残りの者(2)

何年か前にも書きましたが、
「残りの者」という言葉についてもう一度書くよう導かれました。



ヤコブの残りの者
多くの民のただ中にいて
主から降りる露のよう
草の上に降る雨のようだ。
彼らは人の力に望みをおかず
人の子らを頼りとしない。ミカ書5章6節(新共同訳)
ここに使われている残りの者という言葉は
 
 Strong's Hebrew 7611 שְׁאֵרִית
sheerith と読みます。
聖書の中では66回使われていて
 
一番初めに登場するのは創世記45章7節(以下引用聖句は口語訳聖書より。)
 
神は、あなたがたのすえを地に残すため、また大いなる救をもってあなたがたの命を助けるために、わたしをあなたがたよりさきにつかわされたのです。
「残す」というところに使われています。
 
そして二度目に登場するのはサムエル記下14章7節
すると全家族がつかえめに逆らい立って、『兄弟を撃ち殺した者を引き渡たすがよい。われわれは彼が殺したその兄弟の命のために彼を殺そう』と言い、彼らは世継をも殺そうとしました。こうして彼らは残っているわたしの炭火を消して、わたしの夫の名をも、跡継をも、地のおもてにとどめないようにしようとしています」。
「残っている」というところがこの語です。
 
このStrong's Hebrew 7611 שְׁאֵרִית は
Strong's Hebrew 7604 שָׁאַר がもともとの言葉です。
 
שָׁאַר  Strong's Hebrew 7604
shaar と読むヘブライ語です。
コンコルダンスを見ると聖書の中に133回登場する、と書かれています。
 
一番初めに登場するのは創世記7章23節のところ。ノアの箱舟のところです。
地のおもてにいたすべての生き物は、人も家畜も、這うものも、空の鳥もみな地からぬぐい去られて、ただノアと、彼と共に箱舟にいたものだけが残った
「残った」と訳されているところにこの語がつかわれています。
 
 
次に登場するのは創世記14章10節。
シデムの谷にはアスファルトの穴が多かったので、ソドムの王とゴモラの王は逃げてそこに落ちたが、残りの者は山にのがれた。
「残りの者は」というところにこの語がつかわれています。
 
 
3番目に登場するのは創世記32章8節
言った、「たとい、エサウがきて、一つの組を撃っても、残りの組はのがれるであろう」。
「残り」がそれです。
 
 
4番目に登場するのは創世記42章38節
ヤコブは言った、「わたしの子はあなたがたと共に下って行ってはならない。彼の兄は死に、ただひとり彼が残っているのだから。もしあなたがたの行く道で彼が災に会えば、あなたがたは、しらがのわたしを悲しんで陰府に下らせるであろう」。
 
「残っている」というところにこの語がつかわれています。
 
そして5番目、創世記ではこれが最後の登場となりますが47章18節
 
やがてその年は暮れ、次の年、人々はまたヨセフの所へきて言った、「わが主には何事も隠しません。われわれの銀は尽き、獣の群れもわが主のものになって、われわれのからだと田地のほかはわが主の前に何もっていません。

 
133箇所引用するのはいろいろと問題だと思いますので
残りの「残りの者」については以下をご覧ください。
 
 
日本人が日本語のニュアンスで「残り」という言葉をとらえるとき、
「売れ残り」とか、「食べ残し」のような言葉を想像し、取るに足らないものというイメージを持つかもしれませんが、
ヘブライ語聖書を読んでみると、
もちろん、意味としては同じ最後に残ったものではあるのですけれども
取るに足らないという意味はほとんどないのです。
 

 
 
 
上にも引用しましたが、創世記7章23節のところを読むと「残りの者」という考え方が明確にわかります。
地のおもてにいたすべての生き物は、人も家畜も、這うものも、空の鳥もみな地からぬぐい去られて、ただノアと、彼と共に箱舟にいたものだけが残った。(口語訳)
たくさんある中から基準に合ったものだけが残される。
だから、「残りの者」とは選ばれた者、選び抜かれた選りすぐりの良いもの。

キリスト教会ではノアの箱舟をイエス様の救いの型だと言います。
それはまさにそういう意味合いですよね。
イエス様を信じる者と信じない者、箱舟に入るか入らないか、そして結果として箱舟の中に入り残ることのできた者がいる。
 
 
 
 
ダビデも詩篇37篇でこう言っています。
(日本語の聖書さまより口語訳聖書を引用します)
37:7主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。
おのが道を歩んで栄える者のゆえに、
悪いはかりごとを遂げる人のゆえに、心を悩ますな。
37:8怒りをやめ、憤りを捨てよ。
心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ。
37:9悪を行う者は断ち滅ぼされ、
主を待ち望む者は国を継ぐからである。
37:10悪しき者はただしばらくで、うせ去る。
あなたは彼の所をつぶさに尋ねても彼はいない。
37:11しかし柔和な者は国を継ぎ、
豊かな繁栄をたのしむことができる。
 
37:18主は全き者のもろもろの日を知られる。
彼らの嗣業はとこしえに続く。
37:19彼らは災の時にも恥をこうむらず、
ききんの日にも飽き足りる。
37:20しかし、悪しき者は滅び、
主の敵は牧場の栄えの枯れるように消え、
煙のように消えうせる。
 
うせ去り、いなくなり、消えて、消えうせるのは
やはりここでも悪しきものです。
 
日本式の「ばちがあたった」という発想でもこの詩篇は読めますが、
残る者、残らない者、という旧約聖書の中にみられる厳格なルール、線引(び)きを意識して読むと、
「国」という言葉の中に「神の国」がより明確に見え、
主の敵が「煙のように消えうせる」という、
跡形もなくなってしまうという表現が、どういう信仰の下でなされているのかということを
読み取ることができます。

 



という事を踏まえたとき、

マタイによる福音書24章の
この言葉のニュアンスはどうとらえる事が出来るでしょうか。

「そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。」

取り残されるという翻訳語は適切だとは思えない今日この頃です。