2016年7月1日金曜日

30年間悩んでいる「大きい石臼に首を」の話 3


また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼に首をゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。
マルコの福音書9章42節
 

高校のクラスメートの一人に、いつも難しそうな本を読んでいる女の子がいました。彼女の親族の方が著名な思想家であったことから、彼女は宗教や思想、そして哲学についていろいろと興味を持っているようでした。
同じクラスとはいえ、一クラス45人、女子ばかりが集合しているその空間で、私たちには長い間接点はありませんでした。趣味の合う者同士、気の合う者同士、が友だちになるのは当然の流れですから、哲学なんてものに一切興味のない自分にとって、彼女と何かを分かち合うとか話そうという動機がなかったからです。
 
ところが、ある日。
そのころの私は、学校の近くにあった「キリスト集会」の高校生会に出席するようになっていたのですが、聖書の話が難しくて分からないので予習しようと思い、学校の図書館にあったバークレーの聖書注解を、(禁帯出だったので毎朝図書室に通って)ノートに写していたのです。で、いつものように図書室に行ってごそごそやっていたところ、そこに「彼女」がやってきて声をかけてくれたわけです。

 
「聖書をお読みになるの?」
 
お読みになるっていうレベルじゃないんだけど…まあ、ちょこっとな、ちょこっと。週に10節程度のもの…ん?なんて答えればいいんだ、こういう場合…
「ぁ、少しだけ。最近学校の近くの教会に行き始めたから。」
 
「ぁ、教会。あ、そうなのね。私はキリスト教を信じるつもりはないので布教とかはしていただかなくてもよろしいのですけど、それにしても聖書ね、新約聖書ですけれど一箇所どうしても腑に落ちないところがあるのよね。」
 
「はぁ…。腑に落ちないんですか?」
 
「そう。殺すな自殺はするな、っていう教えであるはずの聖書がね、そう教えていたはずなのに、大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい、だとか、片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさいというような残酷なことを言い出すのよね。それまでのイエスとは明らかに様子が違うのよ。まあ、〒#¥*※◯&#℃%‰♪…(ムズカシイ言葉がいろいろあったので細かい記憶がない)」
 

当時の私は、だいたい、彼女の言っていたお話が聖書のどこに書いてあるかも知りませんでしたので、彼女の疑問に答える事なんて出来ませんでした。
そして、あれから30年以上経ち、ようやく私は先日
30年間悩んでいる「大きい石臼に首を」の話 1という記事を書き、「自分の疑問」を持つに至りました。

ん?

「あれから30年以上経ち、ようやく私は彼女の疑問に答えられるようになりました」じゃないのかって?
 
違うんですよ。私はこの箇所を読むたびに、まずは相当の長きにわたって、いったい彼女は何が「腑に落ちない」のだろうと悩み続けていたのです。
彼女が疑問を持っているということの意味が分からないわけです。

1の記事で私は「お話とか聞いたことがないわけじゃないんですけど、ほら、お話を聞くっていう行動は、完全に受け身でしょう。だから、知りたいと思うことが聞けるワケじゃないのですよね。」と書いたのですが、
正直言って、教会とか集会という場所で聖書のお話を聞き続けていると、読み方、というか、解釈がかたまってくるわけです。なになにと言えばなになに、という具合に、反射的に浮かぶことが固定化されて、それ以外のことがまったく思い浮かばなくなる。
しかし、もしも本当に聖書が生きて働かれる神さまのみ言葉であるなら、それではおかしいわけです。34年前の彼女がそうであったように、自分なりに感じる何かというものがあっていいはずなのです。もちろん世界共通の解釈というものの存在は否定しません。しかしそれだけではない自分だけが持つ思いとか疑問とかそういうものはあって当然なのではないでしょうかね。
 
さて、
 
 
また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼に首をゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。
マルコの福音書9章42節
 

30年間悩んでいる「大きい石臼に首を」の話 1で書いた私の疑問である
「大きい石臼に首をゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがまし」だと言われちゃった人とは具体的に誰のことなのか、そして、「むしろ~ほうがまし」という表現がありますが、いったい何と比較して「まし」なのか
ということについてたった今、上の文章を書いている最中に突然答えが思い浮かびました!

「大きい石臼に首をゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがまし」だと言われちゃった人とは38節で名前が出ているヨハネを筆頭にしたお弟子さんたちのことだと思います!
('◇')ゞ
理由は、まず39節の「やめさせることはありません」というイエスさまのみ言葉ですね。このみことばによって、イエスさまがお弟子さんたちを叱っていらっしゃるということがわかるわけなのです。(それについては、30年間悩んでいる「大きい石臼に首を」の話 1の冒頭=イントロ部分 に書きました)
 
そして、次のポイントとして、9章の38節から始まる段落はずーっと9章の最後までつづくわけなので、イエスさまはワンテーマで語り続けておられると考えられる。
とすると、やはりここは38節が話のきっかけとなっていろいろと弟子たちに対して注意しておられる場面なのではないか、と思えるわけです。
で、昨日も書きましたが、43節以降、他人をつまずかせる話ではなくなり、自分にとってつまずきとなるものがあるのなら切り捨てろ、という話になるのですが、それは、このところ弟子たちの心の中にあらわれてきた高慢な思いや態度を切り捨てなければいけないと叱っていらっしゃるのではないかと。

その点と、また、41節の「弟子だから」と言って水を飲ませてくれる人の受ける報いということも踏まえると、「むしろまし」という表現は

「弟子」はキリストに準じて扱われるような立場に置かれているにもかかわらず、高慢な思いや偏狭な考え方を持ってイエスさまを信じる小さい者たちのひとりにつまずきを与えるのなら、このまま今のように弟子という立場のままでいるのではなく、むしろ大きい石臼に首をゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。
という表現における「むしろ まし」という比較級だったのではないでしょうか。
その上で主はこう語られた。
「もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら…」
今のおまえたちのその態度、思い、その原因は何なのだ?手か?足なのか?目か?
ならばそれを切り落としてでも…

イエスさまは43節ではこうおっしゃいます。
「いのちに入るほうが、」
そして45節
「神の国に入るほうが、」
あなたにとってよいことです、と。
 
弟子は特別な立場の人たちですから、
いえ、お弟子さんたちを本当に主は愛しておられましたから、
彼らにはわかってほしかったのだと思います。
なにしろ間もなく十字架です。
イエスさまの言葉が厳しくなるのも無理はないと思います。
でもイエスさまは
大きい石臼に首をゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましだなんて
「実際に彼らにそうなってほしい」なんてもちろん微塵も思ってはいなかった。

あ、ついでに、彼女の疑問に対する答えも出たようです。