トーラーとキリスト教そしてキリスト者としての活動の終わりに

トーラーは今も変わらず終わってはおらず廃棄されたわけでもなく有効。
トーラーに基づいて善悪、「罪」のあるなしが判断される。

トーラーが無効であるなら、そもそも人間には赦される必要のある罪なんてない。


神様というお方は完全に正しく、不変だから、

トーラーを訂正する必要は一切ないはずで、


だとすると

守らなくてよいトーラーなど存在するわけはなく

守るのが当然。

キリスト教では、

イエスさまの十字架のゆえに「すべての罪がゆるされる」ということになっているので

罪を犯したとしても、それはかならず赦される

それゆえ、ぱっと見 ルールがなくなってしまったように見える

(化学平衡のような状態?)


つまり、積極的にトーラーに反することを行うことが求められているはずはない。

守ろうとしてもどうしても守れないということがあったならば

または故意ではないが結果として罪に定められるようなことをしてしまった場合に

赦していただける

という寛容さが

イエスさまによって与えられたのだろうと思う。





20年以上ブログというものを続けてきました。

当初はわが子のアトピー治療薬の副作用に関する問題、区域外通学問題、予防接種による被害に関する問題や解決そして改善のための道筋や情報を公開する「あきらめないママ」「負けるものかと歯を食いしばり続ける母」のブログでした。
それが時の流れの中で古い情報を削除していくうち、自分の真ん中にあったキリスト教信仰に関する文章と人類にとって最も重い課題であるかもしれない  
「発電」所の大事故経験に関する文章
https://murasakitsuyukusa.blogspot.com/
が残りました。


さて

以前書いたことではありますが、自分はいわゆるキリスト教、現代社会においてキリスト教と語られている宗教の信仰から離れることにいたしました。

中学生のときにゴダイゴのコンサートでトラクトをいただいたことがきっかけで求道を始め、FEBCやKTWRを中心とした福音放送を何百時間も聴取させていただき、

つまり、ほんとうにたくさんの信徒の方々の献げものによって「キリスト教信仰」について教えていただきました。それにより、地域の教会に行くきっかけが与えられ、水による洗礼を受けることとなりました。衷心よりお礼を申し上げたいと思います。

そして

受洗しておよそ40年、

時は移り、インターネットの時代となりました。


いまや

書物やテレビラジオを亡ぼす気配すら感じさせるほどの即時情報の海

しかもそれは人ではない人工知能による「コトバ」だったりするそういう時代になりました。


食べなれてしまえばなんということはないけれど、本当は刺激物として分類されるであろうチョコレートを、甘い甘いその誘惑を、這い始めたばかり歩き始めたばかりの赤ん坊の傍らにまいておくような時代

人生の終わりが見えてきた婆となり そんなふうに感じる今日この頃。

おそらく

あのエデンの園の時と同じように「即死」こそしないでしょうが

「この世の神」の誘惑の言葉を「断続的」に聞かされて

そう、それは神さまの言葉とは異なるイカサマ、不連続にすぎないもの、しかし甘く良い香りがし、おいしそうに見えるたちの悪いもの。

う~ん…

そう、所詮は切れ目のある不連続だから皮膚呼吸すらできないほどに全身がチョコレートの鍋の中に沈められているというわけではない。どうにかこうにか鼻は外に出していて外気を吸うことができているのかもしれない。まあ、だからこそまだ命はあるのでしょうが。

…あーでも、いまでは「コトバ」もありますからねえ、息を吸わない連中が吐き出す命のない「コトバ」。

海の中のマイクロプラスチックを逃れられない魚のように吸い込むしかない。…おそろしいな。


しかし、そのような中にあったとしてもつかむべき、つかむことができるはずの「玉」はまだあるわけです。

どんどんどんどん見出しにくくなっているのかもしれませんが

チョコの鍋から片手を伸ばしたらつかめるのかもしれない。

いや、片手を伸ばそうと「思う」だけでもそれはまだ届くのかもしれない。求めさえすれば与えられる。

そう、求めさえすれば。

…やってみればわかると思いますが、ミミズってね、塩よりも砂糖入りの土を好むのですよ…

人間は甘い甘い砂糖菓子の誘惑を躱すことができるでしょうか。




この夏の炎熱でやられ、干からびてしまったミミズを土の中に埋めながら、砂糖の培地が好きだったミミズたちのことを考えていたら、

…たとえそれが二次創作だったとしても捏造であったとしても意図的な改ざんがあったとしても(知らんけど)

聖書という本が母国語で読めたこと

人々の証の言葉がいろいろなところで語られ続けてきたこと

キリスト教という名のもとにまじめに真剣にのべ伝えられ続けてきたことは



何が正しいのか何が間違っているのか

私にはもはやまったくわからないけれども

すべてはが人に与えてくださった

「道」を照らすともしびだった


と、



ようやくそんな風に思えるようになりました。(2025.11)


以前のような信仰にはまったく戻れませんが。



そして、自分の置かれたところで、自分自身の持っているタラントを使い、真実を探し、弱い人々とともに立ち、借り物ではない言葉を増やしていくことが残りの人生で行うべきことである、と考えるようになりました。

つまりは、

キリスト者であると言っていたときとほとんど変わらないのでありますが、

間違いに気づいても訂正できない宗教には二度と戻りません。


自分の頭でしっかり考えて

考えて

生きていきたいと思います。

限界はあるでしょうが

そう、限界はあるのはわかっていますが

それでいい。

科学などまったく知らなくても我々に命をつないでくれた先祖たちのように

「畏怖の念」を抱いて


詩編8:2