこそその言葉には
6節
絶対に加えてはいけない 神さまの言葉の上に(後半未完)
徹底的に聖いその言葉、混じりけのない、余計なものが一切ない言葉
だから減らすわけにもいかない。
そして加えてもいけない。
そしてその言葉
神さまの御言葉は
「神さまに保護を求める者たち」には「盾となってくださる」
ならば、
「神さまに保護を求める者たち」とはどういう者たちのことか、
考えて思いついたのはイザヤ書66章2節の言葉でした。
主は言われる、
「わが手はすべてこれらの物を造った。これらの物はことごとくわたしのものである。しかし、わたしが顧みる人はこれである。すなわち、へりくだって心悔い、
わが言葉に恐れおののく者である。イザヤ書66章2節(口語訳)