神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。
コリント人への第二の手紙7章10節(口語訳)
今日はⅡコリ7:10をコンコルダンス等で調べます。
怖さと恥ずかしさで誰にも言えませんでしたが、40年前から何度読んでもわからなかった箇所です(笑)
まあ、前からの流れを読みとれば言いたいことをつかめないこともないし、パウロの言葉はトーラーの注解なのだ、と考えればそれほど深刻にならなくても?よいのですが、「悔いのない救を得させる悔改め」という日本語、わかりにくすぎやしませんか?
口語訳はきっと古いからわかりにくい日本語なんだわ、と思って聖書協会共同訳聖書を開いてみましたが、
神の御心に適った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせ、この世の悲しみは死をもたらします。
(;´Д`A ```
「神の御心に適った悲しみ」は「救いに至る悔い改めを生じさせ」るということはわかるのですが、「悔いのない」という語はどこにかかるのでしょう。口語訳から聖書協会共同訳となり、変更されたのは「悔いのない」という言葉の後の「、」です。ここに「、」が付いたということは「悔いのない救い」と読んではいけないということでしょうか?
だとすると「悔いのない」は「救いに至る悔い改め」にかかるということですか?
「救いに至る悔い改め」という言葉は「悔い改め」という行為が「救いに至らせるもの」であることの説明で・・・「救いに至る」は「悔い改め」を修飾しているわけですよね?・・・じゃあ修飾語をそぎ落として骨組みだけ残したら「悔いのない悔い改め」になっちゃいますよね・・・
悔いのない救いであっても悔いのない悔い改めであっても良いですが・・・
・・・いや、全然良くないですよ。意味わからない。
なので、まずギリシャ語を調べました。
「悔い改め」はStrong's Greek 3341 μετάνοιαですが、
これは「悔い改め」ですから、クリスチャンとして意味は分かります。
問題は「悔いのない」と日本語に訳し続けられている言葉です。
「悔いのない」に該当するギリシャ語は
Strong's Greek 278 ἀμεταμέλητος
これはStrong's Greek 1のαと
Strong's Greek 3338のμεταμέλομαι
が合わさってできた言葉で、ギリシャ語ではαを頭につけると否定の意味を表すそうです。
というわけで、μεταμέλομαιに後悔するという意味があって、そこに否定するαがついているので「後悔しない(悔いのない)」という意味になると。
で、Strong's Greek 278は新約聖書の中では二箇所に登場していて、
ひとつがこの第二コリント7章10節で、もうひとつはローマ11章29節でした。
神の賜物と召しとは、変えられることがない。
ローマ人への手紙11章29節(口語訳)
「変えられることがない」と訳されている部分がStrong's Greek 278です。
わずか二箇所しかないのに「悔いのない」と「変えられることがない」と訳し分けられている。
ならば「変えられることがない」という言葉をコリントの方に代入してみましょうか。
「神の御心に適った悲しみは、変えられることがない、救いに至る悔い改めを生じさせ」
(。´・ω・)ん?こっちの方がしっくりくる感じですが、「悔いのない」にこだわる理由が何かあるのかもしれません。
よくわからないのでもう少し掘り進めて見ましょう。(笑)
ἀμεταμέλητοςはαとμεταμέλομαιだということなので、
μεταμέλομαι
について調べます。
Strong's Greek 3338のμεταμέλομαι
これは、新約聖書に6回登場します。
聖書協会共同訳聖書から該当箇所を引用してみます。
兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。
マタイによる福音書21章29節
なぜなら、ヨハネが来て、義の道を示したのに、あなたがたは彼を信じず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたがたはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」
マタイによる福音書21章32節
その頃、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、
マタイによる福音書27章3節
あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、今は後悔していません。確かに、あの手紙が一時的にせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔していたとしても、
コリントの信徒への手紙二7章8節
この方は、誓いによって祭司となられたのです。神はこの方にこう言われました。
「主は誓われた。その御心を変えられることはない。あなたこそ、永遠に祭司である。」
ヘブライ人への手紙7章21節
マタイ21章の「後で考え直す」という言葉は、後で考え直して神さまに従うという行動に至る話です。
とはいうものの、マタイ27章のユダの「後悔」という言葉について、クリスチャンはマタイ21章のそれとは異なり、ユダは救われていないと学んでいます。ユダの後悔は認められない!あいつは駄目だ!ということになっている。
でも、ユダの「後悔」は21章29節と32節で使われているのと同じ単語のようです。
そして、Ⅱコリント7章、後悔するのしないのという話がいっぱいでややこしいわけですが、
ヘブライ人への手紙7章21節、よいものが登場しました、旧約からの引用です。ここから大元の言葉に到達できそうです!
ヘブライ7章21節の出典はこれのようです。
主は誓い、悔いることはない。「あなたは、メルキゼデクに連なるとこしえの祭司。」
詩編110編4節
神は人ではないから、偽ることはない。人の子ではないから、悔いることはない。言ったことを、行わないことがあろうか。告げたことを、成し遂げないことがあろうか。
民数記23章19節
Strong's Hebrew 5162 נָחַם
nachamという言葉だそうです。
「悔いる」だけではなく「慰め」と訳されている箇所もあります。
イサクは、母サラの天幕に彼女を入れた。彼はリベカをめとり、妻となった彼女を愛した。こうしてイサクは、母の死後、慰めを得た。
創世記24章67節
ちなみに、このנָחַםという単語からםが取れるとノアの箱舟でおなじみの「ノア」の綴りになります。
なぜノアを登場させたのかというと、ちょっと気になることがあったからで、
主は、地上に人の悪がはびこり、その心に計ることが常に悪に傾くのを見て、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
創世記6章5,6節(聖書協会共同訳)
創世記6章6節の「悔やみ」という語もStrong's Hebrew 5162 נָחַםです。
日本語聖書を読むと、ある個所では神さまは悔いることはないと言っているのに、別の箇所では悔やんでいらっしゃる。
ちなみに、創世記6章6節の「悔やみ」の後の「心を痛められた」というところは
日本語だとこの二つの言葉はほぼ同じような意味に感じますが、ヘブライ語ではまったく別の表現で
ויתעצב אל לבו
と書いてあって、עָצַבは「嘆き悲しむ」
לֵבが「心」
で、「心を痛められた」と訳されています。
Strong's Hebrew 5162 נָחַםとは私たち日本人が思うような「後悔」という言葉なのでしょうか。