現在実家が改装中。
足を引きずりながらも、たって免許返納に応じない母が😭
(非暴力の元被虐待児にはほんと無理なんです。お願いです、法改正してください😢)
「おまえのガラクタ」だとかなんとか言って車に何かを載せてやってきました。
そんなのどうでもいいから、キャッシュカードをなくしてしまったらしい件や、死に絶えてしまったはずの隣家に夜、電灯が付いている件を先に解決してほしいものなのですが、
ま、とにかく、わたしのガラクタらしいものを持ってきてくれました。(;´Д`A ```
で、ガラクタはいろいろあったのですが、
どうしたことか、とっくの昔に処分したはずの高校生時代の文集がそこに。
私にとって高校生時代というのは
キリスト教信仰を持って数年という頃で、
改革派教会の福音放送「あすへの窓」を聴きながら教会って楽しそうだなあ、キャンプって楽しそうだなあ、行ってみたいなあと夢を見ていた頃で、
愛読書はリビングバイブル、そして三浦綾子さんの本ばかりを読んでいて、
公立高校に入学したのに担任がクリスチャンだった!すごいすごいと喜んでいた時代で、(後日JWの方だと判明…)
そういう時代の、廃棄したはずの文集が
よりによってクリスチャンをやめた!と宣言した直後のタイミング目の前にやってきたのです。
記憶にはない短編小説が書いてありましたよ、びっくり。
主人公は「60代男、元教員」高2女子が書いているとは思えない。今の私と同年代だけどどっぷり「昭和」のおじさんが語ってる~
なんだこれは😅
しかし、読み終わって思い出しました
教科担当の先生たちがあの先生もこの先生も「泣いた~~~」とわざわざ言いに来てくれたことを。
そしてさらに思い出しました、これは布教目的で書いた小説!当時の私は、何かを発表する機会を得たら、例えばそれは夏休みの宿題の読書感想文であったとしても、必ず布教に利用していたという事を思い出しました。まだ教会にも行っておらず洗礼も受けていなかったころでありましたが、そうしないと寝覚めが悪いというか、純粋にそうしたかったのです。
が、
何かがおかしい。
そこには今の私が「布教」という言葉から予測できるようなものが一切無いのです。
言葉を変えれば「キリスト教らしさ(臭さ)」が一切ない。
そりゃまあそうなるかもしれません。教会にも行ったことはないわけですし、教理だの教義だのそんなものは関係ない、
ただ創造主の存在と救い主の存在を知ったというだけの人間の言葉なのですから。
「イエスさまに出会った人々」~20世紀の異邦人 極東在住17歳女子(若かったわ~~~ww)
私は高校生だった当時の自分の言葉にヨハネが黙示録で語るところの「初めの愛」を見せられたような気がしました。
わざわざこれを運んできてくれた母に
主の愛が伝わりますように。
そして、
免許の返納と、紛失したらしいキャッシュカードのことと、隣家の少々あやしげな電灯問題がなんとかなりますように
母よたのむ、なんとかしてくれ~(;´Д`A ```