はじめに神は天と地とを創造された。
בראשית ברא אלהים את השמים ואת הארץ׃
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
והארץ היתה תהו ובהו וחשך על פני תהום ורוח אלהים מרחפת על פני המים׃
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
ויאמר אלהים יהי אור ויהי אור׃
神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた
וירא אלהים את האור כי טוב ויבדל אלהים בין האור ובין החשך׃
神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。
夕となり、また朝となった。第一日である。
ויקרא אלהים לאור יום ולחשך קרא לילה ויהי ערב ויהי בקר יום אחד׃
創世記1章1~5節
BIBLE HUBのサイトを利用してヘブライ語の創世記を一節一節ノートに書き写すということを続けています。ただただヘブライ文字と発音記号を眺めているだけなのですが、
ずーっと眺めていたら面白いことに気付きました。「ה」と「ל」という文字。
神さまがיהי אור(光よあれ)とおっしゃると
אור(光)が出来るのですが、
出来たאורは次に「ה」の文字がつけられて、האור となる。
で、おなじように「ה」がつけられている闇החשךとの間を分割されるという文になってるわけです。
そしてさらに次にはלאור という
「ל」という文字のついたאור
が現れ、その「ל」という文字がつくと光の果たすべき役割が決められてיום昼という名がつけられることとなるわけです。
もちろん、ヘブライ語に詳しい方がご覧になったら
こいつはいったい何を言ってるんだ!?
「ה」なんてそれはただの冠詞theだよ、
「ה」なんてそれはただの冠詞theだよ、
ということになってしまうかもしれませんがしかし言いたい(笑)
石の板に文字を書いてくださった神さまだから、
眺めているだけの私にもぜったいなにかしら気付けることがあるのだ、と思うので。(思いこみか?信仰か?)
眺めているだけの私にもぜったいなにかしら気付けることがあるのだ、と思うので。(思いこみか?信仰か?)
創世記の始めのあたりをヘブライ語を書き写しながら気づいたのは、
神さまが何かを作られるときには一定のルール(段階)があるんだなあということです。
よく見れば日本語で読んでもそうだ、ということにヘブライ語を読んだ後に気付いたのですが、
母国語で読むと注意深く読めないのでしょうか、これまではそういうことを考えたことがありませんでした。
創世記1章1~5節で見た「光」だけのことではなくすべての被造物は光と同じような段階を経て造られます。
(この件に関してはこの記事を書いた二年後にもう少し詳しく書いていますので興味のある方はご参照ください。https://kyudochu.blogspot.com/2024/12/blog-post_16.html)
ヘブライ語の「ה」の文字が「光」という言葉の前につけられる段階になると「光」は「闇」に対するものであるということが示されて「闇」とは完全に分けられます。「光」とは「闇」とは相いれないものであり、絶対に混在することはないのだというご意志を感ずるのがこの段階です。
そういえば、アブラムがアブラハムとなった時に付加された文字は「ה」でした。
そういえば、アブラムがアブラハムとなった時に付加された文字は「ה」でした。
そして次の段階、ヘブライ語の「ל」という文字が「光」という言葉の前につけられている段階がやってきます。この創世記の箇所であれば「光を昼と名づけ」というところにある「光」がそれにあたります。「闇」とは完全に相容れないものとして分けられた「光」というものが、具体的にどんな役割をもっているのか、神さまがその役割を定めておられるように思えます。
このわずかなことをもって何かを語ることはおこがましいような気はしますが、
ただ、この「ה」と「ל」の文字がつけられている言葉を見たときに
私たち今この世界に生きる人間についても、
神さまはこのようにごらんになっているのだ、ということに気付いたのです。
神さまはこのようにごらんになっているのだ、ということに気付いたのです。
「ה」と「ל」の文字のことを考えながら読むと、
例えばベテスダの池のストーリーは創世記に始まった神さまの愛の壮大なストーリー、羊飼いがたった一匹の迷子の子羊を何千年もかけて探し続けるストーリーのように私には感じられるのです。
例えばベテスダの池のストーリーは創世記に始まった神さまの愛の壮大なストーリー、羊飼いがたった一匹の迷子の子羊を何千年もかけて探し続けるストーリーのように私には感じられるのです。
神さまが人を創造された。
人は罪を犯しエデンの園から追放された。
しかし神さまはその愛のゆえ愛するひとり子を世に送る。
時は満ちてひとり子は来られた。
そして神のひとり子である救い主イエスさまは罪にまみれた世で神さまと断絶している人に出会う。
イエスさまは神さまのみこころを宣言し、
罪から解き放ち(分離させ)神さまとの断絶を終わらせる!
そしてその人はみこころの実現のために歩みだす!