今朝起きぬけに新共同訳聖書を開いたら、いつはさんだのか忘れてしまっていた栞が、箴言18章19章のところにあって、バサッとそこが開かれました。そして、そこに「完全」という言葉のあることに気が付きました。
貧乏でも、完全な道を歩む人は 唇の曲がった愚か者よりも幸いだ。
箴言19章1節(新共同訳)
この箇所は口語訳でも聖書協会共同訳でも「完全な」とは訳されていない箇所なのですが、この箇所をヘブライ語聖書で見ると
טוב רש הולך בתמו מעקש שפתיו והוא כסיל׃
と書いてあって
まず出だしにトーブ、そして、4つめのかたまりのところにトムという語があることがわかりました。トムというのは
Strong's Hebrew 8537 תֹּם
Definitionとして completeness(完全), integrity(honesty より堅い語で誠実、正直、高潔、), also part of the high priest's breastplate(大祭司の胸当ての一部)とありました。
で、このトムという言葉は
例えば創世記20章5節や6節のあたりで「全くやましい考えなしで」とか「清い心で」というような訳語があてられているところに使われていたり、
レビ記25章29節で「その年の終わりまでは」買い戻す権利を持つという話があるのですが、そのカギカッコでくくった部分がおそらくトムを訳した語で、たしかに日本語にも「年内いっぱい」という表現がありまして、
もっとも、日本語でその言葉を使うときに「完全」というニュアンスを意識した経験はありませんでしたが、よくよく考えてみると、「いっぱい」という言葉は「あふれるギリギリ、満タン」みたいな意味で使いますから「年内いっぱい」と言っているときには無意識ではありましたけれども、「一年」というひとつのかたまりがあって、現在という位置があって、その位置から見て、一年の終わりのぎりぎりのところまでの日付までの全部、その日が来るとちょうど1年というかたまりが欠けのない満ちた一年になるという、そんなことなんですよね。
ところで、このトムという言葉が使われている箇所で「完全な」と訳されているものをを新共同訳聖書の箴言と詩編で拾っていったところ少々気になることがありました。
箴言2章7節
主は正しい人のために力を 完全な道を歩く人のために盾を備えて
箴言10章9節
完全な道を歩む人は安らかに歩む。道を曲げれば知られずには済まない。
箴言13章6節
慈善は完全な道を歩む人を守り 神に逆らうことは罪ある者を滅ぼす。
箴言19章1節
貧乏でも、完全な道を歩む人は 唇の曲がった愚か者よりも幸いだ。
箴言20章7節
主に従う人は完全な道を歩む。彼を継ぐ子らは幸い。
箴言28章6節
貧乏でも、完全な道を歩む人は 二筋の曲がった道を歩む金持ちより幸いだ。
詩編26編1節
【ダビデの詩。】主よ、あなたの裁きを望みます。わたしは完全な道を歩いてきました。主に信頼して、よろめいたことはありません。
詩編26編11節
わたしは完全な道を歩きます。わたしを憐れみ、贖ってください。
詩編101編2節
完全な道について解き明かします。いつ、あなたは わたしを訪れてくださるのでしょうか。わたしは家にあって 無垢な心をもって行き来します。
「完全」という意味のトムは「道」もしくは「行く」「歩む」とセットで登場するのです。
もっとも、箴言はそもそも「道」という言葉がたくさんありまして、新共同訳聖書の箴言を読みながら「道」という言葉をピンクの蛍光ペンでチェックしていたら非常に読みにくいピンク色の書になってしまったという経験があるのですが、
そういう「道」だらけのこの書特有の「道」は
「道」と言えば「完全な」だろう?というような枕詞のようには
何しろ「完全」という非常に重量のある言葉ですから、絶対読み流してはいけないと感じるわけです。
そして、その重量感を保ちつつ詩編でダビデが語る「完全な道」という言葉を読むと
ただならぬものをさらに感じ、
しかし、イエスさまの言葉を知っているクリスチャンなので、「あっ」と気付く。
(聖句は新共同訳から引用させていただきます)
マタイによる福音書5章48節
だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
私たちは「完全な者」にならなくてはいけないとイエスさまが言われた、ということ。
そして完全になりたいのなら
マタイによる福音書19章21節
イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
貧しい人々に施しなさい、と。
まずはこの世界で生きる間になすべきそういう行動があり、
それからイエスさまに従いなさい、とイエスさまは語られた。
「道」という言葉について語られた
イエスさまの言葉を引用して本日のまとめといたします。
マタイによる福音書7章13節
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。
マタイによる福音書7章14節
しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」マタイによる福音書10章5節
イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。マタイによる福音書15章14節
そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」ヨハネによる福音書14章6節
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。