主は寛容なお方(3)「子どものように、自分を低くする者」とは
というタイトルで、2016年に書いたことがあるのですが、
今朝、ふとその記事の続きとなりそうな言葉が頭をよぎったので書いておこうと思います。
2016年の記事で私は最後にこうまとめました。
子どもっていうのは自分を低くしていて素晴らしいからそういう子どもの真似をして低くしなさいね、って言っているのではなく、
経験を積んでそして学問を修めた大人になっても、自分は子どものような小さいものだ、取るに足らないちっぽけな者なんだと考え、そういう態度でいなさいよ、ってことなんだ
で、今朝思ったのはこういう言葉です
子どものように、自分を低くするとは、凝り固まったもの(そういうもんだ、と思い込んでいるもの)を手放すこと。
大人とはある意味「完成されたもの」です。
世の中とはこういうものであるということを、ある程度悟ったと考えていて、
「~とはそういうもんだ」と言いがちなものです。
しかし、本当に「そういうもの」なのかというと、
経験として「そういうもの」は確かにあるには違いないのですが
それが完全に正しいのか、と言えば、
正しいわけではないのかもしれない
と、正しいことばかりを求め続けて一周回って
正しいのは神さまだけだとわかった、という愚かな私はしみじみと思います。
凝り固まったセルライトのような、血管のプラークのようなものは
せめて「考える」という行いの中からは排除したい
そんなふうに思った朝でした。