【調べ学習】「覆う」

 カペナウムはヘブライ語で כפר נחום ‎ クファル・ナフームであり、
כפרクファルという三文字で表される言葉には「覆う」という意味があるということを知りました。そして、「覆う」ことが「なだめる」ことになるという説明をBDBで読み、興味深く思いました。

そこで今日は、日本語として「覆う」という言葉を考えるときに思い浮かぶ聖書の場面から、

その場面はヘブライ語聖書ではどのように表現されているのか調べてみることにしました。


すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。創世記3章7節


腰に巻いたとありますが覆うイメージがあったので覆ったと言っているのかな、と思いましたがここはStrong's Hebrew 2290 חֲגוֹר chagowr という単語が使われていて、「ベルト、ガードル、帯」と訳されるものでした。

主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。創世記3章21節

この箇所にはStrong's Hebrew 3847 לָבַשׁ labash または labesh という単語が使われていました。これは「服を着せる」という意味の言葉が使われています。

この単語はヨブ記7章5節では虫(うじ)が覆うという具合に 服ではないものが覆う様子にも使われていましたが、基本的には「服」を着る、着せる、まとう、ということを表すようです。

かつてキリスト集会に行っていた頃、創世記3章21節を読むときには必ず「皮」であるということを大切に考える習慣がありました。動物の犠牲があっての「皮」、そしてキリストの十字架の血潮を思い出すわけです。
今改めてヘブライ語の単語を意識しながらこの箇所を読み、気付いたのは、
神さまは一枚の皮を人間に与えて覆わせたわけではなかった、ということです。
神さまは、皮で着物を造ってアダムとエバに着せられた、つまり、皮を用いて、彼らのためにデザインし、一つの着物として仕上げて、着せてくださったのですね。

そんなことを考えていたら、新約聖書の中に書かれている言葉を思い出しました。
婚礼の礼服を着ているとか、放蕩息子が帰ってきたときに最上の着物を着せるとか、黙示録のところにある白い衣だとか、裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者はさいわい、だとか、

着物として仕上げられた、いい加減ではないきちんと作り上げられた上等なものを私たちは与えられ、それをまとう。


 セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった。創世記9章23節


裸で寝ていたノアを息子たちが着物で「覆った」あの場面です。
この場面では上の二つとはまた別の単語が使われていました。

Strong's Hebrew 3680 כָּסָה kasah です。

これは日本語では「覆う」ということになりますが、隠れるとか、秘密を隠すとかという意味で使われるようです。遊女が顔をベールで隠すとか、そういう時に使う言葉のようです。
出エジプト記にある10のわざわいのところのイナゴやカエルが地を覆う描写の時にも3680番が使われていました。
また、同じ出エジプト記において、

夕べになると、うずらが飛んできて宿営をおおった。出エジプト記16章13節

この箇所でも3680番が使われていました。