2018年10月3日水曜日

言(ことば)は神であった、ので

初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
ヨハネによる福音書1章1~5節





「ことば」というものはそれを発する人の奥深いところからくみあげられ
その人の願いのような漠然とした形のないものに音や文字といった形を与えていくものですね。

聖書(創世記)の冒頭を見ると、この世界のもろもろは神の「ことば」によって創られたことが書かれています。「混沌」である原始の世界に、神の奥深いご意志を「ことば」によって形あるものにされた、まさに「ことば」。
そう、「ことば」とはそういうものなのだ、われわれ人間に与えられているところの「ことば」もそういうものなのだという定義のようにも聞こえてくるのであります。


今日冒頭に引用した箇所でヨハネは

初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

と語り、

聖書を知るだれもが知っている通り「初めに」あったのは神であるが、「初めに言(ことば)があった」と言い、神が五感で認識できるような形を持っておられる方ではなく「ことば」なのだと言うのです。
ヨハネはトーラーと、そしてメシアとしてこられたイエスさまを思いながら、
同時に
「わたしはある」という「ことば」を発する主体の存在を思い、
その主体から発せられる「ことば」そのものは完全に主体ご自身であるということ、
そして、発せられた「ことば」がそのものとして形をとるならば、主体から発せられるのだから主体と同一であり、さらに主体の外に出たとしても「共にある」状態となる

という彼の信仰を宣言しているのですね。



さて、
同じヨハネが記録したとされるヨハネの黙示録16章にこういう箇所があります。

わたしはまた、竜の口から、獣の口から、そして、偽預言者の口から、蛙のような汚れた三つの霊が出て来るのを見た。
これはしるしを行う悪霊どもの霊であって、全世界の王たちのところへ出て行った。それは、全能者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。


ヨハネの黙示録という書物は読み解くことは難しく、注意のいる書物でありますが、今日は上に書いたような「ことば」という視点が与えられたのでその視点で16章の箇所を見ようと思います。

わたしはまた、竜の口から、獣の口から、そして、偽預言者の口から、蛙のような汚れた三つの霊が出て来るのを見た。

蛙のような汚れた三つの霊が出て来るのを見たと語るヨハネ。
興味深いことに汚れた三つの霊は「口から」出て来るというのです。
ヨハネがどういう光景を見たのかを、「光景」であっても絵として受け取ることは出来ないのですが、言葉として、解釈しうる言葉として受け取るなら、

三つの霊はまずは蛙のようであるということ。蛙とは、聖書の世界のことでありますから汚れたものの比喩ということでしょうが、蛙と言えば特徴的なのはあの鳴き声。合唱されるとなんともやかましい。


その「蛙のような霊」が
終末のある時に、
竜の口、獣の口、そして偽預言者の口から出て来るというのです。
姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴(ガラテヤ5章19節から引用)
の父であるサタン、悪魔、神を神とせず反逆する者破壊する者の口から!

これはしるしを行う悪霊どもの霊であって、全世界の王たちのところへ出て行った。それは、全能者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。



サタンの口から出て来る悪霊どもの霊。

「口から出て来るもの」



しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。 マタイ15章18、19節






「神の御言葉」によって造られたよいもの=完全なもの
それを破壊するサタン。
破壊者も「言葉」によって破壊する。
破壊者の言葉は敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ。

そして、申命記10章にはこんな御言葉があります。

あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。 あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。


この申命記の御言葉が神さまの御心であるということを私たちクリスチャンは信じているわけでありますけれども
だとすればこの御言葉に反逆するようなことをサタンは語るはずなのであります。
神を神とせず、人を偏り見、わいろを取り、孤児と寡婦の権利をないがしろにし、在留異国人を憎み排除しようとする。
そういう言葉を語る世界の王が出現する。


終末のある時、
蛙のような汚れた三つの霊が
竜の口から、獣の口から、そして、偽預言者の口から出てくる。
そして、それは
神に反逆するものの語る言葉は言葉として人間を迷わせる。
エバが蛇に惑わされた時のように
その言葉は一見するととっても麗しく見える。
しかし、その言葉のもたらすものは死!
弱いものを顧みることのない
自己中心的な欲を満足させる言葉
破壊者の言葉は世にあふれ
幼児から高齢者に至るまで
その言葉を繰り返し聞かされ、
心に植え付けられ、
心がその言葉で満たされ、
やがてはその言葉を自分の言葉として発するようになる。


そして
人は持っているその言葉で考え
持っているその言葉で判断する。










また、わたしは大きな声が神殿から出て、七人の天使にこう言うのを聞いた。「行って、七つの鉢に盛られた神の怒りを地上に注ぎなさい。」
そこで、第一の天使が出て行って、その鉢の中身を地上に注ぐと、獣の刻印を押されている人間たち、また、獣の像を礼拝する者たちに悪性のはれ物ができた。
第二の天使が、その鉢の中身を海に注ぐと、海は死人の血のようになって、その中の生き物はすべて死んでしまった。


ここに引用した黙示録16章1、2節を読むと、「言葉」そして「言(ことば)」というものの重みをいっそう感じさせられます。

第二の天使が、その鉢の中身を海に注ぐと、海は死人の血のようになって、その中の生き物はすべて死んでしまった。

と言うので、海の中の生き物は天使が注いだ何らかの物によって絶滅するわけですね。そして地上に住む人間の場合は

第一の天使が出て行って、その鉢の中身を地上に注ぐと、獣の刻印を押されている人間たち、また、獣の像を礼拝する者たちに悪性のはれ物ができた。

天使が注いだ物質によって悪性のはれ物が出来る者と出来ない者という差が生じるというのです。
なぜ、獣の刻印を押されている人間たち、また、獣の像を礼拝する者たちに悪性のはれ物が出来るのか、と考えるわけですが、
同時代に生きる人間の遺伝子や環境条件はだいたい一緒だと仮定して考えるならば、こういう違いを生じさせるためには「鴨居と入り口の二本の柱に過越の羊の血を塗れ」というのと同じようなやり方で「情報」がもたらされて選別されると考える以外に方法がないわけです。
情報(ことば)を受け、情報を信じて従うか従わないか、そういう差。


「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、
門から入る者が羊飼いである。 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。 しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」
ヨハネによる福音書10章1~5節


メシアによる「救い」が彼の言葉を信ずるか否かでもたらされたこともそうでありましたが、終末に羊飼いなる主は、どういうタイミングでいかなる方法を用いて私たちに情報を与え連れ出してくださるのでしょうか。

 


聖書を一冊を貫く思想=神の御心 をしっかり心に持った状態で、
普通にテレビニュースを見、ネットのニュースを読んでいたら
きっとなにか気付くことがあるのかもしれません。

聖書はあるし聖霊さまがともにいてくださるのですからね。
聖書をしっかり読んでいさえすれば、
絶対気づく。
言(ことば)は神なのですから。