2016年6月18日土曜日

主は寛容なお方(1)「神の国は誰のものなのか」

クリスチャントゥデイを読んでいたら、「パキスタンのイスラム教徒たち、キリスト教会再建を支援」というニュースに出会いました。
http://www.christiantoday.co.jp/articles/21180/20160617/pakistan.htm
 
パキスタンのキリスト教徒たちが、パンジャブ州にあるゴジュラで賛美歌を歌う。ゴジュラはキリスト教徒居住地の近くにある。2009年、1人のイスラム教徒の暴徒による襲撃事件が起きた。キリスト教徒の1家族7人はじめ10人が殺され、数十の家々や四つの教会が放火された。
この記憶を癒やす異教徒間の協力が始まっている。異教徒同士の対立があまりにも頻繁に起こる国家で、イスラム教徒とキリスト教徒が一緒になってキリスト教会の会堂を建築しているのだ。
(続きはクリスチャントゥデイのサイトで)
素晴らしい!
本当に感謝なことです。
 
このニュースを読んだとき、
マルコ9章41節にあるイエスさまのみ言葉が思い出されました。
 
あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。
 
「あなたがたがキリストの弟子だからというので」
という言葉のニュアンスとこのニュースの話は異なるかもしれませんが、
キリスト教徒を助けてくださっているパキスタンのイスラム教徒の方たちにゆたかな報いがございますように。
 
 
 
 
ところで、
あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。
というイエスさまのみ言葉を読むたびに思うのは
寛容なお方であるということです。
こういう言い方をしたら怒られるかもしれませんが
イエスさまはクリスチャンにはない自由さ寛容さを持っておられると感じます。
まあ、イエスさまは神さまですから、
神さまご自身ですから権威がありますからね、
ご自身のみ言葉がルールとなるわけですが、
一方クリスチャンはタダの人間でありますから、
与えられたルール内でああじゃないこうじゃないと必死に判断し、
また一生懸命聖書の行間を読んでゴチャゴチャやっておりますからね、
コレハ聖書的に正しいとか正しくないとか
気付いたときには寛容さが失われてしまっているのかもしれません。
 
この「水一杯」の話だけでなく、他にも十字架の場面で起こった出来事を見るとき
「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
ルカの福音書23章42,43節
「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
とは寛容のきわみではないかと思うわけですが、
しかし、これはイエスさまだから言えたことばで、クリスチャンには出来ない宣言です。
このケースは、メシアが人と、ダイレクトに会話をし、
神の御心としてこの人を受容したから「パラダイスにいます」と断言できたわけですが、
クリスチャンが、例えば日本国内で日本人を相手にして話をする場合なら
たとえ十字架の上にいたとしても!「四つの法則」を早口で説明し始めるのかもしれません。
 
 
そんなことを考えつつ、聖書通読を進めておりましたら、
今朝はマルコの福音書の10章で、こんな箇所でありました。
 
さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れてきた。ところが弟子たちは彼らをしかった。
イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国はこのような者たちのものです。
まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れるものでなければ、決してそこに、入ることはできません。」
そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。
マルコの福音書10章13~16節
興味深いことに、人々が子どもたちをイエスさまのみもとに連れてきたら弟子たちが彼らをしかった、ということからこの場面はスタートします。
弟子たちはどういう思いでそんな行動を取ったのでしょうか。
私が弟子の立場であったら、
そうですねえ、自分が「偉い先生」のお側に仕える立場であったら、「ちょっと子どもは…」と思うかもしれません。いろいろイエスさまとお話ししたい人たちを優先するでしょうかねえ。それに、子どもがいたらその場が騒がしくなってしまってお話どころではなくなってしまいますからね。教会や集会に集っていた頃のことを考えれば、子どもたちは別室でビデオでも見ていてもらいますか。
しかし、その弟子の様子をご覧になったイエスさまは「憤って、彼らに言われた」のです。
 
「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国はこのような者たちのものです。
まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れるものでなければ、決してそこに、入ることはできません。」
 
神の国はこのような者たちのもの?
子どものように神の国を受け入れるものでなければ、決してそこに、入ることはできません??
 
 
神の国が誰のものであり、どんな人が入れるのかということについて、別の所でイエスさまはこう断言しておられたはずです。
 
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。
マタイの福音書5章3,10,20節
あらら、ここではA=B、B=CならばA=Cということが成り立たないのでしょうか?
どう考えればいいのかな…。
 
神の国がどのような人のものであるかということについては、
マタイの時よりも一つ可能性が増えたね、ということに出来ますけれど、
天の御国に入れるか入れないかという事については
「~でないなら入れない」という言い方がされておりますのでね、
可能性が増えた、というわけにはいかないような気がするのですよ。

律法学者やパリサイ人の義にまさる義=天の御国に入れる
子どものように神の国を受け入れる=天の御国に入れる
 
A=B、B=CならばA=Cで、
律法学者やパリサイ人の義にまさる義=子どものように神の国を受け入れる
???
 
マタイの福音書を読んでいるとき、「律法学者やパリサイ人の義にまさる義」とはすなわち主の十字架によって与えられる義であり、それを理解し信じることだ、と思ったのですが、
律法学者やパリサイ人の義にまさる義=子どものように神の国を受け入れる
となると、
「主の十字架によって与えられる義を理解し信じる」ということに付帯、否、イコールとされて行ってきたような諸々の儀式等々がどんどん削られていき、もっと言えば、理解すべきとか信ずるべきとされているコムズカシイことの一切がそぎ落とされて不要となってしまうのではないかと。何しろ子どもは信じるにあたりそれほど細かいことを考えないでしょうから。
うーん。
 
(私は子ども時代に、素直にしているつもりであっても素直ではないと言われいつもいつも母から叩かれていましたので、子どものようにとは「素直になることだ」という説は、絶対にないな、と思っています←特殊な理解かな)
 
 
 
 
まあ、でもよく考えてみれば、コムズカシイことの一切がそぎ落とされて不要となってしまうというのは、「ignoranceは全く責めに値しない」ととれるローマ14章とほぼ同義ですよね。
 
しかしそれでもまだ何か
律法学者やパリサイ人の義にまさる義=子どものように神の国を受け入れる
という等式が成り立つという事に違和感を覚えるのは、
イエスさまが最初に来られたときから、人間にとって見れば相当な時間の経った今、いわゆる「キリスト教」と名づけられた「宗教」には、まるで「歴史は繰り返すのだ」と言っているような律法主義的な贅肉が上乗せされてしまったからなのかもしれません。または、知らず知らずのうちに敵によってばらまかれた「パン種」のたぐいが上等な小麦粉の中に混ぜ込まれ、キリストの香りなのか、おいしいパンの香りなのか区別しにくくなってしまった、そんな気もします。
神さまの前にきよくありたい、正しくありたいという思いが強くあったとしても、
神の箱を手で押さえようとしたウザにパッと注意のできない、
そして、
「下がれ、サタン。」
と一瞬の判断でペテロに向かって言われたイエスさまのように言えない人間は
垢をため、無駄な肉を無駄と思わず蓄えて、一歩一歩成人病へと突き進み
気付いたときにはイエスさまが教会の外に立ってドアを叩いているというような状態に(黙示録3:20)なってしまうのかも?しれません。
 
なにしろ黙示録の7つの教会は
預言されていること…ですものね。