何度も何度もハバクク書3章を読み返しておりました。
疫病はその前に行き、熱病はその後に従う。3章5節
イエスさまがもう一度来られる日。
その日を思いながら。
この御言葉の一節前にはこうあります。
その輝きは光のようであり、その光は彼の手からほとばしる。かしこにその力を隠す。3章4節
וְנֹ֙גַהּ֙ כָּאֹ֣ור תִּֽהְיֶ֔ה קַרְנַ֥יִם מִיָּדֹ֖ו לֹ֑ו וְשָׁ֖ם חֶבְיֹ֥ון עֻזֹּֽה
都は、日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。
καὶ ἡ πόλις οὐ χρείαν ἔχει τοῦ ἡλίου οὐδὲ τῆς σελήνης, ἵνα φαίνωσιν αὐτῇ· ἡ γὰρ δόξα τοῦ Θεοῦ ἐφώτισεν αὐτήν, καὶ ὁ λύχνος αὐτῆς τὸ Ἀρνίον.
今、私たちには光が必要です。
世界中の人々にとって光が必要です。
否、厳密にいえば、それは今に始まったことではありません。
園を追い出されたあの時からずっと必要でした。
それは日や月の光ではありません。
ハバククやヨハネが語る主の輝き、
御手からほとばしる光線のような、
混沌に秩序を与える光。
わたしは地を見たが、それは形がなく、またむなしかった。
天をあおいだが、そこには光がなかった。エレミヤ書4章23節
この混沌としてしまった地、
主の与えたもうた秩序は破壊され、私たちはどうやってここで生きていけばよいのか、まったくわからない。太陽が地を照らそうが、月が夜の空に輝こうが、躓いて前に進むことができません。
そして、LEDのランタンで必死に足元を照らしたとしても小石すら気付けず、
・・・所詮、ファラオの魔術師には「光」は作れない。
あたかも神さまご自身の御手から出る光を真似た「ようなもの」を作っては見るものの、
それは偽物。
人に救いを与えることなどできず、苦しめることしかできないのです!
光よあれと言われたお方の御手からの光とは、
聖であり、義であり、混沌としたものに秩序を与えるもの。
そしてその光が現れるとき、暗闇の存在はゆるされず、すべての闇があばかれます。
創世記2章16,17節で
主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。
と語られた「死」。
それは単純に人間の肉体の死の由来を語っているのだ、とか「アダムだってエバだってすぐには死なないじゃないか」と、あのとぐろを巻く誘惑者の側にある者たちを増長させてきたかもしれないけれど、
御言葉は忍耐深い神さまの御手により成就させられます。
主はすべてのものに突き刺すような光を当てて、
闇の中に隠れていたものすべてをあばかれる。
逆に言えば
そのようなことを目撃したならば、
光はすぐ近くにある、ということでしょうか。