2025年3月31日月曜日

箴言30章3節を読んでみた

ここまでの流れで、
箴言30章の1節2節とはこんな感じの意味だと、
自分としてはとらえることになったわけですが↓↓


箴言30章1節https://kyudochu.blogspot.com/2025/02/301.html
ヤケの子アグル
(すなわち トーラーを良く学び知識が豊富で人々にトーラーを教えるソロモン)による
重い預言の言葉
勇敢で強じんな男
自分を完全無欠な王だと考えている者ウカル

または 自分を完全無欠な王だと考えている者とウカル

に対して:


箴言30章2節https://kyudochu.blogspot.com/2025/03/302.html
私は必ずあなたを火によって男の中から取り除く
完璧な理解力がありながら御手のみわざを学ばない人間

そもそも、なんでこんなことをしているのかと言えば、
今もなお火曜サスペンス劇場のように崖っぷちに立っているのか
既に転落したのか
それとも水平に移動したのか
知らんけど(;´Д`A ```

さてとそれでは本日は
3節を眺めることにいたしましょう。

ולא למדתי חכמה ודעת קדשים אדע׃



ולא ヴェ・ロー 昨日も登場しましたが、
十戒のところに登場したりして禁止もしくは否定の意味があるלאの前にוヴァヴが付いた形です。一体今日は何が否定されているのでしょうか。 


למדתי ラマドティ לラメドの意味を表しているような単語です。
לラメドは牛追いの棒で牛に教えるニュアンスがありますが、
למדラマドには学ぶ、教える、指示するという意味があります。
トーラーを教え、学ぶ、それがלמדラマド。
で、その
למדラマドのうしろにתיが付いています。文法書とかを持っている人ならああこれは「ナントカ形(けい)」だ、ということになるのでしょうが、私はそういうことが分からないのでトーラーを読み続けている中での自分の思うところを述べます。
完成とか完全を表すתタブの右か左にיヨッドが付いていることがあるのですが、
右についていると「すでに神さまがそのことを終えられている」ことが多く、左についていると、「今後そのことを必ず完了する」という預言的な断言のような気がしています。

なのでこれは学ぶという事を未来において完了させるという意味のような気がします。
で、この言葉の前に強い否定のלאが付いていることから、
今も学んでいないけれども「未来においても絶対に学ばない」と言っているような気がします。(個人の感想です)


חכמהハクマ(ハは喉の奥に引っかかるような音) 
これは חָכַםハカムの派生語でwisdom「知恵」という意味があります。
חָכַםハカムという言葉には「賢明である」という意味がありますが、
偉大なトーラーの学者のことをハカムと言ったりします。
セファルディム語でハカムは「ラビ」の同義語だそうです。


ודעתヴェ・ダアト דעתダアトにוヴァヴが付いた形です。

דעתダアトとは、「知識」という意味があり、聖書に最初に登場するのはエデンの園の善(悪)の「知識」の実というところです。

Strong'sの辞書によると、דעתダアトは聖書の文脈では、単なる事実情報を超えた、道徳的および精神的な側面を含む、deep, intimate understanding 深く、親密な理解を意味することがよくある、ということです。

それも踏まえた「知識」の前にandのようなニュアンス、前のものにしっかりと結合させるוヴァヴがあります。


 קדשיםケドシム 神聖なという意味のקדשカドシュにיםイムが付いた形です。
יםイムは単純に数の多さを表す複数形をの場合と威厳や強さを表現するための複数形がありますがこれはどちらなのでしょうか。

それを知るために、コンコルダンスを使い
 קדשיםケドシムという形の言葉がほかにどのような場合に使われているのかを検索してみました。

BIBLE HUBのEnglishman's Concordanceによると

ケドシムは全部で17回登場しています。(以下特に断らない限り引用は口語訳聖書からです)

で、そのうち6回がレビ記にあるわけですが

レビ記11章44節

わたしはあなたがたの神、主であるから、あなたがたはおのれを聖別し、聖なる者とならなければならない。わたしは聖なる者である。地にはう這うものによって、あなたがたの身を汚してはならない。

レビ記11章45節

わたしはあなたがたの神となるため、あなたがたをエジプトの国から導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない』」。

レビ記19章2節

「イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、『あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたもでなければならない。

レビ記20章7節

ゆえにあなたがたは、みずからを聖別し、聖なる者とならなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。

レビ記20章26節

あなたがたはわたしに対して聖なる者でなければならない。主なるわたしは聖なる者で、あなたがたをわたしのものにしようと、他の民から区別したからである。

レビ記21章6節

彼らは神に対してでなければならない。また神の名を汚してはならない。彼らは主の火祭、すなわち、神の食物をささげる者であるから、聖でなければならない。


神さまご自身についてはקָד֖וֹשׁカドゥシュという言葉で表現されていて、

少なくともレビ記においてはイスラエルの民全員について語る場合に

קדשיםケドシムが使われているので、ケドシムの語尾のイムは、おそらく、単純に、いっぱいあるという意味でのイムであろう予想できます。

続いて民数記から検討します。民数記には3回ケドシムが登場します。

民数記5章17節

祭司はまた土の器に聖なる水を入れ、幕屋のゆかのちりを取ってその水に入れ、

民数記15章40節

こうして、あなたがたは、わたしのもろもろの戒めを思い起して、それを行い、あなたがたの神に聖なる者とならなければならない。

民数記16章3節

彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らって言った、「あなたがたは、分を越えています。全会衆は、ことごとく聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、どうしてあなたがたは、主の会衆の上に立つのですか」。

民数記の5章では水の修飾語としての「聖なる」というところにケドシムが使われています。

そして15章と16章ではイスラエルの民についての「聖なる」というところにケドシムがつかわれています。


というわけで、トーラーに関してはレビ記と民数記にケドシムが登場しており、そのすべての場合において「数の多いものの修飾語」としてのケドシムだったので、

おそらく、基本的には、ケドシムのイムは単純な複数形としてのイムであろう、と推測できます。

ただ、トーラー以外の場所においては少々話が変わります。
ヨシュア記24章19節

しかし、ヨシュアは民に言った、「あなたがたは主に仕えることはできないであろう。主は聖なる神であり、ねたむ神であって、あなたがたの罪、あなたがたのとがを、ゆるされないからである。

ヨシュア記24章19節におけるケドシムはエロヒムの説明として登場します。

כִּֽי־ אֱלֹהִ֥ים קְדֹשִׁ֖ים

と書いてあって、前回の記事にいろいろ書きましたכיキのあとに
エロヒム ケドシムと続いておりまして、トーラーには無かった
「神さまの描写としての」ケドシムがそこにあるわけです。

とすると、この箇所においてはエロヒムという威厳ある表現に呼応する形でのケドシムであると考えるべきであるかもしれません。

が・・・

とてもややこしい話をすると、

ヨシュア記24章16節にはこういう箇所があって、

その時、民は答えて言った、「主を捨てて、他の神々に仕えるなど、われわれは決していたしません。

この箇所における神々というところには「エロヒム」という言葉が使われているわけです。

では「主」というところは何なのかと言えば神聖四文字、すなわちお名前である
יהוה という文字が書かれているのですね。

新改訳聖書の場合は神さまのお名前(神聖四文字)が書かれているところが太字となっているのでとても分かりやすいと思います。

乗り掛かった舟なのでもう少し細かく言うと、
神さまのお名前神聖四文字が初めて登場するのは創世記2章4節で、
以降「神聖四文字」の後に「エロヒム」という言葉が書かれる形となり、
その表現は3章まで続き、
4章からはまたお名前が無くなる。

なので、創世記2章4節以前に書かれている「神」というところはすべて「エロヒム単独」であり、
2章4節から3章までは新改訳聖書では「神である」と書かれていて

4章は神さまがほぼ登場しないまま・・・で、25節にお名前のない「エロヒム単独」でのご登場。

「資料」による違い・・・だという説明を教会で何度も聴いた気がしますが

そういうあたりに注目しながら読むと、それぞれの資料の特徴が見えてきます。

が、今日はそういう話ではありませんね(すぐ脱線する婆w)

ケドシムの話、

細かく見た風なのにざっくりとしたことを言ってしまいますが、

トーラーをもとにして語る著者が書いたものであればケドシムはトーラーと同じ単純な複数形としてとらえるのが妥当で、

それ以外かもしれない著者の場合はそうではない可能性もある?知らんけど(;´Д`A ```

けれども、おそらく、聖書という書物ではたいていの場合はトーラーが土台になっていると思うので、

ケドシムとはおそらく単純な複数形であろうと思います。(個人の感想です)


そして3節最後の単語

אדעエダ です。これはיָדַעヤダが変化した単語です。ידעヤダは動詞で、これが名詞になると上の方に書いたדעתダアトです。

ידע「ヤダ」には「知る」という意味があります。
辞書によると、「神とその民、または個人間の親密な関係など、深く個人的な関係の知識を意味することがよくある」とのことでした。

דעתダアトもそうでしたが、「親密な」という表現があるのは夫が妻を「知る」という言葉の持つニュアンスを表現したいからだと思います。

で、箴言30章3節にあるאדעエダというこの言葉

コンコルダンスによれば聖書の中に14回しか登場しない言葉のようです。
トーラーではわずかに3回。
創世記の15章8節と24章14節、そして42章33節に見られます。

創世記15章6節~8節

アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。

また主は彼に言われた、「わたしはこの地をあなたに与えて、これを継がせようと、あなたをカルデヤのウルから導き出した主です」。

彼は言った、「主なる神よ、わたしがこれを継ぐのをどうして知ることができますか」。

創世記24章14節

娘に向かって『お願いです、あなたの水がめを傾けてわたしに飲ませてください』と言い、娘が答えて、『お飲みください。あなたのらくだにも飲ませましょう』と言ったなら、その者こそ、あなたがしもべイサクのために定められた者ということにしてください。わたしはこれによって、あなたがわたしの主人に恵みを施されることを知りましょう」。

創世記42章29~33節

こうして彼らはカナンの地にいる父ヤコブのもとに帰り、その身に起った事をことごとく告げて言った、

「あの国の君は、われわれに荒々しく語り、国をうかがう回し者だと言いました。

われわれは彼に答えました、『われわれは真実な者であって回し者ではない。

われわれは十二人兄弟で、同じ父の子である。ひとりはいなくなり、末の弟は今父と共にカナンの地にいる』。

その国の君であるその人はわれわれに言いました、『わたしはこうしてあなたがたの真実な者であるのを知ろう。あなたがたは兄弟のひとりをわたしのもとに残し、穀物を携えて行って、家族の飢えを救いなさい。


トーラー以外からも引用してみます。


サムエル記上20章09節

ヨナタンは言った、「そのようなことは決してありません。父があなたに害を加える決心をしていることがわたしにわかっているならば、わたしはそれをあなたに告げないでおきましょうか」。

サムエル記上22章3節

ダビデはそこからモアブのミヅパへ行き、モアブの王に言った、「神がわたしのためにどんなことをされるかわかるまで、どうぞわたしの父母をあなたの所におらせてください」。

列王紀上3章7節 לא אדעという形で登場

わが神、主よ、あなたはこのしもべを、わたしの父ダビデに代って王とならせられました。しかし、わたしは小さい子供であって、出入りすることを知りません

列王紀上18章12節 לא אדעという形で登場 

しかしわたしがあなたを離れて行くと、主の霊はあなたを、わたしの知らない所へ連れて行くでしょう。わたしが行ってアハブに告げ、彼があなたを見つけることができなければ、彼はわたしを殺すでしょう。しかし、しもべは幼い時から主を恐れている者です。


ヨブ記9章20、21節 לא אדעという形で登場

たといわたしは正しくても、
わたしの口はわたしを罪ある者とする。たといわたしは罪がなくても、
彼はわたしを曲った者とする。

わたしは罪がない、しかしわたしは自分を知らない。わたしは自分の命をいとう。


ヨブ記42章3節לא אדעという形で登場

『無知をもって神の計りごとをおおう
この者はだれか』。それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、
みずから知らない、測り難い事を述べました。


詩篇51篇3節

わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。

詩篇73篇22節לא אדעという形で登場

わたしは愚かで悟りがなく
あなたに対しては獣のようであった。

詩篇101篇4節לא אדעという形で登場

ひがんだ心はわたしを離れるでしょう。わたしは悪い事を知りません

イザヤ書47章8節לא אדעという形で登場 

楽しみにふけり、安らかにおり、
心のうちに「ただわたしだけで、
わたしのほかにだれもなく、
わたしは寡婦となることはない、
また子を失うことはない」と言う者よ、
今この事を聞け。

イザヤ書47章8節は、日本語訳の「子を失うことはない」というところに「知らない」という単語が実際には入っている。


14か所を眺めて分かるのは、לאという「禁止や強い否定」の意味がある言葉をともなって
אדעエダが存在していることが7箇所もあるということです。そして、לאという言葉を伴わないときの日本語訳では、未来のことや仮定のことについて語っているということがわかります(詩篇51篇3節は例外的)

以上の事を踏まえた場合、箴言30章3節のאדעエダはどう訳せばよいでしょうか。
直前にלאはありませんが、冒頭にあるלאが否定している学ぶという行動に関する詳細な内容がאדעエダだと考えられるので、(個人の感想です)

לא אדעと同じように訳してもよいのではないでしょうか。


以上すべてのことを踏まえて訳をつけてみます。

ולא למדתי חכמה ודעת קדשים אדע׃


ולא למדתי そして絶対に学ばない (動詞)

חכמה 知恵

ודעת そして 知識

קדשים 聖なる(直前の深い知識を説明していると考えられるのでイムは単純な数の多さを表す複数形)

אדע 知る  (動詞)



そして絶対に知恵を学ぶことはない

そして聖なる知識を知らない




1節から3節を続けてみましょう。



ヤケの子アグル
(すなわち トーラーを良く学び知識が豊富で人々にトーラーを教えるソロモン)による
重い預言の言葉
勇敢で強じんな男
自分を完全無欠な王だと考えている者ウカル
または自分を完全無欠な王だと考えている者とウカルに対して:

私は必ずあなたを火によって男の中から取り除く
完璧な理解力がありながら御手のみわざを学ばない人間

そして絶対に知恵を学ぶことはない
そして聖なる知識を知らない




2025年3月27日木曜日

箴言30章2節を読んでみた 

 כי בער אנכי מאיש ולא בינת אדם לי׃

箴言30章2節を眺めようと思います。(本日も日本語の聖書は特に断らないときは口語訳聖書から引用しています。)
まず出だしのכי
自分にとって、この言葉を一番印象深く記憶させられたのは創世記。
たびたび出てくるכי טובキ トウブという言葉です。
神さまがご自身でお造りになられたものをご覧になって「はなはだ良い」とおっしゃっているあのところがכי טובキ トウブで、何度も何度も繰り返し現れるこのセリフ、何度も何度も眺めているうちに、私の脳内ではエクスクラメーションマーク付きの喜びに満ちた「キィ~ト~ブ」という声になっていきました。そして、やがては「マジでこれいいじゃん最高~!」という日本語の感情が心の中に現れるようになり・・・
というכיキが二節の頭にあります。
そして
二つ目の単語はこれです。
בערバアル
昨日の記事には見落としゆえに書いてありませんがバアルですから[au]という音を持っている単語です。これはバアル神のバアルではありません。バアル神のバアルはבעלと書き、最後の文字がרレーシュではなくלラメドです。

そうそう、רレーシュという言葉を書いて思い出したのですが、
かなり昔、YouTubeの動画か何かでとある講演会の様子を見たことがあったのですが、そのなかで講演者が「文語訳のエゼキエル書の38章にはロシアが出てくる」と話されていて
なんだなんだ?と思ったので文語の聖書を見たらエゼキエル書38章の2節と3節にこう書いてあったわけです。

38:2
人の子よロシ、メセクおよびトバルの君たるマゴグの地の王ゴグに汝の面をむけ之にむかひて預言し

38:3
言べし主ヱホバかく言たまふロシ、メセク、トバルの君ゴグよ視よ我なんぢを罰せん
ロシというのがロシアだとその講演者は言っていたのです。
で、ヘブライ語聖書にアクセスできる今となり、この箇所をヘブライ語で見ると
ロシはこう書いてあって
ראשロシュ
BIBLE HUBでStrong'sの辞書を見ると

Usage: 
ヘブライ語の「ロシュ」は、主に人や動物の「頭」を意味しますが、比喩的にグループの「長」や「リーダー」、山の「頂上」や「頂上」、一連のものの「始まり」や「最初」を意味することもあります。これは、物理的および比喩的な卓越性や優位性を伝えるために使用される多目的な用語です。

 Cultural and Historical Background:

古代近東文化では、「頭」(ロシュ) の概念はリーダーシップや権威と関連付けられることが多かった。頭は知性と意思決定の座であると考えられており、そのため「ロシュ」はリーダーシップと階層構造を象徴するようになりました。イスラエル社会では、当時の家父長制を反映して、部族や家族の「長」が大きな権威と責任を担っていました。
で、もしかしたらロシアという国名にロシュ「リーダー」という概念があるのかもしれないと思って調べてみましたがWikipediaにはこうあって
ロシアの国名は、現代のロシア北西部とウクライナ、ベラルーシにあたるルーシという国家のギリシャ語名Ῥωςから派生したῬωσσία(現代ギリシャ語ではΡωσία)
で、ルーシという言葉の意味は「舟をこぐ人」という説があったりしましたが、はっきりとはわかりませんでした。

だからと言って彼を全否定するつもりはありません。預言書というものは深いので、国名はともかくとして流れとして結果としてそうなるという可能性が無いとは言えないかもしれないからです。
あと、聖書ギリシャ語でローマ(ローマ帝国)のことをῬωμαϊκόςと書くわけですが
最初二文字、つまり、我々の言葉で言うところのカタカナの「ロ」ですね、なんか気になります。ロシアもローマも「ロ」で、Rの音ですよね。ヘブライ語のרレーシュもRというか巻き舌で発音するような気がしますが・・・あれ、ロシア語も巻き舌だったような気が・・・
・・・Rの付くロシア語を探していたら、魚という単語が英語のアルファベット表記だとRybaリバだということがわかり、でも発音がわからなくて・・・と、そこにウクライナ語の魚が現れて、それは英語のアルファベットで表記するとRibaリバで、
ご時世なのか、こちらは発音がすぐわかり巻き舌でしたよ!
1900年以前は、旧ソ連にユダヤ人はたくさん住んでいた・・・というか、地続きですからねえ、フェニキア文字を眺めてもいろいろ思いますし、
そう、エロヒムの語尾のイムは絶対複数ではないと、実はヘブライ語など全く知らない時代から強く思いこんでいたのですが、なぜそういう発想になったのかというと、教会に通っていた頃に経験させていただいた韓国人クリスチャンたちの表現
韓国語で聖書の神さまのことを「하나님」と言う、とことを知ったからなのです。韓国語におけるイムという音のもつ意味やそれを話す人の気分を知った時に、
大陸だからきっとどこかでつながってる、だから絶対複数ではない、と、感じたのです。

「感じた」と書きながら思いましたが、
これがAIにはできない事ですね(笑)
データから論理的に推測する事は出来ても無から有は生み出せない。
われわれ人間は、創造主の被造物は無から有を生み出せる。
え?材料が無ければ作れない?
いやいや、רֹאשׁロシュ頭 にはできる。
無限に広がる大海原、何にもないように見えるけれども、釣り糸を垂れていると、ぼうずの日もあるけれどもポンと魚が現れることもある、
大海原が大脳であり、釣り糸を垂れる行為が思考であると私は考えておりますが
大海原のようないくらでも何かが出てきそうな、大きな可能性を秘めたコンピュータどころではないものを私たち人間は神さまから与えられている。

だから、「思い込みで」
小さい頃から刷り込まれた「勝手な決めつけで」
自分の限界を決めて思考することを放棄してはいけないし

洗脳のような宗教は 
それがたとえユダヤ教であれキリスト教であれ
創造主が好まれるところではないのだ、と思っています。



(。´・ω・)ん?
あれ、何の話してたんだっけな。

(加齢なのか病なのか、最近は舟をこぎ出すと止まれなくなって見知らぬ異国でわれに返るというようなことが多々ございます。失礼いたしました)




あ、30章2節の二つ目の単語
בערバアル。(;´Д`A ```
これは「燃やす」「燃える」という意味があります。そして、「燃やして除去する、取り除く」という意味があります。
神さまの義のゆえに不純物を除去するというような重い意味です。


そういう意味から、「取り除きたくなってしまうような人々」のことを表現するときにも、わずかですが、使っている気配を感じます。

口語訳聖書 詩篇94:8では「愚かで、心が鈍く、受け入れがたい」
民のうちの鈍き者よ、悟れ。愚かな者よ、いつ賢くなるだろうか。
口語訳聖書 エゼキエル21:31「非人間的で残酷で野蛮な人々」
わたしの怒りをあなたに注ぎ、わたしの憤りの火をあなたに向けて燃やし、滅ぼすことに巧みな残忍な人の手にあなたを渡す。


続いて三つめの単語

אנכיアノキ

これは「わたし」という意味の単語です。

「わたし」という意味の単語にはこのアノキともう一つאֲנַיアニというのがあるわけですが、

ヘブライ語聖書で「わたし」という言葉が登場するのは、アニにしろアノキにしろたいてい重い場面のような気がします。重大な局面において登場人物が語る「わたし」という言葉なのです。
物事の責任の所在をはっきりしているというか、出来事の関係者を際立たせるというか、そういう場面で登場人物が語るのが「わたし」という言葉のように思っています。

特にアノキについてはכカフ(手のひらでつかむような感じ)が付いている分アニよりも重い感じがしていたのですが、それは私だけの感想かもしれないので調べてみます。

BIBLE HUBで見られる
Brown-Driver-Briggsでは

ヘブライ語以外のセム語族の言語では、どちらかが残ってどちらかが消えるということになったけれども、ヘブライ語ではアニとアノキ両方が共存した状態で、場合によっては区別なく使われることもある、というようなことが書いてありました。



で、Brown-Driver-Briggsが言及してたのは、
ある部分では「rhythmical considerations」リズム上の考慮によって、
または後代の各書の作家たちの間でאֲנִיが好まれるようになったことによって云々・・・

と「言っている人がいる」という話。

ヘブライ語聖書におけるリズム上の考慮というのはものすごく感じます。そらんじるための配慮もあるのでしょうか。
そういうことを考えると、

私は例えば脱力系ラップのジョイマンがとても好きなのですが、彼らのネタを直訳したらよくわからないというのと同じような現象がヘブライ語聖書でも起こっている可能性は高いですね。

(と言われてもわからない人が多数いそうな私の文章(;´Д`A ```)



せっかくなので今日は少し丁寧にアノキの用例を見てみようと思います。
トーラーのすべては大変なので、今日は聖書ヘブライ語の教科書のようにすら思えるベレシート「創世記」から拾います。


聖書の中で初めて登場するアノキは創世記3章10節のところで

彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。

アダムが神さまに弁解をする場面。日本人が読むとたぶんこの「わたしは」という言葉に重さは感じないと思うわけですが、「場面」を考えると相当重いわけです。


そして二度めにアノキが使われているのは創世記4章9節のところで

主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。

 


三度めは創世記7章4節、神さまがノアに洪水のことを伝える場面。

七日の後、わたしは四十日四十夜、地に雨を降らせて、わたしの造ったすべての生き物を、地のおもてからぬぐい去ります」。


 

四度目と五度目は神さまがアブラハムに現れてくださる場面で

創世記15章1節

これらの事の後、主の言葉が幻のうちにアブラムに臨んだ、「アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」。

創世記15章2節

アブラムは言った、「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか」。

 

 六度目はサライ七度目はハガル
アノキを追っていくと、聖書の重要人物が次々に登場します。

というか、ここで書いているアノキの登場箇所はコンコルダンスを見ながらもれなく書いておりますので、これ以外のところにはアノキは登場していないのだ、ということは是非記憶してください。アノキは聖書全体で359回しか登場しない言葉なのです。

では続けます。


創世記16章5節

そこでサライはアブラムに言った、「わたしが受けた害はあなたの責任です。わたしのつかえめをあなたのふところに与えたのに、彼女は自分のはらんだのを見て、わたしを見下げます。どうか、主があなたとわたしの間をおさばきになるように」。

創世記16章8節

そして言った、「サライのつかえめハガルよ、あなたはどこからきたのですか、またどこへ行くのですか」。彼女は言った、「わたしは女主人サライの顔を避けて逃げているのです」。


八度目はソドムとゴモラを滅ぼす話題のところで、アブラハムが神さまとやり取りをしている場面です。

創世記18章27節

アブラハムは答えて言った、「わたしはちり灰に過ぎませんが、あえてわが主に申します。

九度目はロトの言葉です。

創世記19章19節

しもべはすでにあなたの前に恵みを得ました。あなたはわたしの命を救って、大いなるいつくしみを施されました。しかしわたしは山まではのがれる事ができません。災が身に追い迫ってわたしは死ぬでしょう。

十度目と十一度目はアビメレクに対する神さまの御言葉の中にありました。

(書きながら気づいた「日本語の」ことですが、「何度目」という言葉は英語でteenが付く数字になるあたりからはあまり言ったことがない感じがしますwそこまで度々になると数えないw私だけの印象かな。
あ、あとアビメレクという名前はアブ(父)とメレク(王)という言葉が合体した名前です余談です)

創世記20章6節

神はまた夢で彼に言われた、「そうです、あなたが清い心をもってこのことをしたのを知っていたから、わたしもあなたを守って、わたしに対して罪を犯させず、彼女にふれることを許さなかったのです。

十二度目と十三度目はアブラハムとアビメレクのやり取りの中でのそれぞれの言葉の中に登場します。

創世記21章24節

アブラハムは言った、「わたしは誓います」。

創世記21章26節

しかしアビメレクは言った、「だれがこの事をしたかわたしは知りません。あなたもわたしに告げたことはなく、わたしもきょうまで聞きませんでした」。

十四度目はアブラハムがサラを葬るために土地を購入する場面

 創世記23章4節

わたしはあなたがたのうちの旅の者で寄留者ですが、わたしの死人を出して葬るため、あなたがたのうちにわたしの所有として一つの墓地をください」。

そして創世記24章にはアノキが9回も登場します。(何度目か数えるのが大変になりましたので以降御言葉の引用のみといたしますww)

創世記24章3節

わたしはあなたに天地の神、主をさして誓わせる。あなたはわたしが今一緒に住んでいるカナンびとのうちから、娘をわたしの子の妻にめとってはならない。

創世記24章13節

わたしは泉のそばに立っています。町の人々の娘たちが水をくみに出てきたとき、

創世記24章24節

彼女は彼に言った、「わたしはナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘です」。

 創世記24章27節

言った、「主人アブラハムの神、主はほむべきかな。主はわたしの主人にいつくしみと、まこととを惜しまれなかった。そして主は旅にあるわたしを主人の兄弟の家に導かれた」。

 創世記24章31節

そこでその人に言った、「主に祝福された人よ、おはいりください。なぜ外に立っておられますか。わたしは家を準備し、らくだのためにも場所を準備しておきました」。

創世記24章34節

そこで彼は言った、「わたしはアブラハムのしもべです。

創世記24章37節

ところで主人はわたしに誓わせて言いました、『わたしの住んでいる地のカナンびとの娘を、わたしの子の妻にめとってはならない。 

創世記24章42節

わたしはきょう、泉のところにきて言いました、『主人アブラハムの神、主よ、どうか今わたしのゆく道にさいわいを与えてください。

創世記24章43節

わたしはこの泉のそばに立っていますが、水をくみに出てくる娘に向かって、「お願いです。あなたの水がめの水を少し飲ませてください」と言い、

創世記25章22節

ところがその子らが胎内で押し合ったので、リベカは言った、「こんなことでは、わたしはどうなるでしょう」。彼女は行って主に尋ねた。


創世記25章30節

エサウはヤコブに言った、「わたしは飢え疲れた。お願いだ。赤いもの、その赤いものをわたしに食べさせてくれ」。彼が名をエドムと呼ばれたのはこのためである。

創世記25章32節

エサウは言った、「わたしは死にそうだ。長子の特権などわたしに何になろう」。

 

創世記26章24節

その夜、主は彼に現れて言われた、「わたしはあなたの父アブラハムの神である。あなたは恐れてはならない。わたしはあなたと共におって、あなたを祝福し、わたしのしもべアブラハムのゆえにあなたの子孫を増すであろう」。

創世記27章11節

ヤコブは母リベカに言った、「兄エサウは毛深い人ですが、わたしはなめらかです。

創世記27章19節 口語訳聖書ではアノキが省略されています。「長子エサウ」という言葉の前に「わたしは」という言葉がヘブライ語聖書にはあります。

ヤコブは父に言った、「長子エサウです。あなたがわたしに言われたとおりにいたしました。どうぞ起きて、すわってわたしのしかの肉を食べ、あなたみずからわたしを祝福してください」。

 創世記28章15節

わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。

創世記28章16節

ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。

創世記28章20節

ヤコブは誓いを立てて言った、「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、


創世記29章33節 

彼女はまた、みごもって子を産み、「主はわたしが嫌われるのをお聞きになって、わたしにこの子をも賜わった」と言って、名をシメオンと名づけた。

שִׁמְעוֹןシメオンという名前の綴りの中はשָׁמַעシャマ=聞くという単語が含まれています。あと、この節には謎ワード ליが含まれています。ליはこの箴言30章2節にも2回あり、しかもStrongの辞書の中で番号もつけられていない言葉であるため、同じ謎ワード仲間である853番のようBIBLE HUBを利用できないので、後日検討するためにピックアップしておこうと思い、あえてここで言及しました。

創世記30章1節

ラケルは自分がヤコブに子を産まないのを知った時、姉をねたんでヤコブに言った、「わたしに子どもをください。さもないと、わたしは死にます」。

創世記30章2節

ヤコブはラケルに向かい怒って言った、「あなたの胎に子どもをやどらせないのは神です。わたしが神に代ることができようか」。

創世記30章3節

ラケルは言った、「わたしのつかえめビルハがいます。彼女の所におはいりなさい。彼女が子を産んで、わたしのひざに置きます。そうすれば、わたしもまた彼女によって子を持つでしょう」。

創世記30章30節

わたしが来る前には、あなたの持っておられたものはわずかでしたが、ふえて多くなりました。主はわたしの行く所どこでも、あなたを恵まれました。しかし、いつになったらわたしも自分の家を成すようになるでしょうか」。

 創世記31章5節

彼女らに言った、「わたしがあなたがたの父の顔を見るのに、わたしに対して以前のようではない。しかし、わたしの父の神はわたしと共におられる。

 創世記31章13節

わたしはベテルの神です。かつてあなたはあそこで柱に油を注いで、わたしに誓いを立てましたが、いま立ってこの地を出て、あなたの生れた国へ帰りなさい』」。

べテルとはベツレヘムのベツ(家)とエロヒムのエル(神さま)をあわせた言葉で
神の家という意味

創世記31章38節

わたしはこの二十年、あなたと一緒にいましたが、その間あなたの雌羊も雌やぎも子を産みそこねたことはなく、またわたしはあなたの群れの雄羊を食べたこともありませんでした。

創世記31章39節 後半にある「わたし」と前半の「自分」あわせて一つのアノキ

また野獣が、かみ裂いたものは、あなたのもとに持ってこないで、自分でそれを償いました。また昼盗まれたものも、夜盗まれたものも、あなたはわたしにその償いを求められました。

創世記32章11節(新共同訳では12節)これはヤコブの祈りの箇所です。

どうぞ、兄エサウの手からわたしをお救いください。わたしは彼がきて、わたしを撃ち、母や子供たちにまで及ぶのを恐れます。

創世記37章16節 「兄弟たちを探している」の前にヘブライ語聖書では「わたしは」という言葉があります。

彼は言った、「兄弟たちを捜しているのです。彼らが、どこで羊を飼っているのか、どうぞわたしに知らせてください」。

創世記38章17節 ヘブライ語聖書では「群れの中から子山羊を送ろう」の主語としてアノキがあります。

ユダは言った、「群れのうちのやぎの子をあなたにあげよう」。彼女は言った、「それをくださるまで、しるしをわたしにくださいますか」。

創世記38章25節

彼女は引き出された時、そのしゅうとに人をつかわして言った、「わたしはこれをもっている人によって、みごもりました」。彼女はまた言った、「どうか、この印と、紐と、つえとはだれのものか、見定めてください」。

創世記43章9節

わたしが彼の身を請け合います。わたしの手から彼を求めなさい。もしわたしが彼をあなたのもとに連れ帰って、あなたの前に置かなかったら、わたしはあなたに対して永久に罪を負いましょう。

創世記46章4節 日本語にはありませんが「また必ずあなたを導き上るであろう」というところの主語としてアノキという言葉が書いてあります。

わたしはあなたと一緒にエジプトに下り、また必ずあなたを導き上るであろう。ヨセフが手ずからあなたの目を閉じるであろう」。

創世記47章30節 日本語にはありませんが「あなたの言われたようにいたします」というところの主語としてアノキという言葉があります。

わたしが先祖たちと共に眠るときには、わたしをエジプトから運び出して先祖たちの墓に葬ってください」。ヨセフは言った、「あなたの言われたようにいたします」。

創世記48章21節

イスラエルはまたヨセフに言った、「わたしはやがて死にます。しかし、神はあなたがたと共におられて、あなたがたを先祖の国に導き返されるであろう。

創世記50章5節

『わたしの父はわたしに誓わせて言いました「わたしはやがて死にます。カナンの地に、わたしが掘って置いた墓に葬ってください」。それで、どうかわたしを上って行かせ、父を葬らせてください。そうすれば、わたしはまた帰ってきます』」。

創世記50章21節

それゆえ恐れることはいりません。わたしはあなたがたとあなたがたの子供たちを養いましょう」。彼は彼らを慰めて、親切に語った。

創世記50章24節

ヨセフは兄弟たちに言った、「わたしはやがて死にます。神は必ずあなたがたを顧みて、この国から連れ出し、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地に導き上られるでしょう」。


かなり長くなりましたが、

アノキとはそういうところに登場する言葉なのだ、という事を踏まえた上で

כי בער キ バアル

のあとに

אנכיアノキが来るという事を考えましょう。

上の方にも書きましたが

Englishman's Concordanceによるとアノキは聖書全体で359回しか登場しない言葉なのです。

そう、謎ワードなのでスルーされ訳されてもいないStrong’s Hebrew 853番は一万回以上登場するわけですからねwww それを考えればかなり少ない言葉で、

後世の作家の好み云々ということがあったからそうなったのだとしても、

やはりアノキと書くときには、平常とは異なる「何らかのストレス」がかかる言葉のような気がするわけです。創世記では主要な登場人物の語る重いアノキが多数みられましたし。

で、わたしとしては

出エジプト記20章2節

わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。

 אנכי יהוה אלהיך אשר הוצאתיך מארץ מצרים מבית עבדים׃

このアノキ、この使われ方こそがトーラーのアノキ(テーラーのアオキではないww言いたくてしょうがなかった私の脳)だとわたしは思っています。

いま、自分の言葉にわざと「わたしわたし」と連発しました。気分はアノキw


この重量感をおぼえつつ、1節の「重い預言」=託宣という言葉を踏まえて訳すならば

כי בער キ バアルは、


「馬鹿だ」と言っているというより「燃やして除去する、取り除く」という滅びの預言、予告の方がより適切なのではないかと思います。

そして、そのあとにくる

אנכיアノキは、

宣告や契約を語っている人の言葉であり

つまりは「神さまご自身」がご自身を指して語っている言葉であろう、と私は思います。

という思いを持って翻訳聖書を読んでみましょうか。


まずは口語訳聖書

箴言30章2節より
わたしは確かに人よりも愚かであり、・・・


続いて聖書協会共同訳
箴言30章2節
私は誰よりも愚かで・・・



なぜ、重い預言と一節で語った直後のアノキという言葉を伴ったキ・バアルが「私は馬鹿である」という告白であるのかしら、と、「わたしは」疑問を感じずにはいられません。


少なくとも1節の訳を「マサ」だの「マッサ」だのとせずに「託宣」と訳した翻訳者は、託宣という言葉の直後に
「わたしは確かに人よりも愚かであり、わたしには人の悟りがない。」
という弁解めいた言葉を選択してしまう事に対する違和感を感じてほしいと思います。
託宣がまだ語られているわけでもいないのに、託宣を受け取る側の人がいきなり登場して「私は誰よりも愚かだ」言うという発想はどうもわからない。
100歩譲って、これが託宣の受け手ではなく与える側が発している始まりのことばだということだとしても
そうだとしたらこの愚かな「私」という人は託宣を告げる側の人だということになりますよね。
としたら神さまがご自分を愚かだとおっしゃっているのですか?


基本に立ち返ります。
創世記1章1節を眺めてみましょう。
בראשית ברא אלהים את השמים ואת הארץ׃
初めに、造ったよ、神さまが、天と、地を

という順番で単語が配置されていることがわかります。
つまり、動詞というか述語というかそういうものが主語の前にある
のがヘブライ語聖書における一般的な語順です。なので、

כי בער אנכי
と書いてあった場合も、まずは述語があってそのあとに主語が来るわけです。
しかもここにはキ・トウブでおなじみのכיがあるわけです。
託宣だと言ったはじめのワードがכיだったとしたら、そのあとの言葉を強めていると気付きます。
だとしたら、述語בערは少数派の「愚か」をわざわざ充てず本来の意味である「火で燃やして浄化する、取り除く」ということだと考えた方がよいのではないでしょうか。
「燃やして取り除くよ」「わたしはね」

聖書らしい感じで訳すとしたら、
「私は必ずあなたを火をもって取り除く」

キ・推奨します アノキ(私はマジでこちらを推奨しますw)



…次に行きます。四文字目
מאישメ・イシュ
אישイシュが「男性」のことで、それにמメムが付いた形です。
このメムの付いたイシュが聖書の中に初めて登場するのは創世記2章23節です。
女をאשהイシャと呼ぶのは、איש男から取られたからだ、という説明が書かれているところです。
「男から」というところがמאישメ・イシュです。つまり、מメムは「~から」と訳すのが多数派、標準のようです。

コンコルダンスでチェックすると、箴言19章22節とかイザヤ書52章14節では「他人との比較をする」ニュアンスでמメムをとらえていて、
そういう思想で箴言30章のここも「人よりも愚か」という感じで訳されているようです。


ただ、כי בער אנכי
この訳を「燃やして取り除くよ」「わたしはね」と言っているということにすると
どこから取り除くの?何を取り除くの?という部分が文として不足しているわけですから、
そうなるとמאישメ・イシュを標準的に「男から」と訳すとしっくりきます。

おまえを「男から」取って 燃やして除くよ わたしはね

聖書らしい感じで書くと
「私は必ずおまえのいるところからおまえを火をもって取り除く」
という感じでしょうか。
やはり直訳しないとあいまいになってしまいますね

しかし、この内容であれば

1節で「重い預言=託宣」と言ったことに呼応しているというか
託宣の最も重要な部分を一番最初に宣言している風になります。


後半部分に行きます。

ולא בינת אדם לי


ולאヴェ・ロー
固く結びつける接続詞andのようなוヴァヴと、
禁止のלאローです。
וヴァヴは直前の語か前半全体かわかりませんが、とにかく後半部分を前に合体させる働きをしているはずです。
直前に合体させるなら「男から」の「男」で、
前半全体と合体させると考えると、「燃やして取り除く」に加えるということになりますね。
基本に立ち返って確認しておくべきことは、לאローとは強い否定や禁止をするときに使われる語であるということです。
十戒の「~してはならない」というところに使われているということを
「禁止」のニュアンスの理解のベースにすべきだと思います。
そして、強い否定ですが、
例えば、
ノアが一度目に鳩を放し時には足を休める所を全く見つけることができなかったので戻ってきてしまったが七日経って放したら二度と戻ってこなかった
という内容の創世記8章9節と12節の箇所で、太字にしたような意味合いの部分に
לאローが使われています。

では箴言30章2節において
לאローの次の単語は何かということになりますが
בינתビナト 
もともとの形はבינהビナハで理解力、洞察力、識別力という意味の名詞です。

לאローは禁止だとしても否定だとしても、内容は「動詞」になるような気がしますがどうでしょう。
バナナ禁止!チョコ禁止!チョコバナナ禁止!という日本語があったとして、
これは一見すると名詞を禁止しているわけですが、
「持ち込む」「食べる」というような動詞が隠されているような気がする
というような事を考えるわけです。

「理解する」という意味の動詞もヘブライ語にはあり
ביןビン といいますが、
箴言30章2節のלאローの後にあるのはביןビンではなくבינתビナトと言う名詞。
もう一言付け加えるならば、
実はבינתビナトという名詞はこの箴言30章2節だけに登場する言葉なのです。

1節に引き続き、練られた文、凝った文、なのだと思います。

で、בינתビナトの後にあるのはאדםアダムです。
そう、あのアダム、人間という意味です。これも名詞です。
一体何を否定しているのでしょう。

そして最後に登場するのは
לי
上の方にも書きましたが、辞書に載っていない謎ワードですよ。(笑)
謎だからスルーしますか?そう、謎ワードだから翻訳されていないようです。
翻訳されていないと言うと言葉が悪いですか。
・・・なんとな~くそれっぽく訳しているのだと思いますが
実はこの単語、箴言30章には、よりによって2度も登場するんです。
2節と8節にあります。


そんなこんなで、לאローの行き場がないものだから、
BIBLE HUBで対訳を見ると
בינתビナトをdo have the understandingと訳している。

口語訳聖書では「わたしには人の悟りがない。」
そして聖書協会共同訳では「人間としての分別もない。」と訳されている。


לאローの禁止もしくは否定の行き場がもしかして謎ワードליだったらどうしましょ。
ליたぶん、リイと読むような気がするこの謎ワード
動詞かもしれませんよ。
だって・・・
牛追いの棒でぐいぐいと神さまの右の御手の方に押して教育している感じが文字から読み取れる。
神さまの右の御手と言えば御救い、または御業。
もしかしたら、ליって、御救いについて御業について学ぶという動詞なのでは?
לאローが禁止の意味を持つのは、לラメドという牛追いの棒でぐいぐいと押して学ばせようとしている先に
父なる神さまאがおられる。
つまり、王であられる神さまの御言葉=トーラー に学ぶことだから、
結果として人間にとっては禁止のような意味合いになっていくのだと私は理解しているのですが、
その方法で解釈するとליは「右の御手」יヨッドの方に牛を追っていくのだから
神さまの右の手による御業、御救いを学ぶという動詞かもしれません。

そしてここにしか登場しないというבינתビナトは、完全とか完成されたという意味のתタブが最後に付いているということで
1節の完全無欠だと自分で思っている男לאיתיאל לאיתיאלが思い出されます。


この仮説に立つと、לאローの否定する先にあるのはליで、
「神さまの御業や御救い学ぶ」ということを強く否定しているのかな。
とするとこうなりますね


おまえを男から取って 燃やして除くよ わたしはね
そして神さまの御手の御業も御救いも学ぶことのない 完璧な理解力の 人間



私は必ずあなたを火によって男の中から取り除く

完璧な理解力がありながら御手のみわざを学ばない人間

(思い込みと意訳が過ぎたかなw)

2025年3月26日水曜日

箴言30章1節 ヤケの子アグルがソロモンであるなら

賢者が語る通りヤケの子アグルがソロモンのことだとすると・・・というあたりから

今朝ちょっと思いついた事があったので、書こうと思います。

ヤケの子アグルについて以前書いた事を前提条件として話を進めたいので、以前書いた記事から一部引用します。

(参照)箴言30章1節 ヤケの子アグル
https://kyudochu.blogspot.com/2024/08/blog-post_8.html

賢者たちは、「アグル・ベン・ヤケ(ヤケの子アグル)」はソロモン王自身のニックネームであると解釈しました。「アグル」は、ソロモンの別のニックネームである「ケハラット・ベン・ダビデ(ダビデの子ケハラット)"קהלת בן דוד"」と同様に、収集するという意味の言葉です。「ヤケ」は吐き出すという意味の言葉です。したがって、「アグル・ベン・ヤケ」とは、知恵の言葉を集め、それを他の人に教える人のことです。

 


ごくごく基本的なことから書くと、箴言30章の1節はどう見ても表題なのです。

דברי אגור בן יקה המשא נאם הגבר לאיתיאל לאיתיאל ואכל׃

דברי 一番初めに書かれている四文字、これは「言葉」という意味があります。

אגור בן יקה そしてその次にあるのがアグル・ベン・ヤケです。

で、アグル・ベン・ヤケという言葉はבןベンという言葉がある限りアグルもヤケも収集するとか吐き出すという動詞にはなり得ないわけです。なぜならבןベンとは「息子」という意味だからです。「吐き出すの息子の集める」と訳してもよいとは思いますが、息子だと言っている以上、それは人について言っているのです。
で、それはソロモンのニックネームだという事らしいのでそれはそれでよかったのですが、
なぜ、あえてそんな名前がここに書かれているのか、と少々疑問に感じたわけです。

ソロモンの言葉であるのなら、はっきりとそう書けばよいものを、そう書かないでわざわざアグル・ベン・ヤケ、と書いているのは、もしかすると、これから語ろうとしている二節以降の言葉が、「吐く」とか「収集する」という言葉に関連するという事なのではないか、と。

詩人のような言葉遊びというか、・・・まあ、重い宣告を書こうとしているのに遊んでいるとは思いませんが、聖書を読んでだれもが気付いていることとして、例えばホセア書で、子供に変な名前つける話があり、ああいう展開があり得る世界の人々なら、癖のある独特な名前を提示することで、それを使って何か読み取らせようとしているのかもしれないと思ったのです。


で、そういうことを思いついたとき、真っ先に気付いたのは1節の最後の言葉

2月に私訳を書いたときにあいまいなままにしてしまった וヴァヴが前に付いた「אכלウカル」でしたが、

ウカルとは読み方の指定があるのでウカルと読み、辞書では人名だと書いてあるわけですけれども
אכלはアカルと読めば動詞の「食べる」となり、オケルと読めば「食べもの」となるわけです。

で、これはどうでもよいことですがכלカル(「すべて」という意味)という言葉があれば韻が踏めるw・・・とか思ったり、


そういう「言葉遊び」のような視点で箴言30章を眺めてみたら何か見つかるだろうか、と思いまして、

いつものように眺めることにしました。

眺めた結果↓


4節にכלカル 5節にכלカル 8節にはליという謎ワード(また訳せない訳さないけど存在している言葉登場!)

10節と11節にはקללカラルという言葉がありました。呪うという意味の言葉です。

14節にはמַאֲכֶלֶתマケレト これはナイフという意味です。真ん中の三文字がウカルと同じ文字列。
そして14節にはもう一つ「むさぼり食う」というニュアンスでאכלアカルがありました。

そして15節、口語訳聖書だと「与えよ、与えよ」となっているところが
הב הב ハブハブという同じ動詞の繰り返しとなっていて

[au]という音が見えます。

ただそういうことを言い始めると15節において「蛭」はアルカで「四」はアルバで、「言う」という動詞はアマルですから[au]のオンパレードということになってしまいます。

そして17節、「יקהヤケ」を発見!17節のヤケは直接的にはヤケではなく、元の単語は

יִקָּהָהイクハ で17節ではליקהתリカハトという形で登場します。
辞書によるとイクハという言葉は、「服従や従順」の概念に関連する語源
יָקָה (yakah) から派生したとのことで、ヤケとは意味は違いますが、
ヤケの子アグルが書いた言葉だと言うにはちょうどいい言葉です。

で、もっというと17節のイクハの次の次にיקרוהイコロハという単語が現れ、

イコロハはもとの形はנָקַרナカールで、「穴をあける」というような意味なのですが、
こういう形になっていて、これも「יקהヤケ」が見える単語です。

で同じく17節、 נחלナハル「谷」という言葉があります。[au]という音が見えます。

そしてナハルの次の言葉がאכלアカル 食べるという意味です。

で、口語訳聖書で「はげたかがこれを食べる」というふうに翻訳されているところは

ויאכלוה בני נשר

とかいてあって 初めの単語の三文字目からがאכלアカルで

次の単語בניはベネイと読みますが、ベンのことです、息子です。

そして最後の単語はここでは「ナシェル」と読むそうですがワシとかタカのことで、

ויאכלוה בני נשרこの部分をアグル・ベン・ヤケをヤケの子アグルと訳すのと同じように訳すと

「鷲(鷹)の子」が食べる(アカル)ということになるのだと思います。


20節、

ありましたよאכלアカルが。

口語訳聖書では「彼女は食べて、その口をぬぐって、」と訳されているところ

「食べて」がאכלアカル


・・・・・・・




この感じだと・・・
30章は丁寧に一つ一つ単語を考えていきさえすれば

もうちょっと深まるような気がしますね。




それにしても、ヘブライ語の「語感」は翻訳だけだとわからないですね。

イシュとイシャとかアダムとアダマとか

聖書についている注で十分なのかもしれませんが

きちんと聖書をわかりたいので、ぼんやりゆっくり眺め続けますこれからも。

眺めたらきっと気付く。そしてわかる。


2025年3月25日火曜日

Strong's Hebrew 853番の用例検討(2)

ויעש אלהים את שני המארת הגדלים את המאור הגדל לממשלת היום ואת המאור הקטן לממשלת הלילה ואת הכוכבים׃

創世記1章16節を引用します。

今日は ואתに注目して見ようと思います。

創世記1章1節におけるואתは「天と地」というところの「地」の前に用いられていました。

Englishman's Concordanceを見ると、ואתという言葉が1章1節の次に現れるのは1章16節であると書いてありました。אתが二回、そしてואתが二回あることがわかります。

口語訳聖書の1章16節を引用してみます。

創世記1章16節

神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。


次に私自身のこれまでの学びによる独自解釈を加えて直訳したものを書きます。

 ויעש אלהים 
ויעשそして 造られた
אלהים神さま
(すなわち創造主であり支配者であり命をお与えになる最高のお方)

 את שני המארת הגדלים 

את 
שני二つ
המארת(神さまの支配下に置かれそこに存在するものとして完成されている完璧な)
הגדלים(神さまの支配下に置かれている)大きい(複数もしくは強調) 


את המאור הגדל לממשלת היום

את
המאור(神さまの支配下に置かれそこにまちがいなく存在する
הגדל(神さまの支配下に置かれている)大きい
לממשלת 支配
させるということを神さまがお決めになられた 

היום(神さまの支配下に置かれている)


ואת המאור הקטן לממשלת הלילה

וそして
את
המאור(神さまの支配下に置かれそこにまちがいなく存在する)
הקטן(神さまの支配下に置かれている)小さい
לממשלת 支配させるということを神さまがお決めになられた 
הלילה(神さまの支配下に置かれている)


ואת הכוכבים

וそして
את
הכוכבים(神さまの支配下に置かれている)(複数)


ואתが「天と地」の「と」の部分と同じ働きをしているとするならば、

つまり、このוヴァヴが幕屋に使うペグと同じようにしっかりと結びつけて一体のものであるという事を表しているのだとすると
昼をつかさどる大きな光と夜をつかさどる小さな光と星々は一体のものということになるのでしょうか。
いや、そうではないな、大きい光と小さい光について、「光」という単語の前にואתがあるのだから「天と地」のように一体であるのは「光」という点においてのみのこととなるのでしょうか。つまり、大小の違いはあるけれども「光」というものはひとつということでしょうか。・・・うーん、わからないなあ。

最後の星々の前のואת
一体何に結合するヴァヴでしょう。前にある大小の光の話の続きではあるわけですが
星は特に「支配する」という役割が与えられていませんので、光として前の二つと同じひとつのものという理解?

・・・なんかおかしいな



「天と地」のような、一体のものとしてのואתにこだわらなくてよいのかもしれませんかねえ?
あ、じゃあこういうのはどうでしょう

את以下に一つの独立したルールやものの定義を述べている
で、そのルールや定義を一つの塊のルールとしてまとめるときにוヴァヴを使って連結させている

いまこの箇所では空に見えている光っているものに関する定義としてまとめている。




まあ、まだまだ始めたばかりですからね、分からなくって当然。
あちこちいろいろ読んであーじゃないこーじゃないとやっていけばきっとわかるに違いありません。人間にはだれでもそうやって母語を習得した実績がありますもんね。


テストのあることでも納期のあるものでもないですから、少しずつ考えようと思います。






2025年3月17日月曜日

こういう時代を生きていくために(3)

こういう時代に生きていると、


たとえクリスチャンであったとしても
いや、クリスチャンだからこその不安というものがあるような気がします。

この辺りのことについて

「あさっての自分」のために書きのこしておくよう導かれました。

(心身の状態が良い日に、落ちた日の自分へのメッセージとして書いています)



この時代を生きていくために

特別なことは考えなくてよいのだと「今は」思っています。

かの日には、私が父の内におり、あなたがたが私の内におり、私があなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。

ヨハネによる福音書14章でイエスさまがこう語っておられますが


主はあの日も今も行方不明なのではなく、
遠い遠い天の果てにいらっしゃるわけでもなく

今ここに、私とともにいてくださる神さまです。

いつになっても王が迎えに来てくれない捨てられた民ではなく、

私のように仲間もいない孤独な羊のように見えても全く孤独ではないのです。

なぜなら

神さまはいつも私が見るのと同じものをご覧になり、

神さまはいつも私が聴くのと同じ言葉をお聴きになり、

神さまはいつも私の悲しみを私の苦しみを
そして私の喜びを一緒に味わってくださるお方だからです。


神さまが共にいてくださるのですから

どんなことが起ころうとも
いつもと同じように過ごせるのがクリスチャンだと思います。

ダニエル書というところにこんな言葉があります。

ダニエルは、その文書の署名されたことを知って家に帰り、二階のへやの、エルサレムに向かって窓の開かれた所で、以前からおこなっていたように、一日に三度ずつ、ひざをかがめて神の前に祈り、かつ感謝した。ダニエル書6章10節

ここに書かれている「文書」というのは、
ダニエルのことをねたむ者たちによって編み出された彼の命を奪うことを正当化するための禁令の文書で「もしも王以外のなにものかに願い事をするならば獅子の穴に投げ入れる」というもの。
ダニエルはまことの神さまを礼拝する人でありましたから、王以外のなにものかに願い事をするのは当然で、そこを狙った文書だったわけです。

ああ、ホーリネス弾圧事件を思い出します。

結局、聖書の中においても、どの時代、どの国においても、ことのまんなかにあるのは、
まことの神さまとそうでないものたちの闘いであるのです。
私たちは弱い。けれども私たちの真ん中に住まわれる方は最上にして最強のお方ですから

最終的な勝利をおさめるのは
まことの神さまでありますけれども、
そこに至るまでの間はダニエルが経験したような事態が起こりうる。


けれどもダニエルは私たちに大切なお手本をのこしてくれました。

こんな局面にあっても彼は
「以前からおこなっていたように」
一日に三度ずつひざをかがめて神の前に祈り、感謝した、というのです。

誰にも見られないように祈ればよいのに、
そう、隠れたところで祈るということは決して悪いことではないのです。

しかし、ダニエルはあえてそうしなかった。
ダニエルはまことの神さまに信頼し、すべてのことを完全におまかせしていたのですね。


ただ、この場面を読むたびに思うのは、弱い自分は絶対ダニエルのようにはできない、ということです。

しかし、おそらく、
神さまは私のような者にはこういうことは求められない、というような気もします。

と言うか、
人にはそれぞれ「置かれている場所」というものがありますので、

誰もがみんなダニエルではないし、
誰もがみんな石破総理ではないわけです。

一人ひとりが、それぞれに置かれた場所で、
それぞれ別の壁にぶつかり難題を抱え
真剣に考えなければならないときというものがある。

そうした瞬間に

私たちがどうしたらよいか、という事、

岐路に立たされた時にどうしたらよいか、という事

ダニエル書6章10節はそういう時のお手本になるのだと思います。


どんなことがあろうとも

主を信じ、
決して思い煩うことなくいつも同じように歩んで行く。

永遠から永遠までをご存じである方を信頼し、期待する。

そして、三次元の中の小さな一点を見て怒り、呪いの言葉を吐くのではなく

私たちの主であるお方は愛する者には必ず「理解を越えたレベルの」最善をなしてくださるのだ、ということを

最悪と思える瞬間にこそ
これまでに経験した様々な主の憐れみを思い出し、
信じ続ける事が出来ますように。




そして最期まで


♪ひとあしひとあし主にすがりて
たえずたえずわれは進まん。

と歌い続けることが出来ますように。



2025年3月13日木曜日

853番と同じ音の言葉がある

 853番と同じ音の単語があります。

ただ一応確認しておきたいのは853番の一文字目אアレフについて
神さまを表すその文字には音がないことになっているので


この件に関して日本語のウィキペディアから引用しますと

本来は声門破裂音を表す。現代ヘブライ語ではע(アイン)と同音になり、また多くの場合には無音になった。語末では決して発音されず、語頭でも発音されることはまれである。

もうひとつ、声門破裂音についても日本語のウィキペディアから引用します

声門破裂音とは

閉じた声門が開放されて起こる破裂音(閉鎖音)。国際音声字母で[ʔ]と記述される。声門を完全に閉じた後、呼気とともに急に声門を開いたときに出る音。言い換えれば声門を閉じた状態からすかさず何らかの母音を発音すれば、子音部分がこの音となる。咳をするときには特に強い声門破裂音が聞こえる。

声門を閉じたまま声帯を振動させることはできないので、理論的に有声の声門破裂音は存在し得ない。

なので、同じ音の単語が別の文字であるはずはないのですが、上の引用にあるように
現代ヘブライ語ではע(アイン)と同音になっているということもあるからなのか、
אתもעתもエトという発音であるとして辞書に載っています。

Strong's Hebrew 6256 עת

それはコヘレト3章に登場する「時」

עת

Strong's Lexicon の Cultural and Historical Background によると

この単語「エト」の概念は、

人生はさまざまな定められた時間で構成され、それぞれに目的と意義があるという理解を反映している。

ということで、コヘレト3章そのもの。ギリシャ語で言えばカイロス。


אתとの関係はわかりませんが、עアインとאアレフの文字の違いから何か読み取る事が出来るかもしれません。




2025年3月11日火曜日

Strong's Hebrew853番の用例を少しだけ 創世記1章1~4節

Strong's Hebrew853番אתの登場する場所を眺めようと思います。


ヘブライ語聖書の創世記1章1~4節を引用します。

1節

בראשית ברא אלהים את השמים ואת הארץ׃


2節

והארץ היתה תהו ובהו וחשך על פני תהום ורוח אלהים מרחפת על פני המים׃


3節

ויאמר אלהים יהי אור ויהי אור׃



4節

וירא אלהים את האור כי טוב ויבדל אלהים בין האור ובין החשך׃


1章1節で二度登場したאתは、2節と3節には無く、次に現れるのは4節だという事がわかります。


次に創世記1章1節から4節までのところの日本語の大体の意味を確認したいので創世記1章1~4節までを口語訳聖書から引用します。そして、אתが入っていると考えられる場所に印を入れてみます。

わりとすんなり印を入れられましたが、
言葉が整いすぎている翻訳聖書の中にを入れるのは難しいと思います。
整いすぎている、というか、
例えばイザヤ書30章25節などはヘブライ語を直接訳していないような印象を受けました。


創世記1章1節から4節(口語訳)
1節 はじめに神は地とを創造された。

2節 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。

3節 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。

4節 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。





前の記事の繰り返しになりますが

すくなくとも1章1節にあるואתאתは、וヴァヴとהארץハ・アレツの間にあって、
直後のהארץハ・アレツ「地」に、悪い意味をもたらすものではなく、且つ
וヴァヴとהארץハ・アレツの間に変な隙間をもたらさない何かであると考えられます。

そして同時にאתは「天」の前にもあってもおかしくない言葉。


そういうことを考えながら2節の言葉を読むとהארץハ・アレツ「地」という言葉が在りますが、そのהארץハ・アレツ「地」にはוヴァヴが直接ついています。

つまり、הארץハ・アレツ「地」という言葉にはאתが必ずしもつくわけではないということと
הארץハ・アレツ「地」にはוヴァヴが直接つくケースもあるということになります。
しかも、2節で言っているהארץハ・アレツ「地」は1節最後のהארץと同じものであるということは「クリスチャンなら」誰も疑うはずはありません。地球以外のどこかの星の大地について言っているわけではなく、1節で造られた大地の事を言っているわけです。
しかし、1節の最後で ואת הארץと言った次の瞬間
2節の頭ではוהארץと言うわけですから
אתを前に置いたהארץハ・アレツ(1節)と、そうではないもの(2節)にはなにかしら「違い」があるはずです。


説明の都合上、3節をとばして先に4節に関することを書きますが

4節でאתが存在しているのは口語訳聖書で言うと「その光」という言葉の前です。

日本語の聖書の単語だけを追うと、光の前にある「その」という言葉がなにがしかの意味があり、そういった場合にאתが付くのではないか、と考えたくなるのですが、

「その光」と訳されているところにはהאורハ・オウルというヘブライ語があります。

4節を再度引用します。

וירא אלהים את האור כי טוב ויבדל אלהים בין האור ובין החשך׃

אורオウルが「光」で、その前にהという文字が付いていてこれを口語訳聖書では「その」と訳しています。
הארץハ・アレツのハと
האורハ・オウルのハは

同じהという文字で、英語で言うと「the」だと考えられているので「その」光と訳されています。

で、4節にはהאורハ・オウルという言葉が二回ありますが、
1度目のהאורハ・オウルの前だけにאתがあります。


で、前後しますが3節。


3節

ויאמר אלהים יהי אור ויהי אור׃

4節ではהאורハ・オウルという言葉が二回登場しましたが

3節にはהという文字が付いていないאורオウルが二回登場しています。

そしてここにはאתがありません。







過去にもいろいろ書いておりますのでお時間のある方はご覧ください。

創世記をヘブライ語で読んでみたらちょっと違うものが見えてきた、という話

ヨハネの黙示録22章とאת


2025年3月7日金曜日

創世記1章1節(6)ואת

 בראשית ברא אלהים את השמים ואת הארץ

今日もまた創世記1章1節を眺めておりました。

今日はシャマイムの次にあるוヴァヴの付いたStrong's Hebrew853番את

ואתに目が行きました。

そして思ったのは、なぜוヴァヴが853番אתについているのか。


אתは該当するような外国語が無いし、それをスルーしたからといって取り立ててどうのこうのと目くじらを立てるほどの言葉たいした意味はなく・・・ん~例えるなら、「マジで~」が「めっちゃ~」に変わったところでそれほど気にしなくてもいいのと同じ?ような
私たち異邦人が知らなくてもよい言葉なのであったとするならば

創世記の著者はוヴァヴをהארץハ・アレツ つまり「地」という単語の前に直接付けただろう、と思ったのです。
この状態こそが日本語で言えば、翻訳聖書の言っている通りの「天と地」になります。

しかし、そうではなくてואת

つまり、日本語でこれを忠実にあらわすと、少なくとも「と地」というところは「と地」ではなくてこうなっているわけです「とאת地」

分かりにくいので、もう少しきちんと言いますね。

創世記の著者は

בראשית ברא אלהים

「初めに 作った 神さまが」

と、ここまで書いたあとに  

 את השמים ואת הארץ

これで「天と地」という意味として私たちは翻訳聖書で読んでいるわけですが、

「天השמיםと地הארץ」「と」に当たる部分がוヴァヴなので
ヴァヴの後にあるאתに何か意味がないとおかしなことになります。「と」と「地」の間に意味のない謎の隙間ができてしまう。


翻訳された「天と地」という日本語を読んだ私たちに残る印象は、

ただ単に二つのものがそこにあるという印象を残す「パンと牛乳」というものとは異なり、

自分は大地に立ち、そこから見える大空、
歩いても歩いても夜の空に輝く月が追いかけてくるように、自分を取り囲み自分から離れることのない大空、
右を見ても左を見ても前を見ても後ろを見てもそこにあり、上を見れば、地にあるすべてのものを覆いつくす大空、
晴れた昼には青く、時として雲が現れて水を降らせ、新月の夜には地にあるすべてのものを闇で覆ってしまう

という
まさにוヴァヴ(幕屋の幕を留めるフック)による接合、
否、接合などというものではない一体のもの、
継ぎ目などない一体のものであって隙間などどこにもない、
それが「天と地」というものです。

しかも、現代に生きる私たちともなれば、天体としての地球、宇宙空間にある地球をイメージできるわけですから、
「天と地」がどのような状態であるのか、
もっと言えば、
天という言葉を「神さま」に置き換えて考えてみればクリスチャンにはわかる。
主はどこか遠く離れたところにおられるのではない、私たちと共にいて下さるお方なのだ、と。
だとしたら「天と地」の間に無意味な隙間があるはずがない。
「とאת地」のאתとは無視してはいけない何かであると考えるほうが自然ではありませんか?
著者は何かを言っている。
אתによってあらわされる何らかのものがある。


もう一度この言葉を眺めてみましょう。
את השמים ואת הארץ

「天השמים地הארץ」に当たる部分がוヴァヴなのですから
ヴァヴの後のאת

少なくとも前の単語であるהשמים「天」に関係するものではなく、
天とוヴァヴで接合する「地」を意味する הארץの側にかかわりがあるということになる。

つまり、「地」という単語と一緒あってに何かを言ってるのです。
「地」を修飾する言葉なのか、「地」を説明する言葉なのか、
とにかく「地」とは離すことのできない何かであることは確かです。

そして、אתは実際には
השמים「天」の前にも置かれているわけです。
つまり、こうなっている

את 天השמים את 地הארץ」


ヘブライ語聖書をノートに書き写し始めたころ、
天という単語の前につけられたאתは一つ前の単語である
אלהיםエロヒムに関係あるのかと思いました。
神さまを表すאアレフという文字には「音が無い」という事を知ったころだったので、
アレフという文字の特殊性に関係する、つまり、神さまご自身に関連する不明語なのかと思ったのです。しかし、書き取りが進むにつれて、
אתという単語が必ずしもאלהיםエロヒムとセットに登場しているわけではないことに気付いたのと、1章1節のואתの存在から、אתは直後に置かれた単語とかかわりがあるのではないかと考えるようになりました。


ただ、言葉というものは移り変わるものなので、

たとえば古語と現代語の意味が全く違うとか

また、ミルトス(ギンバイカ)についての記事に書きましたけれども

エステル記において、
ハマンの名前がヘブライ語で考えると「善人」のように見える良い文字を使っているにもかかわらず、エステルの名前があまり好ましくない文字を使っているというような
著者の立場や書物が長く置かれ続けた環境によって「改ざん」?も無いとは言えないので、(個人の感想です)

言葉を考えるにあたってはその書の書かれた年代や保存にかかわった人の思想も考慮しなければならず本当に大変だとは思いますが、

少なくともトーラーについては
どうにかしてאתのあらわす内容を具体的に知りたいと願っています。

(→今のところこんなふうに考えています

ネットで検索すると

やはり英語圏の方々は言葉のハードルが低いためかいろんな考えを表明しておられます。

前置詞として後に続く言葉を強調しているのだ、という説をとる方や

これは受肉前のキリストを表している、と言っている方がいましたけれども

創世記の辺りだけならば受肉前のキリストというのもありですが、
とにかく登場頻度がものすごいのと(Englishman's Concordanceによれば11050回)意味的に受肉前のキリスト説はちょっと合わないかも、というものも少なからずあるので、

そういう事を言ってドヤ顔をしている指導者の言うことは聞かない方がいいような気がします。

それにしても、 

Strong's Hebrew853番את以外にもスルーされている言葉が無いとは言えず

言葉は悪いですが、そういうことを無視して翻訳された聖書を

真剣に一字一句間違わないように引用していたことにむなしさを思える今日この頃です。

まあね、「著作物の引用」にあたっては正確に引用するべきなので、一字一句間違わないように引用することは当然のことなのですが、「聖書だから」という思いで40年も大切に読み続けてきたわけですから、その意味で心の整理が難しい日々です。

ユダヤ教徒であれば、変化するのは当然のことであり、むしろそのために学ぶわけですが、

クリスチャンは護教の意識が強く、少しでも外れたら異端ですからね、

秋の夜長に聖書の比較」の記事を書いて以来

考え込むことが多くなりました。


「とにかく救いに至る事が出来ればいいじゃないか?」とおっしゃる方もいますが、


・・・聖書のみという信仰

しかも万人祭司ですから頑張れるところまで頑張らねば。


そのうち改宗するしかなくなるような気がする今日この頃。

・・・(。´・ω・)ん?

なにきょうにかいしゅうすればよいのかしら??


2025年3月6日木曜日

創世記1章1節(5)シャマイムのシャ

 בראשית ברא אלהים את השמים ואת הארץ

今朝は台所で שמיםシャマイム 天  という単語を眺めていました。


シャマイムの中にמיםマイム=水 右から読んでも左から読んでもマイムである「水」 が入っていることはカタカナで書いても気づくわけですが、

じゃあשシャは何なのか。

שは「歯の形」から出来た文字だということになっているので、

「歯」だから「食べること」に関係するとか、

「食べること」だから「親しく交わること」だというような

そういう話はよく聞きます。

あとは、

שׁרץシャラツという単語があって、

これは創世記の中にたくさん登場する言葉なのですが、「群がるとか増殖する」という意味があるわけです。

で、このשׁרץシャラツのニュアンスを感じる単語が、一般論ではなく個人的な意見と言うか気分としてありまして

それは(sh音)ではなく(s音)の方ではあるのですが

עשׂבエセブ
これは「草」。草と言えばなんといっても除草が大変!(笑)という個人的な感想がありまして、

שׁרץシャラツとעשׂבエセブ このあたりから推測するならば、「いっぱいある、たくさんある」というニュアンスもשの文字にはあるような気がします。「歯」もたくさんありますもんね。

その辺りの考え方をとるとシャマイムとは「水がたくさんある」という意味になるでしょうか。

それから、עשׂבエセブについて
Strong's Lexiconを見ますと語源として Derived from an unused root meaning to glisten or be greenと書いてあり、glistenというのは「明るく輝く」というような意味があるわけですが、

だとするとこれはこれは以前666について書いた記事の中でも取り上げた

שׁמשׁシェメシュ


これは創世記15章12節に初めて現れる言葉で、「日」「太陽」という意味ですが

の入るころ、アブラムが深い眠りにおそわれた時、大きな恐ろしい暗やみが彼に臨んだ。

שׁמשׁシェメシュのש、「天」に見えるものとしてשׁמשׁシェメシュのשはありそうですね。

水がたくさんあり太陽が輝いている天、だからשמיםシャマイムというのありそうです。(個人の感想ですw)

そしてその前に הヘー 
この文字を見かけるたび、毎度毎度繰り返しになり恐縮ですが・・・
הヘーとは、通常は定冠詞theのように訳すわけです。
ですから、השמיםハ・シャマイムとあれば、the 天、
権威ある人がそう言っているのだからそう訳せばいいのでしょうが、

しかし、הヘーとはアブラムがアブラハムになった時の「ハ」であり、
神さまのお名前である神聖四文字に二回も使われている文字なので、私としては大切にというか丁寧に考えたいという思いがあるのです。

じゃあどう訳すのか。

・・・無理に訳さなくたっていいんじゃないか、と思ったりするわけです。(丁寧に考えたいと言っておきながら訳さないなんてふざけているように思われるかもしれませんが)
ふざけているわけではなくて、
神さまを表すאアレフという文字が基本的には「音は無い」ということになっているということがあるヘブライ文字なのですから、

הヘーを見たらそれは定冠詞などと反射的に思ったりせず、訳さなかったとしてもそこに見えない神さまを感じたらいいのではないかと思うわけです。偉そうに言って申し訳ございません。でもこういう自由な姿勢がユダヤ的、否、トーラーを学ぶ者の姿勢として望まれているような気がするのです。
トーラーとはתורהと書きますが、
それは
ת完成された完璧なものであり
ו神さまが与えてくださった永遠の昔から永遠の未来まで全く切れ目のないものであり

それを

רまず第一としでしっかり考えると

その向こうにהヘー

というわけですから、

いろいろ、ほんとうにいろいろと、あーじゃないこーじゃない、と考え続けて数千年w

聖書を読むということは、そういう人々の仲間に付け加えられて

あーじゃないこーじゃない考えることなのではないかと

思うのです。

人間には
本田のアシモよりもスムーズに歩ける「システム」を生まれつき持っている人や、かわいい、美しい、おいしいと思うすばらしい「感覚」を持っている人もたくさんいるのですから、たくさんの大型のコンピュータよりもはるかに素晴らしい「思考」ができるはずだ、と私は思います。


さて、 שמיםシャマイム 天 の話に戻りますが

太陽が輝いている「天」ということを考えていたら
イザヤ書8章20節という記事に書いた「夜明け」という意味の

שׁחרシャカル について思い出しました。(こういう、ピンポイントで記憶を取り出すことのできる「脳」も素敵な被造物だと私は思っています)

שׁחרシャカル のシャもシャマイムのシャのような気がします。(個人の感想です)

以下イザヤ書8章20節 に書いた事を再び書きます


שחרは夜明けです。見事な「絵画」のような単語です。

ש ח ר שחר

ר地平線に真っ赤な真っ直ぐな光が走る

חやがて太陽がわずかに顔をのぞかせる

שそしてまばゆいばかりの光が地全体を照らす

個人の感想ですww