2025年4月29日火曜日

箴言30章6節を読んでみた

 אל תוסף על דבריו פן יוכיח בך ונכזבת׃

今日は箴言30章6節を眺めてみようと思います。

前回と同じようにわずか8つの言葉で構成されている箇所です。


実は今日もבךという謎ワードがあります。
辞書にはない、つまりきちんと訳されてはいない単語です。

そんなものを素人が訳せるはずはないのですが、

聖書のみ、万人祭司 という信仰だった自分にとって

石にかじりついても

そう、冗談ではなく、岩であられるお方そしてその御子「石」に

求める、求め続ける、たたく、たたき続けなければ


ではありませんか?


まあ、そこが


それが聖書のみ万人祭司という信仰が破綻した原因でもあるわけですけれども。


それでも、自分にできることはやらなければ。

自分の持ち分ではないところまではやる必要はないと思いますけれども、

義務ではなく、強制でもなく、

信仰の土台である聖書

神のみ言葉

38年間も私は「聖書のみ」だと思って暮らしてきたのです。

やれるところまではやる。

ただ、やれることなんてこんな極東在住の学も無いアラ還主婦ですからね、

いつものようにウィキペディアのフェニキア文字ながめるか、

BIBLE HUBの辞書を眺めるしかできないわけですが

いや、でもそういうものが無料で手の届くところにあるのなら

それらは神さまが私という人間に与えてくださった情報なのですから

眺めて考えれば良いのです。

考えてもわからないことは要求されないでしょう?

分からないんだから。

だけど、考えられるのに、時間もあるのに、その機会を放棄するということは絶対に御心ではない。

こんなこと、気付いていないプロテスタントのクリスチャンは山のようにいる。

ユダヤ教徒なら考えるのだろうけれど

教理だの教義だの教派だの、がっちりと囲まれて一ミリたりともズレたらいけないクリスチャンたちは

見えても目をそらし、聞いても耳をふさぎ

そうやって波風を立てずに生きていくしかない。

でも根幹にかかわることなのだから

本当は考えなければいけないわけだけど

「要するに救いが受けられればいいのだから」という論理で


…黙ろう。

しかし、私は私の思考の痕跡をここに書き残そう。

בךという謎ワード


בכ(単語の最後にあるとך)が使われている単語には

בָּכָה 「泣く」という言葉があり、そこから派生した

בָּכָאという言葉もあるので、そのあたりに近いニュアンスを含んでいるのかもしれない・・・と私は思ったのです。が、それをどういうふうに文脈に入れるのかよくわからない。


あと、謎ワードではありませんが気になった言葉

פןペン Strong's Hebrew 6435 

この単語はある意味有名な単語ですね。
この言葉が最初に現れるのは創世記3章3節のところです。

ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。(口語訳)

 ומפרי העץ אשר בתוך הגן אמר אלהים לא תאכלו ממנו ולא תגעו בו פן תמתון׃

前回の記事箴言30章5節で登場した謎ワードであるבוのあとに

(このように謎ワードは謎のままあっちこっちに登場するんです。で、謎を謎のまま放置して訳された聖書を読んでいるのに聖書を理解できていると思い込んで「聖書のみという信仰を持っています」なんて言ってた自分。あーヤダヤダ)

פן תמתון という二つの言葉が並んでいるのがわかります。

ここは口語訳聖書では「死んではいけないから」と訳されています。


創世記3章というのは、エデンの園における誘惑者とエバのやり取りの場面です。

「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」

誘惑者はエバの心の中を見透かしたように誘惑の言葉を聴かせます。
「本当にそれやっちゃダメなの?本当に神さまがそう言った?え?でもあんたそれ食べたいんだろ?おいしそうだよねえ、永遠に生きられる的ないい成分含まれてるんじゃね?ひひひ」

いつもここを読むとき私の脳内で誘惑者はこう語っています。

するとエバは、こう答えてしまうわけです。

「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」

きちんとした正しいことを言っているように見えるのだけれども、肝心なことを減らしている。

創世記2章17節で神さまが言われたのは、「死ぬ」という言葉を二度重ねて強調し「必ず死ぬ」と言ったのに、一回に減らして「死ぬから」と言ったわけでもなく、
もっと減らして「死んではいけないから(死ぬおそれがある)」と彼女は言った。

מות תמות 死ぬ死ぬ=必ず死ぬ

פן תמתון 死ぬおそれがある



さて、

創世記2章17節は日本語の聖書にはこう書かれています。

ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる。」聖書協会共同訳

しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」新改訳2017

そして

ヘブライ語聖書のこの箇所にはこう書いてあります

ומעץ הדעת טוב ורע לא תאכל ממנו כי ביום אכלך ממנו מות תמות׃



書きたくはないですけれども一応書いておきます。

実は、上に引用した日本語の創世記2章17節にはヘブライ語聖書にある単語が一つ不足しています。
何が不足しているのか確認してみましょう。

そのためにヘブライ語の意味を確認します。

ומעץ 「そして木から」 

הדעת 「知識」 
טוב「良い」(神さまが恵んでくださる有益なもの、心地よいもの、道徳的に正しいものという意味がある「良い」) 

ורע そしてという意味のあるוヴァヴが付いたרע「邪悪」(神さまの性質や戒めに反する行為、思考、意図という意味においての「邪悪」)

לא(絶対に)「ダメ」
תאכל   「食べてしまっては」

ממנו 「そこから」

そして、なぜたべてはいけないのかという事がכי以下に書いてあります。

ביום 「その日に」

אכלך 「あなたが食べる」

ממנו 「そこから」

מות תמות 「死ぬ 必ず死ぬ」

つまり

「善悪の知識の木から食べてしまうことは絶対にいけない

「その日」(すなわち)あなたがそこから食べる日あなたは必ず死ぬ」

日本語の聖書ではどの言葉が減らされているかお分かりになりましたか?

ヘブライ語から日本語に訳された瞬間、
特に聖書協会共同訳では「完全に」スルーされてしまった単語

それは

ביום 

これはביוםにくっついた単語です。

יוםとは「日(ひ)」「一日(いちにち)」という意味がある言葉です。
天地創造の6日間それぞれの日がיוםです。

たぶん、新改訳2017ではスルーしているつもりはなく、「日」と訳すと不自然だとか何とか、翻訳者に尋ねてみなければその真相はわかりませんが、「とき」という言葉を充てて済ませているのだと思います。けれども「格調高い日本語に訳された」聖書協会共同訳にはありません。

ちなみに明治元訳ではこうなっています。

然ど善惡を知の樹は汝その果を食ふべからず汝之を食ふ日には必ず死べければなり

「日」という言葉が入っています。

英語の聖書でもいくつかを除いて in the dayとかon the dayという言葉を入れています。

引用はしませんので興味がある方はBIBLE HUBでご覧ください。

https://biblehub.com/genesis/2-17.htm


聖書は原典において正しいのかもしれません。

しかし、謎ワードがあればそれは無視、謎でなくてもナチュラルな日本語になりそうでなければスルー、

それって、「必ず死ぬ」を「死ぬといけない、死ぬおそれがある」に減らしたエバとどのくらい違うことなのでしょうか。

もちろん、この件については、そこまでのことを理解した上で信徒たちに語ることの出来る指導者がいる群れであれば問題はないのです。しかし、私のようにブレズレンの信者であった人間には・・・。

いやいや、それどころではないです。
律法は終わったとか言って聖書から律法を取り除く行為、
律法の取捨選択、減らすにもほどがあるでしょう?

箴言30章6節の話にもどります。

箴言30章6節には神さまの言葉を減らすのではなくそこに加える悪について書かれています。


אל תוסף על דבריו פן יוכיח בך ונכזבת׃

この文の一番初めにあるのは

אלです。ヘブライ語の文の初めには、日本語で言うところの述語(動詞)が来ることになっています。したがって、文の頭に誰かの名前だとかそういうものが来るはずはないので、
文頭にあるאלは神さまを表すאלエルではなく否定語のאלアルだということがわかります。

神さまを表すאלエルとאלアルはまったく同じ綴りである、ということでわかりますが、
אלアルと書いてあったら強い絶対的な否定になります。
אללאの程度の違いを考えたりしますが、初心者である私には辞書を読んでもまだよくわかりません。
ただ、牛追いの棒であるלラメドを先に置くか後に置くか、ということよりも、
大切な大切な文字であるאアレフという文字を先に置くか後に置くかという、そのあたりの気分や書いている人の立場だとか、そういう違いが発話者にはあるような気がしています。אアレフが先にあると権威を感じるので、命令されてる気分に、私はなります。(個人の感想です)

箴言30章6節で

אלアルという言葉の次に来るのは

תוסף 悪そうなסサメフの入った単語が次に来ています。(完全なる個人の感想です)
これは יָסַףという単語の変形バージョンで、「加える」という意味があります。
ちなみに、

תּ֥וֹסְףְּは箴言30章6節にしか登場しません。

似たような文字構成の単語を探してみましたら

イザヤ書に תוֹסִ֥יפִיという言葉が4回登場

イザヤ書23章12節、47章1節、47章5節、51章22節

そしてヨブ記には文字列は同じだけれども読み方が違うתּוֹסַֽףという言葉が41章8節にありました。


箴言30章6節の出だしにある二つの単語をあわせると

אל תוסף 絶対に加えてはいけない!!

ということになります。

では何に何を加えてはいけないのか。


על 上に

דבריו 彼の言葉

「彼の言葉の上に」加えてはいけないと書いてあります。

דבר「ダバール」 には言葉という意味がありますが、
聖書では神さまの言葉、神さまの命令、または神さまの約束を表す単語です。

というわけで、

30章6節の前半部分4つの単語で構成されている部分は

絶対に加えてはいけない 神さまの言葉の上に

という意味になります。



神さまの言葉を減らしたり加えたりすることを禁じている申命記の箇所を思い出させる言葉です。
申命記4章2節(口語訳)
わたしがあなたがたに命じる言葉に付け加えてはならない。また減らしてはならない。わたしが命じるあなたがたの神、主の命令を守ることのできるためである。
申命記12章32節(口語訳)
あなたがたはわたしが命じるこのすべての事を守って行わなければならない。これにつけ加えてはならない。また減らしてはならない。

これら申命記の二つの箇所には非常に特徴的な言葉が含まれています。
それは、日本語で「守る」と訳されているמרシャマルという言葉です。

「神の戒めを守る」という言葉は日本語を使う私たちにもそれは理解できることばで、
「約束を守ろうね」というような、「言われたことをきちんと行う」というニュアンスでとらえると思うのですが、
מרシャマルというヘブライ語にはそれだけではなくto hedge about, guard, to protect, 
という意味での「守る」があるようなのです。
いや、もしかすると、本当は日本語の「守る」にも、そこまでの意味が込められているのかもしれませんが、ヘブライ語聖書を眺めるまでガードだのプロテクトだのと言う意味が申命記4章2節と12章32節の「守る」に含まれるとは考えてもみませんでした。

מרシャマルに似た文字列の言葉にשׁמעシャマアというものがあります。
これは申命記6章4節「聞きなさいイスラエル」でおなじみの「聞く」という意味の言葉です。
この二つの単語で興味深いのは「聞く」という意味のשׁמעシャマアの三文字目はעアインつまり目であり、מרシャマルの三文字目はרレーシュつまり頭なのですね。
目と脳と言われると両生類の発生過程における神経誘導を思い出すのですが、脳と目というものは非常に近いところにあるものです。外界の刺激を受容する目、そしてそれを判断しとどめる脳であると考えると、「聞いた」言葉をしっかり「記憶する」、
記憶された言葉は誰にも盗まれることはないのですから
そうやって神さまの言葉を行うと同時に「ガードする、プロテクトする」、
イスラエルの重い使命を感じさせられる言葉だなあと思います。
記憶し子供に伝え守り続ける、永遠にそれを行う、付け加えることも減らすこともしないでガードするプロテクトする。トーラーはトーラーについてそう要求しているのです。
つまり、神さまは、神さまご自身の発せられた御言葉について、
永遠に記憶し加えることも減らすこともせずそれを行いなさいとおっしゃっている。


先日私は「プロテスタント」の信者であるとは言えなくなったと書きましたが(これを書いた後プロテスタントではなくキリスト教に変更しました)
そもそもそういう「宗教」を信じていると思っていたことがおかしかったのです。
神さまはおひとりで、
その方の教えは一つ。永遠に変わらない。
「キリスト教」という宗教があるのではなく、
ある時、地上にメシアが来られた、それだけの事だったのですね。
プロテスタント、エヴァンジェリカル、ブレズレン、などという定義の中で自分の存在を確認することに必死になっていましたが、本当はただ単にメシアが来られた後の人類であると言うだけのことだったわけです。
メシアが来られる前の時代とそのあとの時代があるというだけのことだったのですね。




さて、それでは30章6節の後半を眺めます。

פן יוכיח בך ונכזבת


פן  上の方でたくさん書きましたが「~するといけない」「~のおそれがある」 という意味があります。

יוכיח 神さまが「懲らしめて」正しい道へと立ち返らせるというような意味があります。

בך 上に書いた通り辞書にはない謎ワードで、対訳では語末のךのゆえなのでしょう「あなた」となっています。

あ゛~~

謎ワード、どうすればよいのでしょう。「あなた」でいいのでしょうか

😫

どこかの日本語の聖書の箴言30章1節みたいな気分になってきました。

「疲れた疲れた~~~」

あ~~馬鹿~

いや、בךベカだ(;´Д`A ```




学び続けて行ったらそのうちに何か知恵が与えられるかもしれません。


検索を続けていたら面白そうなサイトを見つけました。

https://www.mgketer.org/tanach/28/30/6