今日の聖書通読はマルコによる福音書14章でした。
再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。
マルコによる福音書14章41、42節
イエスさまが捕らえられる直前の様子をマルコは描きます。
「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。」
私はこの言葉を読むたびにイエスさまの深い孤独を感じます。
親しい仲間たち=弟子たち は眠っている。
しかも、自分を裏切って敵の手に渡すのは弟子であるユダです。
十字架は「人」の罪の身代わりです。「さばき」です。
父なる神さまとの断絶です。
…主は、人間となられた主イエスは、完全な孤独です。
しかし、
本当は、人間とは孤独なものです。
孤独以外のなにものでもない。
「本当は」と書いたのは、
通常は「孤独」なんて感じないことが多いからです。
でも、何かあった場合、
私のような落ちこぼれ孤羊は痛いほど感じます。
ああ、孤独だ・・・と。
もっとも、囲いの中にいても同じだったのです。
だからこそ外に出てしまったような気もします。
喜びであれ、ましてや苦しみを
真の意味で人と分かち合うことなど
出来るものではなかったのだという絶望、孤独。
東日本大震災のあと、「絆(きずな)」という言葉がもてはやされ、SNSでつながることが流行しましたが、
悟った者のように語らせてもらえば、
どんなにたくさんの人とつながろうと、むしろ、つながればつながるほど孤独を感じるものです。
なにかイレギュラーなことが起こればなおのこと
喜びであれ、ましてや苦しみを
真の意味で人と分かち合うことなど
出来るものではなかったのだという絶望、孤独。
東日本大震災のあと、「絆(きずな)」という言葉がもてはやされ、SNSでつながることが流行しましたが、
悟った者のように語らせてもらえば、
どんなにたくさんの人とつながろうと、むしろ、つながればつながるほど孤独を感じるものです。
なにかイレギュラーなことが起こればなおのこと
ひとりぼっちであるという事実と感覚は増幅して襲い掛かってきます。
親がいてきょうだいがいて親族がいたとしても同じ。
SNSより少し上質な「つながり」は
上質であると思えば余計に失望させられる。
人に期待し、人を頼っても、
結局人は何もしてくれないし、
逆に自分だって
上質であると思えば余計に失望させられる。
人に期待し、人を頼っても、
結局人は何もしてくれないし、
逆に自分だって
精一杯行ったつもりでも
誰も満足している様子ではなく・・・
そういう孤独、そして無力感を
人間であるイエスさまは徹底的に味わってくださった。
イエスさまは神さまであられるのに、人間の絶望を知ってくださった。
先日、
NHKのこころの時代「釜ヶ崎で福音を生きる~神は小さくされた者の側に~」
という番組を見ました。
その番組に登場された本田哲郎神父は新共同訳聖書の翻訳にもたずさわられた方でありますが、個人としても聖書を翻訳しておられ、番組では神父の個人訳聖書からいくつかのみことばが取り上げらていました。
本田神父の訳はどれをとってもとても心に残る、そして目から鱗が落ちるようなものだったのですが、特に「山上の説教」がとても心に残りました。
そういう孤独、そして無力感を
人間であるイエスさまは徹底的に味わってくださった。
イエスさまは神さまであられるのに、人間の絶望を知ってくださった。
先日、
NHKのこころの時代「釜ヶ崎で福音を生きる~神は小さくされた者の側に~」
という番組を見ました。
その番組に登場された本田哲郎神父は新共同訳聖書の翻訳にもたずさわられた方でありますが、個人としても聖書を翻訳しておられ、番組では神父の個人訳聖書からいくつかのみことばが取り上げらていました。
本田神父の訳はどれをとってもとても心に残る、そして目から鱗が落ちるようなものだったのですが、特に「山上の説教」がとても心に残りました。
心底貧しい人たちは、神からの力がある。番組で、本田神父はこう語っておられました。
天の国はその人たちのものである。
死別の哀しみにある人は、神からの力がある。
その人は慰めを得る。
抑圧にめげない人は、神からの力がある。
その人は地を受け継ぐ。
解放に飢え渇いている人は、神からの力がある。
その人は満たされる。平和のために働く人は神からの力がある。
その人は神の子と呼ばれる。
神さまはイスラエルを「選ぶ」のにあたって、彼らが人数が多かったから選んだのではなく、むしろ彼らの人数が少なく貧弱だったから選んだ、つまり彼らの「弱さ」を選んだ。(申命記7章6節参照)
そして、神さまの「力」は弱さの中にあって発揮される。だから弱いときにこそ強い。
神さまの力というのは、弱さを知っている人、痛み、苦しみ、さびしさ、くやしさ、怒りを知っている人に発揮されるのだ、と。
イエスさまの孤独、
それは神さまと断絶した罪人たちが、「きれいごと」という名で彼らを覆っているありとあらゆるものをはぎ取られあらわになった「孤独」の総和だったのかもしれないと今日は聖書を読みながら思いました。
私たちが孤独を深く感ずるとき、イエスさまの十字架は私たちにより近づき、
私たちが「もうだめだ」と絶望するとき、むしろその時こそが私たちに神さまの力が現れる。
中途半端な幸せではない神さまから与えられる究極の幸せが、小さくされた、弱くされた人々にあるのだ…と