2021年1月3日日曜日

エレミヤ書31章35節~37節を読みながら「アレ」を思う

太陽を置いて昼の光とし
月と星を夜の光と定め
海をかき立て、波を騒がせる方
その名を万軍の主と言う方
主はこう言われる。

もし、これらの定めが私の前から取り去られるなら
イスラエルの子孫も、永遠に
私の前で民であることはできない――主の仰せ。

主はこう言われる。
もし、上においては天が測られ
下においては地の基が究められるなら
私もイスラエルのすべての子孫を
彼らのあらゆる行いのゆえに
退けることもありえよう――主の仰せ。

エレミヤ書31章35節~37節(聖書協会共同訳)

 

創造主による天地の創造を信ずるものは、創造主が混沌としたものにルールを与え秩序を与えてすべてのものを創造されたということを創世記によって信じています。

地球に暮らしていて毎日当たり前のように感じているすべてのことは、決められたルールの下で制御されているからこそ「当たり前」だと思えるのです。
重力であったり、大気圧であったり、空気の構成成分の濃度や分圧、海水の温度や成分であったり、細胞内の成分や濃度であったり、脳によるコントロールであったりそのほかの組織や器官の連携であったり
さまざまなものにルールがなく適当であったら現在みられるような生き物は存在していないはずです。
しかもそれは大雑把なものではなく絶妙であり微妙なものです。アトピー性皮膚炎の患者や更年期障害を体験すればわかるわけですが、ごくごくわずかな量で大きな影響のある内分泌物質で知られている通り、神さまの定められたルールとは、肥杓で適当に化学物質をぶちまけるようなそんなバカげたものではないわけです。

わざわざ雑な例を挙げたとしても、温暖化だとか異常気象だとかの、そんな大きな環境の話であっても、何十度も変化しているわけではなく、ごくごくわずかの違い、そのわずかな違いであっても我々の生活には大きな問題が起こってしまう。
つまり、私たちの生活は一定の決まりのもと、大きな変動のない安定性というものの中で保障されているものです。

そしてそういう世界に生きている人間は安定した状態に一つの動点を与え、実験と称し、何が動くと何が変化するのかということをひたすらに追求し続け多くの書物に表してきたわけです。~とは~である、という定義、そして、変化を関数で表し、自分たちの生かされている地球における様々なものを「理解」してきたわけです。

ただ、それは、「理解」であり、もう一つ加えるとしても「利用」であり、さらに進めたとしてもそこに創造主を越えることがあってはならないし超えるはずはないというのが聖書信仰であり、秩序です。そして、現段階ですべてのことが解明されているわけではないということはゆるぎない事実であります。

バベルの塔の物語で計画がとん挫したのは、その秩序を破壊しようとしたからで、それはこの時代にあっても同じような結果になる、これが聖書の教えでありましょう。

 

もし、これらの定めが私の前から取り去られるなら
イスラエルの子孫も、永遠に
私の前で民であることはできない――主の仰せ。

 

エレミヤ書31章のこの言葉は
この文のまま「これらの定めが」神さまの前から取り去られるなら・・・云々、というふうに読めますが、そうではなくて、「定めは絶対に取り去られない」というふうにも読めます。なぜなら、イスラエルは滅びないからです。神さまは絶対に愛するイスラエルを滅ぼすことはないからです。

しかしだったとすると、この御言葉によって、消えることのない「定め」の存在があるということがあらためて示されたわけです。

神さまの律法は有効なのか無効なのか云々という議論自体がこのエレミヤ書の御言葉で吹き飛ばされてしまう、ということを私たちは再度認識しつつ、

同時に、律法(トーラー)とは、ただ単に人の道を定めたものではなく、この世界、否、宇宙全体のルールであるということも知らされるわけです。

 

太陽を置いて昼の光とし
月と星を夜の光と定め
海をかき立て、波を騒がせる方
その名を万軍の主と言う方

 

太陽であれ月や星であれ
創世記で神さまが作られたことは聖書を神の言葉として信じている人であれば知っていることでありますが、そこにも神さまはルールを与えられているわけですね。
それもルールであり、人間に与えられたものもまったく同じ。同一のお方が作られた同一の基準であるわけです。変えることはできない、変えてはいけない、その線引きがその秩序が続く限り変わるはずのない、ルール。

迷うことのない迷う必要もない決まり事。読めるルールは読めばよい。見えぬルールは私たちはそれを観察し実験してルールを探して立式する。それこそが科学。謙遜に律法を知ること、それが科学。

 

主はこう言われる。

もし、上においては天が測られ

下においては地の基が究められるなら

私もイスラエルのすべての子孫を

彼らのあらゆる行いのゆえに

退けることもありえよう――主の仰せ。

 

なぜ、天が測られ地の基が究められるなら退けられるのか。
それは、これが漠然と空を測っているという話ではないから。
そして単純に地面の下を研究しようとしているわけではないから。

命を与える創造主たる神を超え
死して地の底に沈む命を認めず永遠の命を得ようとする、

(補足:創造主は唯一絶対なる創造主、被造物は創造主を超えることはできない。しかし創造主が定められたルールや、秩序(創造主が線引きし整えたもの)なんてものは終わりにして壊してしまおう、そして、地上にある被造物のもつ根本的な部分を究めれば「創造主のようになれるよ」「この世を支配できるよ」と蛇は誘惑してくる。

その誘惑に惑わされた科学者がエバのように引きずり込まれ、さらにはエバによって引きずり込まれたアダムのように罪を犯してしまう人がいる。)


神に似たものとして造られた人間の
そして、エデンの園を追放された人間の
主の御言葉よりも蛇の誘惑に好んで耳を傾ける人間の
あらゆる活動への警告だ。

人間が到達しうる、手を伸ばせばそこにある、園の中央の木、

 

・・・同じ過ちを繰り返してはいけない。

そこに人間は手を伸ばしてはいけない。

 

「あなたがたは食べても死なない」と蛇は言う。

 

しかし、創造主は間違いなく語られたのだ

「それを食べたら必ず死ぬ」

 

מות תמות

 

 

ただ、創造主を畏れぬ人間は命の木の実に手を伸ばし続けている。
絶えず絶えず。そして創造主のつくられたルール(設計図)を人間の浅知恵でいじくりまわして永遠に生きようとしている。

しかしそれは赦されることではないのだ。いや、赦されることではないと伝えられているのは主の愛のゆえだろうと思う。ナノの世界で物性が変わってしまうのと同じように私たちにはどこまで行っても知り得ないことがあるに違いない。

主の目から見ればピコの世界も肥杓、宇宙もビー玉ひとつにすぎないのだ。

逆に、われわれにとって単なる塩基の並び順は、本当ははかり知れない宇宙なのだ。

מות תמות

エデンの園に住んでいると思っている地(הארץ)の住民たちよ

また主の声が聞えないか。

繰り返される主の声。

「科学的にぃ~」とか言ってる場合ではないのだ。

踏み込んではいけない一線には絶対に踏み込んではいけない。


羊たちよ!
古い時代から変わることのない主の御言葉を守るように教えない伝道者説教者の言葉に耳を傾けてはいけない!

良く考えることもなく従ってはいけない!

「科学的にぃ~」は科学ではない!

「科学的にぃ~」は教えではない!


羊たちよ!
その喧騒から離れよ!しずまって主のみ言葉を聴け!
そして「聖」であれ!

聖ということ- 9月 28, 2019
https://kyudochu.blogspot.com/2019/09/blog-post.html

偶像(1)- 8月 01, 2016
https://kyudochu.blogspot.com/2016/08/blog-post.html