ヨハネがイエスに言った。「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。」引用したのは新改訳聖書第3版です。
しかし、イエスは言われた。「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行いながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。
マルコの福音書9章38~40節
ふと疑問がわき、またマルコの9章に戻ってきてしまいました。
疑問がわいたのはこの直後の箇所だったのですが、そこを調べるためにBible Hubで検索してみたところ、今日引用した新改訳聖書の訳に?(はてなマーク)がついてしまったので、忘れないよう記録しておくことにしました。
New International Version
"Teacher," said John, "we saw someone driving out demons in your name and we told him to stop, because he was not one of us."
"Do not stop him," Jesus said.
King James Bible
And John answered him, saying, Master, we saw one casting out devils in thy name, and he followeth not us: and we forbad him, because he followeth not us.
But Jesus said, Forbid him not
New American Standard Bible
John said to Him, "Teacher, we saw someone casting out demons in Your name, and we tried to prevent him because he was not following us."
But Jesus said, "Do not hinder him
しかし、イエスは言われた。「やめさせることはありません。という箇所について
……
「彼を止めるな、禁止するな、邪魔をするな」と「英語」のイエスさまはおっしゃっています。
これだと、新改訳聖書の「やめさせることはありません」ということばとはちょっと意味が変わってきますよね。
「やめさせることはありません」という言葉には、ヨハネの言った「やめさせた」という行為に対する強い否定がない。だから、ヨハネの行動に対して一定の理解を示しつつイエスさまの名を唱えて悪霊を追い出している者については一応許容するという雰囲気。「いいんだよ、ヨハネ。そういう人がいた場合は、やらせとけばいい」的な。
一方、「英語」のイエスさまはヨハネの行為を叱っている感じがします。彼(イエスさまの名を唱えて悪霊を追い出している者)を止めるな、禁止するな、邪魔をするな、と。
些細なことかもしれませんが、このあとの42~50節を読むためにこの辺りの違いは重要かもしれないと思いました。
http://biblehub.com/parallel/mark/9-39.htm
新共同訳聖書の方ではこんな訳し方がされています。
ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。……」そう、新改訳で「私たちの仲間ではない」という表現がされているところについても「弟子たちに従わない」という言い方をしている聖書もあり、
訳によって微妙な表現の違いがあるのですよね。
ちょっとイントロが長くなってしまいましたが、タイトルに書いた 石臼問題に入りたいと思います。
また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼に首をゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。毎日とにかく二章読むという日々の聖書通読を、章の数を決めずにとにかくゆっくり読む方式に最近変更したのでありますが、以来、わからない事があまりにも多すぎて、なかなか先に進めません。
マルコの福音書9章42節
で、今は何が分からなくて止まっているのかと言いますと、まずはマルコの9章42節。上に引用したみ言葉です。
そんなことを言ったらきっと、
「え?なんで?読んだとおりじゃないの?」と言われると思うのですが、
実は私この箇所については、今回の通読で初めて引っかかった、と言うわけではなく30年間も(厳密に言うと34年間)引っかかりつづけている人なんです。お話とか聞いたことがないわけじゃないんですけど、ほら、お話を聞くっていう行動は、完全に受け身でしょう。だから、知りたいと思うことが聞けるワケじゃないのですよね。
さて、テーマがぼけそうなので、34年前の出来事については、あとで書くことにしますが、
いったいこのみ言葉の何が分からないのか、と言いますと、大きい項目としては2つ。
「大きい石臼に首をゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがまし」だと言われちゃった人とは具体的に誰のことなのか、そして、「むしろ~ほうがまし」という表現がありますが、いったい何と比較して「まし」なのかということです。
えー??って思いました?くっだらねえなあって思います?(;^_^A
悩むだけ損?
まあ、そういうくだらないことに引っかかるやつなんですよ、私は。
で、引っかかったままずーっと考えている。
それではまず、文を細かく読んでみます。
「また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、(略)海に投げ込まれたほうがまし」
「つまずき」とは何か。
つまずくとは、道をてくてくてくてくずーっと歩いている時、予想していなかった想定していなかった何かが道に突然現れ、避けるための覚悟や避けるために必要なテクニックがないためにその物体に接触するに至り、よろけたり、転んだり、またそのことによって傷を負ったりする可能性のあることですよね。
で、み言葉で語られているところの「つまずき」について具体的に考えると、「わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与える」と書かれていることから、「イエスさま(まことの神さま)を信じる信仰」を「道」としてとらえ、「信仰」生活を継続するにあたって「よろけたり、転んだり、またそのことによって傷を負ったりする可能性のあること」をもたらすことを「つまずきを与える」と表現しているのだと思います。
では、つまずきを与えられてしまう「小さい者たち」とは誰か。
この箇所の少し前の36節にはイエスさまがひとりの子どもを弟子たちの真ん中に立たせ腕に抱き寄せて「だれでも、このような幼子を…」と言っておられるところから、じゃあ、「子どもたち」か。
いや、大人だってつまずくことはあるのだから、小さい者とは「大きい」ものがあっての「小さい」ものというような相対的な考え方なのでしょう。じゃあ、だれが大きくて、だれが小さいのでしょうか。
たとえばⅠコリント8章のパウロの言葉
その弱い人は、あなたの知識によって、滅びることになるのです。この辺りではないでしょうか。
コリント人への手紙 第一8章11節a
「むしろ大きい石臼に首をゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。」
「石臼」についてギリシャ語聖書の検索をしてみるとこの単語はμύλοςでマルコのこの箇所とマタイ18:6に登場します。http://biblehub.com/greek/3458.htm
ちなみにルカ17:2の石臼はμυλικὸς、あとはマタイ24:41μύλῳ (ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ…)、黙示録18:21μύλινον(ひとりの強い御使いが、大きい、ひき臼のような石を取り上げ、海に投げ入れて言った。)黙示録18:22μύλου(…ひき臼の音も、もうおまえのうちに聞かれなくなる)
というわけで、このマルコの箇所は予想通りというか終末の「さばき」のイメージで語られているのだろうと思います。
で、次は問題の「むしろ~のほうがましです」という表現。何と比較して「まし」だと言うのか。
参考にするため英文聖書で該当箇所を引用します。
New International Version
"If anyone causes one of these little ones--those who believe in me--to stumble, it would be better for them if a large millstone were hung around their neck and they were thrown into the sea.
NIVでは「まし」というのをit would be better for themと言っています。it would be betterですから、「それをした方が彼らにとって良い」ということですよね。大きい石臼に首をゆわえつけられて、海に投げ込まれることが彼らにとって良いことなのですか?( ̄_ ̄ i)それって良いどころか最悪の刑ですよね。。(;°皿°)
New Living Translation
"But if you cause one of these little ones who trusts in me to fall into sin, it would be better for you to be thrown into the sea with a large millstone hung around your neck.
English Standard Version
“Whoever causes one of these little ones who believe in me to sin, it would be better for him if a great millstone were hung around his neck and he were thrown into the sea.
Berean Study Bible
Whoever causes one of these little ones who believe in Me to stumble, it would be better for him to have a large millstone hung around his neck and to be thrown into the sea.
Berean Literal Bible
And whoever might cause to stumble one of these little ones believing in Me, it is better for him rather if a heavy millstone is put around his neck, and he has been cast into the sea.
New American Standard Bible
"Whoever causes one of these little ones who believe to stumble, it would be better for him if, with a heavy millstone hung around his neck, he had been cast into the sea.
King James Bible
And whosoever shall offend one of these little ones that believe in me, it is better for him that a millstone were hanged about his neck, and he were cast into the sea.
ギリシャ語聖書を見るとこのit would be betterという部分はκαλόν という語で、http://biblehub.com/greek/kalon_2570.htm
コンコルダンスを見ると英語の聖書でgoodと訳さえている箇所がこのκαλὸνと言うギリシャ語が使われているようだということがわかったのですね。( ̄Д ̄;;
(小一時間考え続ける…)
καλόνって何だ?
Short Definition: beautiful, good, worthy
Definition: beautiful, as an outward sign of the inward good, noble, honorable character; good, worthy, honorable, noble, and seen to be so.