מי עלה שמים וירד מי אסף רוח בחפניו מי צרר מים בשמלה מי הקים כל אפסי ארץ מה שמו ומה שם בנו כי תדע׃
今日は箴言30章4節です。
引用したヘブライ語のテキストの色を変えた箇所はמיとמה
わずか一節の中に4回もあるמיは「誰」「who」
2回あるמהは「何」「what」
つまり、箴言30章4節という箇所は
たった一節の中に6種類の質問を含む箇所です。
「誰 誰 誰 誰 何 何」
こんな言い方をするときというのは、おそらく、
・・・私であれば怒っている時だと思います(;´Д`A ```。
そして最後に創世記の冒頭キ・トーブ (神さまがごらんになって)「良しとされた」でおなじみのキכיがあります。でもכיのあとにトーブはありません
じゃあキの後には何が来ているのか、というとתדעテダ。
後述しますが、כיとのからみで少々気になることがあったので、今日はこの単語の原形をあたらずにこのままの形תדעテダで「トーラー」に登場している箇所を調べてみました。
תדעテダこの形の単語がトーラーに登場するのは
一番初めが創世記の15章13節、そして二番目が出エジプト記7章17節です。
その二つの箇所でもכיキがあるわけですが、תדע כיという形で登場します。
תדעテダを含むトーラーの二箇所は聖書協会共同訳で太字のように訳されています。
主はアブラムに言われた。「あなたはこのことをよく覚えておきなさい。あなたの子孫は、異国の地で寄留者となり、四百年の間、奴隷として仕え、苦しめられる。
創世記15章13節(聖書協会共同訳)
それで、主はこう言われる。『次のことによって私が主であることを知るようになる。』私が手にする杖でナイルの水を打つと、水は血に変わる。
出エジプト記7章17節(聖書協会共同訳)
つまり、תדעテダは、
まだ起こってないことが未来において必ず起こるという事について「知りなさい、覚えておきなさい」という事を表す単語です。
念のために、引用した創世記15章13節と出エジプト記7章17節をヘブライ語聖書でもう少し詳しく見ておきます。
創世記では
ויאמר לאברם ידע תדע כי גר יהיה זרעך בארץ לא להם ועבדום וענו אתם ארבע מאות שנה׃
日本語訳で「よく覚えておきなさい」とありますが、この部分はヘブライ語で
ידע תדעとなっており、同じ単語のדעという部分を二度繰り返して強調する形となっています。そして、そのあとに כיキがあるわけですが、 כיキの一文字目のכカフは掌を表しますから、כיキ以下に書かれていることを「てのひらでつかんで」
つかんだもの全体を「よく覚えておきなさい」と言っているように見えます。
次に出エジプト記ですが
כה אמר יהוה בזאת תדע כי אני יהוה הנה אנכי מכה במטה אשר בידי על המים אשר ביאר ונהפכו לדם׃
כי のあとに、אני יהוה「私は主(神聖四文字)」と書かれています。
これも創世記と同様כיキ以下のことを「てのひらでつかんで」、
つかんだものを知るようになると言っているわけです。
で、上の方で「少々気になることがあった」と書きましたが、
実は、トーラーにおいてתדעテダが現れる場合、
上に引用した創世記の15章13節と出エジプト記7章17節以外の登場箇所=出エジプト記の8:10、8:22、9:14、9:29、10:7と申命記の 20:20においても
すべて
תדע כיという語順で現れ、כי以下のことを知るようになるというパターンなのです。
しかしこの箴言30章4節の場合、כי תדעという順番で単語が並んでいる。
כיキがぎゅっとつかむのはתדע「知るようになる」ということ自体ということになります。こういった場合、どんなことを表現しているのでしょうか。
Englishman's Concordanceを使い
箴言30章4節以外のכיキがתדעテダの前にある箇所を探したところ、
ヨブ記38章5節に一箇所、そして箴言27章1節に否定語の入った形でありました。
つまり、聖書の中にはこの三箇所だけしかכי תדעという順番で登場するものは無いということになります。
どのような箇所で使われているのか、箴言30章4節と比べつつ確認してみましょう。
まずはヨブ記38章5節。この箇所で気になったのはכי תדעという語順における類似性だけでなくמיが二回も一文の中に含まれていた、ということです。
מי שם ממדיה כי תדע או מי נטה עליה קו׃
続いて箴言27章1節、こちらにはמהがあります。
אל תתהלל ביום מחר כי לא תדע מה ילד יום׃
それではここで、新しい翻訳ではどう訳しているのか、聖書協会共同訳でヨブ記38章5節と箴言27章1節を読んでみましょう。
あなたは知っているのか
誰がその広さを決め
誰がその上に測り縄を張ったのかを。ヨブ記38章5節(聖書協会共同訳)
ヨブ記38章5節というのは、
主が嵐の中からヨブにおこたえになられた箇所ですね。
そして箴言27章1節
明日のことを誇ってはならない
一日のうちに何が起こるか知らないのだから。箴言27章1節(聖書協会共同訳)
ヨブ記38章5節において תדעテダの訳として登場する「知っているのか」という言葉は、
ヨブが知るはずのないことを、当然そんなことを知るはずはないとご存じのお方があえて尋ね、
一方、尋ねている側のお方は言うまでもなくそのようなことはご存じである、という場面における「知っているのか」という「問い」です。
そして箴言27章1節は
人間には明日何が起こるかなど全く「わかるはずはない」という意味ですが、これも信仰者には深読みすることができ、
「神さまは当然ご存じであるけれども」という前提条件を含んだうえでの「知らない」ということで、
つまり、ヨブ記38章5節にしても箴言27章1節にしてもתדעテダという言葉は、
高慢な人間の実像である無知を
全知であられる神さまの「知」のごく一部分を取り上げて際立たせるという「表現技法」のように見えます。
わずか二箇所しかないものについての考察ですので、そう断定するのは早計かもしれませんが、「現時点では」そう理解するしかありませんので、そのことをもとに箴言30章4節の該当部分を考えるならば、
箴言30章1節から語られているような
神さまを軽んじているたいへんに高慢な人間がいて、
まあ、この辺りも私個人の解釈になってしまうため仮説にすぎませんから1節で書かれていることはわきに置いておくとしても
4節に現れる人間に対してכי תדעと語るわけですから
4節に現れている高慢な人間の実像である無知を
全知であられる神さまの「知」のごく一部分を取り上げて際立たせていると考えれば、
たとえばヨブ記38章5節に「知っているのか」という訳語を充てるとして、
その言葉を発しておられる方の心持ちは
「おまえは知るべきことをなにも知らないのだ!
神さまが全知のお方であるということを思い知れ!」
ということであるのかもしれません。
ちなみに、
תדעテダの文字の順序をいれかえたדעתダアトという単語が、ヨブ記38章5節のちょっと前のヨブ記38章2節に登場しています。
知識もないまま言葉を重ね
主の計画を暗くするこの者は誰か。ヨブ記38章2節(聖書協会共同訳)
דעתダアトは辞書によると、
תדעテダの原形であるידעヤダの名詞形で、
「知識 knowledge」という意味があります。
ヨブ記38章2節以降の御言葉からわかることは、
ヘブライ語におけるדעתダアト=知識 とは、
クイズ番組に出て高得点を上げるようなものではなく、大学入試に合格するためのものでもなく、
現代に生きるクリスチャンとしての理解で語るならば
神さまご自身(トーラー=みことば)をいただき(食べ)、
一時も離れることのないインマヌエルであるお方
聖霊さまを与えられたうえでの「知識」であり、
そしてそれは、たとえば今のような時代に、ヨブのようにとんでもない試練を与えられたとしても、
どう判断し、何を語り、何を行うのか、(先日書いたアボダーにあたることです)
主にある正しさ「義」を見きわめ、選び取る力を含むもの、ということになるでしょうか。
それがדעתダアト「知識」であり、
その動詞形がידעヤダ 「知る」ということであり、
さらに言えばそれらの根源であるお方
「全知」であるお方への全幅の信頼あっての
תדעテダ 「知るようになる」だと思うのです。
自分にとっては未知のことであり、まだ見ぬことではあるが、
それは間違いなく「在る」ものであり、今後起こることであるということを
信仰によって「知るようになる」。
そして、信仰のない者どもにとっての「知るようになる」とは
目で見ても耳で聞いてもよく考えることをせずに
いつになっても真理に到達できぬまま終わりを迎え
そこで初めて自分の愚かさに気付くという意味での「知るようになる」。
そういうתדעテダをכיキでつかむ
כי תדע「(お前は)知っているのか」
文末をさきに読んでしまいましたが、
そういう文末なのだ、という事を踏まえた上で
4つのמיと2つのמהの内容を見ていきましょう。
一つめのמיはこれです。
מי עלה שמים וירד
עלהはのぼるという意味があります。
そして
ירדはくだるという意味があります。
ירדの前の וにはandの意味があります。
のぼるとくだるの間にあるשמיםは
創世記1章1節に登場する天のことです。シャマイムです。
とすると、この箇所は「誰がのぼるのか 天に そしてくだるのか」という意味になります。
やはり、ヨブ記38章に見られるような問いかけです。
「うっせぇ!そんなもん知るか!」
または「上り下りできません」というものが
高慢な者の回答となるような気がします。
しかし、信仰のある者たちならば
「それは神さまだけです 神さまはおできになります」と答えるでしょう。
そして二つめのמיはこれです。
מי אסף רוח בחפניו
אסף これはアサフと読みます。「集める」という意味があります。
人名のアサフも同じ綴りです。
辞書によると、人名のアサフも「収集者」または「集める者」を意味していて、アサフは礼拝のために人々を「集め」たり、詩を「集め」たりという形で貢献していたというような説明がありました。
あ、「集める」がここにもあった!
え?何の話かって?30章1節のアグル・ベン・ヤケとソロモンのニックネームであるケハラット・ベン・ダビデの「אָגוּרアグル」と「ケハラット」!!「集める」!!
アグルはヘブライ語の語源 אָגַר に由来し、「集める」または「収集する」を意味する。
そしてケハラットはקהלתつまり「コヘレト」
ケハラット=コヘレトקהלתは
多くの共同体קהילותをエルサレムに集めたהקהיל
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רוח ルーアハ
旧約聖書では、神の「霊」、人間の「霊」、そして「風のような自然現象」を表すために使われています。
בחפניו ベ・コフェナブ
コフェンは掌のくぼみです。「両手の中にいれて握る」という動作を表しているようです。
とすると、この箇所は「誰が 集める 風 両手の中に入れて握る」ということになります。
これもまたヨブ記38章に見られるような問いかけです。
くしゃみでもして、手で口をおさえることくらいはできますが、(花粉症なう)
風であれ、霊であれ、集めることも両手の中に入れることも人間にはできません。
それがおできになるのは神さまのみ、ということですよね。
でも、神さまを信じていない者には答えようがない。
「そんなもん知るかよ!くっだらねえ!」とか言って
聞こうとも考えようともしないのかもしれません。
そして三つめのמי
מי צרר מים בשמלה
צרר ツァラル
「縛る」とか「拘束する」という意味だそうです。
「窮屈にする」というニュアンスがあるようです。
מים マイム
マイムマイムでおなじみ「水」のことです。
בשמלה バ・スィムラ
スィムラは衣服のことです。
「誰が 動かないようにする 水を 衣服の中に」
洗濯物が凍ったという話ではないと思います。
(30年以上前、群馬町に住んでいた頃、我が子のおむつが毎朝干した瞬間カチカチに凍ってしまったのを思い出しました。(;´Д`A ```)
前の二つのמיのことを考えればおそらく、「地球上の水」と「空の上の水」というようなレベルの話でしょう。
人間にはできません、と答えるしかない話が続きます。
そして四つめのמי
מי הקים כל אפסי ארץ
הקים ヘ・キム
これはקוםクムという言葉が元になっているようです。
קוםクムには「立ち上がる」「立つ」「確立する」というような意味があり、「行動を起こす」とか、「契約を履行する」とか「預言したとおりに果たされた」とかそういうニュアンスで使われることもあるようです。
Brown-Driver-Briggsを見ると、קוםクムに関して
箴言30章4節と歴代誌下7章18節が並べて書かれていました。
歴代誌下7章18節は聖書協会共同訳ではこうなっています。
私はあなたの王座を確かなものとする。あなたの父ダビデに、『イスラエルを支配する者が絶えることはない』と約束したとおりである。つまり、英語で言うところのestablish throneというあたりのニュアンスが
箴言30章4節のהקיםにもある、という事なのだと思います。
כל אפסי ארץを「確かなものとする」ということでしょうか。
כלカル 「すべて」 という意味です。
אפסアプセ 「終わり」という意味です。
ארץアレツ 「地」という意味です。
אפסי ארץは聖書の中に12箇所あり
箴言30章4節のほか
申命記33章17節
「ヨセフの雄牛の初子には威光があり
その角は野牛の角。
それによってもろもろの民を突き
共に地の果てまで進む。
それはエフライムの幾万の戦士。
それはマナセの幾千の戦士。」申命記33章17節(聖書協会共同訳)
サムエル記上2:10
主はご自分と争う者を打ち砕き
天から雷鳴をとどろかせます。
主は地の果てまで裁き
王に力を与え
油注がれた者の角を高く上げられます。サムエル記上2章10節(聖書協会共同訳)
詩篇2:8、
求めよ。私は国々をあなたの相続地とし
地の果てまで、あなたの土地としよう。詩編2編8節
他には 詩篇22:27、詩篇67:7、詩篇72:8、詩篇98:3、
イザヤ書45:22、イザヤ書52:10
ミカ書5:4、ゼカリヤ書9:10
「誰が 確かなものにした すべて 地の果て 」
という事なのかと考えられます。
で、これもまた、
神さまご自身と、神さまを信じる者にしか回答できない問いです。
以上が四つのמיの内容です。
間違いなく言えることは、
この人はほめられているわけではない、ということです。
高慢さ、不信仰さを責められているような印象を受けます。
מה שמו
שמו シェモウ とは
שםシェムが「名前」という意味で、それにוヴァヴが付いてשמוとなっています。
(מメムは語末に来るとםメムソフィートになります)
שמו シェモウ とは「彼の名前」という意味です。なので
「何だ 彼の名前」と尋ねていることになります。
そして最後の問いは
ומה שם בנו
מהマの前にוヴァヴが付いています。なので
「何だ 彼の名前は」という質問とセットになっている質問だということがわかります。
「そして何だ 名前・・・」と尋ねています。
誰の名前を訪ねているのかといえば
בנוベノウ
בןベンが「息子」という意味でそれにוヴァヴが付いてבנו
(נヌンは語末に来るとןヌンソフィートになります)
בנוベノウ「彼の息子」という意味です。
なので、
「そして、何だ 名前 彼の息子」と言っています。
「何だ 彼の名前は」
「そして、何だ 名前 彼の息子」 って
・・・神聖四文字なるお方とイエスさま、イエシュア(ヨシュア)・・・
ということですか?
これは、クリスチャンにしか完答できない問いでは??
(あとでくっつけたものではないことを願います。←こういう発想をする人になってしまいました。ほんと、やだ。この「やだ」は日本語です(;´Д`A ```)
で、最後の言葉が
כי תדע
「知っているのか」
では、今日の訳を並べてみます。
「誰がのぼるのか 天に そしてくだるのか」
「誰が 集める 風 両手の中に入れて握る」
「誰が 動かないようにする 水を 衣服の中に」
「誰が 確かなものにした すべて 地の果て 」
「何だ 彼の名前」
「そして、何だ 名前 彼の息子」
「(お前は)知っているのか!」
本日のまとめとして1節から3節の私訳に、滑らかな文にした4節を加えてみます。
箴言30章1節
https://kyudochu.blogspot.com/2025/02/301.htmlヤケの子アグル
(すなわち トーラーを良く学び知識が豊富で人々にトーラーを教えるソロモン)による
重い預言の言葉
勇敢で強じんな男
自分を完全無欠な王だと考えている者ウカル
または自分を完全無欠な王だと考えている者とウカルに対して:
箴言30章2節
https://kyudochu.blogspot.com/2025/03/302.html私は必ずあなたを火によって男の中から取り除く
完璧な理解力がありながら御手のみわざを学ばない人間
箴言30章3節
https://kyudochu.blogspot.com/2025/03/303.htmlそして絶対に知恵を学ぶことはない
そして聖なる知識を知らない
そして本日の箴言30章4節
だれが天にのぼり、そしてくだるのか
だれが風を集めて両手の中に入れるのか
だれが水を服の中に入れてとどめるのか
だれがすべての地の果てを確かなものとしたのか(そのすべてをお出来になる)彼の名前は何というのか
そして彼の息子の名前は何なのか知っているのか