2016年8月1日月曜日

【調べ学習】塩について

マルコ9章49節「すべては、火によって、塩けをつけられるのです。」の「塩」という言葉についてギリシャ語を調べました。
いつものようにhttp://biblehub.com/です。
はじめに
Berean Study Bibleの英語の訳。
For everyone will be salted with fire.
 
will be saltedに該当するギリシャ語は
ἁλισθήσεται.
で、聖書には3回登場するそうです。
マタイ5章13節「何によって塩けをつけるのでしょう」
マルコ9章49節「塩けをつけられる」
もう一箇所も、マルコ9章49節…ん???
 
ここで、さっそく「知らなかったこと」の発見。
 マルコの9章49節は
新改訳では
「すべては、火によって、塩けをつけられるのです。」
と書いてあり、
また多くの英語の聖書も
will be salted
ἁλισθήσεται.
という言葉は1回だけ使われているのですが、
以下1回登場する聖書の聖句
New International Version
Everyone will be salted with fire.
English Standard Version
For everyone will be salted with fire.
Berean Study Bible
For everyone will be salted with fire.
New American Standard Bible 
"For everyone will be salted with fire.
以上。
 
ところが新改訳聖書や上に引用した聖書とは異なり
ἁλισθήσεται.
という言葉が2回使われているものがあるのです。
King James Bible
For every one shall be salted with fire, and every sacrifice shall be salted with salt.
International Standard Version
Because everyone will be salted with fire, and every sacrifice will be salted with salt.
Jubilee Bible 2000
For every one shall be salted with fire, and every sacrifice shall be salted with salt.
King James 2000 Bible
For every one shall be salted with fire, and every sacrifice shall be salted with salt.
Darby Bible Translationダービー訳も入れてみました(^O^)
For every one shall be salted with fire, and every sacrifice shall be salted with salt.
 
で、Bible Hubのギリシャ語聖書も
ἁλισθήσεται.
が2回書かれているので、この語が3回登場するというふうにカウントしているのですね。
 
will be saltedとかshall be saltedが2回書かれているみことばを読みますと、
すべての人」は火によって塩けをつけられるであろう
そして
すべてのsacrificeいけにえ」は塩によって塩けをつけられるであろう
という対句のような感じになっているのですね。
 
で、後半の「すべてのsacrificeいけにえ」は塩によって塩けをつけられる、というみことばは
レビ記2章13節とエゼキエル書43章24節を思い出させますよね。
あなたの穀物のささげ物にはすべて、塩で味を付けなければならない。あなたの穀物のささげ物に、あなたの神の契約の塩を欠かしてはならない。あなたのささげ物にはいつでも塩を添えてささげなければならない。
レビ記2章13節
あなたは、それらを主の前にささげ、祭司たちがそれらの上に塩をまき、全焼のいけにえとして主にささげなければならない。
エゼキエル書43章24節
 
やはり土台は旧約聖書
ヘブライ語だ!ということで、
…なにしろBible Hubならワンクリックで検索できてしまいますからヘブライ語の「塩」も調べてみました。
me·laḥって言うんだそうですよ。מֶ֔לַח
で、レビ記とエゼキエル書と同じこの言葉が使われているのは、
創世記19章26節「の柱」
レビ記2章13節 上の引用参照
民数記18章19節「永遠のの契約」
士師記9章45節「民を殺し、町を破壊して、そこにをまいた。」
Ⅱサムエル8章13節「の谷」
Ⅱ列王記2章20節「新しい皿にを盛って」
Ⅱ列王記2章21節「エリシャは水の源のところに行ってをそこに投げ込んで」
Ⅱ列王記14章7節「の谷」
Ⅱ歴代誌13章5節「の契約」
ヨブ記6章6節「味のない物はがなくて」
詩篇60篇1節(新改訳聖書では1節の前)「の谷」
エゼキエル43章24節 上の引用参照
ゼパニヤ書2章9節「の穴」
 
 
と、ここまで調べて書いて、
塩とは、聖書を読む上で、
これまで考えていた以上に重要な物、
聖書信仰を理解する上で鍵となるような物なのではないかと思うに至りました。
これまで、通読していてもあまり疑問に思ってはいなくて、
「永遠の塩の契約」???そんなのあったっけ??(゜д゜;)という…
ひどいですよね。何回聖書読んでるんだいおまえはーと怒られそうです。ヽ(;´Д`)ノ
まあ、神さまはげんこつゴツンなんてことをなさる方ではないのでね、
これを機に知ればいいこと、ということで。σ(^_^;)
まったくねえ、けっこう飛ばして読んでいるんですよね。
話の筋だけ追っている。
 
というわけで、
「永遠の塩の契約」ググりました。
そうしましたら、
B.F.P.Japan という特定非営利活動法人のサイトにものすごくわかりやすいお話がありまして、
「契約の塩」http://www.bfpj.org/know/teachingletter/?id=92
前編と後編があるのですが、
読ませていただきまして、感動したというか、
自分は聖書や聖書の世界についてまったく知らないのだということがあまりにもはっきりと知らされて、
しかし、読ませていただいたことで新しく知ることが出来、
何だか本当にうれしくてたまらない感じになりました。
なんでしょうねえこのワクワク感は。
 
 
すべては、火によって、塩けをつけられるのです。塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。
マルコの福音書 9章49,50節 (新改訳聖書)
 
人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩けがなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。
マルコによる福音書 9章49,50節 (新共同訳聖書)
日本語の聖書二つのみ言葉とギリシャ語聖書を比較してみました。
 
πᾶς (everyone)
γὰρ(indeed)
 πυρὶ (with fire)
ἁλισθήσεται, (will be salted,)
καὶ (and)
πᾶσα(every)
 θυσία(sacrifice)
 ἁλὶ (with salt)
ἁλισθήσεται.(shall be salted.)
 
καλὸν(Good [is])
 τὸ (the)
ἅλας·(salt,)
 ἐὰν(if) 
δὲ (however)
τὸ (the)
ἅλας(salt)
 ἄναλον(unsalty)
 γένηται, (becomes,)
ἐν(with)
τίνι (what)
αὐτὸ (it)
ἀρτύσετε; (will you season?)
ἔχετε(Have)
ἐν(in)
 ἑαυτοῖς( yourselves)
ἅλας(salt,)
 καὶ (and)
εἰρηνεύετε(be at peace)
 ἐν(with)
 ἀλλήλοις.(one another.)
 
 
「すべては、火によって、塩けをつけられるのです。塩は、ききめのあるものです。」
「人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。」
まず、この部分についてギリシャ語の単語一つ一つを調べてみると、(上の括弧内に書いた英語は英語の聖書と対応させたものですが、それとは別に単語の一つ一つを辞書で確認してみると)新共同訳の方がより直訳に近いという印象を受けました。
καλὸνを新改訳では「ききめがある」と訳していますが、辞書的な言葉の定義としては beautiful, as an outward sign of the inward good, noble, honorable character; good, worthy, honorable, noble, and seen to be so.で、マルコ9章50節については
καλόν τό ἅλας (is an excellent thing)だそうです。 
 
しかし、それにしても、「塩」について調べてみて、
特に初めて「塩の契約」という言葉を意識するようになった結果、
これまで自分が思い描いていた「塩と言えば腐敗防止」というだけの塩についての認識では足らない、と思うに至りました。