「完全」という言葉(2)「エロヒム」と「タミム」のイム
先日書いた「完全という言葉」https://kyudochu.blogspot.com/2024/11/27.html
という記事で触れたタミムとトム(タム)という単語にイムがくっついた形?という話の続きです
תםトム(タム)とתמיםタミムが両方とも「完全」という意味を持つというのですから、
תםトム(タム)をベースにして「ים」が付き、תמיםタミム なのではないだろうか、と考えるのは自然な話で、
だとすれば、תםトム(タム)にיםがついたתמיםタミムとは、
תםトム(タム)のあらわす「完全」とどこが異なっているのか、
その違いを調べればיםがいったい「どういう気分でつけられたものなのか」という事がわかるはずです。
そして、もしもそこに見いだせるものがあるのならば、ほかの言葉においても
つまり、יםがついているか否かという違いはあるが基本的な意味において類似している二つの単語があった場合に、
もちろん、単純に「複数形」だと考えればよいものはあるわけですが、本当に「複数形」なのか?と困惑させられるようなיםや、תמיםタミムのように明らかに複数形ではないけれども単語の最後がיםで終わっているものについて、
聖書ヘブライ語を理解して使っていた古代人たちがיםという二文字をどんな気分で使っていたのか、ということを知るための手がかりになると思うのです。
תםトム(タム)にיםがついたתמיםタミムというיםの有る無しによる意味の差についての詳しいことは前回の記事である「完全という言葉」https://kyudochu.blogspot.com/2024/11/27.html
にありますのでご覧いただければと思いますが、そのとき気付いた事は、
תםトムとתמיםタミムでは、それぞれの言葉が「完全」だと評価する「対象」に違いがあるということです。
聖書にתםトム(タム)である、と書かれていたのは
・ヨブ(ヨブ記1章1節)ただし、12章4節における「正しく全き人は物笑いとなる」というヨブの言葉における「全き」はתמיםタミムです。
・ヤコブ(創世記25章27節)
・雅歌に登場する花嫁(雅歌5章2節、6章9節)
そして、תמיםタミムであると書かれていたのは
・主の律法(詩編19編8節)
・神さまの御業(申命記32章4節)
・神さまの道(詩編18編31節)
・ノア(創世記6章9節)
・ささげものとして認められた動物
・ささげものとする動物
תמיםタミムは最も高い意味での「完全」という言葉のように見えます。
そして、
これだけの結果で語るのは時期尚早かもしれませんが、
יםとは
神さまレベルの、本当に何の欠けも見出す事が出来ないレベルを示す言葉なのでは??
יםはもともと「海」を表す言葉です。
古代人が海を見てどんなことを思ったのか、その気持ちがこの二文字にこめられているのかもしれません。
広く広く大きな大きな海。水平線の向こうが一体どうなっているのか想像もつかない海。生きていくためには絶対に欠かすことのできない水がたくさんたくさんある海。満ちてあふれてざぶ~んざぶ~んと陸地に水がのぼって来る海。そしてそこに竿を振り下ろせば、ひょっこり魚が現れる海。
無限で、
力強く、
命を与えてくれる海!
יヨッド=神さまの右の手と、
מメム=波の形から出来た文字 が
大きく広がったようなםメムソフィートで表される
יםヤム=海
大きくて広くて無限で豊かで、
しかしその一方で荒れれば舟を飲み込み、津波となれば町をも飲み込んでしまう恐ろしさを持つ
そのようなイメージが語末のיםにはあるような気がします。
そして、
יםが語末につくと「複数形」である、といういわゆる「文法」に関することについてですが、
中学校時代の英語学習の記憶に基づいて、一つではなく二つ以上の場合には「複数形」に変える、そういうものだと単純に理解しがちですが、
どうして複数形に変えなければいけないのか、どういう心持で英語話者はそこを変化させるのか、ということについて、複数形を持たない日本語話者である自分にとっては理解しがたいものがあります。もちろん、いっぽん、にほん、さんぼん、よんほん・・・と無意識のうちに言えてしまう事を考えるならば、どの言語を使う人々においても、脳の中にはよく考えることもなく、反射といえるようなスピードで言葉を処理するシステムが備わっているのであって、ネイティブスピーカーならば細部まで「理解ししみじみと味わっている」わけではないのも事実です。
しかし、聖なる言語、聖書ヘブライ語のことです、ロボットでも簡単にクリアできてしまうような理解、与えられた情報を暗記して「物知りです。何でも聞いてください。いろいろ暗記してます。すごいでしょ?」だけでよいのか、というような気がしています。
話がずれました。
複数形のיםの話をしていたのでした。
自分としては今「聖書ヘブライ語では単語の繰り返しによって物事を強調する言語である」ことと「複数形」にはかかわりはないのか、というあたりが気になっています。
創世記2章17節では死ぬという言葉が二度繰り返され、「死が不可避」であることを表していたり、
מות תמות
イザヤ書6章3節では主について聖なるを三度繰り返して「強調」されています。
本来の意味としては、一度の「聖なる」では足りない、二度でも足りない、三という完全な数の回数「聖なる」を繰り返すことによってしか
神さまが本当に本当に本当に聖であることを表せないと「考えている著者」がいたわけです。
同じ言葉を繰り返すことによる強調と、複数あるように表現することには「気分的な近さ」があるのではないか、と私は思うのです。
ある意味洗練されていない言語表現とも言えそうですが、こういうところに将来を見据えた言語の設計を感じます。文化的な背景が異なる者たちそして小さな子供から高齢者までがこの言語のもとに集まった時、
「いっぱいいっぱい、大きい大きい、すごいすごい」と言っている人がいたならば
「いっぱい、大きい、すごい」と言っているよりもたくさんあり、もっと大きくて、とてもすごいらしいということは伝わるからです。
一方、もしも「どこどこには『~小町』と呼ばれている人がいる」という話があったとしても、それがいったいどういう意味なのか、たとえ日本語話者であったとしても、小学校低学年の児童にはおそらく伝えることはできません。
創世記1章1節の
אלהים エロヒムとは
他に類を見ない偉大なお方を表現するための複数形יםなのではないか、と思います。
なあんて書いてからBIBLE HUBでStrong's Lexiconを見ていたら、
https://biblehub.com/hebrew/430.htm
数ではなく威厳や強さの複数形
複数形は、神の本質と属性の完全性を反映している可能性
と書かれていました。
落ちこぼれクリスチャンなので教わったことがなくて知りませんでした~💦
辞書も持ってなかったから何日も何日も何十日も何年もw考え続けてしまったww。
でも、極東の、専門性もお金もないアラ還主婦でも、無料サイトを使った自学自習でそこらへんには到達できるってことですよね。神殿だからw
楽しい(⋈◍>◡<◍)。✧♡
そうそう、最近のBIBLE HUBはUsageとCultural and Historical Backgroundが充実していっそう便利になりましたね。感謝、感謝、感謝!です。
ところで、
ここのところずっとתמיםのיםについて考えていて、
ふと、2023年の11月から2024年の2月まで書き続けていたイザヤ書30章26節の解釈シリーズが思い出されたのです。
イザヤ書30章25節をヘブライ語聖書で見るとこう書いてあるわけですが
והיה על כל הר גבה ועל כל גבעה נשאה פלגים יבלי מים ביום הרג רב בנפל מגדלים׃
下線を引っ張ったところは
「大いなる殺戮の日、塔という塔が倒れる時に」
にあたる部分で
「塔という塔」と訳されているところは
מגדלミグダル=塔 にיםイムがついて
מגדליםミグダリムになっているわけです。
だから「塔という塔」と訳しているのだと思いますが、
מגדלミグダルという名詞にיםイムが付いたこの単語も、もしかしたら
יםイムによるמגדלミグダルの強調、つまり、塔がたくさんあるという意味ではなく、非常に優秀な、バベルの塔を企てたような人物一人を暗示しているのかもしれないと思いました。
もちろん、יםイムを単純に複数ととるのか、強調ととるのかということについてはケースによって適用の可否はあると思いますが。
ただ、間違いなく言えることは、貴重な「紙(羊皮紙)」にものを書く古代人が、私のような現代の俗人がスマホやPCを使って書くような雑で愚かなことをするはずはありません。
文字の選び方、言葉の選び方、そして文字や言葉を紙のどの位置に置くかということまで、真剣に真剣に考えているはず。
しかも、預言の言葉です。
神さまはイザヤに何を託し、書かせたのでしょうか。
令和の世に生きる日本人だって読むはずの聖書に。
まあ、何が書いてあろうと何が起ころうと私にできることなすべきことは
たった一つしかありませんけれども。ね。