箴言24章5節を聖書協会共同訳で読むとこうあります。
知恵ある男は強い。知識のある人はさらに力を加える。
今日はこの聖句を手掛かりにして「知恵」と「知識」とは何か、という事を調べたり考えた話と、いつものように今朝台所でふとひらめいた!?話を記録したいと思います。
ヘブライ語聖書で箴言24章5節を読むとこうなっています。
גבר חכם בעוז ואיש דעת מאמץ כח׃
右から二つ目の単語חכםカカム が「知恵」にあたる言葉です。
これはWise, skillful, learnedと定義されるようです。
ギリシャ語ではσοφός, sophos ソフォス
で、「知恵」とは、
古代イスラエルではこれは「神さまからの賜物」すなわち、神の道を深く理解し、その知識を人生に効果的に適用する「能力」であるという理解だったようです。
なので、出エジプト記における幕屋製作の場面で、例えば35章10節にはこんな御言葉がありますが
あなたがたのうち心に知恵のある者は皆やって来て、主が命じられたものをすべて作りなさい。(聖書協会共同訳)この御言葉に書かれている「知恵」がまさにחכםカカムです。
חכםカカムを持っている人のことをヘブライ語では「賢者」と呼ぶようです。
過去の記事ではそのあたりのことを良くわからぬままに「賢者」という言葉を引用しておりました。賢者とは、自らの経験によって得た知識や技能を、
賢者という言葉を引用している過去の記事↓
「箴言30章1節 ヤケの子アグル」
https://kyudochu.blogspot.com/2024/08/blog-post_8.html
イザヤ書30章26節の解釈(12)「七日の光」
https://kyudochu.blogspot.com/2023/12/3026.html
ところで、箴言24章5節のחכםカカムの前にある一語目の単語
גברゲベル これは聖書協会共同訳の翻訳では「男」と訳されているのですが、
これは人間の性別を表す言葉ではなく、「強い」または「勝つ」を意味するガバルという言葉の派生語で、強さ≒戦士のような資質を意味する言葉です。
今どきの社会でそういうことを言ったらぶん殴られるのかもしれませんが、聖書の世界=家父長制社会において男性は強くあることが求められます。家族を守り、一族を守るための強さ。肉体的に、そして道徳的にも勇敢であることが求められたのですね。
גברゲベルは箴言30章1節にもあった言葉です。今年の8月に書いた記事でちょっとだけ言及しています。
(参照)箴言30章1節 「疲れた~」とか言ってる場合じゃないと思うのですがhttps://kyudochu.blogspot.com/2024/08/blog-post.html
ちなみに、聖書によく登場する「強くあれ雄々しくあれ」という言葉にはゲベルとガバルではない言葉が使われています。
強く、雄々しくあれ。彼らを恐れ、おののいてはならない。あなたの神、主があなたと共に進まれる。主はあなたを置き去りにすることも、見捨てることもない。」
申命記31章6節(聖書協会共同訳)
ヨシュアは彼らに言った。「恐れてはならない。おののいてはならない。強く、雄々しくあれ。あなたがたが戦う敵すべてに対し、主はこのようにしてくださるのだから。」
ヨシュア記10章25節(聖書協会共同訳)
この二か所にある「強く、雄々しくあれ」はヘブライ語でこう書かれています。
חזקו ואמצו
חזקカザクが「強く」という意味で、強くあれ、と励ますときによく用いられるそうです。
そして雄々しくあれと訳されているのはאמץアメツで、勇気があるという意味がある単語です。困難や敵に直面したときに勇気をもって勇敢に、毅然とした態度で臨むこと、つまり精神面での強さ≒神さまへの信仰に基づいて勇気を持つこと それが日本語で「雄々しくあれ」と訳されている部分です。
גברゲベルとは、חזקカザクとאמץアメツの両方を持つ者なのだと思います。それが古代イスラエルにおいて「男性」に望まれたことです。
まあ、現代においてはそうでないのでしょう。
どんどんどんどんトーラーで定められた境界線が取り払われてごちゃまぜにして、いかにもそれが進歩的文化的であるような事を言って
しかしそれは成熟した文化ではなく衰退なんだ、エレミヤ書4章23節なんだ、と私には見えます。なぜなら聖書の神さまを信じているからです。ああ、また昔見たムーディ科学映画を思い出す😩
次に箴言24章5節において「知識」と訳されている言葉について、
ヘブライ語聖書では右から5番目にある単語がそれです。
גבר חכם בעוז ואיש דעת מאמץ כח׃
דעתダアト
この単語が聖書の中で一番初めに登場するのは創世記2章9節「善悪の知識の木」というところです。
そしてדעתダアトは、
「知る」という意味があるידעヤダという単語が元になってできた言葉だそうです。
ידעヤダは、夫と妻の親密な関係や、神さまとの契約関係を表すときに使われています。
神さまとの契約関係を表している箇所とは
例えば創世記18章19節に「選んだ」というふうに訳されている言葉がありますが、
そこにידעヤダという単語が使われています。
私がアブラハムを選んだのは、彼がその子らとその後に続く家族の者たちに命じて、彼らが正義と公正を行い、主の道を守るようにするためであり、主がアブラハムに約束されたことを成就するためである。
創世記18章19節(聖書協会共同訳)
夫婦の親密な関係について「知る」という言葉が使われていることは日本語の聖書だけを読んでいるだけの時にも知っていましたが、
神さまがアブラハムを「選んだ」と訳されている言葉も
「知る」という意味のあるידעヤダであったとは・・・。
古代のイスラエル人にとって「知る」ということは、日本人である私たちの知っているところの「知る」とはかなり違うのではないか、と思わされます。
私たちにとって「知る」ということは、特に現代に生きる大多数の人々にとって「知る」という言葉は、物事の表面をうっすらと掠る程度の話ではないでしょうか。
たとえば、小さな子供が大人から何かを尋ねられたときに「それ知ってる知ってる!」というようなことだったり、
あとは、
あえて「小さな子供」の例と並べるという意地悪をしようと思いますが、
日本の有名大学の学生がテレビのクイズ番組で得意そうに披露する、特に専門性があるということではない、「言葉の定義などについての情報」が現代日本で暮らす私たちが思う「知識」であり、それらを自らの中に集積させることが「知る」という単語の定義なのだろうと思います。
しかし、夫婦の親密な関係や神さまとの契約関係が単なる情報の集積であるはずはなく、しかも聖書に初めて登場する「知識」という言葉は「善悪の知識の木」ですから、
ヘブライ語聖書が語る「知る」とはそして「知識」とは、
現代の日本語において定義されるものとは全く異なるもののような気がします。
結果として脳の中に集積されるという現象は起こるとしても、
知ろうと思うに至る「動機」そして手にする「知識」
それはまさにדעתダアトという言葉の三文字が語る通りなのです。
דダレトは「扉」という意味を持つ文字ですが、
知ろうと思うに至る「動機」を持った人間がまずは知識に至るための「扉」の前に立つわけです。そしてעアインは「目」です。目で見る、観察する、そういう行動を起こすわけですね。そして最後はתタヴ「完了、完成」です。
そんなことを考えながら台所に立っていたら
貼ってあるイザヤ書8章20節の中の一つの単語に目がいきました。
תעודהテウダー
これは以前
イザヤ書8章20節 絶望の淵から
https://kyudochu.blogspot.com/2023/02/820.html
という記事でも言及した言葉なのですが、
そのתעודהテウダーの中にדעתダアトの三文字が丸々入っていることに気付いたのです。
完全に逆の配置、左から書かれたדעתダアト
逆の配置であるので、תタヴから始まる。
תタヴから始まるのだから既に完成しているもの。
何かをこれから付け加える必要のないもの。
私たちのように新しく何かを知って知識を獲得しなくて良いもの。
そしてתורהトーラーと同じようにתタヴから始まっていてהヘーで終わる言葉、
つまり、תורהトーラーと同じように命を与える完全なもの。
לתורה ולתעודה
תורהトーラーと並列できる、完全で、私たちに命を与えてくださるもの!
あ!
次の瞬間、
תעודהテウダーの日本語訳である「証し」という言葉と全く同じ「証し」という言葉が新約聖書にあることに気付かされました。
その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確かに認めたのである。
ヨハネによる福音書3章33節(聖書協会共同訳)
イエスは答えて言われた。「たとえ私が自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、私は知っているからだ。しかし、あなたがたは、私がどこから来てどこへ行くのか、知らない。
ヨハネによる福音書8章14節(聖書協会共同訳)
イザヤ書8章20節と同じ「あかし(証し)」という言葉
ギリシャ語ではμαρτυρία マルトゥリア
しかもヨハネ8章14節には「知っている」という言葉があります。
天から降られた御子は全てのことをご存じであるけれども、一方人々を導く賢者であろうファリサイ派の人々は賢者であるが「知らない」。
そして、イエスさまはתמיםタミム(完全)。
罪の無いתמיםタミム。
מים枯れることのない水をお与えになるお方。
神さまがイザヤを通して語られた、
תורהトーラーと並列できる、
完全で、私たちに命を与えてくださるתעודה「あかし(証し)」
神さまの御子イエスさま!
たしかに、よくよく考えてみれば、イザヤ書8章の後にあるのは9章なのです。
8章20節に書いてあったのは
תורהトーラー(教え)とתעודהテウダー(証し)によらなければ夜明けは訪れないということです。しかし、9章の1節2節ではこのように書いてあるのですから
しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。
暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。
イザヤ書9章1,2節(口語訳聖書)
そしてתורהトーラー(教え)とתעודהテウダー(証し)がそろったので暗やみの中に歩んでいた民は光を見ることになったわけです。
イザヤが語っている時代にתורהトーラーは既にあるのですから、あとはתעודהテウダー。じゃあ、תעודהテウダーとは何かと問われれば
イザヤ書9章1,2節をもたらしたお方、つまりイエスさま!
なぜ、今まで気が付かなかったのでしょう(;´Д`A ```