2016年8月1日月曜日

神がともにいてくださるということ

新共同訳をメインの聖書として読むことにしました。

で、
今日はマルコによる福音書の11章1~7節を読みました。
もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。
マルコによる福音書11章3~6節(新共同訳)

 
聖書を読み慣れている人にとって、そして聖書の神さまを既に信じている人にとってこの箇所は、取り立てて違和感を覚える場所ではないかもしれません。
しかし、初めて聖書を読む人にとっては、とても不思議な感覚を覚える箇所なのではないか、と思うのです。
 
イエスさまが二人の弟子をいま使いに出そうとしておられます。
イエスさまは弟子にまだだれも乗ったことのない子ろばを連れてきてほしいのです。
で、イエスさまは言うのです。「向こうの村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばが見つかるから、それをほどいて持ってきてね」と。
ほどいて持ってきてね??勝手にほどいて持ってきたら泥棒じゃん、と思うわけですが、そういう読者や、おつかいに行く弟子たちのために、イエスさまは持ってきちゃうにあたっての注意点をあらかじめ伝えて下さるわけです。
 
もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」(3節)
 
この箇所を読むといつも同時に思い出す箇所があります。
イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都に行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入っていく家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
マルコによる福音書14章13~16節
 
現代ならば、スマホを使い、予約サイトで予約したのだろうと考えられるわけですが
そんなのがある時代ではありませんのでね、
もちろん電電公社時代の黒電話だってありませんよ。
じゃあ、いったいどういうからくりなんだ、と思うわけです。
 
 
 
最近思うのは、

この子ろばの件や席の整った二階の広間の件に、弟子たちは「葦の海の奇跡(出エジプト記14章)」を思いだしたかもしれないということです。
 
海辺に宿営しているイスラエルに襲いかかろうとするエジプト軍。
恐れて主に向かって叫ぶイスラエルの人々。
恐れてはならないと語るモーセ。
そしてモーセに語られる神さま。
「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。…わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。…」
イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。
出エジプト記14章19,20節
常にイスラエルの先を行ってくださった神さま。まさにあの時と同じように神さまは自分たちの先を行き整えてくださるのだ。だから、そこに子ろばがあり、二階の広間は整っていた——
 
イエスさまが十字架にかかられた後、きっと彼らは思い出したに違いありません。いつもイエスさまといっしょにいたころのことを。
ああ、いろんな不思議なことがあったよなあ…と。いろいろ不思議ではあったのだけれど、記憶に新しいあのこと、子ろばのこと、二階の広間のことって・・・
 
ああ、主は、自分たちが全く知らない間に準備しておいてくださる方なのだ。あの時、主はずーっと私たちといっしょに、目と目を合わせてお話しできる距離にいたはずなのに、いつの間にか遠くの子ろばも二階の広間も準備してくださった。小さな日常の様々なことを主は心にかけ、私たちの先を行き、備え、私たちを導いてくださった。
そして小さな事だけではない。すべてにおいて、そう、思い出すべきは葦の海の奇跡だ。だから、歴史として記録されるような大きな問題が起こるような時であっても主は間違いなく信じる私たちの前を先立っていかれる。そして、主は先に立つだけではなく
先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、(19節)
私たちを敵の手から守ってくださる!
 
 
 
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられました。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
ルカによる福音書22章31.32節
 
いまふと、聖書に目を落としましたら、扇風機の風にふかれたせいでしょうかマルコではなくルカの福音書の22章が開かれてありました。
あ、イエスさまはペトロのために、あらかじめ祈ってくださっていましたね、そういえば。
イエスさまがあまりにも先に行き過ぎたお話をなさるので
ペトロは「え゛~~~~!!先生どうしてそんなことおっしゃるんですかー!!私は信仰捨てませんよぉ!!」という具合でありましたが、
イエスさまは弱い私たちが途方に暮れることのないようにあらゆる場面で先に行ってくださる方なのですね。先に行き、今ここで共にあり、そして移動して後ろにも立ってくださる方。
 
神さまがともにいて下さるというのはそのような鉄壁の守りの中にいるということなのですね。
三次元空間に立つ私たちはそのことに気がつかないで、不信仰で、叫びがちですが
 
「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
…感謝ですね。