2016年8月1日月曜日

【調べ学習】いちじくについて

「いちじく」について調べ学習をしました。
 
イエスさまが「いちじくの木を呪って枯らしてしまう話」というのが、今通読しているマルコの福音書をはじめ他の福音書にもあるわけですが、
何度読んでも変な話だとしか思えないのですよ。だってね、イエスさまはまず空腹を覚えられ→いちじくの木のところに行って実がないと知り→呪っていちじくの木を枯らす
ってね、簡単にストーリーは展開していくわけですが、でもイエスさまが荒野の試みで空腹だったときどうであったか、5000人給食のあたりの話とのからみではどう考えればいいのか、とか考えると、腹が減って食えなかったから枯らしちゃったというそんな簡単な話であるはずがない。
で、教会や集会でもこれはね、と「解釈」を習ったことはあるのですが、「解釈」ではなく、また、辞書的なものでなく、聖書のみことばをひたすら読んで読み取ったらどう読めるのか大変に興味があったのです。
 

 
今回の調べ学習の手順は、


エレミヤ書8章13節に出て来る「いちじく」という語を手がかりにおなじみBible Hubでまず原語(ヘブライ語)を検索。
http://biblehub.com/jeremiah/8-13.htm
つぎに、その言葉が聖書(旧約)のどこに使われているかを調べ、
http://biblehub.com/hebrew/8384.htm
その全ての箇所を読むことでどういう印象を持つことになるのか、やってみました。
 
原語はתְּאֵנִים Transliteration(音訳)すると 「teenah」だそうです。
で、この語は聖書の中に39回登場。
以下聖書の箇所と括弧内はその箇所のざっくりした内容です。
括弧内にA、,Bと書いてあるものは、聖書を読んでいて気になった箇所で、この下にAグループBグループ二つのグループに分類して、日本語聖書を引用しています。
 
創世記3:7(葉)
民数記13:23(エシュコルの谷)
民数記20:5(A)
申命記8:8(B)
士師記9:10(たとえ話)
士師記9:11(たとえ話)
列王記上5:5、新改訳聖書ではⅠ列王記4:25(B)
列王記下18:31(B)
列王記下20:7(B)
ネヘミヤ記13:15(安息日を汚す)
詩編105:33(A)
箴言27:18(いちじくの番人)
雅歌2:13(B)
イザヤ書34:4(A)
イザヤ書38:21(B)
エレミヤ書5:17(A)
エレミヤ書8:13(A)
エレミヤ書24:1、2、3、5、8(民をいちじくに見なす)
エレミヤ書29:17(民をいちじくにたとえる)
ホセア書2:12(A)
ホセア書9:10(イスラエルの先祖をいちじくの初生りにたとえる)
ヨエル書1:7、12(A)
ヨエル書2:22(B)
アモス書4:9(A)
ミカ書4:4(B)
ナホム書3:12(ニネベの要塞)
ハバクク書3:17(A)
ハガイ書2:19(B)
ゼカリヤ書3:10(B)
 
 
Aグループ
 
民数記20:5 いちじくも、ぶどうも、飲み水さえもないではありませんか。(出エジプト時の不平)
 
詩編105:33 主はぶどうといちじくを打ち国中の木を折られた。(出エジプト前のエジプトで)
 
イザヤ書34:4 天の全軍は衰え、天は巻物のように巻き上げられる。ぶどうの葉がしおれ、いちじくの葉がしおれるようにその全軍は力を失う
 
エレミヤ書 …ぶどうやいちじくを食い尽くす。お前が頼みとする砦の町々を剣を振るって破壊する。
 
エレミヤ書8:13 ぶどうの木にぶどうはなく、いちじくの木にいちじくはない。葉はしおれ、わたしが与えたものは彼らから失われていた。
 
ホセア書2:14 (新改訳では2:12) いちじくとぶどうの園を荒らす
 
ヨエル書1:7 わたしのぶどうの木をあらし、わたしのいちじくの木を引き裂き
 
ヨエル書1:12 いちじくの木は衰え
 
アモス書4:9 いちじくとオリーブの木はいなごが食い荒らした。しかしお前たちはわたしに帰らなかった。
 
ハバクク書3:17 いちじくの木に花は咲かず
 
 
 
 
Bグループ
 
申命記8:8 小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地(神さまのたまわる良い地を描写)
 
列王記上5:5(新改訳ではⅠ列王記4:25)ぶどうの木の下、いちじくの木の下で安らかに暮らした。
 
列王記下18:31「わたしと和を結び、降伏せよ。そうすればお前たちは皆ぶどうといちじくの実を食べ、自分の井戸の水を飲むことができる。」(アッシリアの王の言った言葉)
 
列王記下20:7、イザヤ書38:21 イザヤが「干しいちじくを取ってくるように」と言うので、人々がそれを取って患部に当てるとヒゼキヤは回復した。
 
雅歌2:31 いちじくの実は熟し、ぶどうの花は香る。恋人よ、美しい人よ、さあ立って出ておいで。
 
ヨエル書2:22いちじくとぶどうは豊かな実りをもたらす
 
ミカ書4:4 自分のぶどうの木の下いちじくの木の下に座り脅かすものは何もない
 
ハガイ書2:19 ぶどう、いちじく、ざくろ、オリーブはまだ実を結んでいない。しかし、今日この日から、わたしは祝福を与える。
 
ゼカリヤ書3:10 その日には、と万軍の主は言われる。あなたたちは互いに呼びかけてぶどうといちじくの木陰に招き合う。
 
 
 
コンコルダンスに挙げられていた聖書の箇所を創世記から順番に読んでいって、まずは「そんなの当然でしょ」と言われるかもしれませんが、日本とは異なりごくごく当たり前なものとしていちじくが存在しているということが分かりました。(たとえ話等に用いることが出来るような、人々が皆その植物の名を出されると共通に理解し合えるなにかを持っている。)
ただ、当たり前な存在ではあるのですが、どうでも良いものという扱いではなく、大切な作物。
上のBグループに分類したみ言葉を読むと、
いちじくの木や実があるということが、喜びがあふれ、平安であり、つまり神さまから大いに祝福されているということを表しているのだと受け取れます。また、ヒゼキヤ王の病が干しいちじくによって癒されたことや他の預言書のみ言葉からは、いのちを得ること=回復というイメージもあるように感じます。
しかも、グループに分類しなかった以下のみ言葉を踏まえるならば、
エレミヤ書24:1、2、3、5、8(民をいちじくに見なす
エレミヤ書29:17(民をいちじくにたとえる
ホセア書9:10(イスラエルの先祖をいちじくの初生りにたとえる
いちじく(植物名)=イスラエル(民族=ヘブライ人)
であり、したがって、いちじくに実があるとか無いとかいうことはイスラエル(民族)のことを語って実があるとか無いとか語っていると考えるのが妥当なのかと思います。
 
 
Bグループに対してAグループに分類したみ言葉は、読んでいてBグループの逆だな、と感じたものを列挙したのですが、
 
まずは出エジプト中の事として、いちじくの実がない=食べられない、食べるものがない=苦しい状態を表現している民数記のみことばが一つ。
そして次の詩編のみ言葉は、出エジプト直前のエジプトで神さまがぶどうといちじくを打ち、国中の木を折られたという話。このいちじくはイスラエルのことではなく、豊かだったエジプトを表現するためにあげられているのだと考えられますが、その豊かさをその悪のゆえに神さまが打たれたということで、神さまのさばきと言いましょうか、イスラエルを守るために、そしてしるしのため、神さまが人間の営みそして自然の営みに介入されたということです。
いずれにしましても、いちじくの実が無いということは、喜びも平安もなく、神さまから見捨てられた状態を表現するときの象徴的なできごと、もしくは、実際に実は無いし木も枯れるのかもしれませんが、とにかくイスラエルを愛し選んでくださったまことの神さまと断絶した状態の表現であることがうかがえます。
 
 
マルコによる福音書11章12節から始まるいちじくの木を呪うお話は、
今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように
とイエスさまが語られてから
いちじくの木が根元から枯れているのを見た。
という記述に至る間に、実はいわゆる「宮きよめ」の出来事が書かれています。
 
「こう書いてあるではないか。
『わたしの家は、すべての国の人の
祈りの家と呼ばれるべきである』
ところが、あなたたちは
それを強盗の巣にしてしまった。」
マルコによる福音書11章17節
 
上に書いたBグループのいちじくの記述とあわせて考えるならば、
イエスさまが見たいちじくの木には実が無く葉しかなかったという表現で
まずイスラエルが神さまと離れている断絶しているという状態を象徴的に、もしくは現実の問題として「葉しかなかった」と表し、
次に、宮きよめの様子を記述することで、イスラエルが現状でどんなに堕落しているのかが二段構えでわかるわけです。
また、あの常に穏やかなイエスさまが神殿から商人を追い出し腰掛けをひっくり返す=神さまによる実力行使=裁き ということが連想されるなか、同時に「あのいちじくの木が枯れた」ということを改めて記述することで、神さまと断絶してしまっているイスラエルへの裁きというものを、聖書をよく知る人々にはイメージできるのだと思いました。
 
 
ただ、もう一つ、
聖書をよく知る人にはイメージできることがある、と思いました。
上の方で
創世記3:7(葉)
と書いたのですが、何だよ(葉)ってwwということですが、
これは、あのアダムとエバの話のところです。罪を犯したアダムとエバ(当時はエバという名はなく女だった)がまず始めにやったことはいちじくの葉で腰を覆うということでした。
いちじくの葉で腰を覆った二人=神さまの言いつけを守らず蛇の言うことを聞き目が開け裸であると悟った二人に
 
主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。
創世記3章21節
いちじくの葉ではなく、動物を犠牲にし、「皮」の衣を着せてくださったのですね。
 
宮きよめ、そしていちじくを枯らすという神さまの怒りと裁きを示されたイエスさまでありますが、
そう、この後イエスさまはいよいよ十字架にかかられる。
現状として神さまと断絶しているイスラエル、というだけでなく、アダムによって人間に入った罪、その罪のゆえにエデンの園=神さまの楽園、パラダイスから追放され、
罪が罪を産み、罪は熟しに熟し、様々な問題が次から次へと発生し、苦しみ悲しむすべての人々のためにイエスさまは血を流されるのです。
いちじくの葉で腰を覆ったあの瞬間から続いた全ての問題に終止符が打たれる。本物の犠牲、神さまのおひとり子イエスさまの死、イエスさまという「衣」を神さまは私たちに着せてくださる!
 
 
ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」
そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」(もし赦さないなら、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちをおゆるしにならない。)
マルコによる福音書11章21~25(26)節
 
そうするとこの箇所はどう読めるのでしょう。
何も考えずにこの箇所だけを独立させて読むならば、「何でも与えられると信じて祈れば与えられる」という御利益宗教的な話で終了しそうですが、前段の全てのことを踏まえてこの箇所に到達するとき、まずペトロの言った言葉には小さな子どもが驚いて「先生見て見て!」と報告しているのとは違うのかもしれないということに気付きます。ペトロはいちじくの木が枯れるということはどういう事なのか、イエスさまがどうしてそんなことをなさったのか、全てのことを察した上でそう語ったと想像できるのです。そして、そのいちじくが枯れたあの日、あのあと先生はこうおっしゃったのだとマルコは筆を進めるわけです。
マルコの記したイエスさまの第一声は「神を信じなさい」という言葉でした。
「…そう、先生は神を信じなさいとおっしゃったのだ。
先生はいつもそうだった。
神さまを信じること、それが最も大切だと言っておられたのだ。
神さまを信じない、神さまから離れてしまった結果、神殿は強盗の巣になってしまい、いちじくは枯れてしまったのだ。」

神さまを信じるということ、そして神さまから赦されて神さまとの交わりを回復するということがどれほどのことであるのか
神さまを信じず神さまから赦されず交わりを回復できないということがどういうことであるのか

マルコの記録してくれた言葉を通してつくづく思い知らされたような気がしました。