2016年7月1日金曜日

30年間悩んでいる「大きい石臼に首を」の話 2

また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼に首をゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。
マルコの福音書9章42節
このマルコの福音書9章42節の箇所というのは、他にマタイ18章とルカ17章に似ている箇所があるのですが、
実は、マタイとルカの箇所を読む時には悩まないで通り過ぎることができるのです。しかしマルコの福音書だとムムムっとなる。
なぜそうなるのか、と言いますと、ここに至るストーリーの構成が違うからなのです。
 
マタイはこの石臼問題の直前に「天の御国で一番偉いのは子どものように自分を低くする者」というストーリーを一本入れ、「このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。」と結論づける。そしてすぐに「しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、…」と続くから、一般論としての「漠然とした小さい子どもにつまずきを与える話」として読み流すことが出来るのです。
また、ルカは、マルコにあるような誰が偉いかとか悪霊を追い出している者を見たけれどやめさせた話というのは石臼の話よりもずーっと前の9章に出て来るのです。それで、石臼の話はずいぶんあとの17章に唐突に登場するのですね。しかも石臼の直前の話は「金持ちとラザロ」の話。というわけで、ルカのみ言葉は内容としては同一のように見えますが、マタイやマルコとは「文脈」が異なりますのでルカの17章は同列に扱ってはいけない気がします。ルカはむしろ9章が同じ「時」の話のように見えます。
 
 
最近私は聖書のストーリーを映像作品にしたものを何本か見る機会を得ました。で、素晴らしいなあ、と感謝したのでありますが、感謝しつつも実は少々の不満を感じたのです。
何が不満だったか?
それは、私が聖書を読んで思っていたイメージと、役者さんの演技がかなり違うものだったからです。←生意気なことを言ってやがる
まあ、そんなのは仕方のないことですけどね、ちょっと不満に思えてしまいました。
 
同じ小説を題材にしても監督さんによって全く別の映像作品に仕上がるということは普通にあるわけですが、それはどうしてそういうことになるかと言えば、同じ作品を読んでも理解というか解釈というかそういうところに違いがあるからですよね。論文ならばそういうことが起こらないように記述するわけでありますが、そうでないものは解釈する余地というものが残されているわけで、そのためにいろいろな違いが生ずるのであります。
 
なぜ突然「映像作品」の話を持ち出したのか、と言いますと、各福音書のストーリー配列の違いということについてももしかしたら同じような事情があるのではないかと思ったからです。
福音書というのは、イエスさまという方の近くにいた人たちがイエスさまが語られたことや行われたことを書いたものです。聖霊さまの助けがあって書いたものに違いありませんが、人の手を通して書かれたということもたしかなことです。
人は、ものを書くにあたって、頭でものを考えます。そして書く。もちろん、聖書の場合、そのすべてにわたって神さまが働かれていると信じますが、執筆者はロボットではありませんから現代に生きるクリスチャンの書いたものがそうであるように、書かれた「文章」にはその人の人生が映し出されたりその人の理解や解釈というものが現れるのではないか、と思うのです。よく、各福音書の違いについて、執筆された目的や理由の違いという観点でお話しされるのを聞きますが、もちろん著者の心の中にそういうことは存在していると思いますが、その著者だからこそ選び出せる言葉、表現、そういったものがないはずはないと私は思っています。
 
で、ふと思ったのは、このマルコの書物だけに見られるストーリーの配置はマルコとしてのイエスさまについての理解だったのかしら、と。
いや、理解とかそういうものでなく、もし時系列に忠実だったというだけであったら、それはそれで大きな事だ、と今気付きました。
ストーリーが、マルコが書いたとおりの順番でいろいろ起こったのであったら、このみ言葉は
また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼に首をゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。
マルコの福音書9章42節
やはりマタイやルカの福音書のように一般論として読んではいけないのではないか。
 
弟子たちが道々だれが一番偉いかと論じ合っていた
→イエスさまがひとりの子どもを連れてきて「このような幼子たちのひとりを…」と教えられる
→ヨハネが、イエスさまの名を唱えて悪霊を追い出している者をやめさせた報告
→やめさせてはいけないとイエスさまは語り、反対しない者は味方だと説く
→キリストの弟子だからというので水一杯でも飲ませてくれる人には報いがあるのだと説く
→「また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼に首をゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。」
→あなたの手がつまずきとなるなら…
 
もしも「大きい石臼に首をゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです」という言葉で話が終わっていれば、なんとかマタイの福音書のような「一般論」として片付けることが出来るかもしれません。しかし、「誰かにつまずきを与える」という話から「自分がつまずく話」に変わってしまうから一般論として片付かないのです。(わかりにくいですよね、少しずつ説明を広げていきますからね)
マタイだって同じ「つまずかせてしまう話」から「自分がつまずく話に変わっている」ストーリー展開じゃないか、と思われるかもしれませんが、
マタイには直前に弟子たちが道々だれが一番偉いかと論じ合っていたという場面がないのですね。論じ合ってはいないが唐突に「だれが偉いか」イエスさまに聞くという展開になっているのです。論じ合っている場面があるのとないのでは大分印象が変わります。
 
 
 
 
 
マタイ17章、マルコ9章、ルカ9章、その全てに記録されているいわゆる「変貌の山」の体験をしたペテロ、ヤコブ、ヨハネたちでしたが、そのあと弟子たちには「悪霊を追い出せなかった」事件が起こります。「ああ、不信仰な世だ。」と嘆かれるイエスさま。そしてその事件のあと、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる。」とイエスさまが話されるわけですが
このお話に対する弟子たちの反応についてマタイとマルコでは書き方が全く異なるのです。
 
マタイ「彼らは非常に悲しんだ。」
マルコ「しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。」
 
マタイとマルコは深いところでは同じニュアンスのことを語ってはいます。しかし、「イエスに尋ねるのを恐れていた。」と語るマルコは、こういう彼らの具体的な心の動きを描写をすることによって、
「ああ、このとき弟子たちの心は、主と大きな距離があったのだ。悪霊を追い出せないことを、不信仰だと嘆かれた主。しかし弟子たちは全く分かっていなかったのだ!」
という、イエスさまの十字架を実際に経た今となって彼の心の中にわき上がる、とてつもなく深い悲しみを語っているように思えるのです。
そして、その上に!
マルコはたたみかけるように弟子たちの行動を書きます。「弟子たちは道々だれが一番偉いかと論じ合っていたのだ」と。しかも、イエスさまから「道で何を論じ合っていたのですか。」とたずねられたのに「彼らは黙っていた」と。
 
マタイやルカの福音書では感じられない後悔と悲しみの声が聞こえてくるように思えました。
 
「先生、私は本当にダメなヤツでした!先生が十字架の苦しみを受けようとしておられたのに、私はなんにも分かっていなかった。
しかもあのあとヨハネは先生にむかって、得意になって報告をした。『私たちの仲間じゃないのに、先生の名を唱えて悪霊を追い出している者がいたからやめさせたのだ』と。
私たちは選ばれた弟子だ、先生のお側に仕えてきた弟子だ、たとえ話の意味だって教わった弟子だ、パリサイ人や律法学者とは違う、力あるわざを行うことのできる神の子イエスさま、メシアであるイエスさまに選ばれた弟子だ。この国を建て直す王のしもべだ、特別な人間だと思っていたんです。」