2016年8月1日月曜日

エレミヤ書、いちじく、ザアカイさん

今日はエレミヤ書の7章8章が通読箇所でした。

エレミヤ8:13
「私は彼らを、刈り入れたい。
―主のみ告げ―
しかし、ぶどうの木には、ぶどうがなく、
いちじくの木には、いちじくがなく、
葉はしおれている。
わたしはそれをなるがままにする。」


少し前からいちじくが気になり、


新約聖書マタイの福音書21章に出てくる葉ばかりが茂っている「いちじく」をイエスさまが枯らしてしまわれたところと、創世記3章に出てくるアダムとエバが自分たちが裸であると知ったときにいちじくの葉をつづり合わせて腰のおおいをつくった、というあたりが気になって仕方がないというのが気になりだしたきっかけだったのですが



今日の、「私は彼らを、刈り入れたい。」という神さまの言葉にマタイ21章で空腹を覚えられたというイエスさまを見た気がしたのです。

イエスさまが空腹を覚えたとマタイ21章のストーリーは
イエスさまのふるまいを見て「あまりにも身勝手」だと感じる人が信者にもいないわけではなく、信者ではない人に至っては「人間だもの」と嘲笑。
しかし、そんなふうに言われてしまうイエスさまが異様に思えて…絶対何か深い意味が、見落としていることがあるに違いないと長い間思っておりまして・・・そういう気持ちを持ちつつ本日に至っております。

今日エレミヤ書で8章13節のみ言葉を読んだとき、ここに至るストーリーから考えると、本当に、本当に神さまのイスラエルに対する思い、悲しみが伝わってきて、そうしたなかで「私は彼らを、刈り入れたい。」ということばにつながっていくということを感じるわけなんですが、イエスさまの空腹という話ももしかしたらここにつながってくるのではないだろうかと。

ただ、エレミヤ書のこのみ言葉では、「いちじくの木には、いちじくがなく、
葉はしおれている。」ということで、マタイ21章とは異なり、葉がしおれているのです。マタイ21章ののいちじくは葉が茂っていますのでちょっと違います。


そうするとまた思い出すのが創世記のいちじくの葉。


創世記では、あのあと、神さまが皮の衣をアダムとエバのために作ってくださって着せてくださったんですね。
この件について、善良なキリスト教徒であったときに繰り返し何度も教えられたことは、「皮の衣を作るためには動物の犠牲が必要だった」ということです。
裸であると知ったのは彼らが神さまの言葉に従わなかったから。そして、その結果彼らは目が開かれていちじくの葉をつづり合わせたもので覆った。しかし神さまはそのいちじくの葉ではなく皮の衣を作って着せてくださった=罪の結果を動物の犠牲をもって覆ってくださった。
なので、いちじくの葉というのは、人間的に考えて罪をごまかせそうなものということであり、神さまとしては認めることが出来ないものということになるような。


とすると、マタイの所に描かれているいちじくは葉が茂っているから、罪をごまかそうとする人間の行動がみちみちていて、エレミヤ書のいちじくは葉っぱすらしおれているからもうどうしようもないほどに、汚れ果てている??

そのあたりはまだイマイチよくわからないのですが

でも今日は、読みながらもうひとつの「いちじく」に気付きました。
それはザアカイさん。

イエスさまといちじくの話をマタイ以外の福音書でも読もうと思い「四福音書の調和」という昔々に購入した小冊子(福音書のエピソードが時系列で表になっている)を眺めていると、
イエスさまが実のないいちじくに出会った話はマタイとマルコにしかないのですが、エルサレム入城と宮きよめの記事の配置から、ルカではおそらく19章の辺りだと気付きまして、そのあたりには何かなかったかなとルカの19章を開いてみたところ、そこに現れたがあのザアカイさん。
ザアカイさんのエピソードと言うのは四福音書ではルカにしかないわけですが、
ザアカイさんと言えば「いちじく桑」にのぼってイエスさまと出会った人です。
呪われたいちじくのストーリーの代わりに登場したのかと思えてしまうザアカイさんのストーリー。
いちじく桑という植物はいちじくの木のようなおいしい立派な実をつけることはないけれども、ちゃんと食べられる実をつける樹木で
その木に生(な)っていた?ザアカイさん(笑)

いちじく桑にのぼっているザアカイさん。渇き、求める彼の姿。
その姿を見つめるイエスさまの優しい目。

「私は彼らを、刈り入れたい。」エレミヤ書のみ言葉、神さまの声が聞こえます。

葉ばかりが茂っているいちじくの木ではなく、
イエスさまに心の底から出会いたかったザアカイのいるいちじく桑。

「私は彼らを、刈り入れたい。」