דברי אגור בן יקה המשא נאם הגבר לאיתיאל לאיתיאל ואכל׃
マサの人ヤケの子アグルのことば。イティエルに告げ、イティエルとウカルに告げたことば。
箴言30章1節(新改訳2017)マッサの人ヤケの子アグルの言葉。その人はイテエルに向かって言った、すなわちイテエルと、ウカルとに向かって言った、
箴言30章1節(口語訳)
ヤケの子アグルの言葉。託宣。この人は言う、神よ、わたしは疲れた。神よ、わたしは疲れ果てた。
箴言30章1節(新共同訳)ヤケの子アグルの言葉。託宣。その人は言う。神よ、私は疲れた。神よ、私は疲れた。吞み尽くされてしまいそうだ。
箴言30章1節(聖書協会共同訳)
本日は 私(試)訳してみました。
דברי אגור בן יקה המשא נאם
ヤケの子アグル
(すなわち トーラーを良く学び知識が豊富で人々にトーラーを教えるソロモン)による
重い預言の言葉
הגבר
勇敢で強じんな男
לאיתיאל לאיתיאל ואכל׃
自分を完全無欠な王だと考えている者ואכלウカル
もしくは
自分を完全無欠な王だと考えている者ואכלとウカル
に対して:
לאיתיאל לאיתיאלを「自分を完全無欠な王だと考えているואכלウカル」もしくは自分を完全無欠な王だと考えている者ואכלとウカルと訳した理由
箴言30章1節の発話者は、神さまからのהמשא נאם「重い預言」としてこの言葉を語っていることから、これは「人間に対する」深刻な言葉であると判断した。
次に、המשא נאםの後の一語目がהגבר「戦士または戦士のように強じんな男」という表現であることから、その人物は自分に自信のある人物であり、また、その強さゆえに人々の尊敬を集めるような立場にある者ではないかと推察した。
ただ、王であることを示したり王を表すような具体的な表現はないし、二節以下の言葉を翻訳聖書で読んでしまうと、あれやこれやの寄せ集めのようなとりとめのない箴言集になってしまうので訳が分からなくなってしまうが、重い預言、すなわち託宣をわざわざ何の権力も無い一般人に向けて書くはずがないと思うので、人々に大きな影響を与えるような立場の人間に向けて書かれたものであると考えるのが妥当かと思った。
もっとも、
王を意のままに操る事が出来るような立場にいる男の存在が世の中に無いとは言えないが。
いずれにしてもその男は創造主であられる神さまに反逆する者。だからこそ重い預言、その者にとって恐怖を感じるような預言、神さまの言葉が下されるわけだ。
そういうことを考えながら
לאיתיאלという単語の解釈に移った。
以前読んだ資料も参考にし、
同時に、私がいつも行っている「この単語を一枚の絵として眺めて考えた場合」
「what I say...
神さまはヘブライ語聖書を異邦人クリスチャンにも読めるように設計しているはずだから、こむずかしい文法など分からなくてもぜったい理解できるはず!というとんでもない「仮説」をたてて検証し続けている。
で、本日までのところ、
ヘブライ語のアルファベット22文字の意味をウィキペディアを使って把握、あとはひたすらクリスチャンとして教わってきた知識を総動員してひたすら眺め、毎日毎日考えていると、どこかから突然ふんわりと風が吹いてくるようになんとなくどことなく意味が分かるようなシステムになっている、というような気になっている。例を挙げればいろいろあるが、最もシンプルでわかりやすかったのは
אבד
これはアバ父よ、のアバ、アブであるאב「父」に、דダレト=扉(ドア)がくっついた単語だから、
ヨハネの黙示録のラオデキア教会の話だと気付き、ああ、あの神様をドアの外に追いやっている教会、つまりはその末路を想像すればよい、と。」
以前書いたようにこの単語לאיתיאלは左右対称になっていて
中心にあるのは「完全や完成」を表すヘブライ文字の一番最後の文字תタヴである。
そして
לאיתיאלという単語はתタヴの両側に
神さまのは右の御手であるיヨッドが配置されていて
תタヴは一見すると両側のיヨッドに囲まれて守られているように見える。が、
このתタヴが表している者は、自分の左にיヨッドとאל神さまを置いている。
ヘブライ語は右から左に書いていく言葉なので、
左においてあるものは右のものよりも後ということになるからתタヴが表している者は
神さまの右の御手(救いの御手)であるיヨッドと
神さまを表す言葉であるאלエルを自分よりも後ろに置いているということになる。
つまり、「完全や完成」を表すはずのתタヴが「神さまの御力や神さまご自身に対して非常に不遜である」
という本来ならばありえない事態がそこに見える。神さまを後ろに置く事が不遜に感ずることについての根拠:
協会訳では詩編54編5節や86編14節、新改訳では詩篇54篇3節や86篇14節
そして、そういう不遜である「完全」な者תタヴの右側(先頭)にלאがあるので、
לאは否定や禁止命令を表すから、このתタヴで表されている者は禁止命令を第一に掲げている者である可能性がある。禁止~禁止~!ダメ―ダメ―!ということでおなじみの男、というような、人々を法律でがんじがらめにして、自分firstな政治を行っている独裁者なのかもしれない。
以上のような「絵画的な」捕らえ方をしなかったとしても
一文字目のלラメドを通常の前置詞のようにとらえ
つまりלラメドがאיתיאלの前につけられたものとし、
אית については、את の間にיヨッドが入っていると考えれば
・・・もっとも、Strong’s Hebrew853番のאתとはいったい何なのかわからないということになっている現状では解釈することはできないのだが
אתを黙示録にあるアルファでありオメガ、つまり、最初であり最後であるととらえれば、
すなわち、
אתとは神さまの尊い御言葉トーラーによって完成された付加不許容、付加不必要なものであるというような、私自身の説をとると、(また結局独自解釈になってしまうけれども)
減らすことも付け加えることもしてはいけないという
神さまの御計画通りに御言葉によって造られた被造物תタヴの前に
もう一つ神の救いの右の手であるיヨッドを入れることで、
「神の救いの御手が働いた結果」ということをいっそう強調し
「この者はתタヴとされたのだ」と読めるわけだが、
תタヴの後ろにもיヨッドが置かれ、さらには
神さまを表す言葉であるאלまでもがその後ろに置かれているということから
この者がתタヴ=完全だというのは
神さまからの本当の評価ではないけれども、たとえば「その時代の中で」
「全知全能であられる神さまの御心として」その男の存在がゆるされているということなのかもしれない。
さらに、לאיתיאלが二度繰り返されているので、強調されている意味である考えられるから
その男は不遜の極みであって、自分を創造主であられる方と同列、またはそれ以上だと考えているのかもしれないと思い、「完全」という語をいっそう強調するために「完全無欠」という言葉を充てたらいいのではないか、と考えた。
(そのとき、アラジンの「完全無欠のロックンローラー」という曲のタイトルが脳内に思い浮かんだという事実は否定できないのと、聖書とその関連書籍しか読まないような生活を40年も続けているので日本語の語彙が少なすぎると感じた。
このごろ自分はいつも翻訳聖書の批判ばっかりしている気がするけれども、翻訳とは実に難しい作業だと思う。しかも、単なる翻訳ではなくて聖書を全く知らない日本語を使う人々に対して「キリスト教を布教」する目的があるとしたら、直訳とは異なっても仕方がないのかもしれない、と思うようにもなった。が、聖書のみ、という信仰を持っていた自分にとって、
もちろんそれは「原典において」のことだ、とは考えていたけれども、ブレズレンの群れにいて暗誦するほどに手元の聖書を読み続けていた自分にとって、「秋の夜長に聖書の比較」で知った事実は本当に本当にショックな出来事だった。
秋の夜長に聖書の比較の後、使徒28章26,27節に引用されているイザヤ書6章9,10節の言葉が素直に読むとギリシャ語でもヘブライ語でもなんか違うのでは、ということも知り・・・以降、頭痛と腹痛で生活に支障が出るようになってしまった😷メンタル弱すぎ…というか自分にとっての根幹の問題ですから)
最後に、ואכלウカルを固有名詞にした理由について
ואכלウカルを動詞「אכל食べる」であると考えて一文字目を接続詞のוヴァヴであると考えてみたが、いったい何と何を連結させて「そして食べる」と言っているのかということがどうしてもつかめなかった。
「לאיתיאל לאיתיאל」そして「ウカル」という人 に対する託宣
לאיתיאל לאיתיאל が「ウカルと同一人物」という可能性も残しておきたい。
が、いずれにせよウカルは固有名詞がいいような気がする。
今後もっともっとトーラーや預言書等々を読み進め
更なる考察の上 変更する可能性は大いにありますが、本日のところはこれで・・・