2016年6月18日土曜日

主は寛容なお方(4)「感じたことを感じたままに感じたとする」

「ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。答えなさい。」
すると彼らは、こう言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったかと言うだろう。
だからといって、人から、と言ってよいのだろうか。」
―彼らは群衆を恐れていたのである。というのは、人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。
そこで彼らは、イエスに答えて、「わかりません」と言った。
マルコの福音書11章30~33a節
 
 
私の頭の中に現れた変な等式
律法学者やパリサイ人の義にまさる義=天の御国に入れる
子どものように神の国を受け入れる=天の御国に入れる
 
A=B、B=CならばA=Cで、
律法学者やパリサイ人の義にまさる義=子どものように神の国を受け入れる
 
にこだわってこのところの通読でマルコの福音書を少しずつ読み進めているわけですが、
今日もまた「これだよ、これ」というみ言葉に出会うことになりました。
冒頭に引用したマルコの福音書11章のみ言葉がそれです。
 
これは、イエスさまと祭司長、律法学者、長老たちとのやりとりが書かれている箇所ですが、イエスさまの問いに対して「わかりません」と答えた彼ら。これは「子どものように」の対極だ、と思いました。
わからなくて「わかりません」と言うのなら子ども。しかし、そうではなくて、事が自分にとって有利になるよう考えた結果の「わかりません」という言葉。
 
別の箇所でイエスさまはこんなことを言われたことがあります。
わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。
ヨハネの福音書14章11節
これともまた別の箇所で「見ずに信じる者は幸い」とイエスさまはおっしゃったことがありますが、もしも見たのなら、(「見る」とは肉体の目で見ると言うことだけではありません、あっ、と何かを得る瞬間感じる瞬間というものをは与えてくださる)
だいたい、イエスさまが地上を歩まれていたあの時代には、福音書に書かれているようなこと=わざ を皆が実際に体感出来たわけです。そういうことを「見て」しまったのなら、当然そのことによって何かを感ずるはずです。
しかし、祭司長、律法学者、長老たちはどうだったでしょうか。
ちょうど、現代日本の「神を神とはしない」大人たちが、子どもたちの甲状腺がんが増えたのに増えてはいないと言い張るようなのと同じ、自分の都合にあわせて見えることも見ないことにしてしまうわけです。
見ずに信じるどころか見ても聞いても起こったことを起こったこととして認めない。そして自分たちの権威や知識を振りかざして正しく判断している人たちの邪魔をし、それでも済まずついには殺そうとする。
イエスさまを捕らえるためにやってきた時、大祭司のしもべの耳をペテロが切り落とし、イエスさまがいやしてくださったのに、それでもイエスさまは捕らえられる。
聖書に詳しく、神を第一にしてそうな権威のある聖職者は、神を神としない偶像の国日本、まことの神さまを神としない日本の権威と全く同じ事をしたわけです。
どこまでもどこまでも利益を追求し、神さまから最も遠いところに立っている。
 
 
感じたことを感じたままに感じたとする、そこに損得勘定などなにもなく、「すごい!」「うれしい!」「おいしい!」と言えること、
そして、白い花が咲いているのをみて、「あ、白いお花。白くてきれい」と言えること。
「その白は白だと思うかもしれないけど、厳密に言ったら白ではないよ。しかもその花のように見えているところは花ではなくて厳密に言ったら…」とか言わないこと。
 
そういう態度で神の国を受け入れることが「子どものように神の国を受け入れる」ということ。
 
 
 
ところで、
「ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。答えなさい。」
すると彼らは、こう言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったかと言うだろう。
だからといって、人から、と言ってよいのだろうか。」
―彼らは群衆を恐れていたのである。というのは、人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。
そこで彼らは、イエスに答えて、「わかりません」と言った。
マルコの福音書11章30~33節b
祭司長、律法学者、長老たちとは異なり、群衆は、「ヨハネは確かに預言者だと思っていた」とここには書かれています。この部分だけをピックアップすると、祭司長、律法学者、長老たちは神の国に入れず群衆は神の国に入れるという印象を持ちますが、聖書をこのあと読み進めていくと分かるように「群衆」の声はやがてイエスさまを十字架につけろと言う声になっていくのです。まるで「種蒔きのたとえ」で語られる岩地。み言葉を聞くと、すぐに喜んで受けるが、根を張らないで、ただしばらく続くだけ。
世の中の空気(ムード)や、祭司長、律法学者、長老たちという見たくれだけはソレっぽいにせものの声に聞き従うことなく、本物のみ言葉をよく聴いてしっかり根を張っていきたいものです。
 
 
―彼らは群衆を恐れていたのである。というのは、人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。
そこで彼らは、イエスに答えて、「わかりません」と言った。そこでイエスは彼らに、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい」と言われた。
マルコの福音書11章32節b~33節
 
寛容の極みである言葉なる神さまから「話すまい」と言われる=神さまとの断絶、永遠の断絶
 
そういうことにならないように。