2025年5月22日木曜日

備蓄米

国が国民を救おうとしてどんなに放出しても

流すべき場所に流す意思のない人が間に入れば絶対に届かない

しかしだからと言っても独裁国家でなければ

そう簡単には介入できない


おなかがすいているわけでもない人々は

儲かる方儲かる方へと舵を切る



大切な備蓄米

行き先を追跡したいものだ

 米は一体どこに行ってしまったのか



国の目的に沿わない事を行った者たちを厳しく罰したい!そんな思いはやまやまだが


しかし、次から次へと

なんでもかんでも法規制するような国家はおそろしい。



コンプライアンスという言葉に律法主義を重ねてしまう今日この頃。




つみびとには

正しいものやことを正しく運用していくことができない


コンプライアンスコンプライアンスと言って

日常のイライラをぶつけるように芸能人の倫理感を責めたて追い詰めたり

何でもかんでも一律に規制して

困ってしまう人があふれたとしてもそれでよしと考える





でも、キリスト教徒だった私は


罪の無い人間だけにしか他人に石を投げうつ権利はないと思うし

安息日に穂を摘んで食って何が悪いのか、と思う


そして

律法が律法主義と同義のように考えられるようになったり、

キリスト教会で終わったものだ良くないものだと考えられるようになったのは

人間が自分ではなく他人の悪事を裁くのが好きだったゆえの

残骸のような気がする今日この頃


律法を積極的に破ろうとする人はともかくとして

やりたいとは思っていてもできない

努力はしてもできない

良かれと思ってやったつもりでも失敗

病のゆえに我慢できなかった・・・

そういう人々について


イエスさまのおっしゃる通り

裁くのではなく数百人数千人とゆるしつづけていれば

最後にはきっとルールはないのとおなじようになる


姦淫をしようが安息日に働こうが

裁かずに赦すならルールは無いに等しい。




そういう、どうにもならない中

律法のエッセンスはこれだ、と広めたんではなかろうか。

「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」


・・・知らんけど


まあ、でもしかし

そんなワンフレーズですら実行できないつみびと

自己中で、てめえの得しか考えないつみびと

大切なお米を流すべきではないところに流したり隠してしまうつみびと!

 


どんなに頑張っても



世の中はいつも優しい人がつらい目にあう





だから宗教は死んだ後のことばかり考えさせるんだろうな


死後のことばかり考えず今生きている人々のことを考えなければ

となりびとに手を差し伸べよう

2025年5月21日水曜日

接ぎ木

丈夫な「白い野ばら」が今年もたくさんの小さな白い花を咲かせています。

ただ、私が30年近く前ここに植えたのは「白い野ばら」ではなく

大きな一重の花を咲かせるバラ「赤いアルティッシモ」でした。

白い野ばらは赤いアルティッシモの台木だったのです。

「赤いアルティッシモ」はとても丈夫な品種で、大きなアーチを作って楽しんでおりましたが、

原発事故後、複葉が完全に分離していない葉をつけるようになり、

そしてしばらくすると枯れてしまいました。

一方、台木として使われていた「白い野ばら」は

・・・同じように異常な葉をつけて続けてはいますが

「根」があるからなのでしょうか、

今年も元気に花を咲かせております。



さて、

大昔には「接ぎ木によって台木と接ぎ穂の間で雑種(新しい遺伝子型のもの)が生まれる」

などという事を言う学者もおりましたが、

それは間違いで、

現代では台木と接ぎ穂の接触点には「接木(つぎき)キメラ」

つまり、台木の遺伝子型を持つ細胞と接ぎ穂の遺伝子型を持つ細胞の混合物ができる、という事がわかっています。




我が家にかつて存在していた「赤いアルティッシモ」は

蔓も葉も花もどこを取っても「赤いアルティッシモ」であり

外から見れば台木の白い野ばらと一体のように見えましたが

遺伝子型は変わらず「赤いアルティッシモ」のままなので、

初夏になればたくさんの赤い大きな花を咲かせ続けておりました。

白い野ばらの影響は受けることはなく。


一方、台木の「白い野ばら」にしても

「赤いアルティッシモ」の枝に圧倒され続けていたかもしれませんが、

遺伝子はずっと変わることなく

「赤いアルティッシモ」が消えてしまった今、

「白い野ばら」はたくさんの枝を伸ばし、

たくさんの小さな白い花をつけ、

花が終われば実もできます。



台木と接ぎ穂

それぞれ良い特性を持っていて

それは接がれることで互いの弱さを補う事が出来ます。


しかし、台木は台木、接ぎ穂は接ぎ穂、

それぞれの遺伝子型は初めに決められた通り。

変わらないし

変えてはいけない。


人間が気付こうが気付くまいが

昔も今もそういうルールです。

2025年5月19日月曜日

私のなすべきこと

正しいものは何もない。

読もうとしても絶対に読めない。



しかしそもそもイエスさまは地上に来られ

聖霊さまをくださった

まことのトーラーがやってきたのだ


あの方は私に自由を与えてくださったのだ


何が義であるのかなどと読めない外国語と格闘する必要はない

毎日十何時間もうなっている必要はない

インマヌエルであられる方とともに

ただ毎日地上の生活を送ればいい

出会った問題を考えればよい


それに、最大の幸せは

私は祭司ではないということ

プロテスタントだから

否、ブラザレンだからと言って

聖書を必死に読み

伝道しなきゃいかんと考えたりする

万人祭司だ~~~などという責任を負わなくてもいいんだという事


正しいものなど何もないのにこれが義であるという嘘

わけのわからんややこしいルールから解放されたんだ~!

がんじがらめの文字を考えるばかりの生活から解放された!


自由だ~!

不作

 所属生協の毎週のカタログに防カビ剤使用の柑橘類が並ぶようになった。

米も大変だが柑橘類も・・・だ。

そういえばリンゴも猛暑で・・・と言っている人がいた。

漁獲量も減少し、

CSF、鳥インフル・・・


カタログを見ながら検索したら、

梅も不作、ショウガも不作、ラッキョウも不作、

海苔も不作、タケノコも不作、

小豆も不作、下仁田ネギも不作、黒豆が不作、ゆずが不作、

コーヒー豆が不作、カカオ豆が不作、オリーブが不作、小麦が不作、

パイナップルが不作、バナナも不作、


十分な食べ物が与えられますように・・・



2025年5月16日金曜日

ミカ書6章8節

人よ、彼はさきによい事のなんであるかを
あなたに告げられた。主のあなたに求められることは、
ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、
へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。
ミカ書6章8節(口語訳)
הגיד לך אדם מה טוב ומה יהוה דורש ממך כי אם עשות משפט ואהבת חסד והצנע לכת עם אלהיך׃


ミカ書のこの言葉を初めて聞いたのはおよそ40年前
クリスチャンホームの友人一家に誘われて、東京のとある「プリマス」ブレズレン系の集会に行ったときのことです。
神さまが人間に求めておられることはここに要約されていると教えられ、以降今に至るまでそういうものとして心の真ん中におさまっています。

ただ、正直に言うと、一番大切な部分に見える3行目の部分がよくわからないままです。


「公義」という言葉については、ミカ書が書かれた状況を考えればここに「公義」という日本語を置くことがふさわしいのだと理解できるのですが、「いつくしみを愛し」という表現の意味が分からない。慈しみって愛とは違うんだろうか。

おそらく、
私たち日本人が「お湯」「白湯」という言葉を発するときの気分がhot waterと言っているときの気分とは全く違うように、
聖書ヘブライ語をよく理解している人々にとって「いつくしみを愛し」という表現がどういう意味なのかは容易に理解できるのでしょう。


というわけで
今日は「いつくしみを愛し」というミカ書6章8節の3行目のところを学ぼうと思います。

 ואהבת חסד というところが「いつくしみを愛し」のヘブライ語です。

「そして愛する いつくしみ」というのが直訳です。


愛するという言葉は
 Strong's Hebrew 160 אַהֲבָה アハバ
辞書によるとこの単語は、雅歌における「花嫁と花婿の間の愛
神とイスラエルの関係の文脈では、神が選ばれた民に抱く契約上の愛
ギリシャ語で言うところのアガペーだと書いてありました。

この言葉が聖書に最初に現れるのは申命記7章8節
ただ主があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして、主は強い手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手から、あがない出されたのである。(口語訳)

そしてוְאַהֲבַ֤תという形で現れるのはこのミカ書6章8節のほかにはもう一箇所だけ
それはエレミヤ31章3節
主は遠くから彼に現れた。わたしは限りなきをもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた。(口語訳)

で、このエレミヤ書31章3節をヘブライ語で眺めたところ
ここにもליという謎ワードがあり
…謎ワード(Strongの辞書には無い言葉)はホントいたるところに存在しています。が、
今はそういうことを書こうと思ったわけではなく

「限りなき愛をもってあなたを愛している」という
不自然な日本語がここにもあり・・・
愛をもって愛するのは当然で、悪意を持って愛するはずはないのですが、
聖書の著者はここでもこういう表現をするわけです。
つまりどういうことかと言えば、
われわれ日本語を使う者は「愛」としか表現しようがないのだけれど、
聖書ヘブライ語を理解する人々にとってはきちんと区別できる別のものがここに表現されているということですね。

で、この「限りなき愛をもって」の「愛」というところに
ミカ書6章8節と同じ160番のוְאַהֲבַ֤תがあり
「あなたを愛している」というところには
 Strong's Hebrew157אָהַב アヘブ があるのです。

アハバとアヘブか、似てるじゃん?と思うかもしれませんが
そう、確かに似ているから「愛」なのだけれども
157番は単なる感情ではなく、忠誠心、献身、行動を伴う「愛する」だと辞書は言っています。
だから、「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。」という言葉のあとに「それゆえ」という言葉があるわけです。単なる感情ではなく、忠誠心、献身、行動を伴う「愛する」だからこそ何をするのか、

それが「真実をつくしてきた」というところにつながっていくわけです。

で、その「真実をつくしてきた」というところにある言葉はちょうど
ミカ書6章8節で「いつくしみ」と訳されていたחסד


つまり、ミカ書6章8節の「いつくしみ」とは、
エレミヤ書31章3節の「真実をつくしてきた」と同じ言葉!

あーやっと意味が分かった!


 חֵסֵדヘセド

Strong's Hebrew 2617
慈愛、慈悲、不動の愛、忠誠心、誠実さ、善良さ







ちなみに、
新約聖書にはחסדという単語の「音(おと)」が
ビミョ~ではありますが見える箇所があるのです。

それは「ベテスダの池」「ベトザタの池」

ベテスダ ベトザタは 
בית חסד と書きます。(右側から読みます。)

ביתはベイト 
ベツレヘムのベツとおなじ言葉で「家」という意味があります。
そしてそのあとにחסדという言葉がくっついたのがベテスダまたはベトザタです。



せっかくなのでヨハネによる福音書5章1~8節を口語訳聖書から引用します。


 
こののち、ユダヤ人の祭があったので、イエスはエルサレムに上られた。

 
エルサレムにある羊の門のそばに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があった。そこには五つの廊があった。

 
その廊の中には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが、大ぜいからだを横たえていた。〔彼らは水の動くのを待っていたのである。

 
それは、時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。〕

 
さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。

 
イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。

 
この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。

イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。


イエスさまはユダヤ人の祭のためにエルサレムに行かれました。
クリスチャンは祭りはしませんが
イエスさまは祭りを祝います。
とヨハネはフツーに書いています。
パウロが祭りを祝うのは隠蔽したい人がいるようですが
イエスさまはOK?

で、エルサレムにある羊の門のそばに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があったんだそうです。

どういう池なのかと言うと
「時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされた」

ないね。(キッパリ)
それは聖書の教えではない。
偽物!偶像崇拝者、異教徒の教えだ。
エルサレムなのに、ヘブル語なのに異教!ああ。


そんな異教の神殿の人工のプールに!
わざわざイエスさまは行ってくださった。

ああ、まさにחסד




受洗してから昨夏でちょうど38年経った私。



イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。

 
この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。

イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。

38年とは

女子高生がアラ還になってしまう

・・・こういう長さなのですね。(苦笑)


私も床を取り上げ、主と共に「道」を歩いていきます。



דרך デレク 道


心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。
すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
箴言3章5,6節(口語訳)

日本語の聖書で箴言を読むと、「道」という言葉がとてもたくさん出てくることに気付きます。
聖書協会の本文検索で確かめてみると、箴言のみならず、聖書には「道」という言葉がたくさん登場しています。以下引用口語訳聖書

詩篇1:1
悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず

申命記5:33
あなたがたの神、主が命じられた道に歩まなければならない。そうすればあなたがたは生きることができ、かつさいわいを得て、あなたがたの獲る地において、長く命を保つことができるであろう。

ハバクク書3:6
彼は立って、地をはかり、彼は見て、諸国民をおののかせられる。とこしえの山は散らされ、永遠の丘は沈む。彼の道は昔のとおりである。



マラキ書2:8,9
ところが、あなたがたはを離れ、多くの人を教えてつまずかせ、レビの契約を破ったと、万軍の主は言われる。あなたがたはわたしの道を守らず、律法を教えるに当って、人にかたよったがために、あなたがたをすべての民の前に侮られ、卑しめられるようにする」。



マタイによる福音書7:13,14
狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、そのは広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、そのは細い。そして、それを見いだす者が少ない。

 ヨハネによる福音書14:5,6
トマスはイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてそのがわかるでしょう」。 イエスは彼に言われた、「わたしはであり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。 


2025年5月14日水曜日

【マジか!】高校生だった自分からのメッセージ

 現在実家が改装中。

足を引きずりながらも、たって免許返納に応じない母が😭
(非暴力の元被虐待児にはほんと無理なんです。お願いです、法改正してください😢)

「おまえのガラクタ」だとかなんとか言って車に何かを載せてやってきました。

そんなのどうでもいいから、キャッシュカードをなくしてしまったらしい件や、死に絶えてしまったはずの隣家に夜、電灯が付いている件を先に解決してほしいものなのですが、


ま、とにかく、わたしのガラクタらしいものを持ってきてくれました。(;´Д`A ```


で、ガラクタはいろいろあったのですが、
どうしたことか、とっくの昔に処分したはずの高校生時代の文集がそこに。


私にとって高校生時代というのは

キリスト教信仰を持って数年という頃で、

改革派教会の福音放送「あすへの窓」を聴きながら教会って楽しそうだなあ、キャンプって楽しそうだなあ、行ってみたいなあと夢を見ていた頃で、

愛読書はリビングバイブル、そして三浦綾子さんの本ばかりを読んでいて、

公立高校に入学したのに担任がクリスチャンだった!すごいすごいと喜んでいた時代で、(後日JWの方だと判明…)



そういう時代の、廃棄したはずの文集が

よりによってクリスチャンをやめた!と宣言した直後のタイミング目の前にやってきたのです。




記憶にはない短編小説が書いてありましたよ、びっくり。

主人公は「60代男、元教員」高2女子が書いているとは思えない。今の私と同年代だけどどっぷり「昭和」のおじさんが語ってる~
なんだこれは😅


しかし、読み終わって思い出しました

教科担当の先生たちがあの先生もこの先生も「泣いた~~~」とわざわざ言いに来てくれたことを。


そしてさらに思い出しました、これは布教目的で書いた小説!当時の私は、何かを発表する機会を得たら、例えばそれは夏休みの宿題の読書感想文であったとしても、必ず布教に利用していたという事を思い出しました。まだ教会にも行っておらず洗礼も受けていなかったころでありましたが、そうしないと寝覚めが悪いというか、純粋にそうしたかったのです。

が、

何かがおかしい。

そこには今の私が「布教」という言葉から予測できるようなものが一切無いのです。


言葉を変えれば「キリスト教らしさ(臭さ)」が一切ない。


そりゃまあそうなるかもしれません。教会にも行ったことはないわけですし、教理だの教義だのそんなものは関係ない、

ただ創造主の存在と救い主の存在を知ったというだけの人間の言葉なのですから。


「イエスさまに出会った人々」~20世紀の異邦人 極東在住17歳女子(若かったわ~~~ww)


私は高校生だった当時の自分の言葉にヨハネが黙示録で語るところの「初めの愛」を見せられたような気がしました。


わざわざこれを運んできてくれた母に

主の愛が伝わりますように。



そして、


免許の返納と、紛失したらしいキャッシュカードのことと、隣家の少々あやしげな電灯問題がなんとかなりますように


母よたのむ、なんとかしてくれ~(;´Д`A ```


2025年5月1日木曜日

箴言30章1節から6節半分までを読んでみて(三文を足して訂正しました2025 5/3)

新共同訳聖書を見ていると箴言30章1節から4節、そして5節6節がそれぞれひとつのまとまりになっているのでとりあえずここまでのところで一度振り返ってみようと思います。


まず、なぜ箴言30章のヘブライ語を眺めるに至ったのかと言えば、1節のところの訳があまりにもおかしいと思ったからでした。
それで、すこしのあいだ1節のところを考えていたのですが、
売っている聖書の訳がいろいろあるだけのことはあって(;´Д`A ```

とにかく1節をきちんととらえるために、
そのあとの言葉を眺めることでなにかひらめくかもしれないと考えて読み始めたわけです。

とにかくわからない日本語の聖書の30章1節

マサの人ヤケの子アグルのことば。イティエルに告げ、イティエルとウカルに告げたことば。箴言30章1節(新改訳2017)

マッサの人ヤケの子アグルの言葉。その人はイテエルに向かって言った、すなわちイテエルと、ウカルとに向かって言った、
箴言30章1節(口語訳)

ヤケの子アグルの言葉。託宣。この人は言う、神よ、わたしは疲れた。神よ、わたしは疲れ果てた。
箴言30章1節(新共同訳)

ヤケの子アグルの言葉。託宣。その人は言う。神よ、私は疲れた。神よ、私は疲れた。吞み尽くされてしまいそうだ。
箴言30章1節(聖書協会共同訳)


問題はまず、המשאを「マサ(マッサ)の人」と訳しנאםを「言葉」と訳すのか
המשא נאםとして「託宣」と訳すのかという事で

この点においては、伝承によってユダヤ社会でヤケの子アグルがソロモンのニックネームであると認識されているということと
נאםが神の発言や宣言を表すために用いられ、しばしば神、あるいは神に代わって語る預言者の言葉を指す言葉であることから、
המשאは、イザヤ書14:28、22:25、そして
エレミヤ書23:36、エゼキエル書12:10、ハバクク書1:1のהמשאと同じように
「重荷」のようにとらえ
したがってהמשא נאםとは神さまが反逆する者たちに宣言する重い予言すなわち託宣と訳すことが妥当だと考えたわけです。


そして、2節以降を訳しながらはっきりしたのは

やはり、託宣を告げられてしまうような不遜な男がいた(る)らしいということでした。

ところがおそろしいまでに次から次へと謎ワードが登場し、

読めば読むほど意気消沈。

よくもまあ40年近く「私は聖書のみ、プロテスタントの信者」だとか言って胸を張っていたものだと思ったわけです。
今はただ恐怖におののくばかり。


あんなにたくさんの謎ワードのある聖書をどうやったら訳せるのですか?


あんなにたくさんの謎ワードのある聖書を正しい聖書だと胸を張って販売できるのは、私のような愚かで狂信的な人間が信じ込んで思いこんで売っているから

…ではなく、

ほんとうは聖書翻訳という作業が、純粋に外国語を日本語に置き換える作業ではないからなのではありませんか?


אתという謎ワードが何千か所あろうと、
בוだのבךだの、訳の分からない単語が次から次に登場しようとも、

本当は聖伝、口頭伝承に沿って訳しているから「正しい聖書」だと言いきっているのではありませんか?
ただそうなのだとするとプロテスタントは破綻してます。

いや、そうではなかったとしたらもっとひどいことになります。

謎ワードをすっ飛ばして謎ワードがあったとも言わないのだとしたら・・・つまり、訳せないのに訳したふりをしているとしたら

それってインチキですよね?

謎ワードのことばかりではありません。

どうすればイティエルを「疲れた」と訳せるのでしょう。

どうすれば「くうき」と訳すしかないギリシャ語を「そら」と訳して信者が空中に引き上げられることにできるのでしょう。

伝承なり聖書以外の参考資料なりが無ければ、
・・・素直に直訳しようとしたら、そんな訳し方は思いつくはずがありません。


話を戻します。

箴言30章1節をこう読む、という「仮説を立てて」二節以降を読んでみたわけですが

1節

ヤケの子アグル
(すなわち トーラーを良く学び知識が豊富で人々にトーラーを教えるソロモン)による

重い預言の言葉

勇敢で強じんな男

自分を完全無欠な王だと考えている者ウカル
または自分を完全無欠な王だと考えている者とウカルに対して:


1節のところで、この「託宣」を与えられる人間がいる、と考えて2節を読むと


2節

私は必ずあなたを火によって男の中から取り除く

完璧な理解力がありながら御手のみわざを学ばない人間


あーこの人は滅ぼされるんだ、という事が聞こえてくるわけです。

1節で「託宣」と訳したことを意識するならば聖書協会共同訳の「わたしは確かに人よりも愚かであり、わたしには人の悟りがない。」というような自己反省の文章にする必要はないわけです。(もちろん何らかの伝承があるとすればそうなるのかもしれませんが直訳しようと思うならそうはならないだろう、と思うのです)
בַּעַר単語をストレートに訳せば火によって不純物を取り除くこと、すなわち火によって邪悪なもの滅ぼすという意味の言葉をそこに置けばいいのです。


で、そうやって滅ぼされようとしている男がどんなやつなのか、というと


頭はいいのに、どんなものを見ても神さまのみわざを信じようとはしない人間、というわけです。

で、3節ではその人間について知恵と知識という言葉を用いて説明しています。


3節

そして絶対に知恵を学ぶことはない

そして聖なる知識を知らない



そして4節においては

ちょうどヨブ記の最後のところで
神さまがヨブに語りかけるように
語るのです。


4節

だれが天にのぼり、そしてくだるのか

だれが風を集めて両手の中に入れるのか

だれが水を服の中に入れてとどめるのか

だれがすべての地の果てを確かなものとしたのか

(そのすべてをお出来になる)彼の名前は何というのか

そして彼の息子の名前は何なのか

知っているのか


では、その男の対極にいるはずの信仰者は

何をもってこの4節の問いに対し答える事が出来るのでしょうか。


それはへりくだった思いで「自然」に向かい合う時

そこに「創造主」が「在る」ということに気付き

そしてそのお方について書かれたことば

それらのものから

私たちは創造主へのおそれを抱き
そしてその方への信仰という思いが呼び覚まされ
聖なる知恵があたえられ答えることが出来るわけです。


5節
神さまのすべての言葉は精錬されている。(不純物が無い)

それ(or 彼=神さまの言葉)は 神さまに保護を求める者たちの盾となってくださる。


パウロはヘブライ人への手紙でこのように書いていますが

神の言葉は生きていて、力があり、いかなる両刃の剣より鋭く、魂と霊、関節と骨髄とを切り離すまでに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができます。
ヘブライ人への手紙4章12節(聖書協会共同訳)

この言葉を読むたび、不純物の無い御言葉の容赦なさを私は感じます。

不純物が混ざりこんでいるものという事を考える時
私はいつも日本の宗教観を思うわけですが
何でもアリ、とりあえず良いと言われることは何でもやっておく、判断をせず右に倣え、

このはちゃめちゃを良しとしている人には全く理解できないきびしさが

「不純物の無い」という言葉に感じられるのです。

5/3に入れた文→一生懸命御言葉を伝えようとし翻訳を頑張ったけれども訳し切れなかったことをきちんと書かない、または、間違っていると気付いたのにそのままにしたり都合で変更してしまったもの(通常これは改ざんと言う)は、不純物を人間が入れてしまったということになりますね。たぶん、そういうことをするのは聖書を知らない神さまへの恐れのない人です。ナダブとアビフもだめ、ウザもダメ、なのです。

少し前に、בראバラ=創造する を逆から書いたארבアラブは混ぜること混ざることという話を書きました


聖なるお方は聖であられますから



何でもアリでごちゃごちゃの世とは異なる。
ארבアラブではない。

ק針の穴を通るようなそぎ落とされた聖さ

金属を精錬するような、タンパク質が主成分の生物は焼き尽くされてしまう強い火、高温できよめられた聖さ


だからこそその言葉には


6節
絶対に加えてはいけない 神さまの言葉の上に

(後半未完)



徹底的に聖いその言葉、混じりけのない、余計なものが一切ない言葉

だから減らすわけにもいかない。

そして加えてもいけない。




そしてその言葉
神さまの御言葉は

「神さまに保護を求める者たち」には「盾となってくださる」



ならば、
「神さまに保護を求める者たち」とはどういう者たちのことか、



考えて思いついたのはイザヤ書66章2節の言葉でした。



主は言われる、
「わが手はすべてこれらの物を造った。これらの物はことごとくわたしのものである。しかし、わたしが顧みる人はこれである。すなわち、へりくだって心悔い、
わが言葉に恐れおののく者である。

イザヤ書66章2節(口語訳)


2025年4月29日火曜日

箴言30章6節を読んでみた

 אל תוסף על דבריו פן יוכיח בך ונכזבת׃

今日は箴言30章6節を眺めてみようと思います。

前回と同じようにわずか8つの言葉で構成されている箇所です。


実は今日もבךという謎ワードがあります。
辞書にはない、つまりきちんと訳されてはいない単語です。

そんなものを素人が訳せるはずはないのですが、

聖書のみ、万人祭司 という信仰だった自分にとって

石にかじりついても

そう、冗談ではなく、岩であられるお方そしてその御子「石」に

求める、求め続ける、たたく、たたき続けなければ


ではありませんか?


まあ、そこが


それが聖書のみ万人祭司という信仰が破綻した原因でもあるわけですけれども。


それでも、自分にできることはやらなければ。

自分の持ち分ではないところまではやる必要はないと思いますけれども、

義務ではなく、強制でもなく、

信仰の土台である聖書

神のみ言葉

38年間も私は「聖書のみ」だと思って暮らしてきたのです。

やれるところまではやる。

ただ、やれることなんてこんな極東在住の学も無いアラ還主婦ですからね、

いつものようにウィキペディアのフェニキア文字ながめるか、

BIBLE HUBの辞書を眺めるしかできないわけですが

いや、でもそういうものが無料で手の届くところにあるのなら

それらは神さまが私という人間に与えてくださった情報なのですから

眺めて考えれば良いのです。

考えてもわからないことは要求されないでしょう?

分からないんだから。

だけど、考えられるのに、時間もあるのに、その機会を放棄するということは絶対に御心ではない。

こんなこと、気付いていないプロテスタントのクリスチャンは山のようにいる。

ユダヤ教徒なら考えるのだろうけれど

教理だの教義だの教派だの、がっちりと囲まれて一ミリたりともズレたらいけないクリスチャンたちは

見えても目をそらし、聞いても耳をふさぎ

そうやって波風を立てずに生きていくしかない。

でも根幹にかかわることなのだから

本当は考えなければいけないわけだけど

「要するに救いが受けられればいいのだから」という論理で


…黙ろう。

しかし、私は私の思考の痕跡をここに書き残そう。

בךという謎ワード


בכ(単語の最後にあるとך)が使われている単語には

בָּכָה 「泣く」という言葉があり、そこから派生した

בָּכָאという言葉もあるので、そのあたりに近いニュアンスを含んでいるのかもしれない・・・と私は思ったのです。が、それをどういうふうに文脈に入れるのかよくわからない。


あと、謎ワードではありませんが気になった言葉

פןペン Strong's Hebrew 6435 

この単語はある意味有名な単語ですね。
この言葉が最初に現れるのは創世記3章3節のところです。

ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。(口語訳)

 ומפרי העץ אשר בתוך הגן אמר אלהים לא תאכלו ממנו ולא תגעו בו פן תמתון׃

前回の記事箴言30章5節で登場した謎ワードであるבוのあとに

(このように謎ワードは謎のままあっちこっちに登場するんです。で、謎を謎のまま放置して訳された聖書を読んでいるのに聖書を理解できていると思い込んで「聖書のみという信仰を持っています」なんて言ってた自分。あーヤダヤダ)

פן תמתון という二つの言葉が並んでいるのがわかります。

ここは口語訳聖書では「死んではいけないから」と訳されています。


創世記3章というのは、エデンの園における誘惑者とエバのやり取りの場面です。

「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」

誘惑者はエバの心の中を見透かしたように誘惑の言葉を聴かせます。
「本当にそれやっちゃダメなの?本当に神さまがそう言った?え?でもあんたそれ食べたいんだろ?おいしそうだよねえ、永遠に生きられる的ないい成分含まれてるんじゃね?ひひひ」

いつもここを読むとき私の脳内で誘惑者はこう語っています。

するとエバは、こう答えてしまうわけです。

「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」

きちんとした正しいことを言っているように見えるのだけれども、肝心なことを減らしている。

創世記2章17節で神さまが言われたのは、「死ぬ」という言葉を二度重ねて強調し「必ず死ぬ」と言ったのに、一回に減らして「死ぬから」と言ったわけでもなく、
もっと減らして「死んではいけないから(死ぬおそれがある)」と彼女は言った。

מות תמות 死ぬ死ぬ=必ず死ぬ

פן תמתון 死ぬおそれがある



さて、

創世記2章17節は日本語の聖書にはこう書かれています。

ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる。」聖書協会共同訳

しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」新改訳2017

そして

ヘブライ語聖書のこの箇所にはこう書いてあります

ומעץ הדעת טוב ורע לא תאכל ממנו כי ביום אכלך ממנו מות תמות׃



書きたくはないですけれども一応書いておきます。

実は、上に引用した日本語の創世記2章17節にはヘブライ語聖書にある単語が一つ不足しています。
何が不足しているのか確認してみましょう。

そのためにヘブライ語の意味を確認します。

ומעץ 「そして木から」 

הדעת 「知識」 
טוב「良い」(神さまが恵んでくださる有益なもの、心地よいもの、道徳的に正しいものという意味がある「良い」) 

ורע そしてという意味のあるוヴァヴが付いたרע「邪悪」(神さまの性質や戒めに反する行為、思考、意図という意味においての「邪悪」)

לא(絶対に)「ダメ」
תאכל   「食べてしまっては」

ממנו 「そこから」

そして、なぜたべてはいけないのかという事がכי以下に書いてあります。

ביום 「その日に」

אכלך 「あなたが食べる」

ממנו 「そこから」

מות תמות 「死ぬ 必ず死ぬ」

つまり

「善悪の知識の木から食べてしまうことは絶対にいけない

「その日」(すなわち)あなたがそこから食べる日あなたは必ず死ぬ」

日本語の聖書ではどの言葉が減らされているかお分かりになりましたか?

ヘブライ語から日本語に訳された瞬間、
特に聖書協会共同訳では「完全に」スルーされてしまった単語

それは

ביום 

これはביוםにくっついた単語です。

יוםとは「日(ひ)」「一日(いちにち)」という意味がある言葉です。
天地創造の6日間それぞれの日がיוםです。

たぶん、新改訳2017ではスルーしているつもりはなく、「日」と訳すと不自然だとか何とか、翻訳者に尋ねてみなければその真相はわかりませんが、「とき」という言葉を充てて済ませているのだと思います。けれども「格調高い日本語に訳された」聖書協会共同訳にはありません。

ちなみに明治元訳ではこうなっています。

然ど善惡を知の樹は汝その果を食ふべからず汝之を食ふ日には必ず死べければなり

「日」という言葉が入っています。

英語の聖書でもいくつかを除いて in the dayとかon the dayという言葉を入れています。

引用はしませんので興味がある方はBIBLE HUBでご覧ください。

https://biblehub.com/genesis/2-17.htm


聖書は原典において正しいのかもしれません。

しかし、謎ワードがあればそれは無視、謎でなくてもナチュラルな日本語になりそうでなければスルー、

それって、「必ず死ぬ」を「死ぬといけない、死ぬおそれがある」に減らしたエバとどのくらい違うことなのでしょうか。

もちろん、この件については、そこまでのことを理解した上で信徒たちに語ることの出来る指導者がいる群れであれば問題はないのです。しかし、私のようにブレズレンの信者であった人間には・・・。

いやいや、それどころではないです。
律法は終わったとか言って聖書から律法を取り除く行為、
律法の取捨選択、減らすにもほどがあるでしょう?

箴言30章6節の話にもどります。

箴言30章6節には神さまの言葉を減らすのではなくそこに加える悪について書かれています。


אל תוסף על דבריו פן יוכיח בך ונכזבת׃

この文の一番初めにあるのは

אלです。ヘブライ語の文の初めには、日本語で言うところの述語(動詞)が来ることになっています。したがって、文の頭に誰かの名前だとかそういうものが来るはずはないので、
文頭にあるאלは神さまを表すאלエルではなく否定語のאלアルだということがわかります。

神さまを表すאלエルとאלアルはまったく同じ綴りである、ということでわかりますが、
אלアルと書いてあったら強い絶対的な否定になります。
אללאの程度の違いを考えたりしますが、初心者である私には辞書を読んでもまだよくわかりません。
ただ、牛追いの棒であるלラメドを先に置くか後に置くか、ということよりも、
大切な大切な文字であるאアレフという文字を先に置くか後に置くかという、そのあたりの気分や書いている人の立場だとか、そういう違いが発話者にはあるような気がしています。אアレフが先にあると権威を感じるので、命令されてる気分に、私はなります。(個人の感想です)

箴言30章6節で

אלアルという言葉の次に来るのは

תוסף 悪そうなסサメフの入った単語が次に来ています。(完全なる個人の感想です)
これは יָסַףという単語の変形バージョンで、「加える」という意味があります。
ちなみに、

תּ֥וֹסְףְּは箴言30章6節にしか登場しません。

似たような文字構成の単語を探してみましたら

イザヤ書に תוֹסִ֥יפִיという言葉が4回登場

イザヤ書23章12節、47章1節、47章5節、51章22節

そしてヨブ記には文字列は同じだけれども読み方が違うתּוֹסַֽףという言葉が41章8節にありました。


箴言30章6節の出だしにある二つの単語をあわせると

אל תוסף 絶対に加えてはいけない!!

ということになります。

では何に何を加えてはいけないのか。


על 上に

דבריו 彼の言葉

「彼の言葉の上に」加えてはいけないと書いてあります。

דבר「ダバール」 には言葉という意味がありますが、
聖書では神さまの言葉、神さまの命令、または神さまの約束を表す単語です。

というわけで、

30章6節の前半部分4つの単語で構成されている部分は

絶対に加えてはいけない 神さまの言葉の上に

という意味になります。



神さまの言葉を減らしたり加えたりすることを禁じている申命記の箇所を思い出させる言葉です。
申命記4章2節(口語訳)
わたしがあなたがたに命じる言葉に付け加えてはならない。また減らしてはならない。わたしが命じるあなたがたの神、主の命令を守ることのできるためである。
申命記12章32節(口語訳)
あなたがたはわたしが命じるこのすべての事を守って行わなければならない。これにつけ加えてはならない。また減らしてはならない。

これら申命記の二つの箇所には非常に特徴的な言葉が含まれています。
それは、日本語で「守る」と訳されているמרシャマルという言葉です。

「神の戒めを守る」という言葉は日本語を使う私たちにもそれは理解できることばで、
「約束を守ろうね」というような、「言われたことをきちんと行う」というニュアンスでとらえると思うのですが、
מרシャマルというヘブライ語にはそれだけではなくto hedge about, guard, to protect, 
という意味での「守る」があるようなのです。
いや、もしかすると、本当は日本語の「守る」にも、そこまでの意味が込められているのかもしれませんが、ヘブライ語聖書を眺めるまでガードだのプロテクトだのと言う意味が申命記4章2節と12章32節の「守る」に含まれるとは考えてもみませんでした。

מרシャマルに似た文字列の言葉にשׁמעシャマアというものがあります。
これは申命記6章4節「聞きなさいイスラエル」でおなじみの「聞く」という意味の言葉です。
この二つの単語で興味深いのは「聞く」という意味のשׁמעシャマアの三文字目はעアインつまり目であり、מרシャマルの三文字目はרレーシュつまり頭なのですね。
目と脳と言われると両生類の発生過程における神経誘導を思い出すのですが、脳と目というものは非常に近いところにあるものです。外界の刺激を受容する目、そしてそれを判断しとどめる脳であると考えると、「聞いた」言葉をしっかり「記憶する」、
記憶された言葉は誰にも盗まれることはないのですから
そうやって神さまの言葉を行うと同時に「ガードする、プロテクトする」、
イスラエルの重い使命を感じさせられる言葉だなあと思います。
記憶し子供に伝え守り続ける、永遠にそれを行う、付け加えることも減らすこともしないでガードするプロテクトする。トーラーはトーラーについてそう要求しているのです。
つまり、神さまは、神さまご自身の発せられた御言葉について、
永遠に記憶し加えることも減らすこともせずそれを行いなさいとおっしゃっている。


先日私は「プロテスタント」の信者であるとは言えなくなったと書きましたが(これを書いた後プロテスタントではなくキリスト教に変更しました)
そもそもそういう「宗教」を信じていると思っていたことがおかしかったのです。
神さまはおひとりで、
その方の教えは一つ。永遠に変わらない。
「キリスト教」という宗教があるのではなく、
ある時、地上にメシアが来られた、それだけの事だったのですね。
プロテスタント、エヴァンジェリカル、ブレズレン、などという定義の中で自分の存在を確認することに必死になっていましたが、本当はただ単にメシアが来られた後の人類であると言うだけのことだったわけです。
メシアが来られる前の時代とそのあとの時代があるというだけのことだったのですね。




さて、それでは30章6節の後半を眺めます。

פן יוכיח בך ונכזבת


פן  上の方でたくさん書きましたが「~するといけない」「~のおそれがある」 という意味があります。

יוכיח 神さまが「懲らしめて」正しい道へと立ち返らせるというような意味があります。

בך 上に書いた通り辞書にはない謎ワードで、対訳では語末のךのゆえなのでしょう「あなた」となっています。

あ゛~~

謎ワード、どうすればよいのでしょう。「あなた」でいいのでしょうか

😫

どこかの日本語の聖書の箴言30章1節みたいな気分になってきました。

「疲れた疲れた~~~」

あ~~馬鹿~

いや、בךベカだ(;´Д`A ```




学び続けて行ったらそのうちに何か知恵が与えられるかもしれません。


検索を続けていたら面白そうなサイトを見つけました。

https://www.mgketer.org/tanach/28/30/6

2025年4月27日日曜日

キリスト教徒をやめました

プロテスタント(福音派)で受洗して38年。

ついにこんな日が来てしまいました。


38年間、「聖書のみ」にこだわって、こだわってこだわって生きつづけてきましたが、


それは無理だ、と言うしかないという結論に至りました。

こんなふうには言いたくなかったので、

一生懸命努力してみましたが、


翻訳聖書に全幅の信頼を寄せることはできないと強く思うに至り、

だからと言って自分できちんと読むことはできないとも悟り、

否、本当は誰も正確には読んでいなかったという事を知り、


・・・そんないい加減な世界だなんて考えたことが無かったので
ほんとうに頭がおかしくなりそうでしたが、

聖書のみ、と言って聖伝をスルーしたらこの宗教は成立しないとつくづく悟りました。

だからと言って聖書と聖伝と言う宗教にも、
エクレシアという言葉に対する違和感を持ってしまった以上
イエスさまのことは信じていても
「キリスト教」と呼ばれている宗教に身をゆだねることは無理だと悟りました。


すでに10年以上前から教会に所属しているわけではないので

見た目には何か大きな変化があるわけではありませんが


この記事を書くことで、自分としての区切りにしたいとおもいます。




感謝なことにコヘレト7章20節にはこうあります。

כי אדם אין צדיק בארץ אשר יעשה טוב ולא יחטא׃



人間は神さまではなく完全ではないのですから

一生懸命考えて

考えて考えて変化することを

神さまはきっと良しとしてくださる。



ミカ書6章8節を心に留めて

歩いていこうと思います。


2025年4月24日木曜日

箴言30章5節を読んでみた

 箴言30章の1節の謎の解決のために箴言30章を眺めることにしたのですが、

案の定、当初の目標を忘れてしまった気がするアラ還おば(あ)さん(;´Д`A ```

どういうところに着目しようとしていたのか
すっかり忘れましたが・・・確認する気も無くなってしまい・・・←このあたりのことについては近いうちに書く予定です


とにかく箴言30章5節が気になるので、
本日は5節のところを眺めてみようと思います。


כל אמרת אלוה צרופה מגן הוא לחסים בו׃

すごく短い箇所です。8個しか単語が無い。

でも、こんなに短い箇所なのに、しっかりと謎ワードが一つ含まれているのです。
בו😩

謎ワードとは、辞書に載ってないとか意味不明とされている単語のことです。

אתみたいに、謎ワードでもとりあえず辞書に載っているものは、どんな感じでとらえられてるのかがコンコルダンスでさぐれたるわけですが、
完全にスルーされてる単語はどうすりゃいいの?
聖書なんだから、一字一句丁寧に扱いたい。
そのためにド素人がヘブライ語まで読んでるのに
ここでスルーするとかありえない。

検索しても、「シエラレオネの都市 ボー」
って書いてあるし。

そりゃそうです、辞書に載ってない言葉がそう簡単にヒットするわけがありません。

なので今回は一次関数的な発想でチャレンジしてみようかと思います。なにかしら見いだせるに違いない。(まあ、見いだせないかもしれないし的外れなことをするかもしれませんが、ずっとこんなふうにして私はヘブライ語を読んでいます。素人はこうやって苦戦しているの、という様子をご覧くださいませ。(;´Д`A ```)

一次関数的な発想とは

בו何らかの文字を足した時に現れる「意味や定義の変化」からבו自体の意味を見出すという方法です。辞書でבוに近い文字列の単語を探し(そんなことをできるのはBIBLE HUBのおかげ)意味を確認していきます。


בּוֹא 行く、来る

בּוּז 軽蔑する

בּוּךְ 注ぎだす、空(から)にする

בּוּל 生産する

בּוּל 雨期の始まりの月(8月)

בּוּס 恥ずかしい、屈辱を感じる

בּוּץ 漂白する、または白くなるという意味の使われていない語根から派生した単語で上質な白い布である亜麻布を指し、清浄、富、高貴さを象徴する

בּוֹצֵץ キラリと光る、輝く

בּוּקָה 空虚

בּוּר 水をためるための穴を掘る、井戸

בּוּשׁ はずかしい

בּוּת 仮小屋、一時的な避難所

頭から順番にもれなく考えるようなことをするとドツボにはまりますので、わかりやすそうな特徴的なところだけ考えます。

まずはこの二つ

בּוּץבּוֹצֵץ 漂白する、キラリと光る、輝く

メルキツェデクのツェでおなじみのצツァディが1つ付いているものと2つ付いているものです。(ץはツァディソフィート 単語の最後に付くときにצツァディはこの形になります)

1つ付いているものは漂白をおこなって白くなった上質の亜麻布を表し、
2つ付いているものは白いどころではなく、いわゆる「数を二つにすることによる強調」ということらしく「輝いている」というわけです。

メルキツェデク、すなわち義の王でおなじみのצツァディは「正しさ、義」という意味ですから、この単語でבוは、צツァディに「する」というような意味、
もう少し丁寧に言うと、
בは創世記1章1節のבראのような無からクリエイトするというような意味でのニュアンスを感じさせるものであり、
וヴァヴはペグとしてクリエイトしたものを動かないように固定するというようなニュアンスを感じさせつつ
צツァディに(義)に「する

で、צツァディ一つで白くなり、צツァディ二つで輝く。


続きまして

בּוּת 仮小屋、一時的な避難所

これは、וヴァヴの代わりにיヨッドが入っていると
ベツレヘムでおなじみのביתベイト(日本語ではベツレヘムのベツ)で家という意味があります。
ヨッドは神さまの御手なのでしっかり?作り上げられている感じがしますが(個人の感想です)
וヴァヴは幕屋の幕を留めるペグなので、ペグで留めたような
בベート 作った仮小屋という感じでしょうか。



בּוּז 軽蔑する

זザインという文字にはどういう意味があるのかという事を考えるためにזザインを含む単語の検討をします。(単語の途中に入っている言葉は見つけるのが大変なので、זザインが先頭にある単語を考えます)


 זָנָב ザナブ これには、軍隊の隊列の後方を攻撃するという意味があります。

古代の戦争では、軍隊はしばしば長い縦隊を組んで進軍し、隊列の後方が攻撃に対して脆弱でした。このような戦術は、高齢者、女性、子供など、集団の中で最も弱く無防備な構成員を標的とするため、不名誉な行為とみなされていました。この攻撃方法は、直接的で名誉ある戦闘を重んじるイスラエル文化において特に軽蔑されていました。

で、このザナブの派生語でジンネブという言葉があり

 זָנַב ジンネブ これは イスラエル人をアマレク人が攻撃したという文脈で使われている広報を攻撃するということばです。


そしてもう一つは狼を表す単語

 זְאֵב ゼエブ 狼は羊を襲う獣なので、辞書によるとマタイによる福音書7:15などで用いられている狼と同じように、弱者を食い物にする偽預言者や指導者という文脈で使われるとのことでした。


זザインという文字は「武器」の形由来だということは知っていたのですが、
「ザイン」というヘブライ語の三文字の単語を検索すると、あまり良い意味ではないヘブライ語のスラングが出てきてしまうのでזザインが使われている単語を調べることにしたのですが、単語の様子と変なスラングでわかるように、
זザインという文字自体には良くない意味があるのでしょうか。

確認のために、זザインから始まる単語で、語尾にדダレトがくっついた単語の意味を調べてみます。

なぜそんなことをするのかというと、トーラーを読んでいて気付いた事なのですが、

אבアブはお父さんで、父なる神さまで、アブラハムのアブなのですが、
דダレトをくっつけたאבדアバドは滅びること。
他にもそういう感じの単語があったので、
後ろにדダレトをくっついた単語がどういう意味を持っているのか、確かめてみましょう。

 זַָבַד ザバド 「与える」または「授ける」という意味で、多くの場合、寛大な、あるいは重要な贈り物という意味

同じ綴りでゼベドと読む単語は「賜物」という意味で、
神から与えられたもの、特に祝福や子供といった文脈で用いるようです。

 דダレトをくっつけたらいい意味になりました!(笑)

確かめたというほどの数ではないのでまたあとで時間があったらやってみようと思いますが、
זザインはなにか残酷な感じで、
あまりよろしくない意味を持つ「武器」
なのかもしれません。

だとするとבּוּזという言葉の意味が「軽蔑する」なのは
残酷でよろしくないזザインをבוがセットになって「馬鹿にして、小さいものにしてしまう」ということでしょうか。

とすると、同じように悪い意味を持つסサメフのくっついている

בּוּס 恥ずかしい、屈辱を感じる

これはבּוּזと同じようなシステムで、

בוסサメフを「馬鹿にして、小さいものにしてしまう」感じ?

少なくともבוは「神さま側」に立っている文字列で、その二文字がセットで何かをしている



でもそうなるとこれはなぜ悪い意味になるのか。

בּוּשׁ はずかしい

エレミヤ書6章15節

彼らは忌むべきことをして恥をさらした。それを少しも恥ずかしいと思わず屈辱に気付きもしない。それゆえ、彼らは倒れる者と共に倒れ
私が彼らを罰するとき、彼らはよろめき倒れる――主は言われる。

太字のところがבּוּשׁです。


あ、これはアレか良いとか悪いとかそういうことではなく、

בוによってשׁさせられちゃうということなのかな。

שׁという文字はイエスさまのお名前だったりモーセの名前だったりセム族だったりに使われているという意味では「よい文字」という分類に入りそうですが

良いとか悪いとかそういうことに関係ない文字の形の「雰囲気」ゆえに使われることのある文字で、
それは、太陽という単語ですけれども
שׁמשׁ
いかにもキラキラしている感じ。
この単語を考えると
太陽はキラキラと同時に熱いわけですから、熱いという意味でשׁを使っているのかも。

恥ずかしいと顔が赤くなるし、熱くなるし。(かなり強引な推測と感想ですw)


というわけで、かなり端折ってしまった気はしますが、

בוは「神さま側」に立っている文字列で、その二文字がセットで何かをする

という、わかったようなわからないような結論に至りました。



そんなこんなで、また本日も最後の単語から長々と考察してしまいましたが

そしてその考察があっているのかどうかわかりませんが

頭から読んでみたいと思います。


כל אמרת אלוה צרופה מגן הוא לחסים בו׃

כל カル すべて

אמרת אלוה イムラト エロヴァㇵ 神さまの言葉

צרופה ツェルファㇵ 精錬された (精錬や火による試練を通して不純物を取り除かれた)ここにもצツァディがありますね

מגן マゲン 盾 (戦闘において敵の攻撃から戦士を守るための防具。より広い意味では、聖書では神さまが民を守り、保護することを表す表現)

הוא フー それ(彼)

לחסים ラコスィム 身を寄せる者たち(神さまに信頼し、保護を求めている人たち)

בו 神さまが行ってくださる


つまり箴言30章5節は

すべて 神さまの言葉 精錬された(不純物はない)

盾 それ(or 彼) 身を寄せる者たち 神さまがおこなってくださる。


もう少し滑らかな言葉にすると



神さまのすべての言葉は精錬されている。(不純物が無い)

それ(or 彼=神さまの言葉)は 神さまに保護を求める者たちの盾となってくださる。



4節のところにもさりげなくイエスさまが登場されていましたが

5節も最後のところの「それ」は「彼」と読み替えることも可能なので、

神さまの言葉 というところをヨハネが福音書の冒頭で語るように

「イエスさま」であると読み替えるなら

「それ」と訳さず「彼」と読み替えて

神さまの御子による「福音」が見えてくるような気がします。



なんか面白くなってきた

(個人の感想です)😸


2025年4月23日水曜日

マタイによる福音書における「エクレシア」という言葉に違和感 

 ローマ教皇が亡くなられたというニュースがありました。

自分はクリスチャンではあってもプロテスタント教会しかもごくごく一部の教派しか知らない、そして、歴史とか文化や伝統に超絶疎い人間なので、
ウィキペディアで「ローマ教皇」について調べてみました。←このレベル


ウィキペディアの「ローマ教皇の一覧」というものを見ると

当然そういうことになるのでしょうが
いや、改めて言われるとマジすっげ~~wwとか思ってしまったわけですが
初代教皇はペテロだそうで、在位期間は30年頃から64年頃(から68年ごろ)と書いてあります。
で、同じくウィキペディアの「ローマ教皇」というページを見たら
カトリック教会では伝統的に教皇の地位と権威が聖書に由来するものであるとしている。特に重視されるのはマタイによる福音書の16:18-19のイエスのペトロに対する言葉である。

「シモン・バル・ヨナ。お前は祝福されたものだ。このことは血と肉によってでなく天におられる父によって示されている。わたしは言う、おまえは岩(ペトロ)である。この岩の上に私の教会をたてよう。死の力もこれに勝つことはできない。わたしは天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐものは天でもつながれ、地上で解くものは天でも解かれるのである。」

この箇所から「天国の鍵」のデザインが教皇の紋章に取り入れられている。

ただし、この聖書箇所については、教皇権の根拠とするこのようなローマ・カトリック教会における解釈は、正教会、プロテスタントでは受け入れられていない。


と書いてありました。

で、これを読んだときに

そういえば昔こんなの書いたな、と思い出し、

【調べ学習】信頼できる大きな岩について、そしてエクレシアという言葉の問題 
https://kyudochu.blogspot.com/2019/10/blog-post.html


自分の書いた記事を読み返し


マタイによる福音書16:18にある「エクレシア」という言葉について


・・・善良な信者の皆さんは聞かなくてよいことなのでスルーしてほしい話ですが・・・




コンコルダンスを眺めているとこんなことに気が付くなーという事を思い出してしまいました。



Strong's Greek 1577 ἐκκλησία エクレシアは新約聖書中に114回登場しますが、

福音書では
「この岩の上にわたしの教会を建てる」
とイエスさまがおっしゃったというマタイの16章18節に1回と、
マタイ18章17節の
「もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。」
という計3回登場するだけで、
マルコ、ルカ、ヨハネの福音書には登場しません。
そして使徒言行録に23回、
以降、書簡には上の図に書いた通りたくさん登場するので新約聖書におけるエクレシアの登場回数は合計114回という事になるわけですが

そうそう、「教会」に似た言葉として、福音書にはたびたび「会堂」という言葉が登場しますが、まあ、クリスチャンであればエクレシアと建物としての会堂は異なるものだということは誰もが知っていることだとは思いますが、参考までに調べました。
「会堂」と訳されているギリシャ語はシナゴーグ Strong's Greek 4864 συναγωγή sunagógé です。

シナゴーグが登場する新約聖書の箇所(Englishman's Concordanceより)

マタイ4:23、6:2、 6:5、 9:35、10:17、12:9、13:54、23:6、23:34

マルコ1:21、1:23、1:29、1:39、3:1、 6:2、12:39、13:9

ルカ4:15、4:16、4:20、4:28、4:33、4:38、4:44、6:6、7:5、8:41、11:43、12:11、13:10、20:46、21:12

ヨハネ6:59、18:20

使徒6:9、9:2、9:20、13:5、13:14、13:43、14:1、15:21、17:1、17:10、17:17、18:4、18:7、18:19、18:26、19:8、22:19、24:12、26:11

ヤコブ2:2

黙示録2:9、3:9



何も思わない何も感じない方はそれで構いません。

が、たぶん、


おそらく、

実験をたくさんしてデータを取るようなお勉強をしたりそういう感じのお仕事をしている方がエクレシアという言葉の分布を見たら


(。´・ω・)ん?ハテ?

と思われるのではないかしら、と思うわけです。


しかも18章でイエスさまは


もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。

もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。

もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。

よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。

マタイによる福音書18章15~18節(口語訳)

15節から18節でこうおっしゃった直後の21節と22節でこうおっしゃるわけです。


そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。

イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。

マタイによる福音書18章21、22節(口語訳)


違和感を覚えるのは、

私が教会という組織から落ちこぼれた人間だからでしょうかね


・・・ま、そうなんだろうな

気分次第でいかようにも読める・・・かな?

2025年4月13日日曜日

箴言30章4節を読んでみた

 מי עלה שמים וירד מי אסף רוח בחפניו מי צרר מים בשמלה מי הקים כל אפסי ארץ מה שמו ומה שם בנו כי תדע׃

今日は箴言30章4節です。

引用したヘブライ語のテキストの色を変えた箇所はמימה 

わずか一節の中に4回もあるמיは「誰」「who」

2回あるמהは「何」「what」

つまり、箴言30章4節という箇所は
たった一節の中に6種類の質問を含む箇所です。

「誰 誰 誰 誰 何 何」

こんな言い方をするときというのは、おそらく、
・・・私であれば怒っている時だと思います(;´Д`A ```。

そして最後に創世記の冒頭キ・トーブ (神さまがごらんになって)「良しとされた」でおなじみのキכיがあります。でもכיのあとにトーブはありません

じゃあキの後には何が来ているのか、というとתדעテダ。

後述しますが、כיとのからみで少々気になることがあったので、今日はこの単語の原形をあたらずにこのままの形תדעテダで「トーラー」に登場している箇所を調べてみました。

תדעテダこの形の単語がトーラーに登場するのは
一番初めが創世記の15章13節、そして二番目が出エジプト記7章17節です。
その二つの箇所でもכיキがあるわけですが、תדע כיという形で登場します。
תדעテダを含むトーラーの二箇所は聖書協会共同訳で太字のように訳されています。

主はアブラムに言われた。「あなたはこのことをよく覚えておきなさい。あなたの子孫は、異国の地で寄留者となり、四百年の間、奴隷として仕え、苦しめられる。
創世記15章13節(聖書協会共同訳)


それで、主はこう言われる。『次のことによって私が主であることを知るようになる。』私が手にする杖でナイルの水を打つと、水は血に変わる。
出エジプト記7章17節(聖書協会共同訳)

つまり、תדעテダは、
まだ起こってないことが未来において必ず起こるという事について「知りなさい、覚えておきなさい」という事を表す単語です。

念のために、引用した創世記15章13節と出エジプト記7章17節をヘブライ語聖書でもう少し詳しく見ておきます。

創世記では

ויאמר לאברם ידע תדע כי גר יהיה זרעך בארץ לא להם ועבדום וענו אתם ארבע מאות שנה׃

日本語訳で「よく覚えておきなさい」とありますが、この部分はヘブライ語で
 ידע תדעとなっており、同じ単語のדעという部分を二度繰り返して強調する形となっています。そして、そのあとに כיキがあるわけですが、 כיキの一文字目のכカフは掌を表しますから、כיキ以下に書かれていることを「てのひらでつかんで」
つかんだもの全体を「よく覚えておきなさい」と言っているように見えます。

次に出エジプト記ですが

כה אמר יהוה בזאת תדע כי אני יהוה הנה אנכי מכה במטה אשר בידי על המים אשר ביאר ונהפכו לדם׃

כי のあとに、אני יהוה「私は主(神聖四文字)」と書かれています。

これも創世記と同様כיキ以下のことを「てのひらでつかんで」、
つかんだものを知るようになると言っているわけです。

で、上の方で「少々気になることがあった」と書きましたが、
実は、トーラーにおいてתדעテダが現れる場合、

上に引用した創世記の15章13節と出エジプト記7章17節以外の登場箇所=出エジプト記の8:10、8:22、9:14、9:29、10:7と申命記の 20:20においても
すべて

תדע כיという語順で現れ、כי以下のことを知るようになるというパターンなのです。

しかしこの箴言30章4節の場合、כי תדעという順番で単語が並んでいる。

כיキがぎゅっとつかむのはתדע「知るようになる」ということ自体ということになります。こういった場合、どんなことを表現しているのでしょうか。

Englishman's Concordanceを使い
箴言30章4節以外のכיキがתדעテダの前にある箇所を探したところ、
ヨブ記38章5節に一箇所、そして箴言27章1節に否定語の入った形でありました。
つまり、聖書の中にはこの三箇所だけしかכי תדעという順番で登場するものは無いということになります。

どのような箇所で使われているのか、箴言30章4節と比べつつ確認してみましょう。

まずはヨブ記38章5節。この箇所で気になったのはכי תדעという語順における類似性だけでなくמיが二回も一文の中に含まれていた、ということです。

מי שם ממדיה כי תדע או מי נטה עליה קו׃

続いて箴言27章1節、こちらにはמהがあります。

אל תתהלל ביום מחר כי לא תדע מה ילד יום׃


それではここで、新しい翻訳ではどう訳しているのか、聖書協会共同訳でヨブ記38章5節と箴言27章1節を読んでみましょう。


あなたは知っているのか
誰がその広さを決め
誰がその上に測り縄を張ったのかを。ヨブ記38章5節(聖書協会共同訳)

 ヨブ記38章5節というのは、
主が嵐の中からヨブにおこたえになられた箇所ですね。

そして箴言27章1節

明日のことを誇ってはならない
一日のうちに何が起こるか知らないのだから。箴言27章1節(聖書協会共同訳)


ヨブ記38章5節において תדעテダの訳として登場する「知っているのか」という言葉は、

ヨブが知るはずのないことを、当然そんなことを知るはずはないとご存じのお方があえて尋ね、
一方、尋ねている側のお方は言うまでもなくそのようなことはご存じである、という場面における「知っているのか」という「問い」です。


そして箴言27章1節は

人間には明日何が起こるかなど全く「わかるはずはない」という意味ですが、これも信仰者には深読みすることができ、
「神さまは当然ご存じであるけれども」という前提条件を含んだうえでの「知らない」ということで、

つまり、ヨブ記38章5節にしても箴言27章1節にしてもתדעテダという言葉は、
高慢な人間の実像である無知を
全知であられる神さまの「知」のごく一部分を取り上げて際立たせるという「表現技法」のように見えます。

わずか二箇所しかないものについての考察ですので、そう断定するのは早計かもしれませんが、「現時点では」そう理解するしかありませんので、そのことをもとに箴言30章4節の該当部分を考えるならば、

箴言30章1節から語られているような
神さまを軽んじているたいへんに高慢な人間がいて、

まあ、この辺りも私個人の解釈になってしまうため仮説にすぎませんから1節で書かれていることはわきに置いておくとしても

4節に現れる人間に対してכי תדעと語るわけですから
4節に現れている高慢な人間の実像である無知を
全知であられる神さまの「知」のごく一部分を取り上げて際立たせていると考えれば、
たとえばヨブ記38章5節に「知っているのか」という訳語を充てるとして、
その言葉を発しておられる方の心持ちは
「おまえは知るべきことをなにも知らないのだ!
神さまが全知のお方であるということを思い知れ!」
ということであるのかもしれません。


ちなみに、

תדעテダの文字の順序をいれかえたדעתダアトという単語が、ヨブ記38章5節のちょっと前のヨブ記38章2節に登場しています。

知識もないまま言葉を重ね
主の計画を暗くするこの者は誰か。ヨブ記38章2節(聖書協会共同訳)

דעתダアトは辞書によると、

תדעテダの原形であるידעヤダの名詞形で、
「知識 knowledge」という意味があります。

ヨブ記38章2節以降の御言葉からわかることは、
ヘブライ語におけるדעתダアト=知識 とは、
クイズ番組に出て高得点を上げるようなものではなく、大学入試に合格するためのものでもなく、
現代に生きるクリスチャンとしての理解で語るならば
神さまご自身(トーラー=みことば)をいただき(食べ)、
一時も離れることのないインマヌエルであるお方
聖霊さまを与えられたうえでの「知識」であり、
そしてそれは、たとえば今のような時代に、ヨブのようにとんでもない試練を与えられたとしても、
どう判断し、何を語り、何を行うのか、(先日書いたアボダーにあたることです)

主にある正しさ「義」を見きわめ、選び取る力を含むもの、ということになるでしょうか。

それがדעתダアト「知識」であり、

その動詞形がידעヤダ 「知る」ということであり、

さらに言えばそれらの根源であるお方
「全知」であるお方への全幅の信頼あっての

תדעテダ 「知るようになる」だと思うのです。


自分にとっては未知のことであり、まだ見ぬことではあるが、
それは間違いなく「在る」ものであり、今後起こることであるということを
信仰によって「知るようになる」。

そして、信仰のない者どもにとっての「知るようになる」とは

目で見ても耳で聞いてもよく考えることをせずに
いつになっても真理に到達できぬまま終わりを迎え
そこで初めて自分の愚かさに気付くという意味での「知るようになる」。

そういうתדעテダをכיキでつかむ

כי תדע「(お前は)知っているのか」



文末をさきに読んでしまいましたが、

そういう文末なのだ、という事を踏まえた上で

4つのמיと2つのמהの内容を見ていきましょう。



一つめのמיはこれです。

מי עלה שמים וירד

עלהはのぼるという意味があります。
そして
ירדはくだるという意味があります。
ירדの前の וにはandの意味があります。
のぼるとくだるの間にあるשמים
創世記1章1節に登場する天のことです。シャマイムです。

とすると、この箇所は「誰がのぼるのか 天に そしてくだるのか」という意味になります。

やはり、ヨブ記38章に見られるような問いかけです。

「うっせぇ!そんなもん知るか!」
または「上り下りできません」というものが
高慢な者の回答となるような気がします。
しかし、信仰のある者たちならば

「それは神さまだけです 神さまはおできになります」と答えるでしょう。

そして二つめのמיはこれです。

 מי אסף רוח בחפניו

אסף これはアサフと読みます。「集める」という意味があります。
人名のアサフも同じ綴りです。
辞書によると、人名のアサフも「収集者」または「集める者」を意味していて、アサフは礼拝のために人々を「集め」たり、詩を「集め」たりという形で貢献していたというような説明がありました。

あ、「集める」がここにもあった!

え?何の話かって?30章1節のアグル・ベン・ヤケとソロモンのニックネームであるケハラット・ベン・ダビデの「אָגוּרアグル」と「ケハラット」!!「集める」!!

アグルはヘブライ語の語源 אָגַר  に由来し、「集める」または「収集する」を意味する。
そしてケハラットはקהלתつまり「コヘレト」
ケハラット=コヘレトקהלת
多くの共同体קהילותをエルサレムに集めたהקהיל

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רוח ルーアハ 
旧約聖書では、神の「霊」、人間の「霊」、そして「風のような自然現象」を表すために使われています。

בחפניו ベ・コフェナブ 
コフェンは掌のくぼみです。「両手の中にいれて握る」という動作を表しているようです。


とすると、この箇所は「誰が 集める 風 両手の中に入れて握る」ということになります。

これもまたヨブ記38章に見られるような問いかけです。

くしゃみでもして、手で口をおさえることくらいはできますが、(花粉症なう)

風であれ、霊であれ、集めることも両手の中に入れることも人間にはできません。

それがおできになるのは神さまのみ、ということですよね。

でも、神さまを信じていない者には答えようがない。

「そんなもん知るかよ!くっだらねえ!」とか言って
聞こうとも考えようともしないのかもしれません。



そして三つめのמי

מי צרר מים בשמלה

צרר ツァラル
「縛る」とか「拘束する」という意味だそうです。
「窮屈にする」というニュアンスがあるようです。

מים マイム 
マイムマイムでおなじみ「水」のことです。

בשמלה バ・スィムラ
スィムラは衣服のことです。

「誰が 動かないようにする 水を 衣服の中に」

洗濯物が凍ったという話ではないと思います。
(30年以上前、群馬町に住んでいた頃、我が子のおむつが毎朝干した瞬間カチカチに凍ってしまったのを思い出しました。(;´Д`A ```)
前の二つのמיのことを考えればおそらく、「地球上の水」と「空の上の水」というようなレベルの話でしょう。

人間にはできません、と答えるしかない話が続きます。


そして四つめのמי

מי הקים כל אפסי ארץ 

הקים ヘ・キム  
これはקוםクムという言葉が元になっているようです。
קוםクムには「立ち上がる」「立つ」「確立する」というような意味があり、「行動を起こす」とか、「契約を履行する」とか「預言したとおりに果たされた」とかそういうニュアンスで使われることもあるようです。

Brown-Driver-Briggsを見ると、קוםクムに関して
箴言30章4節と歴代誌下7章18節が並べて書かれていました。

歴代誌下7章18節は聖書協会共同訳ではこうなっています。

私はあなたの王座を確かなものとする。あなたの父ダビデに、『イスラエルを支配する者が絶えることはない』と約束したとおりである。

つまり、英語で言うところのestablish throneというあたりのニュアンスが
箴言30章4節のהקיםにもある、という事なのだと思います。
だとすると、箴言30章4節のהקיםヘ・キムのあとに続く
כל אפסי ארץを「確かなものとする」ということでしょうか。


ならばכל אפסי ארץとは何かということになりますが、

כלカル 「すべて」 という意味です。

אפסアプセ 「終わり」という意味です。
ארץアレツ 「地」という意味です。

で、אפסי ארץという二つの言葉がこういう順番で並ぶと
「地の果て」と訳されることが多いようです。

Englishman's Concordanceによれば

אפסי ארץは聖書の中に12箇所あり

箴言30章4節のほか

申命記33章17節

「ヨセフの雄牛の初子には威光があり
その角は野牛の角。
それによってもろもろの民を突き
共に地の果てまで進む。
それはエフライムの幾万の戦士。
それはマナセの幾千の戦士。」申命記33章17節(聖書協会共同訳)

サムエル記上2:10

主はご自分と争う者を打ち砕き
天から雷鳴をとどろかせます。
主は地の果てまで裁き
王に力を与え
油注がれた者の角を高く上げられます。サムエル記上2章10節(聖書協会共同訳)

詩篇2:8、

求めよ。私は国々をあなたの相続地とし
地の果てまで、あなたの土地としよう。詩編2編8節

他には 詩篇22:27、詩篇67:7、詩篇72:8、詩篇98:3、
イザヤ書45:22、イザヤ書52:10
ミカ書5:4、ゼカリヤ書9:10

「誰が 確かなものにした すべて 地の果て 」

という事なのかと考えられます。

で、これもまた、
神さまご自身と、神さまを信じる者にしか回答できない問いです。


以上が四つのמיの内容です。

מיと4回も言われている人は、ちょうどヨブ記38章のような状況にあるように思えます。
間違いなく言えることは、
この人はほめられているわけではない、ということです。
高慢さ、不信仰さを責められているような印象を受けます。



そして、あとは二つのמהマです。

מה שמו

שמו シェモウ とは

שםシェムが「名前」という意味で、それにוヴァヴが付いてשמוとなっています。
מメムは語末に来るとםメムソフィートになります)
שמו シェモウ とは「彼の名前」という意味です。なので

「何だ 彼の名前」と尋ねていることになります。


そして最後の問いは

ומה שם בנו 

מהマの前にוヴァヴが付いています。なので
「何だ 彼の名前は」という質問とセットになっている質問だということがわかります。

「そして何だ 名前・・・」と尋ねています。

誰の名前を訪ねているのかといえば

בנוベノウ
בןベンが「息子」という意味でそれにוヴァヴが付いてבנו
נヌンは語末に来るとןヌンソフィートになります)

בנוベノウ「彼の息子」という意味です。

なので、

「そして、何だ 名前 彼の息子」と言っています。

「何だ 彼の名前は」
「そして、何だ 名前 彼の息子」 って

・・・神聖四文字なるお方とイエスさま、イエシュア(ヨシュア)・・・

ということですか?

これは、クリスチャンにしか完答できない問いでは??

(あとでくっつけたものではないことを願います。←こういう発想をする人になってしまいました。ほんと、やだ。この「やだ」は日本語です(;´Д`A ```)


で、最後の言葉が

כי תדע

「知っているのか」







では、今日の訳を並べてみます。

「誰がのぼるのか 天に そしてくだるのか」
「誰が 集める 風 両手の中に入れて握る」
「誰が 動かないようにする 水を 衣服の中に」
「誰が 確かなものにした すべて 地の果て 」
「何だ 彼の名前」
「そして、何だ 名前 彼の息子」
「(お前は)知っているのか!」







本日のまとめとして1節から3節の私訳に、滑らかな文にした4節を加えてみます。


箴言30章1節
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ヤケの子アグル

(すなわち トーラーを良く学び知識が豊富で人々にトーラーを教えるソロモン)による

重い預言の言葉

勇敢で強じんな男

自分を完全無欠な王だと考えている者ウカル

 または自分を完全無欠な王だと考えている者とウカルに対して:


箴言30章2節
https://kyudochu.blogspot.com/2025/03/302.html

私は必ずあなたを火によって男の中から取り除く

完璧な理解力がありながら御手のみわざを学ばない人間


箴言30章3節
https://kyudochu.blogspot.com/2025/03/303.html

そして絶対に知恵を学ぶことはない

そして聖なる知識を知らない


そして本日の箴言30章4節

だれが天にのぼり、そしてくだるのか
だれが風を集めて両手の中に入れるのか
だれが水を服の中に入れてとどめるのか
だれがすべての地の果てを確かなものとしたのか

(そのすべてをお出来になる)彼の名前は何というのか
そして彼の息子の名前は何なのか

知っているのか







2025年4月5日土曜日

ふとアボダーを考えた朝

 神さまの御心とは、そして神さまの御計画とは、

ヨナ書のような神さまが下そうとしていた災いを思いなおされるというような場合を除いて

必ず実現されるものです。


神さまを軽く見ているニムロドのような高慢な者はおりますが、

神さまを主と告白する私たちは信じています
神さまの御計画は揺るぐことなく実現されるものであると。

こんな言葉が黙示録にありますが

(口語訳聖書から引用します)

あなたの見た十の角と獣とは、この淫婦を憎み、みじめな者にし、裸にし、彼女の肉を食い、火で焼き尽すであろう。

神は御言が成就する時まで、彼らの心の中に、御旨を行い、思いをひとつにし、彼らの支配権を獣に与える思いを持つようにされたからである

あなたの見たかの女は、地の王たちを支配する大いなる都のことである」。

ヨハネの黙示録17章16~18節


「神は・・・・彼らの支配権を獣に与える思いを持つようにされたからである」という言葉からわかるように

神さまは、とにかくありとあらゆる「すべてのこと」を、究極的な勝利、最後の瞬間に至らせるためにお用いになります。

もう少し丁寧に語るなら、

神さまはこれだけたくさんいる地上の人間たちの「自由」なふるまいのすべてを、
今この時の一瞬の後(のち)から、それぞれが死に至る瞬間までのすべてをご存じであり、

黙示録17章17節のことのみならず
「ある時代」の「ある場所」における「ある人間」
というようなピンポイントで「介入」をなさって、
「最終到達点」に導くことがおできになる
バグも無駄も一切無い、「完全なお方」であるわけです。

そして「最終到達点」とは、

神さまご自身の変わることのない御心
トーラーが支配する御国のことであり

聖書に記録されている「ある時代」の「ある場所」における「ある人間」との契約や
語られ続けてきた預言が間違いなく遂行されたことについて
誰もが理解できる状態になることなのだ、と私は信じています。

そこに到達することも含む永遠から永遠までを貫く
一本の直線

今朝は、台所のベレシートの1章1節の中の御言葉
הארץハ・アレツの中に

その一本の直線とともにそれを途切れさせることなくつないでいる
否、
直線を中央に据えてそれを取り囲む三次元空間を埋め尽くす無数の点が
見えるような気がしました。

(アボダー・・・)

アボダーとはこう書きます。

עבדה

עアインは目

בベートはברא創造するという言葉の頭文字

そういう二つのヘブライ文字から始まる単語「アボダー」。

ע 人間が地上を歩み、見る。
見るとは視覚だけのことではなく、歩んでいる中で何かに「出くわし」、
ב そして人間は知恵を用いてクリエイトする。
問題解決のために考えて考えて
神さまに求めて求めて探して探して乗り越えていく。

すると、
ある日、
閉ざされ続けていたדダレト(扉)が開き
הヘー に至る。

הヘーとはつまり、

神さまのお名前である神聖四文字を構成する四文字中の二文字であり、
アブラムがアブラハムとなった時のハであり、
息であり、風であり、「命」であるהヘー。


アボダーという言葉がハ・アレツの文字の中に見えるような気がしました。

הארץハ・アレツ 
א主が造られた地球

א主をר第一とし

ר出くわす問題を主の教えトーラーを土台としてしっかり考えて
ץ義を行う

神の国と神の義をまず第一にすること

本来はそういうことが期待されているהארץハ・アレツ 


すべての時代のすべての国に置かれたすべての人がהארץハ・アレツの上で(地上で)

「アボダー」を続け

もちろん、人間の中には神さまに反逆するような考えを持っている者もおりますけれども

それさえもお用いになって「最終到達点」に至るのだ、という

三次元のイメージが思い浮かんでくるのでした。


そんなことを考えたとき、

「役に立たない人間」「存在自体が迷惑」だと
言われている自分も

神さまにとってはきっとまったくそうではないのだ、と思えた朝でした。

これが私の担当

神さまはきっとキ・トウブと言ってくださる。



アボダーとは

Strong's Lexiconにはこう書いてあります。

ヘブライ語の「ʿabodah」はおもに仕事や奉仕を意味します。肉体労働から宗教的な奉仕まで、さまざまな活動が含まれます。旧約聖書の文脈では、それはしばしば幕屋や神殿におけるレビ人の奉仕、およびイスラエル人のさまざまな立場での労働を意味します。
神への奉仕は礼拝の一形態と見なされるため、礼拝を意味することもあります。



20250404


2025年3月31日月曜日

箴言30章3節を読んでみた

ここまでの流れで、
箴言30章の1節2節とはこんな感じの意味だと、
自分としてはとらえることになったわけですが↓↓


箴言30章1節https://kyudochu.blogspot.com/2025/02/301.html
ヤケの子アグル
(すなわち トーラーを良く学び知識が豊富で人々にトーラーを教えるソロモン)による
重い預言の言葉
勇敢で強じんな男
自分を完全無欠な王だと考えている者ウカル

または 自分を完全無欠な王だと考えている者とウカル

に対して:


箴言30章2節https://kyudochu.blogspot.com/2025/03/302.html
私は必ずあなたを火によって男の中から取り除く
完璧な理解力がありながら御手のみわざを学ばない人間

そもそも、なんでこんなことをしているのかと言えば、
今もなお火曜サスペンス劇場のように崖っぷちに立っているのか
既に転落したのか
それとも水平に移動したのか
知らんけど(;´Д`A ```

さてとそれでは本日は
3節を眺めることにいたしましょう。

ולא למדתי חכמה ודעת קדשים אדע׃



ולא ヴェ・ロー 昨日も登場しましたが、
十戒のところに登場したりして禁止もしくは否定の意味があるלאの前にוヴァヴが付いた形です。一体今日は何が否定されているのでしょうか。 


למדתי ラマドティ לラメドの意味を表しているような単語です。
לラメドは牛追いの棒で牛に教えるニュアンスがありますが、
למדラマドには学ぶ、教える、指示するという意味があります。
トーラーを教え、学ぶ、それがלמדラマド。
で、その
למדラマドのうしろにתיが付いています。文法書とかを持っている人ならああこれは「ナントカ形(けい)」だ、ということになるのでしょうが、私はそういうことが分からないのでトーラーを読み続けている中での自分の思うところを述べます。
完成とか完全を表すתタブの右か左にיヨッドが付いていることがあるのですが、
右についていると「すでに神さまがそのことを終えられている」ことが多く、左についていると、「今後そのことを必ず完了する」という預言的な断言のような気がしています。

なのでこれは学ぶという事を未来において完了させるという意味のような気がします。
で、この言葉の前に強い否定のלאが付いていることから、
今も学んでいないけれども「未来においても絶対に学ばない」と言っているような気がします。(個人の感想です)


חכמהハクマ(ハは喉の奥に引っかかるような音) 
これは חָכַםハカムの派生語でwisdom「知恵」という意味があります。
חָכַםハカムという言葉には「賢明である」という意味がありますが、
偉大なトーラーの学者のことをハカムと言ったりします。
セファルディム語でハカムは「ラビ」の同義語だそうです。


ודעתヴェ・ダアト דעתダアトにוヴァヴが付いた形です。

דעתダアトとは、「知識」という意味があり、聖書に最初に登場するのはエデンの園の善(悪)の「知識」の実というところです。

Strong'sの辞書によると、דעתダアトは聖書の文脈では、単なる事実情報を超えた、道徳的および精神的な側面を含む、deep, intimate understanding 深く、親密な理解を意味することがよくある、ということです。

それも踏まえた「知識」の前にandのようなニュアンス、前のものにしっかりと結合させるוヴァヴがあります。


 קדשיםケドシム 神聖なという意味のקדשカドシュにיםイムが付いた形です。
יםイムは単純に数の多さを表す複数形をの場合と威厳や強さを表現するための複数形がありますがこれはどちらなのでしょうか。

それを知るために、コンコルダンスを使い
 קדשיםケドシムという形の言葉がほかにどのような場合に使われているのかを検索してみました。

BIBLE HUBのEnglishman's Concordanceによると

ケドシムは全部で17回登場しています。(以下特に断らない限り引用は口語訳聖書からです)

で、そのうち6回がレビ記にあるわけですが

レビ記11章44節

わたしはあなたがたの神、主であるから、あなたがたはおのれを聖別し、聖なる者とならなければならない。わたしは聖なる者である。地にはう這うものによって、あなたがたの身を汚してはならない。

レビ記11章45節

わたしはあなたがたの神となるため、あなたがたをエジプトの国から導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない』」。

レビ記19章2節

「イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、『あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたもでなければならない。

レビ記20章7節

ゆえにあなたがたは、みずからを聖別し、聖なる者とならなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。

レビ記20章26節

あなたがたはわたしに対して聖なる者でなければならない。主なるわたしは聖なる者で、あなたがたをわたしのものにしようと、他の民から区別したからである。

レビ記21章6節

彼らは神に対してでなければならない。また神の名を汚してはならない。彼らは主の火祭、すなわち、神の食物をささげる者であるから、聖でなければならない。


神さまご自身についてはקָד֖וֹשׁカドゥシュという言葉で表現されていて、

少なくともレビ記においてはイスラエルの民全員について語る場合に

קדשיםケドシムが使われているので、ケドシムの語尾のイムは、おそらく、単純に、いっぱいあるという意味でのイムであろう予想できます。

続いて民数記から検討します。民数記には3回ケドシムが登場します。

民数記5章17節

祭司はまた土の器に聖なる水を入れ、幕屋のゆかのちりを取ってその水に入れ、

民数記15章40節

こうして、あなたがたは、わたしのもろもろの戒めを思い起して、それを行い、あなたがたの神に聖なる者とならなければならない。

民数記16章3節

彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らって言った、「あなたがたは、分を越えています。全会衆は、ことごとく聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、どうしてあなたがたは、主の会衆の上に立つのですか」。

民数記の5章では水の修飾語としての「聖なる」というところにケドシムが使われています。

そして15章と16章ではイスラエルの民についての「聖なる」というところにケドシムがつかわれています。


というわけで、トーラーに関してはレビ記と民数記にケドシムが登場しており、そのすべての場合において「数の多いものの修飾語」としてのケドシムだったので、

おそらく、基本的には、ケドシムのイムは単純な複数形としてのイムであろう、と推測できます。

ただ、トーラー以外の場所においては少々話が変わります。
ヨシュア記24章19節

しかし、ヨシュアは民に言った、「あなたがたは主に仕えることはできないであろう。主は聖なる神であり、ねたむ神であって、あなたがたの罪、あなたがたのとがを、ゆるされないからである。

ヨシュア記24章19節におけるケドシムはエロヒムの説明として登場します。

כִּֽי־ אֱלֹהִ֥ים קְדֹשִׁ֖ים

と書いてあって、前回の記事にいろいろ書きましたכיキのあとに
エロヒム ケドシムと続いておりまして、トーラーには無かった
「神さまの描写としての」ケドシムがそこにあるわけです。

とすると、この箇所においてはエロヒムという威厳ある表現に呼応する形でのケドシムであると考えるべきであるかもしれません。

が・・・

とてもややこしい話をすると、

ヨシュア記24章16節にはこういう箇所があって、

その時、民は答えて言った、「主を捨てて、他の神々に仕えるなど、われわれは決していたしません。

この箇所における神々というところには「エロヒム」という言葉が使われているわけです。

では「主」というところは何なのかと言えば神聖四文字、すなわちお名前である
יהוה という文字が書かれているのですね。

新改訳聖書の場合は神さまのお名前(神聖四文字)が書かれているところが太字となっているのでとても分かりやすいと思います。

乗り掛かった舟なのでもう少し細かく言うと、
神さまのお名前神聖四文字が初めて登場するのは創世記2章4節で、
以降「神聖四文字」の後に「エロヒム」という言葉が書かれる形となり、
その表現は3章まで続き、
4章からはまたお名前が無くなる。

なので、創世記2章4節以前に書かれている「神」というところはすべて「エロヒム単独」であり、
2章4節から3章までは新改訳聖書では「神である」と書かれていて

4章は神さまがほぼ登場しないまま・・・で、25節にお名前のない「エロヒム単独」でのご登場。

「資料」による違い・・・だという説明を教会で何度も聴いた気がしますが

そういうあたりに注目しながら読むと、それぞれの資料の特徴が見えてきます。

が、今日はそういう話ではありませんね(すぐ脱線する婆w)

ケドシムの話、

細かく見た風なのにざっくりとしたことを言ってしまいますが、

トーラーをもとにして語る著者が書いたものであればケドシムはトーラーと同じ単純な複数形としてとらえるのが妥当で、

それ以外かもしれない著者の場合はそうではない可能性もある?知らんけど(;´Д`A ```

けれども、おそらく、聖書という書物ではたいていの場合はトーラーが土台になっていると思うので、

ケドシムとはおそらく単純な複数形であろうと思います。(個人の感想です)


そして3節最後の単語

אדעエダ です。これはיָדַעヤダが変化した単語です。ידעヤダは動詞で、これが名詞になると上の方に書いたדעתダアトです。

ידע「ヤダ」には「知る」という意味があります。
辞書によると、「神とその民、または個人間の親密な関係など、深く個人的な関係の知識を意味することがよくある」とのことでした。

דעתダアトもそうでしたが、「親密な」という表現があるのは夫が妻を「知る」という言葉の持つニュアンスを表現したいからだと思います。

で、箴言30章3節にあるאדעエダというこの言葉

コンコルダンスによれば聖書の中に14回しか登場しない言葉のようです。
トーラーではわずかに3回。
創世記の15章8節と24章14節、そして42章33節に見られます。

創世記15章6節~8節

アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。

また主は彼に言われた、「わたしはこの地をあなたに与えて、これを継がせようと、あなたをカルデヤのウルから導き出した主です」。

彼は言った、「主なる神よ、わたしがこれを継ぐのをどうして知ることができますか」。

創世記24章14節

娘に向かって『お願いです、あなたの水がめを傾けてわたしに飲ませてください』と言い、娘が答えて、『お飲みください。あなたのらくだにも飲ませましょう』と言ったなら、その者こそ、あなたがしもべイサクのために定められた者ということにしてください。わたしはこれによって、あなたがわたしの主人に恵みを施されることを知りましょう」。

創世記42章29~33節

こうして彼らはカナンの地にいる父ヤコブのもとに帰り、その身に起った事をことごとく告げて言った、

「あの国の君は、われわれに荒々しく語り、国をうかがう回し者だと言いました。

われわれは彼に答えました、『われわれは真実な者であって回し者ではない。

われわれは十二人兄弟で、同じ父の子である。ひとりはいなくなり、末の弟は今父と共にカナンの地にいる』。

その国の君であるその人はわれわれに言いました、『わたしはこうしてあなたがたの真実な者であるのを知ろう。あなたがたは兄弟のひとりをわたしのもとに残し、穀物を携えて行って、家族の飢えを救いなさい。


トーラー以外からも引用してみます。


サムエル記上20章09節

ヨナタンは言った、「そのようなことは決してありません。父があなたに害を加える決心をしていることがわたしにわかっているならば、わたしはそれをあなたに告げないでおきましょうか」。

サムエル記上22章3節

ダビデはそこからモアブのミヅパへ行き、モアブの王に言った、「神がわたしのためにどんなことをされるかわかるまで、どうぞわたしの父母をあなたの所におらせてください」。

列王紀上3章7節 לא אדעという形で登場

わが神、主よ、あなたはこのしもべを、わたしの父ダビデに代って王とならせられました。しかし、わたしは小さい子供であって、出入りすることを知りません

列王紀上18章12節 לא אדעという形で登場 

しかしわたしがあなたを離れて行くと、主の霊はあなたを、わたしの知らない所へ連れて行くでしょう。わたしが行ってアハブに告げ、彼があなたを見つけることができなければ、彼はわたしを殺すでしょう。しかし、しもべは幼い時から主を恐れている者です。


ヨブ記9章20、21節 לא אדעという形で登場

たといわたしは正しくても、
わたしの口はわたしを罪ある者とする。たといわたしは罪がなくても、
彼はわたしを曲った者とする。

わたしは罪がない、しかしわたしは自分を知らない。わたしは自分の命をいとう。


ヨブ記42章3節לא אדעという形で登場

『無知をもって神の計りごとをおおう
この者はだれか』。それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、
みずから知らない、測り難い事を述べました。


詩篇51篇3節

わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。

詩篇73篇22節לא אדעという形で登場

わたしは愚かで悟りがなく
あなたに対しては獣のようであった。

詩篇101篇4節לא אדעという形で登場

ひがんだ心はわたしを離れるでしょう。わたしは悪い事を知りません

イザヤ書47章8節לא אדעという形で登場 

楽しみにふけり、安らかにおり、
心のうちに「ただわたしだけで、
わたしのほかにだれもなく、
わたしは寡婦となることはない、
また子を失うことはない」と言う者よ、
今この事を聞け。

イザヤ書47章8節は、日本語訳の「子を失うことはない」というところに「知らない」という単語が実際には入っている。


14か所を眺めて分かるのは、לאという「禁止や強い否定」の意味がある言葉をともなって
אדעエダが存在していることが7箇所もあるということです。そして、לאという言葉を伴わないときの日本語訳では、未来のことや仮定のことについて語っているということがわかります(詩篇51篇3節は例外的)

以上の事を踏まえた場合、箴言30章3節のאדעエダはどう訳せばよいでしょうか。
直前にלאはありませんが、冒頭にあるלאが否定している学ぶという行動に関する詳細な内容がאדעエダだと考えられるので、(個人の感想です)

לא אדעと同じように訳してもよいのではないでしょうか。


以上すべてのことを踏まえて訳をつけてみます。

ולא למדתי חכמה ודעת קדשים אדע׃


ולא למדתי そして絶対に学ばない (動詞)

חכמה 知恵

ודעת そして 知識

קדשים 聖なる(直前の深い知識を説明していると考えられるのでイムは単純な数の多さを表す複数形)

אדע 知る  (動詞)



そして絶対に知恵を学ぶことはない

そして聖なる知識を知らない




1節から3節を続けてみましょう。



ヤケの子アグル
(すなわち トーラーを良く学び知識が豊富で人々にトーラーを教えるソロモン)による
重い預言の言葉
勇敢で強じんな男
自分を完全無欠な王だと考えている者ウカル
または自分を完全無欠な王だと考えている者とウカルに対して:

私は必ずあなたを火によって男の中から取り除く
完璧な理解力がありながら御手のみわざを学ばない人間

そして絶対に知恵を学ぶことはない
そして聖なる知識を知らない




2025年3月27日木曜日

箴言30章2節を読んでみた 

 כי בער אנכי מאיש ולא בינת אדם לי׃

箴言30章2節を眺めようと思います。(本日も日本語の聖書は特に断らないときは口語訳聖書から引用しています。)
まず出だしのכי
自分にとって、この言葉を一番印象深く記憶させられたのは創世記。
たびたび出てくるכי טובキ トウブという言葉です。
神さまがご自身でお造りになられたものをご覧になって「はなはだ良い」とおっしゃっているあのところがכי טובキ トウブで、何度も何度も繰り返し現れるこのセリフ、何度も何度も眺めているうちに、私の脳内ではエクスクラメーションマーク付きの喜びに満ちた「キィ~ト~ブ」という声になっていきました。そして、やがては「マジでこれいいじゃん最高~!」という日本語の感情が心の中に現れるようになり・・・
というכיキが二節の頭にあります。
そして
二つ目の単語はこれです。
בערバアル
昨日の記事には見落としゆえに書いてありませんがバアルですから[au]という音を持っている単語です。これはバアル神のバアルではありません。バアル神のバアルはבעלと書き、最後の文字がרレーシュではなくלラメドです。

そうそう、רレーシュという言葉を書いて思い出したのですが、
かなり昔、YouTubeの動画か何かでとある講演会の様子を見たことがあったのですが、そのなかで講演者が「文語訳のエゼキエル書の38章にはロシアが出てくる」と話されていて
なんだなんだ?と思ったので文語の聖書を見たらエゼキエル書38章の2節と3節にこう書いてあったわけです。

38:2
人の子よロシ、メセクおよびトバルの君たるマゴグの地の王ゴグに汝の面をむけ之にむかひて預言し

38:3
言べし主ヱホバかく言たまふロシ、メセク、トバルの君ゴグよ視よ我なんぢを罰せん
ロシというのがロシアだとその講演者は言っていたのです。
で、ヘブライ語聖書にアクセスできる今となり、この箇所をヘブライ語で見ると
ロシはこう書いてあって
ראשロシュ
BIBLE HUBでStrong'sの辞書を見ると

Usage: 
ヘブライ語の「ロシュ」は、主に人や動物の「頭」を意味しますが、比喩的にグループの「長」や「リーダー」、山の「頂上」や「頂上」、一連のものの「始まり」や「最初」を意味することもあります。これは、物理的および比喩的な卓越性や優位性を伝えるために使用される多目的な用語です。

 Cultural and Historical Background:

古代近東文化では、「頭」(ロシュ) の概念はリーダーシップや権威と関連付けられることが多かった。頭は知性と意思決定の座であると考えられており、そのため「ロシュ」はリーダーシップと階層構造を象徴するようになりました。イスラエル社会では、当時の家父長制を反映して、部族や家族の「長」が大きな権威と責任を担っていました。
で、もしかしたらロシアという国名にロシュ「リーダー」という概念があるのかもしれないと思って調べてみましたがWikipediaにはこうあって
ロシアの国名は、現代のロシア北西部とウクライナ、ベラルーシにあたるルーシという国家のギリシャ語名Ῥωςから派生したῬωσσία(現代ギリシャ語ではΡωσία)
で、ルーシという言葉の意味は「舟をこぐ人」という説があったりしましたが、はっきりとはわかりませんでした。

だからと言って彼を全否定するつもりはありません。預言書というものは深いので、国名はともかくとして流れとして結果としてそうなるという可能性が無いとは言えないかもしれないからです。
あと、聖書ギリシャ語でローマ(ローマ帝国)のことをῬωμαϊκόςと書くわけですが
最初二文字、つまり、我々の言葉で言うところのカタカナの「ロ」ですね、なんか気になります。ロシアもローマも「ロ」で、Rの音ですよね。ヘブライ語のרレーシュもRというか巻き舌で発音するような気がしますが・・・あれ、ロシア語も巻き舌だったような気が・・・
・・・Rの付くロシア語を探していたら、魚という単語が英語のアルファベット表記だとRybaリバだということがわかり、でも発音がわからなくて・・・と、そこにウクライナ語の魚が現れて、それは英語のアルファベットで表記するとRibaリバで、
ご時世なのか、こちらは発音がすぐわかり巻き舌でしたよ!
1900年以前は、旧ソ連にユダヤ人はたくさん住んでいた・・・というか、地続きですからねえ、フェニキア文字を眺めてもいろいろ思いますし、
そう、エロヒムの語尾のイムは絶対複数ではないと、実はヘブライ語など全く知らない時代から強く思いこんでいたのですが、なぜそういう発想になったのかというと、教会に通っていた頃に経験させていただいた韓国人クリスチャンたちの表現
韓国語で聖書の神さまのことを「하나님」と言う、とことを知ったからなのです。韓国語におけるイムという音のもつ意味やそれを話す人の気分を知った時に、
大陸だからきっとどこかでつながってる、だから絶対複数ではない、と、感じたのです。

「感じた」と書きながら思いましたが、
これがAIにはできない事ですね(笑)
データから論理的に推測する事は出来ても無から有は生み出せない。
われわれ人間は、創造主の被造物は無から有を生み出せる。
え?材料が無ければ作れない?
いやいや、רֹאשׁロシュ頭 にはできる。
無限に広がる大海原、何にもないように見えるけれども、釣り糸を垂れていると、ぼうずの日もあるけれどもポンと魚が現れることもある、
大海原が大脳であり、釣り糸を垂れる行為が思考であると私は考えておりますが
大海原のようないくらでも何かが出てきそうな、大きな可能性を秘めたコンピュータどころではないものを私たち人間は神さまから与えられている。

だから、「思い込みで」
小さい頃から刷り込まれた「勝手な決めつけで」
自分の限界を決めて思考することを放棄してはいけないし

洗脳のような宗教は 
それがたとえユダヤ教であれキリスト教であれ
創造主が好まれるところではないのだ、と思っています。



(。´・ω・)ん?
あれ、何の話してたんだっけな。

(加齢なのか病なのか、最近は舟をこぎ出すと止まれなくなって見知らぬ異国でわれに返るというようなことが多々ございます。失礼いたしました)




あ、30章2節の二つ目の単語
בערバアル。(;´Д`A ```
これは「燃やす」「燃える」という意味があります。そして、「燃やして除去する、取り除く」という意味があります。
神さまの義のゆえに不純物を除去するというような重い意味です。


そういう意味から、「取り除きたくなってしまうような人々」のことを表現するときにも、わずかですが、使っている気配を感じます。

口語訳聖書 詩篇94:8では「愚かで、心が鈍く、受け入れがたい」
民のうちの鈍き者よ、悟れ。愚かな者よ、いつ賢くなるだろうか。
口語訳聖書 エゼキエル21:31「非人間的で残酷で野蛮な人々」
わたしの怒りをあなたに注ぎ、わたしの憤りの火をあなたに向けて燃やし、滅ぼすことに巧みな残忍な人の手にあなたを渡す。


続いて三つめの単語

אנכיアノキ

これは「わたし」という意味の単語です。

「わたし」という意味の単語にはこのアノキともう一つאֲנַיアニというのがあるわけですが、

ヘブライ語聖書で「わたし」という言葉が登場するのは、アニにしろアノキにしろたいてい重い場面のような気がします。重大な局面において登場人物が語る「わたし」という言葉なのです。
物事の責任の所在をはっきりしているというか、出来事の関係者を際立たせるというか、そういう場面で登場人物が語るのが「わたし」という言葉のように思っています。

特にアノキについてはכカフ(手のひらでつかむような感じ)が付いている分アニよりも重い感じがしていたのですが、それは私だけの感想かもしれないので調べてみます。

BIBLE HUBで見られる
Brown-Driver-Briggsでは

ヘブライ語以外のセム語族の言語では、どちらかが残ってどちらかが消えるということになったけれども、ヘブライ語ではアニとアノキ両方が共存した状態で、場合によっては区別なく使われることもある、というようなことが書いてありました。



で、Brown-Driver-Briggsが言及してたのは、
ある部分では「rhythmical considerations」リズム上の考慮によって、
または後代の各書の作家たちの間でאֲנִיが好まれるようになったことによって云々・・・

と「言っている人がいる」という話。

ヘブライ語聖書におけるリズム上の考慮というのはものすごく感じます。そらんじるための配慮もあるのでしょうか。
そういうことを考えると、

私は例えば脱力系ラップのジョイマンがとても好きなのですが、彼らのネタを直訳したらよくわからないというのと同じような現象がヘブライ語聖書でも起こっている可能性は高いですね。

(と言われてもわからない人が多数いそうな私の文章(;´Д`A ```)



せっかくなので今日は少し丁寧にアノキの用例を見てみようと思います。
トーラーのすべては大変なので、今日は聖書ヘブライ語の教科書のようにすら思えるベレシート「創世記」から拾います。


聖書の中で初めて登場するアノキは創世記3章10節のところで

彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。

アダムが神さまに弁解をする場面。日本人が読むとたぶんこの「わたしは」という言葉に重さは感じないと思うわけですが、「場面」を考えると相当重いわけです。


そして二度めにアノキが使われているのは創世記4章9節のところで

主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。

 


三度めは創世記7章4節、神さまがノアに洪水のことを伝える場面。

七日の後、わたしは四十日四十夜、地に雨を降らせて、わたしの造ったすべての生き物を、地のおもてからぬぐい去ります」。


 

四度目と五度目は神さまがアブラハムに現れてくださる場面で

創世記15章1節

これらの事の後、主の言葉が幻のうちにアブラムに臨んだ、「アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」。

創世記15章2節

アブラムは言った、「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか」。

 

 六度目はサライ七度目はハガル
アノキを追っていくと、聖書の重要人物が次々に登場します。

というか、ここで書いているアノキの登場箇所はコンコルダンスを見ながらもれなく書いておりますので、これ以外のところにはアノキは登場していないのだ、ということは是非記憶してください。アノキは聖書全体で359回しか登場しない言葉なのです。

では続けます。


創世記16章5節

そこでサライはアブラムに言った、「わたしが受けた害はあなたの責任です。わたしのつかえめをあなたのふところに与えたのに、彼女は自分のはらんだのを見て、わたしを見下げます。どうか、主があなたとわたしの間をおさばきになるように」。

創世記16章8節

そして言った、「サライのつかえめハガルよ、あなたはどこからきたのですか、またどこへ行くのですか」。彼女は言った、「わたしは女主人サライの顔を避けて逃げているのです」。


八度目はソドムとゴモラを滅ぼす話題のところで、アブラハムが神さまとやり取りをしている場面です。

創世記18章27節

アブラハムは答えて言った、「わたしはちり灰に過ぎませんが、あえてわが主に申します。

九度目はロトの言葉です。

創世記19章19節

しもべはすでにあなたの前に恵みを得ました。あなたはわたしの命を救って、大いなるいつくしみを施されました。しかしわたしは山まではのがれる事ができません。災が身に追い迫ってわたしは死ぬでしょう。

十度目と十一度目はアビメレクに対する神さまの御言葉の中にありました。

(書きながら気づいた「日本語の」ことですが、「何度目」という言葉は英語でteenが付く数字になるあたりからはあまり言ったことがない感じがしますwそこまで度々になると数えないw私だけの印象かな。
あ、あとアビメレクという名前はアブ(父)とメレク(王)という言葉が合体した名前です余談です)

創世記20章6節

神はまた夢で彼に言われた、「そうです、あなたが清い心をもってこのことをしたのを知っていたから、わたしもあなたを守って、わたしに対して罪を犯させず、彼女にふれることを許さなかったのです。

十二度目と十三度目はアブラハムとアビメレクのやり取りの中でのそれぞれの言葉の中に登場します。

創世記21章24節

アブラハムは言った、「わたしは誓います」。

創世記21章26節

しかしアビメレクは言った、「だれがこの事をしたかわたしは知りません。あなたもわたしに告げたことはなく、わたしもきょうまで聞きませんでした」。

十四度目はアブラハムがサラを葬るために土地を購入する場面

 創世記23章4節

わたしはあなたがたのうちの旅の者で寄留者ですが、わたしの死人を出して葬るため、あなたがたのうちにわたしの所有として一つの墓地をください」。

そして創世記24章にはアノキが9回も登場します。(何度目か数えるのが大変になりましたので以降御言葉の引用のみといたしますww)

創世記24章3節

わたしはあなたに天地の神、主をさして誓わせる。あなたはわたしが今一緒に住んでいるカナンびとのうちから、娘をわたしの子の妻にめとってはならない。

創世記24章13節

わたしは泉のそばに立っています。町の人々の娘たちが水をくみに出てきたとき、

創世記24章24節

彼女は彼に言った、「わたしはナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘です」。

 創世記24章27節

言った、「主人アブラハムの神、主はほむべきかな。主はわたしの主人にいつくしみと、まこととを惜しまれなかった。そして主は旅にあるわたしを主人の兄弟の家に導かれた」。

 創世記24章31節

そこでその人に言った、「主に祝福された人よ、おはいりください。なぜ外に立っておられますか。わたしは家を準備し、らくだのためにも場所を準備しておきました」。

創世記24章34節

そこで彼は言った、「わたしはアブラハムのしもべです。

創世記24章37節

ところで主人はわたしに誓わせて言いました、『わたしの住んでいる地のカナンびとの娘を、わたしの子の妻にめとってはならない。 

創世記24章42節

わたしはきょう、泉のところにきて言いました、『主人アブラハムの神、主よ、どうか今わたしのゆく道にさいわいを与えてください。

創世記24章43節

わたしはこの泉のそばに立っていますが、水をくみに出てくる娘に向かって、「お願いです。あなたの水がめの水を少し飲ませてください」と言い、

創世記25章22節

ところがその子らが胎内で押し合ったので、リベカは言った、「こんなことでは、わたしはどうなるでしょう」。彼女は行って主に尋ねた。


創世記25章30節

エサウはヤコブに言った、「わたしは飢え疲れた。お願いだ。赤いもの、その赤いものをわたしに食べさせてくれ」。彼が名をエドムと呼ばれたのはこのためである。

創世記25章32節

エサウは言った、「わたしは死にそうだ。長子の特権などわたしに何になろう」。

 

創世記26章24節

その夜、主は彼に現れて言われた、「わたしはあなたの父アブラハムの神である。あなたは恐れてはならない。わたしはあなたと共におって、あなたを祝福し、わたしのしもべアブラハムのゆえにあなたの子孫を増すであろう」。

創世記27章11節

ヤコブは母リベカに言った、「兄エサウは毛深い人ですが、わたしはなめらかです。

創世記27章19節 口語訳聖書ではアノキが省略されています。「長子エサウ」という言葉の前に「わたしは」という言葉がヘブライ語聖書にはあります。

ヤコブは父に言った、「長子エサウです。あなたがわたしに言われたとおりにいたしました。どうぞ起きて、すわってわたしのしかの肉を食べ、あなたみずからわたしを祝福してください」。

 創世記28章15節

わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。

創世記28章16節

ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。

創世記28章20節

ヤコブは誓いを立てて言った、「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、


創世記29章33節 

彼女はまた、みごもって子を産み、「主はわたしが嫌われるのをお聞きになって、わたしにこの子をも賜わった」と言って、名をシメオンと名づけた。

שִׁמְעוֹןシメオンという名前の綴りの中はשָׁמַעシャマ=聞くという単語が含まれています。あと、この節には謎ワード ליが含まれています。ליはこの箴言30章2節にも2回あり、しかもStrongの辞書の中で番号もつけられていない言葉であるため、同じ謎ワード仲間である853番のようBIBLE HUBを利用できないので、後日検討するためにピックアップしておこうと思い、あえてここで言及しました。

創世記30章1節

ラケルは自分がヤコブに子を産まないのを知った時、姉をねたんでヤコブに言った、「わたしに子どもをください。さもないと、わたしは死にます」。

創世記30章2節

ヤコブはラケルに向かい怒って言った、「あなたの胎に子どもをやどらせないのは神です。わたしが神に代ることができようか」。

創世記30章3節

ラケルは言った、「わたしのつかえめビルハがいます。彼女の所におはいりなさい。彼女が子を産んで、わたしのひざに置きます。そうすれば、わたしもまた彼女によって子を持つでしょう」。

創世記30章30節

わたしが来る前には、あなたの持っておられたものはわずかでしたが、ふえて多くなりました。主はわたしの行く所どこでも、あなたを恵まれました。しかし、いつになったらわたしも自分の家を成すようになるでしょうか」。

 創世記31章5節

彼女らに言った、「わたしがあなたがたの父の顔を見るのに、わたしに対して以前のようではない。しかし、わたしの父の神はわたしと共におられる。

 創世記31章13節

わたしはベテルの神です。かつてあなたはあそこで柱に油を注いで、わたしに誓いを立てましたが、いま立ってこの地を出て、あなたの生れた国へ帰りなさい』」。

べテルとはベツレヘムのベツ(家)とエロヒムのエル(神さま)をあわせた言葉で
神の家という意味

創世記31章38節

わたしはこの二十年、あなたと一緒にいましたが、その間あなたの雌羊も雌やぎも子を産みそこねたことはなく、またわたしはあなたの群れの雄羊を食べたこともありませんでした。

創世記31章39節 後半にある「わたし」と前半の「自分」あわせて一つのアノキ

また野獣が、かみ裂いたものは、あなたのもとに持ってこないで、自分でそれを償いました。また昼盗まれたものも、夜盗まれたものも、あなたはわたしにその償いを求められました。

創世記32章11節(新共同訳では12節)これはヤコブの祈りの箇所です。

どうぞ、兄エサウの手からわたしをお救いください。わたしは彼がきて、わたしを撃ち、母や子供たちにまで及ぶのを恐れます。

創世記37章16節 「兄弟たちを探している」の前にヘブライ語聖書では「わたしは」という言葉があります。

彼は言った、「兄弟たちを捜しているのです。彼らが、どこで羊を飼っているのか、どうぞわたしに知らせてください」。

創世記38章17節 ヘブライ語聖書では「群れの中から子山羊を送ろう」の主語としてアノキがあります。

ユダは言った、「群れのうちのやぎの子をあなたにあげよう」。彼女は言った、「それをくださるまで、しるしをわたしにくださいますか」。

創世記38章25節

彼女は引き出された時、そのしゅうとに人をつかわして言った、「わたしはこれをもっている人によって、みごもりました」。彼女はまた言った、「どうか、この印と、紐と、つえとはだれのものか、見定めてください」。

創世記43章9節

わたしが彼の身を請け合います。わたしの手から彼を求めなさい。もしわたしが彼をあなたのもとに連れ帰って、あなたの前に置かなかったら、わたしはあなたに対して永久に罪を負いましょう。

創世記46章4節 日本語にはありませんが「また必ずあなたを導き上るであろう」というところの主語としてアノキという言葉が書いてあります。

わたしはあなたと一緒にエジプトに下り、また必ずあなたを導き上るであろう。ヨセフが手ずからあなたの目を閉じるであろう」。

創世記47章30節 日本語にはありませんが「あなたの言われたようにいたします」というところの主語としてアノキという言葉があります。

わたしが先祖たちと共に眠るときには、わたしをエジプトから運び出して先祖たちの墓に葬ってください」。ヨセフは言った、「あなたの言われたようにいたします」。

創世記48章21節

イスラエルはまたヨセフに言った、「わたしはやがて死にます。しかし、神はあなたがたと共におられて、あなたがたを先祖の国に導き返されるであろう。

創世記50章5節

『わたしの父はわたしに誓わせて言いました「わたしはやがて死にます。カナンの地に、わたしが掘って置いた墓に葬ってください」。それで、どうかわたしを上って行かせ、父を葬らせてください。そうすれば、わたしはまた帰ってきます』」。

創世記50章21節

それゆえ恐れることはいりません。わたしはあなたがたとあなたがたの子供たちを養いましょう」。彼は彼らを慰めて、親切に語った。

創世記50章24節

ヨセフは兄弟たちに言った、「わたしはやがて死にます。神は必ずあなたがたを顧みて、この国から連れ出し、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地に導き上られるでしょう」。


かなり長くなりましたが、

アノキとはそういうところに登場する言葉なのだ、という事を踏まえた上で

כי בער キ バアル

のあとに

אנכיアノキが来るという事を考えましょう。

上の方にも書きましたが

Englishman's Concordanceによるとアノキは聖書全体で359回しか登場しない言葉なのです。

そう、謎ワードなのでスルーされ訳されてもいないStrong’s Hebrew 853番は一万回以上登場するわけですからねwww それを考えればかなり少ない言葉で、

後世の作家の好み云々ということがあったからそうなったのだとしても、

やはりアノキと書くときには、平常とは異なる「何らかのストレス」がかかる言葉のような気がするわけです。創世記では主要な登場人物の語る重いアノキが多数みられましたし。

で、わたしとしては

出エジプト記20章2節

わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。

 אנכי יהוה אלהיך אשר הוצאתיך מארץ מצרים מבית עבדים׃

このアノキ、この使われ方こそがトーラーのアノキ(テーラーのアオキではないww言いたくてしょうがなかった私の脳)だとわたしは思っています。

いま、自分の言葉にわざと「わたしわたし」と連発しました。気分はアノキw


この重量感をおぼえつつ、1節の「重い預言」=託宣という言葉を踏まえて訳すならば

כי בער キ バアルは、


「馬鹿だ」と言っているというより「燃やして除去する、取り除く」という滅びの預言、予告の方がより適切なのではないかと思います。

そして、そのあとにくる

אנכיアノキは、

宣告や契約を語っている人の言葉であり

つまりは「神さまご自身」がご自身を指して語っている言葉であろう、と私は思います。

という思いを持って翻訳聖書を読んでみましょうか。


まずは口語訳聖書

箴言30章2節より
わたしは確かに人よりも愚かであり、・・・


続いて聖書協会共同訳
箴言30章2節
私は誰よりも愚かで・・・



なぜ、重い預言と一節で語った直後のアノキという言葉を伴ったキ・バアルが「私は馬鹿である」という告白であるのかしら、と、「わたしは」疑問を感じずにはいられません。


少なくとも1節の訳を「マサ」だの「マッサ」だのとせずに「託宣」と訳した翻訳者は、託宣という言葉の直後に
「わたしは確かに人よりも愚かであり、わたしには人の悟りがない。」
という弁解めいた言葉を選択してしまう事に対する違和感を感じてほしいと思います。
託宣がまだ語られているわけでもいないのに、託宣を受け取る側の人がいきなり登場して「私は誰よりも愚かだ」言うという発想はどうもわからない。
100歩譲って、これが託宣の受け手ではなく与える側が発している始まりのことばだということだとしても
そうだとしたらこの愚かな「私」という人は託宣を告げる側の人だということになりますよね。
としたら神さまがご自分を愚かだとおっしゃっているのですか?


基本に立ち返ります。
創世記1章1節を眺めてみましょう。
בראשית ברא אלהים את השמים ואת הארץ׃
初めに、造ったよ、神さまが、天と、地を

という順番で単語が配置されていることがわかります。
つまり、動詞というか述語というかそういうものが主語の前にある
のがヘブライ語聖書における一般的な語順です。なので、

כי בער אנכי
と書いてあった場合も、まずは述語があってそのあとに主語が来るわけです。
しかもここにはキ・トウブでおなじみのכיがあるわけです。
託宣だと言ったはじめのワードがכיだったとしたら、そのあとの言葉を強めていると気付きます。
だとしたら、述語בערは少数派の「愚か」をわざわざ充てず本来の意味である「火で燃やして浄化する、取り除く」ということだと考えた方がよいのではないでしょうか。
「燃やして取り除くよ」「わたしはね」

聖書らしい感じで訳すとしたら、
「私は必ずあなたを火をもって取り除く」

キ・推奨します アノキ(私はマジでこちらを推奨しますw)



…次に行きます。四文字目
מאישメ・イシュ
אישイシュが「男性」のことで、それにמメムが付いた形です。
このメムの付いたイシュが聖書の中に初めて登場するのは創世記2章23節です。
女をאשהイシャと呼ぶのは、איש男から取られたからだ、という説明が書かれているところです。
「男から」というところがמאישメ・イシュです。つまり、מメムは「~から」と訳すのが多数派、標準のようです。

コンコルダンスでチェックすると、箴言19章22節とかイザヤ書52章14節では「他人との比較をする」ニュアンスでמメムをとらえていて、
そういう思想で箴言30章のここも「人よりも愚か」という感じで訳されているようです。


ただ、כי בער אנכי
この訳を「燃やして取り除くよ」「わたしはね」と言っているということにすると
どこから取り除くの?何を取り除くの?という部分が文として不足しているわけですから、
そうなるとמאישメ・イシュを標準的に「男から」と訳すとしっくりきます。

おまえを「男から」取って 燃やして除くよ わたしはね

聖書らしい感じで書くと
「私は必ずおまえのいるところからおまえを火をもって取り除く」
という感じでしょうか。
やはり直訳しないとあいまいになってしまいますね

しかし、この内容であれば

1節で「重い預言=託宣」と言ったことに呼応しているというか
託宣の最も重要な部分を一番最初に宣言している風になります。


後半部分に行きます。

ולא בינת אדם לי


ולאヴェ・ロー
固く結びつける接続詞andのようなוヴァヴと、
禁止のלאローです。
וヴァヴは直前の語か前半全体かわかりませんが、とにかく後半部分を前に合体させる働きをしているはずです。
直前に合体させるなら「男から」の「男」で、
前半全体と合体させると考えると、「燃やして取り除く」に加えるということになりますね。
基本に立ち返って確認しておくべきことは、לאローとは強い否定や禁止をするときに使われる語であるということです。
十戒の「~してはならない」というところに使われているということを
「禁止」のニュアンスの理解のベースにすべきだと思います。
そして、強い否定ですが、
例えば、
ノアが一度目に鳩を放し時には足を休める所を全く見つけることができなかったので戻ってきてしまったが七日経って放したら二度と戻ってこなかった
という内容の創世記8章9節と12節の箇所で、太字にしたような意味合いの部分に
לאローが使われています。

では箴言30章2節において
לאローの次の単語は何かということになりますが
בינתビナト 
もともとの形はבינהビナハで理解力、洞察力、識別力という意味の名詞です。

לאローは禁止だとしても否定だとしても、内容は「動詞」になるような気がしますがどうでしょう。
バナナ禁止!チョコ禁止!チョコバナナ禁止!という日本語があったとして、
これは一見すると名詞を禁止しているわけですが、
「持ち込む」「食べる」というような動詞が隠されているような気がする
というような事を考えるわけです。

「理解する」という意味の動詞もヘブライ語にはあり
ביןビン といいますが、
箴言30章2節のלאローの後にあるのはביןビンではなくבינתビナトと言う名詞。
もう一言付け加えるならば、
実はבינתビナトという名詞はこの箴言30章2節だけに登場する言葉なのです。

1節に引き続き、練られた文、凝った文、なのだと思います。

で、בינתビナトの後にあるのはאדםアダムです。
そう、あのアダム、人間という意味です。これも名詞です。
一体何を否定しているのでしょう。

そして最後に登場するのは
לי
上の方にも書きましたが、辞書に載っていない謎ワードですよ。(笑)
謎だからスルーしますか?そう、謎ワードだから翻訳されていないようです。
翻訳されていないと言うと言葉が悪いですか。
・・・なんとな~くそれっぽく訳しているのだと思いますが
実はこの単語、箴言30章には、よりによって2度も登場するんです。
2節と8節にあります。


そんなこんなで、לאローの行き場がないものだから、
BIBLE HUBで対訳を見ると
בינתビナトをdo have the understandingと訳している。

口語訳聖書では「わたしには人の悟りがない。」
そして聖書協会共同訳では「人間としての分別もない。」と訳されている。


לאローの禁止もしくは否定の行き場がもしかして謎ワードליだったらどうしましょ。
ליたぶん、リイと読むような気がするこの謎ワード
動詞かもしれませんよ。
だって・・・
牛追いの棒でぐいぐいと神さまの右の御手の方に押して教育している感じが文字から読み取れる。
神さまの右の御手と言えば御救い、または御業。
もしかしたら、ליって、御救いについて御業について学ぶという動詞なのでは?
לאローが禁止の意味を持つのは、לラメドという牛追いの棒でぐいぐいと押して学ばせようとしている先に
父なる神さまאがおられる。
つまり、王であられる神さまの御言葉=トーラー に学ぶことだから、
結果として人間にとっては禁止のような意味合いになっていくのだと私は理解しているのですが、
その方法で解釈するとליは「右の御手」יヨッドの方に牛を追っていくのだから
神さまの右の手による御業、御救いを学ぶという動詞かもしれません。

そしてここにしか登場しないというבינתビナトは、完全とか完成されたという意味のתタブが最後に付いているということで
1節の完全無欠だと自分で思っている男לאיתיאל לאיתיאלが思い出されます。


この仮説に立つと、לאローの否定する先にあるのはליで、
「神さまの御業や御救い学ぶ」ということを強く否定しているのかな。
とするとこうなりますね


おまえを男から取って 燃やして除くよ わたしはね
そして神さまの御手の御業も御救いも学ぶことのない 完璧な理解力の 人間



私は必ずあなたを火によって男の中から取り除く

完璧な理解力がありながら御手のみわざを学ばない人間

(思い込みと意訳が過ぎたかなw)