2022年2月25日金曜日

【律法を知らなかった馬鹿な私】ネヘミヤ記8章10節を10年考え続けた話

目次
2012年10月16日 ネヘミヤ記8章
2015年8月18日 ネヘミヤ記8章「再び」
2022年2月25日 ネヘミヤ記8章10節、しつこく3回目








2012年10月16日 ネヘミヤ記8章

今朝起き抜けに昔よく歌っていた「主イエスを喜ぶことはあなたの力です」という歌が思い出されました。
これはたしかネヘミヤ記の御言葉なのです。
本棚からハンディコンコルダンス出して調べると8章10節らしいという事がわかりました。
「さらに、ネヘミヤは彼らに言った。「行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい。きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」ネヘミヤ記8章10節後半(大型聖書新改訳第3版)
…何だか…歌とちょっと違います。気になったので、昔使っていた新改訳第2版のスタンダード聖書をもってきました。(注が付いているから) 
すると欄外に
「別訳『主を喜ぶことは、あなたがたの力であるから。』」
とありました。 なるほど~。

 しかし、「別訳」って簡単に言いますが、ずいぶん違いますよねえ。 「あなたがたの力」を「主」が喜ばれるというのと 「私たち自身」が「主を喜ぶ」というのでは 喜んでいる人が変わっちゃってます。 
それで本日三冊目、新共同訳聖書を本棚からもってきました。(だんだんテーブルが混んでくる)
「主を喜ぶことはあなたがたの力です。」と書いてあります。これは別訳の方ですね。

 ついでにもう一冊。口語訳「主を喜ぶことはあなたがたの力です。」

ただ、12節を読むと、新改訳の第3版にもこう書いてあります
「こうして、民はみな、行き、食べたり飲んだり、ごちそうを贈ったりして、大いに喜んだ。これは、彼らが教えられたことを理解したからである。」
教えられたことを理解した彼らがとった行動は「大いに喜んだ」のですから、「私たちが主を喜ぶ」…のかなあ… わからないなあ。
 そうだ、英語の聖書も見てみましょう!
 まずはNIVで同じ箇所を読むと
「Do not grieve,for the joy of the Lord is your strength」
え?…なんだこれは。ちょっと待ってくださいね
文中のbe動詞isの左と右で見ましょうね
「the joy of the Lord」=「your strength」?


じゃあ、KJV
「neither be ye sorry;for the joy of the Lord is your strength」
 「主の喜び」が「あなたがたの力」? 主ご自身が喜ぶと力になる? 


よくわからないのでもう一冊出してきました。ZONDERVANのThe Amplified Bible
「and be not grieved and depressed for the joy of the Lord is your strength and stronghold」
これもまた「the joy of the Lord」=「your strength」

力にstrongholdが加えられました。これは避難場所とか最後の拠り所という意味がありますからなんとなく詩篇46篇を思い出します。 
「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」詩篇46篇 


ここでもう一度検索することにしました。
 日本のいくつかの教会の先生が書かれたものを読ませていただいたところ大体の方が「主を喜ぶこと」は「あなたがたの力です。」という訳を採用されて解説されていました。

なぜ新改訳聖書はあの訳「あなたがたの力を主が喜ばれるからだ」にこだわっているんだろう

「for the joy of the Lord is your strength」というキーワードで検索してみました。 
たくさんヒットしましたが…あまりに多すぎてどんな教会の文書なのかわかりません。
 これはどうかなあ。 文書のタイトルは
The Lord's Joy is Our Strength
ネヘミヤ記の8章10節が引用されています。「The Lord's Joy」って言っていますねえ。中学で習ったアポストロフィエスです。「主の喜び」イコール「私たちの力」。
 そしてこんな文書もありました…一応こんな解釈もあるのかということで引用しますが
「It is a promise of God that His joy will be your strength.」
これも神さまご自身の喜びが私たちの力となると言ってますよね。
 あーどうなっちゃってるんでしょうか。まったくわかりません。






2015年8月18日 ネヘミヤ記8章「再び」




 ネヘミヤ記8章「再び」ったって、前にネヘミヤ記8章について書いたのは2012年の話で
まあ、ゆっくり通読しておりますので、2015年8月にやっとのことでネヘミヤ記が再びやってきたというわけなのですが、


また今日もネヘミヤ記8章を読みまして例の箇所が登場しました。
「さらに、ネヘミヤは彼らに言った。「行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい。きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。あなたがたの力をが喜ばれるからだ。」8章10節後半
前回はこの箇所の最後の部分 「あなたがたの力をが喜ばれるからだ。」とされている新改訳聖書の翻訳と他の聖書の翻訳の違いに混乱していたわけでありますが


今朝は、前回のようにいろいろな聖書をひっくり返すことはやめ、ひたすらに新改訳聖書の8章を繰り返し読んでみました。
結果、今朝の判断としては「を喜ぶことはあなたがたの力」という前回引用した新共同訳聖書のように「感じ」ました。(まあ、そう感じてしまったとすると、新改訳の訳し方を飛び越えた読み方になってしまうのですが。また3年後には変わるかもしれない

どうして今朝はそう読んだかと言いますと、

9節を読むと、律法のことばを聞いて泣いていた民に向かってネヘミヤとエズラとレビ人たちが「悲しんではならない。泣いてはならない。」と言っているわけです。そして、10節の最後から二番目の文を見るとここでも「悲しんではならない」という言葉が繰り返されます。じゃあどうすればよいのでしょうか?…喜びなさいってことですよね。

「あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」の文末には「~からだ」という言葉が付いています。「~からだ」と言うからには、この一文によってこの文より前に書かれている何かについての理由が説明しているはずです。ではいったいどこら辺を説明しているのかなあと探したのですが、主が喜ばれる「あなたがたの力」とは…行って食べて飲んで贈って悲しまない泣かないという力でしょうか。
…「~からだ」と言っているこの一文がいったい何を説明しているのかがわからない。

また、12節を見ると、「民はみな、行き、食べたり飲んだり、ごちそうを贈ったりして、大いに喜んだ。これは、彼らが教えられたことを理解したからである。」とあるわけですが、民は食べたり飲んだりすることで喜び、ごちそうを贈ったりすることで喜んだのであって、食べて、飲んで、贈って、という行動と別に独立して大いに喜ぶという行動を取るのはちょっと不自然か…と思ったのですね。そうすると、民は諸々の行動(食べたり飲んだりetc.)にともなって楽しくなって喜んだのではないかと。




だから、8章10節でネヘミヤが言いたかったのは民はみな「喜びなさい」という事だったのではないかと思ったのです。が喜ぶのではなくて、あなたがた(私たち)が喜ぶ。のために聖別した日なのだからを喜ぶ。ご自身の素晴らしさを覚えて喜ぶ、の恵みを覚えて喜ぶ。、


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2022年2月25日 ネヘミヤ記8章10節、しつこく3回目


「さらに、ネヘミヤは彼らに言った。「行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい。きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。
新改訳聖書 ネヘミヤ記8章10節

 

彼らはさらに言った。「行ってごちそうを食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分けてあげなさい。今日は、我らの主の聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜びとすることこそ、あなたがたの力であるからだ。」
新共同訳聖書 ネヘミヤ記8章10節

あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。

なのか

主を喜びとすることこそ、あなたがたの力である。

なのか



前回がおよそ7年前、そして前々回が10年前、でついに2022年、ヘブライ語聖書を眺める段階がやってまいりました。

ויאמר להם לכו אכלו משמנים ושתו ממתקים ושלחו מנות לאין נכון לו כי קדוש היום לאדנינו ואל תעצבו כי חדות יהוה היא מעזכם׃

ヘブライ語聖書は 創世記の初め=初めの初め あたりだけしか眺めていない超初心者でありますけれども、この段階で何かわかるでしょうか。


お!カドゥーシュקדוש見つけました、そしてその単語のあとには創世記で何度も登場するヨム「日」にהのついたהיוםがありますから「聖別された日」「聖なる日」が
  קדוש היום
で、そのあとがלאדנינו「主の」だから

ということは、それよりも前はともかく(難しいのでともかくww)
10年間知りたかった箇所はそのあとの辺にあるはずです!(パズルを解くのと同じ感覚で読んでおります ワクワク!

ואל תעצבו

אלこれは、「~してはならない」と訳せる言葉

そして、この言葉の次の言葉עצבは「悲嘆にくれる」というような意味があります。
なのでאל תעצבוは「悲しんではならない」という訳になるわけですがאלの前にוヴァヴがついているので
創世記を読んでいるとずっとそうなのですが、文頭にוヴァヴがついている場合、
ヴァヴは英語で言えばandなので「それで~それで~」と途切れてはいない感じの文章にはなるのですが「気分的には切れている」のです。ヴァヴから次のヴァヴの間で一つの話は完結するシステムのような気がするのです。もちろん、次のヴァヴ以降の内容が前段との関係性はゼロであるというわけではないのですが、一つの文がヴァヴによって次の文と途切れなくつながっていく、時間には切れ目がないという感じ。

そういう仮定で読むと、「悲しんではならない」という命令(指示)はその命令(指示)よりも前の「聖別された日」「聖なる日」よりも、その「悲しんではならない」という指示の後の言葉との関係の方が強いので、
悲しんではならない → 喜ぶ
と並べられているような気がします。
何をくどくど言っているのかと言いますと、上の二つの翻訳だとどちらも「悲しんではならない」という言葉が唐突に独立しているような、読み手として、またはその場面にいた人々のうちの一人としてどうとらえればよいのかちょっとあいまいに感じるのです。

で、おそらくそのあいまいさの原因は
悲しんではならないと言った後にあるこの言葉かもしれないと思いました。
כי חדות



כי חדותのあとに神聖四文字が登場しているため

例えばイザヤ書30章15節の冒頭部分のような形ととらえると

כי כה אמר אדני יהוה
כיのあとに動詞אמרが来て、動詞のあとに主語である御方のお名前が配置されるというような読み方をすると イザヤ書のこの部分は「主なる神、イスラエルの聖なる方はこう言われる」と訳すわけですから

כי חדות

כי、喜ぶ、神さまのお名前 の順に書いてありますから
「神さまが喜ばれる」と訳したくなる気分にもなるとは思います。が、

じゃあ何を喜ぶのかということを考えると「力」なのですが

ネヘミヤ章8章10節の最後に出てくる「力」という語について調べると

מעז

これはイザヤ書17章10節などで

あなたは救いの神を忘れ去り
自分のである岩を心に留めることはなかった。
それゆえ、あなたが好みの植木を植え
そこに他国の枝を挿し

「砦」と訳されるような「力」ですから
(参考)https://biblehub.com/hebrew/4581.htm


神さまによる「力」ではあり得ても
人間のちょっとした頑張りによって出せる力であるはずはなく、
少なくとも「あなたがたの力」と訳してしまうのはちょっと無理な感じがします。
「あなたがたの軍事力」・・・無い。


ならば新共同訳のような訳が良いのかと考えもしたのですが
どうもしっくりこないのです。


なぜかというと、10節の最後のこの箇所に出てくる

יהוה היא מעזכם


この単語

היא

https://biblehub.com/hebrew/1931.htm

これが、この言葉の前に出てくる神聖四文字なる御方について強調するために用いられた代名詞なのではないかと思ったからです。


そういうことにすると、
神さま(神聖四文字なるお方)היא「ご自身が」מעזכם力であると最後の部分で述べているのではないかと。

で、そう考えると、


「悲しみ嘆いてはいけない。

(上等な肉を食べ甘いぶどう酒を飲み、聖なる日をみんなで)さあ喜ぼう。

神さま(神聖四文字なるお方)ご自身がわれわれの力(砦)なのだから。」


と読めるような気がします。


あ、今思い出したことですが

ネヘミヤ記8章10節のところ、これって仮庵の祭りのお話でしたよね?


あ~~~!!!これはもしかして!!!

仮庵の祭りに関する教えを引用してみますね。


最初の日に、飾りにする木の実、なつめやしの葉、茂った枝と川沿いのポプラの枝を取りそろえて、七日間、あなたがたの神、主の前で喜び祝いなさい。
年に七日間、あなたがたはこれを主の祭りとして喜び祝いなさい。第七の月にこれを祝うことは、代々にわたって守るべきとこしえの掟である。
レビ記23章40,41節(聖書協会共同訳)

「主の前で」喜んで祝うわけですね!
自分自身が楽しくてうれしくて喜ぶ。

あなたがたの喜びの日、定められた祝いの時、毎月一日には、焼き尽くすいけにえや会食のいけにえを献げ、ラッパを吹き鳴らしなさい。そうすれば、あなたがたは神の前に覚えられる。私は主、あなたがたの神である。
民数記10章10節(聖書協会共同訳)

祭りの日、喜びの日です!

麦打ち場と搾り場からの収穫が済んだなら、七日間、仮庵祭を祝いなさい。
息子や娘、男女の奴隷、町の中にいるレビ人や寄留者、孤児、寡婦と共に、この祭りの時を楽しみなさい。
七日間、主が選ぶ場所で、あなたの神、主のために祭りを祝いなさい。あなたの神、主が、あなたの収穫とあなたの手の業すべてを祝福されるのだから、あなたは心から喜びなさい。
申命記16章13~15節(聖書協会共同訳)

楽しむ!
主が祝福してくださったことを覚えて喜ぶ!




そして結論


ネヘミヤ記8章10節についていろいろな翻訳聖書やそのほかあれこれ読んで以下の3パターンあり、どれなのか、と悩んだ10年前。


パターン1 あなたがたの力を主が喜ばれる

パターン2 主を喜ぶことはあなたがたの力

パターン3 主の喜びはあなたがたの力




私は本当に愚かでした。悩む必要なんかなかったのです。ネヘミヤ記のあの箇所はいったいどんな箇所であったのか、と考えればヘブライ語を読めなかったとしても上の3つのパターンのどれでもないことは明白だったわけです。


明白も明白、

神さまの言葉を読んで仮庵の祭りをやろうとしている人たちは
神さまの言葉を引用しているに決まってますよねえ。



つまり、なんのことはない、悩むこともない、あそこで語られていることは「悲しまないで喜びなさい」ということに過ぎない。なぜなら律法にそう書いてあるからそうせよと言ったというだけの話です。だからこそ、そのあとのところにある通り、人々はそう言われたことを理解して喜んでいたわけです。


こんな簡単な話に気付けなかったのは、

旧約聖書を読まなすぎ!

だからです!


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2022年2月22日火曜日

創世記9章6節דם

また、私はあなたがたの命である血が流された場合、その血の償いを求める。あらゆる獣に償いを求める。人に、その兄弟に、命の償いを求める。
人の血を流す者は
人によってその血を流される。
神は人を神のかたちに造られたからである。
創世記9章5、6節(聖書協会共同訳)

 

שפך דם האדם באדם דמו ישפך כי בצלם אלהים עשה את האדם׃

一時間くらい6節を眺め続けておりましたが
דםという二文字が心をとらえました。

דםはblood血液です。なぜדםがblood血液なのだろう。
「人」という意味のアダムאדםは土という意味のヘブライ語に由来しているはずなのだけれども、דםという二文字はアダムにも土にも含まれているわけです。
דםとはなんだ?

 

ד daletはウィキペディアによれば「扉」という意味のある文字です。

だとすると、扉の向こうにם mem=「水」

 

扉の向こうに水がある・・・とすると、水は外には出ない。つまり、中に水があるということでしょうか?そうか、血液は身体の中に入っている水だからそうなるのか。(個人の見解です)

 

そういう観点でאדםという語を見ると、
確かに土も水を保っていますね。砂ではなく土だから。
あ、新約のたとえ話を思い出しました。よい土にまかれた種はたくさん実を結ぶ。

אという「神さまマーク」がついている良いもので、中に水がはいっている「土と人間」。
中の水は人間であれば「血液」だということか。(勝手に納得=個人の見解ですw)

ところで以前、BIBLE HUBでStrong's Exhaustive Concordanceのヘブライ語を1番から眺めていた時に気付いたことですが、1番はאָבでabと読み、意味はfatherお父さんなのですね。
で、そこにדという文字が付いたאָבַדという単語が6番にありましてabadと読むそうですが、たった一文字くっついただけで恐ろしい意味になってしまうのです。
Strong's ConcordanceのDefinitionでは to perish滅びる!

NAS Exhaustive Concordanceではannihilate(絶滅させる)、destroy(破壊する)、utterly destroy(完全に破壊する)

ちなみに、ヨハネの黙示録9章11節のアバドンは

אֲבַדּוֹן abaddonです。

ばったは、底なしの淵の天使を王として戴いている。その名は、ヘブライ語でアバドンと言い、ギリシア語ではアポリオンと言う。
ヨハネの黙示録9章11節(聖書協会共同訳)




そういえば黙示録でヨハネが言っていたラオデキア教会の話。

 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。
ヨハネの黙示録3章20節(口語訳)

דという文字が扉であるとすると、אָבabの向こうに扉があるということです。אָבが締め出されている状態。

黙示録3章20節の光景ではありませんか。

昔、この黙示録3章20節のみことばを未信者の方々へのメッセージのために引用していた方がいたことをおぼえておりますが、
ラオデキア教会は教会ですから信者について書かれているのです。信者が神さまを扉の外に閉め出しているというお話です。

 


 

 

さて、もう一度創世記9章6節

 

人の血を流す者は

人によってその血を流される。

神は人を神のかたちに造られたからである。

 

 

 

 直接手を下さなかったとしても、責任は問われると思います。

昨今のアレ。

アレのことを書いて引越しを余儀なくされましたからアレと書きますが

なんと罪深いことでしょうか!

2022年2月12日土曜日

【調べ学習】カデシュ・バルネアについて

 昨日の「カデシュ」に引き続き、今日はカデシュ・バルネアについて調べました。

「カデシュ」と「カデシュ・バルネア」はヨシュア記の14章6、7節を見るとこう書いてあるので(聖書協会共同訳聖書から引用します)

 

ギルガルのヨシュアのもとにユダの一族が進み出た。ケナズ人であるエフネの子カレブがヨシュアに言った。「私とあなたのことについて、主がカデシュ・バルネアで神の人モーセに告げられた言葉を、あなたはご存じのはずです。主の僕モーセが、この地を偵察させるために私をカデシュ・バルネアから遣わしたとき、私は四十歳でした。私は思ったとおりに報告しました。

 

民数記13章のカナンの偵察の箇所と比較して考えれば「カデシュ」と「カデシュ・バルネア」が同一の場所であることが分かります。

 
ならばどうして同一の場所について「カデシュ」と「カデシュ・バルネア」という呼び方があるのか、
市町村合併とかをやって名前が変わったというわけではないはずでそのあたりのことを調べました。
 
まずは、「カデシュ・バルネア」という地名が聖書のどこに登場するのか、聖書協会の聖書本文検索とBIBLE HUBのコンコルダンスを使って調べました。
 
聖書協会の本文検索でカデシュ・バルネアをキーワードにして検索すると
民数記(2回)、申命記(4回)、ヨシュア記(4回)の合計10回登場しているということが分かります。
以下聖書協会共同訳聖書より引用
 
 
民数記32章8節
あなたがたの父たちも、私がカデシュ・バルネアから彼らを遣わしてその地を偵察させたとき、同じようなことをした。
民数記34章4節
 
そこからアクラビムの坂の南を回り、ツィンを経て、カデシュ・バルネアの南に至ってその極限となる。そこからハツァル・アダルに進み、アツモンを通る。
 
民数記には「カデシュ・バルネア」ではない「カデシュ」という言葉が8回登場していることが昨日の調べ学習で分かりました。
そして、バルネアのついていない「カデシュ」という言葉が登場するのは13章から33章まででした。
また、33章は「旅のまとめ」のような部分であるということを考え合わせると、
民数記において「カデシュ」は前の方に登場し、「カデシュ・バルネア」は後ろの方に登場するという住み分けのようなものがあることに気付きます。
 
次に申命記から引用します。
 
申命記1章2節
ホレブから、セイルの山の道を通り、カデシュ・バルネアに至るには十一日を要した。
申命記1章19節
私たちの神、主が私たちに命じたように、私たちはホレブを出発し、あなたがたが見たあの大きな恐ろしい荒れ野をすべて通り、アモリ人の山地への道を経て、カデシュ・バルネアまで来た。
申命記2章14節
私たちがカデシュ・バルネアを出発してから、ゼレド川を渡るまでの歳月は三十八年であった。その間に、主が彼らに誓われたとおり、あの世代の戦士はすべて陣営の中からいなくなった。
申命記9章23節
主があなたがたをカデシュ・バルネアから遣わし、「上って行って、私があなたがたに与える地を占領しなさい」と言われたときも、あなたがたの神、主の命令に逆らい、主に信頼せず、あなたがたはその声に耳を傾けなかった。
 
 
申命記においてバルネアのつかない「カデシュ」が登場するのは二箇所で、
1章46節「こうして、あなたがたがカデシュにとどまった日々は長期に及んだ。」と、
32章51節「あなたがたがツィンの荒れ野にあるカデシュのメリバの水のほとりで私に背き、イスラエルの人々の間で私を聖としなかったからである。」です。

申命記で「カデシュ・バルネア」が使われているところは、出エジプト後の出来事についての回想の中で、
出発地点だったり到達地点だったり、あれもここだったそれもここだったと、
いずれにしてもこの場所の名は絶対に忘れてはいけないのだ、という主張を感じるような大切な地名であるということが感じられます。
それに対し、バルネアが含まれない「カデシュ」が用いられている2か所については、
まず1章46節は「こうして」ということで前段階の出来事を受けて「そういうことになってしまった理由」を説明している文であり、
32章51節の方も、「私を聖としなかったからである。」と書いてあり
この二節に共通するのは「こうなってしまった理由について」という判決の理由説明のようだ、ということです。
 
 
次にヨシュア記から引用します。
ヨシュア記にはバルネアが含まれない「カデシュ」は登場せず、カデシュ・バルネアだけが登場します。
 
 
 
ヨシュア記10章41節
ヨシュアは、カデシュ・バルネアからガザまで、ゴシェンの全土をギブオンに至るまで討ち取った。
ヨシュア記14章6節
ギルガルのヨシュアのもとにユダの一族が進み出た。ケナズ人であるエフネの子カレブがヨシュアに言った。「私とあなたのことについて、主がカデシュ・バルネアで神の人モーセに告げられた言葉を、あなたはご存じのはずです。
ヨシュア記14章7節
主の僕モーセが、この地を偵察させるために私をカデシュ・バルネアから遣わしたとき、私は四十歳でした。私は思ったとおりに報告しました。
ヨシュア記 15章3節
 
アクラビムの上り坂の南側へ出て、ツィンを通り、カデシュ・バルネアの南側へ上り、ヘツロンを通り、アダルへ上って、カルカへ回り、
 
 
 
 
 
最後に、BIBLE HUBを用いて、カデシュ・バルネアについて調べます。
 
カデシュ・バルネアはStrong's Hebrew 6947です。
https://biblehub.com/hebrew/6947.htm
קָדֵשׁ בַּרְנֵעַ
 
昨日書きましたように「カデシュ」はクフ、ダレット、シンの三文字です。右から3文字目まででカデシュです。קָדֵשׁ
そしてそのあとがバルネア。右から四文字目から最後までの四文字ベート、レーシュ、ヌン、アインでバルネアです。בַּרְנֵעַ
 
いつものように超絶便利なBIBLE HUB
Strong's Exhaustive Concordanceのところを見るとこんな風に書いてあります。
 
Kadesh-barnea
From the same as Qadesh and an otherwise unused word (apparently compounded of a correspondent to bar and a derivative of nuwa') meaning desert of a fugitive; Kadesh of (the) Wilderness of Wandering; Kadesh-Barnea, a place in the Desert -- Kadesh-barnea.
 
 
バルネアという言葉はバルと言うヘブライ語とヌワというヘブライ語を合わせた単語で、
バルは
Strong's Hebrew 1251בַּר
聖書中ではダニエル書2:38、4:12、15、21、23、25、32に合計8回登場する英語で言うところのfield、日本語の聖書では「野」と訳されている語のようです。
 
でヌワは、
Strong's Hebrew 5128 נוּעַ
これはちょうど民数記32章13節のところに使われている単語でもあり、
民数記32章13節ではוַיְנִעֵם֙
という形で登場するわけですが
主はこうしてイスラエルに対して怒りを燃やし、四十年にわたって荒れ野をさまよわせた。こうして主の目に悪とされることを行った世代の者は皆、滅び去った。」
さまようという意味があるようです。
 
というわけで、バルネアとは野をさまようこと
 
 
なので、
 
上の方に書いたような
民数記において「カデシュ」は前の方に登場し、「カデシュ・バルネア」は後ろの方に登場するというのは当然のことですね。
 
カデシュもカデシュ・バルネアも緯度経度は同じでも、そういう違いがあるのですね。

2022年2月11日金曜日

【調べ学習】カデシュ(地名)について

 今日は、「メリバの水」に登場したカデシュという地名が登場する聖書の箇所について調べてみました。

まずは日本聖書協会https://www.bible.or.jp/の「聖書本文検索」で、カデシュというキーワードで検索しました。(カデシュという語で検索すると「カデシュ・バルネア」も含まれてヒットしますが、今日はそれ以外の「カデシュ」についてピックアップします)

聖書協会共同訳には6つの書に含まれるという検索結果が出ます。カッコ内は数。
創世記(3)、民数記(8)、申命記(2)、士師記(2)、
詩編(1)、エゼキエル書(2)、

次に新共同訳で検索をかけると、サムエル記下があり7つの書に含まれているという検索結果が出ます。
創世記(3)、民数記(8)、申命記(2)、士師記(2)、
サムエル記下(1)、詩編(1)、エゼキエル書(2)

 

サムエル記下24章6節(新共同訳)
ギレアドに入って、ヘト人の地カデシュに至り、ダン・ヤアンからシドンに回った。

 

 

 

サムエル記下24章6節(聖書協会共同訳)
それから彼らはギルアドに入り、タフティム・ホドシの地に行き、ダン・ヤアンを経てシドンに回った。

 

 

BIBLE HUBでこの箇所をヘブライ語聖書を見ると 
ויבאו הגלעדה ואל ארץ תחתים חדשי ויבאו דנה יען וסביב אל צידון׃
となっていてカデシュはなく、聖書協会共同訳でタフティム「ホドシ」とカタカナで表記されている部分ホドシChodshiを当時の解釈でヘト人の地「カデシュ」と読んだのでしょう。
ちなみに聖書協会共同訳でいうところのタフティム・ホドシは Strong's Hebrew8483. Tachtim Chodshiで、コンコルダンスによれば聖書にはたった一度しか登場しない地名であるようです。

 

次にBIBLE HUBで調べました。
6946. Qadesh קָדֵשׁ
https://biblehub.com/hebrew/6946.htm

Englishman's Concordanceによると聖書には地名としてのこの語קָדֵשׁが18回登場ということで、聖書協会共同訳の回数と一致しています。(そりゃそうだw)

 

 

聖書協会共同訳聖書から該当箇所をひろって引用します。

創世記14章7節

 

 

彼らはそこから反転し、エン・ミシュパト、すなわちカデシュに来て、アマレク人の領土をすべて制圧し、ハツェツォン・タマルに住むアモリ人をも攻撃した。

 

この箇所からわかることはカデシュはエン・ミシュパト עֵ֤ין מִשְׁפָּט֙であるということです。
エンはעֵין 泉のことで、ミシュパトはמִשְׁפָּט 裁きのことです。なので、裁きの泉ということですね。

ちなみに、この箇所から次の16章に行くまでの間にある15章は神さまがアブラムと契約を結ばれる箇所です。

そして次にカデシュが現れるのは

創世記16章14節

 

そこでその井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれるようになった。それはカデシュとベレドの間にある。

イシュマエルについて主のみ使いがハガルに語りかけた場面ですね。

 

創世記20章1節

 

アブラハムはそこからネゲブの地に移って行き、カデシュとシュルの間に住んだ。ゲラルに滞在していたとき、



これはアブラハムがサラのことを妹だと言っていたためにアビメレクがサラを召しいれてしまい、そのことについて神さまがアビメレクの夢の中に現れて語られた、あのあたりです。

 

 

続いて民数記です。

民数記13章26節

 

パランの荒れ野のカデシュにいたモーセとアロン、およびイスラエル人の全会衆のもとに帰って来た。彼らは二人と全会衆に報告し、その地の果実を見せ、

 

この箇所は、各部族から各1人計12人がカナンの地に偵察に出かけたあたりのことですね。

で、次はメリバの水のあたりの箇所です。

民数記20章1節

 

イスラエル人の全会衆は、第一の月にツィンの荒れ野に入った。そして、民はカデシュにとどまった。ミリアムはそこで死に、その地に葬られた。

 

民数記20章14節

 

モーセはカデシュからエドムの王に使者を遣わした。「あなたの兄弟であるイスラエルはこう申しております。あなたは、私たちの上に降りかかった困難をすべてご存じでしょう。

 

民数記20章16節

 

私たちが主に叫び求めると、主は私たちの声を聞かれて御使いを遣わし、エジプトから導き出してくださいました。今、私たちは、あなたの領土の境に近いカデシュの町におります。

 

民数記20章22節

 

イスラエル人の全会衆はカデシュを旅立って、ホル山に着いた。

 

 

そして、次の27章の箇所は神さまがモーセの後継者として「ヨシュア」を選ばれた箇所です。

民数記27章14節

 

 

ツィンの荒れ野でこの会衆が争ったとき、あなたがたは私の命令に逆らい、あの水によって彼らの目の前で私を聖としなかったからだ。」これはツィンの荒れ野にあるカデシュのメリバの水のことである。

 

 

33章の二つの箇所は、主の御言葉に従ってモーセが出エジプト後の旅程を書き記したものです。

民数記33章36節

 

エツヨン・ゲベルを出発して、ツィンの荒れ野、すなわちカデシュに宿営した。

 

民数記33章37節

 

カデシュを出発して、エドムの地の端にあるホル山に宿営した。

 

続いて申命記。

 

申命記1章46節

 

 

こうして、あなたがたがカデシュにとどまった日々は長期に及んだ。

 

申命記32章51節

 

あなたがたがツィンの荒れ野にあるカデシュのメリバの水のほとりで私に背き、イスラエルの人々の間で私を聖としなかったからである。

 

 

そして士師記。

士師記11章16節

 

 

イスラエルはエジプトから上って来たとき、荒れ野を通って葦の海まで行き、カデシュにやって来た。

 

士師記11章17節

 

イスラエルはエドムの王に使者を送り、『あなたの地を通りたいのです』と頼んだが、エドムの王は聞き入れなかった。また、モアブの王にも使者を送ったが、彼も同意しなかったので、イスラエルはカデシュにとどまった。

 

 

 

 

さらに詩編

詩編29章8節

 

 

主の声は荒れ野をもだえさせ 主はカデシュの荒れ野をもだえさせる。

 

 

 

 

最後はエゼキエル書です。

 

エゼキエル書47章19節

 

 

南の端は、南に向かってタマルからカデシュのメリバの水まで、大海に注ぐ川に至る。これが南方、南の端である。

 

エゼキエル書48章28節

 

ガド族の境界に沿って、南側は南方に延びている。境界はタマルからカデシュのメリバの水を経て、さらに大海に向かう川に至る。

 

 

 

と、ここまで書いた後で、もう一つの「カデシュ」について書いておかねばなりません。

自分としてはカデシュは6946. Qadesh קָדֵשׁ https://biblehub.com/hebrew/6946.htm "sacred", a place in the desertということで良いイメージだったのですが、まったく同じ綴りと発音である「もう一つのカデシュ」がヘブライ語にはあるのだということを知りました。
6945. qadesh קָדֵשׁ https://biblehub.com/hebrew/6945.htm
これはa temple prostitute 神殿男娼

クフ、ダレット、シンの三文字で書き表されるヘブライ語の単語がStrong'sでは6942からスタートして

6942. qadash to be set apart or consecrated
6943. Qedesh "sanctuary", the name of several places in Isr
6944. qodesh apartness, sacredness
6945. qadesh a temple prostitute(=male、女性の方は6948. qedeshah)
6946. Qadesh  "sacred", a place in the desert
 

 

申命記23章18節

 

イスラエルの女は誰も、神殿娼婦になってはならない。またイスラエルの男は誰も、神殿男娼になってはならない。

 

 

なぜ、クフ、ダレット、シンの三文字で書き表されるヘブライ語で神殿男娼を表すようになったのか
この申命記の御言葉を読めば、また、当時の状況を察すれば、何となくわかるような気はしますが、そこに限ったことではない現代社会における問題についても
クフ、ダレット、シンの三文字が何かを語っているように見える・・・
 
とか思うのは
いつものように
・・・個人の感想です。

 

そういえば・・・

大淫婦バビロンって、淫婦。カデシュ?

 

バビロンってヘブライ語ではבָּבֶל

894. Babelですからバベルの塔のバベルと一緒です。

 

ヨハネは大淫婦バビロンに何をイメージしていたのでしょうか。

「大バビロン、淫らな女や地上の忌まわしい者たちの母」

 

 

 

2022年2月8日火曜日

闇夜から朝までの間

ドマについての託宣。セイルから私を呼ぶ者がいる。「見張りの人よ、今は夜の何時か。見張りの人よ、今は夜の何時か。」
見張りは言った。「朝は来る、だが、まだ夜だ。尋ねたければ尋ねよ。もう一度来るがよい。」
イザヤ書21章11、12節(聖書協会共同訳)

 

2020年の8月に「闇」という記事を書きましたが、

2022年が明けた今もまだ、私たちは暗闇のような世界におります。
今日、群馬の空がどんなに青かろうが、
猛烈に吹き付けるからっ風に苛立ちながら、下を向き歯を食いしばって
継ぎ目だらけのアスファルトを見つめて歩く。
右から左からごうごうと吹き荒れる風の音。
そしてその隙間から聞こえてくる救急車の音。
闇の中、わけがわからなくなってしまった世の中にあふれる
敵意、憤り、ねたみ、
そして責任のある立場の人たちの行いとはとても思えない
不品行、不正。
世界中混乱の上に混乱。
なにがなにやら
わけが分からない!

 

昨日、三日間の暗闇について考えましたが、

世を覆いつくす「暗闇」がどんなに長かろうとどんなに暗かろうと
光のある所で暮らしているはずの私たちには忘れてはいけないことがあります。
一つめは、その暗闇を「許可した」のは天の父なる神さまである、ということ。
二つめは、インマヌエルであるということ。
そして三つめは、主の造られたこの地球で暮らしているものであれば全員が分かっている自然が示すTorahトーラー、天地が造られてから一度も変更されることのないルール
夕になり、夜が更けたあとには、必ず朝が来る、ということ。

 

聖書には暗い夜から夜が明ける頃までに起こったエピソードがいろいろ書かれています。

創世記32章では何者かが「夜明けまで」ヤコブと格闘しています。
そして、マルコによる福音書6章ではイエスさまが「夜明け頃」湖の上を歩いて弟子たちのところへ行かれます。
また、ヨハネによる福音書21章では「夜が明けた頃」にイエスさまが岸に立っておられるのです。

(それぞれのストーリーはよく知られたものですが、もう一度ぜひお読みください!)

 

 

詩編139編を新共同訳で読むと、11節にこんな御言葉があります。

「闇の中でも主はわたしを見ておられる。」

当然のことながらこれは、闇で苦しめてやろう、あなたが躓き倒れるのを見てやろうという話ではありません。

詩編139編でダビデは、神さまについてこんなふうに証しし、そういう流れの中で「闇の中でも主は…」と語っているのです。

主よ、あなたはわたしを究め
わたしを知っておられる。
座るのも立つのも知り
遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
歩くのも伏すのも見分け
わたしの道にことごとく通じておられる。
わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに
主よ、あなたはすべてを知っておられる。
前からも後ろからもわたしを囲み
御手をわたしの上に置いていてくださる。
その驚くべき知識はわたしを超え
あまりにも高くて到達できない。
どこに行けば
あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。
天に登ろうとも、あなたはそこにいまし
陰府に身を横たえようとも
見よ、あなたはそこにいます。(1~8節 新共同訳)

 

先日、「死の陰」という記事に書きましたが、

「神さまの支配下にあり必要な通り道である死の陰。次から次へとひどい患難があるときにもそこに羊飼いなる主がいらっしゃる。巨大な山の間にある深い谷を歩むようなことはあったとしても羊飼いは意味もなく羊たちをそんな谷に導いたりしません。その谷を過ぎたところに、きっと羊が安息できる場所がある。」

インマヌエルです。主は私たちとともにいてくださるのです。どんなときにも。

 

 

 

 

しかし、おそらく、
今、
世界中の兄弟姉妹が長い長い暗闇の中で望みを失い、
ある方々は信仰の危機ともいえる状況になっているそんな気がします。
ちょうどあの時のペテロのように。

 

ペテロは外で中庭にすわっていた。するとひとりの女中が彼のところにきて、
「あなたもあのガリラヤ人イエスと一緒だった」と言った。
するとペテロは、みんなの前でそれを打ち消して言った、
「あなたが何を言っているのか、わからない」。
そう言って入口の方に出て行くと、ほかの女中が彼を見て、そこにいる人々にむかって、
「この人はナザレ人イエスと一緒だった」と言った。
そこで彼は再びそれを打ち消して、
「そんな人は知らない」と誓って言った。
しばらくして、そこに立っていた人々が近寄ってきて、ペテロに言った、
「確かにあなたも彼らの仲間だ。言葉づかいであなたのことがわかる」。
彼は「その人のことは何も知らない」と言って、激しく誓いはじめた。
するとすぐ鶏が鳴いた。
マタイによる福音書26章69~74節(口語訳)

 

これも夜の間から鶏が鳴くころまでに起こった出来事です。
この時、おそらくペテロは暗闇の中でたった一人、どうしたらよいかわからなかったのです。きっと頭の中は大混乱です。
人間はひどく動揺し、混乱してくると、どんな人であれ信仰よりも恐怖が勝ち、恐怖を覚えると逃げたい隠れたい衝動に駆られるものです。

そして、ペテロはイエスさまと一緒にいたことをとにかく否定します。
ペテロがこれまで費やしてきたすべての時間、歩んできた人生のすべてを否定するのです!

おそらく彼は主を強く否定する言葉を吐いて、一瞬の解放感と一瞬の自由を感じたはずです。
自戒の意味も込めて申し上げますが、長く続く暗闇と混乱、そして圧政の中で、羊たちはこの時のペテロのようになってしまう可能性があります。
エデンの園で出会ったあの誘惑者の高笑いが聞こえてくるようです!😠

しかし、イエスさまは愛する者たちのために適切な先手を打っておられました。鶏が鳴く前に3度主との関係を否定することさえあらかじめ見通すことができた「全知」というイエスさまご自身の神性を、ペテロに思い出させることに成功したのです。

ペテロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。
マタイによる福音書26章75節

 

 

暗闇の中にある時私たちが成すべきことは、平時に得ていたはずのインマヌエルの喜びを思い出すことです。
インマヌエルであるなら私たちが個人的に強い敵意を抱く必要はありません。
インマヌエルであれば憤りという感情の高まりも支配下に置くことができます。
インマヌエルであるなら、私たちはそれ以上の何を求めてねたみに駆られるでしょうか!
 

見るべきは「神」
人ではありません。
聴くべきは「神の言葉」
変わることのない主の御言葉をしっかり握りしめて手放してはいけない。
 
 
私はすぐに来る。あなたの冠を誰にも奪われないように、持っているものを固く守りなさい。
ヨハネの黙示録3章11節
奪おうとする者がいるのです。
奪いたくて仕方がない者がいるのです。

私たちは、エデンの園にいたあの誘惑者の言葉を再び聞き入れるようなことがあってはいけません。
神の言葉を超える最上級のルールがあるかのように語る者の言葉を聴いてはいけません!

どんなに権力があり、どんなに高学歴で、どんなに博識で、どんなに人気のある人が
あなたに向かって好ましい優しい言葉をかけてくれたとしても
判断停止、思考停止して(眠った状態で)その言葉に身をゆだねてはいけません!
 
 
 
 
 
もうすぐ
夜明けがやってきます
 
いや、
たとえ夜明けにならなくとも、
私たちの上にはいつも空と雲があるのです。

2022年2月7日月曜日

三日間の暗闇

主はモーセに言われた。「天に向かって手を伸ばしなさい。すると闇がエジプトの地に臨み、誰もが手探りで闇を感じるようになる。」
モーセが天に向かって手を伸ばすと、暗闇がエジプト全土に三日間臨んだ。
三日間、人は互いに見ることも、自分の場所から立ち上がることもできなかった。しかし、イスラエルの人々が住む所には光があった。
出エジプト記10章21~23節(聖書協会共同訳)

 

 

この箇所を読むたびに思うのは、
エジプトは闇、イスラエルには光、というわかりやすい二極の対比のゆえ、「イスラエル」には光なのだから、わざわいの時には間違いなくそちら側に立っているべきということであったり、キリスト教徒ならば光の中に置かれる、という確認の思いだったりするわけですが、

今朝は何となく、「でも、ちょっと待ってよ、三日間も暗闇だったとしたら・・・」

なんとなく、エジプト人側に立って考えたくなりました。

 

ご存じのように三という数字は聖書の中では特別な数字であるとされています。
そして、この三日間というものが私たちの生活の中にある三日間と完全に同質のものであるのかは、まあ教会によって解釈はいろいろありましょうが、場合によって異なるような気が「私」はしております、例えばサムエル記下24章13節の「疫病が三日間」という話は約24時間×3だったらうらやましい限り(;´Д`A ```で本当???とか思ってしまいますし、エズラ記8章32節のような「私たちはエルサレムに到着しそこに三日間とどまった」にある三日間が千年は一日のよう~を適用して3000年・・・などということがあるはずはない。
そういう感覚でこの十の災いの箇所を読んだとき、
まあ、私たちの知る約24時間×3もしくはそれに近いような時の長さで、人間の感覚として「もう十分、もう嫌だ」となるような、「完全」というようなニュアンスを表現する日数なんだろうか、と思いました。

で、自分がもしもエジプト側の人だったとしたら、

どうでしょうかみなさん、エジプトの人々は三日間何もせずにぼーっとしているでしょうか?

24時間×3であろうが、完全数であろうが、たぶん、まず暗闇がスタートした一日目、

「何が起こったんだ??」と驚いて、現状分析を開始しそうな気がします。

真っ暗なのに分析できるのか、と思われるかもしれませんが、目の不自由な方にとってはいつものことですからね、いつものように動くことができるわけですから人々の大騒ぎを察して光のあるらしい所とない所の違いについて分析できたのではないでしょうか。

そうなれば、相変わらず暗闇の続く二日目、彼らの分析をもとに、晴眼者たちも、少なくとも個人的には考えることができたでしょう。

 

そして迎える三日目、まだまだ暗闇なのですから、そろそろ行動に移す頃でしょう。
そして大雑把に言えば二種類の人たちに分かれるような気がします。

恐怖心があったり頑なな何かがあってそこから動かない人、
目の不自由な方に導いてもらってとにかく光のある所まで移動しようとする人。

王さまはともかく、
それ以外の人々は各々の決断で動く三日目ではないでしょうか。

 

ここまで書いてふとサウロのことを思い出しました。

 

サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。
使徒言行録9章9節(聖書協会共同訳)

 

主の弟子たちを迫害し続けていたサウロは脅迫のためにダマスコに乗り込む途中、
イエスさまのみ声を聴き、直後に視力を失いそれが三日間続いたという話。サウロにとっての三日間の暗闇。
サウロの視力はそのダマスコにいた主の弟子のアナニアを主ご自身がお用いになって回復させられるという劇的な、そしてこれも何か象徴的なものを感じさせるストーリーですが、

出エジプト記においても使徒言行録においても、
そこにおられるのは同じ神さまですからね、

何となくそんな行間(暗闇の中にいたエジプト人たちのそれぞれの三日間)があったのではないか、と想像してしまいました。

 

三日目に誰がどう行動するのか、

 

そしてこの後いよいよ最後のわざわいに突入していくのです。

死の陰

 詩編23編4節の中にある表現が気になりました。

 

たとえ死の陰の谷を歩むとも
私は災いを恐れない。
あなたは私と共におられ
あなたの鞭と杖が私を慰める。(聖書協会共同訳)




「死の陰の谷」とは何でしょうか?

 

BIBLE HUBでヘブライ語聖書を見てみます。
https://biblehub.com/text/psalms/23-4.htm

גם כי אלך בגיא צלמות

谷はגיא
そしてצלמות tsalmavethが死の陰と訳されています。

צלמותは、tsel と mavethが合わさってできた言葉で、צֵל tselが陰、מָוֶת mavethが死という意味があります。

 

ここで、tselの「訳」ではなく、構成しているヘブライ文字を見てみます。

צל

צという文字を見てすぐに思い出したのはצֶדֶק tsedeq という言葉です。このツェデクは日本語の聖書にあるメルキゼデクの「ゼデク」の部分で、「義」です。

צは釣り針の形からできた文字だと言われていますが、この文字はツェデクの意味を踏まえて「曲がったヴァヴ」と「ヌン」の合成された形、

つまり、ヴァヴとは神聖四文字にも含まれる文字でありますから、神さまご自身が曲がられる=神さまご自身のご謙遜=天から下られたイエスさま をイメージさせる文字

であり、

ヌンとはもともとは魚の形からできていますから、詩編72編17節に出てくるנוּןのような、王の名が「とこしえに続く」というようなイメージのある文字です。

 

その二つが合わさったようなイメージがצという文字にあるとすると、

そのあとに続くלが何であるのか。

לは杖や突き棒の形からできた文字のようです。そして、ל(ラメド)という言葉に近い

לָמַד lamadという言葉はteachつまり教えると訳されています。

 

 

「死の陰」
 
言葉はとても暗く神さまとはなんのかかわりもないような暗さや恐怖を感じますけれど、しかしそれはまちがいなく神さまの支配下にあり必要な通り道である死の陰。
 
 
次から次へとひどい患難があるときにもそこに羊飼いなる主がいらっしゃる。
巨大な山の間にある深い谷を歩むようなことはあったとしても
羊飼いは意味もなく羊たちをそんな谷に導いたりしません。
その谷を過ぎたところに、きっと羊が安息できる場所がある。
 
 
義の杖で羊と山羊を分ける時、そして闇に紛れている悪者に光が当たり悪事を暴きだすその時、
静かだった水面に大きな波は立つものですが
 
たとえそれが、羊にとっては大変過酷であって、とんでもない苦しみをともなうことだったとしても、
羊はそこに居続けてはいけなかった!
 
羊飼いは、パッと見では良かったかも知れないあなたが暮らしていた楽しい生活を壊し、あなたをそこから連れ出します、本当の自由と平安のある約束の地に移動するために。
 
のどは乾き、エジプトで食べていたようなごちそうが無くなるように見えるかもしれない。
そして、その過酷さに耐えられず不信感を持ってしまうかもしれない。
 
しかしだからこそ主のものである私たちは何度も何度も出エジプト記を読み、
毎年過ぎ越しの祭りを祝い、仮庵の祭りを祝うわけです。
永遠の視点を持って。
 
 
そしていま私たちにはモーセはいませんが、
真のトーラーであられる主ご自身が私たちと共におられる。
 
だから
 
たとえ死の陰の谷を歩むとも
私は災いを恐れない。
あなたは私と共におられ
あなたの鞭と杖が私を慰める。
 
 

2022年2月5日土曜日

生めない、ふやせない

ואתם פרו ורבו שרצו בארץ ורבו בה׃

あなたがたは、生めよ、ふえよ、地に群がり、地の上にふえよ
創世記9章7節(口語訳)

 

 

「ほとんどの先進国で少子化傾向」だと内閣府の資料に書いてありました。https://www8.cao.go.jp/shoushi/shoushika/whitepaper/measures/w-2004/html_h/html/g1630010.html

言葉の引用のために2004年の資料から引用しましたので、新しい資料へのリンクも入れておきます。
https://www8.cao.go.jp/shoushi/shoushika/whitepaper/measures/w-2021/r03webhonpen/html/b1_s1-1-2.html#zh1-1-04

少子化とは、創世記9章7節のようになってはいない、ということです。

神さまは
「あなたがたは、生めよ、ふえよ、地に群がり、地の上にふえよ」
とおっしゃいましたが、
つまり、それが「みこころ」ですが、

先進国の現状は
「わたしたちは、生めない、ふやせない、地に群がらない、地の上にふえない」
ということです。

「生めない、ふえない」ではなく「生めない、ふやせない」と書いたのは、私自身の個人的な思いとしての「unable」という思いがいろいろあったからですが、

個々人の問題をわきに置いたとしても、それがהָאָ֫רֶץ(地)の、少なくとも先進国と呼ばれている国々の現状です。

人間だけの話ではありません。「レッドリスト」という言葉がありますが、それは絶滅のおそれのある野生生物の種のリストのことです。「絶滅危惧種」という言葉を耳にされたことがあると思います。
環境省のサイトに公開されているものを見ますと、令和元年度に公表されたレッドリスト2020において、レッドリスト2019と比較して絶滅危惧種が40種増加し、合計3,716種となったと書いてあります。
https://www.env.go.jp/nature/kisho/hozen/redlist/

もちろん、まだまだ「新種発見!」というようなニュースもあり、人間にとって未知のものが数に加わり、種類は増える可能性はあるのかもしれませんが、
創世記1章で、次々と生き物が造られたあの頃の、アダムが生き物に名前を付けていたあの頃の、活気にあふれ、喜びに満ち、限りない発展を続けていくであろう未来を予想させるהָאָ֫רֶץ(地)は
いま、ここにはありません。

 

宗教的なことを何も考えなかったとしても、高度な科学的手法を用いなくても、誰でもわかるהָאָ֫רֶץ(地)の「衰退」。

 

思い出すのはイザヤ書24章。

(以下口語訳聖書から引用)

1 見よ、主はこの地をむなしくし、これを荒れすたれさせ、これをくつがえして、その民を散らされる。

2 そして、その民も祭司もひとしく、しもべも主人もひとしく、はしためも主婦もひとしく、買う者も売る者もひとしく、貸す者も借りる者もひとしく、債権者も債務者もひとしく、この事にあう。

3 地は全くむなしくされ、全くかすめられる。主がこの言葉を告げられたからである。

4 地は悲しみ、衰え、世はしおれ、衰え、天も地と共にしおれはてる

5 地はその住む民の下に汚された。これは彼らが律法にそむき、定めを犯し、とこしえの契約を破ったからだ。

6 それゆえ、のろいは地をのみつくし、そこに住む者はその罪に苦しみ、また地の民は焼かれて、わずかの者が残される

7 新しいぶどう酒は悲しみ、ぶどうはしおれ心の楽しい者もみな嘆く

8 鼓の音は静まり、喜ぶ者の騒ぎはやみ、琴の音もまた静まった。

9 彼らはもはや歌をうたって酒を飲まず、濃き酒はこれを飲む者に苦くなる。

10 混乱せる町は破られ、すべての家は閉ざされて、はいることができない。

11 ちまたには酒の不足のために叫ぶ声があり、すべての喜びは暗くなり、地の楽しみは追いやられた。

12 町には荒れすたれた所のみ残り、その門もこわされて破れた。

13 地のうちで、もろもろの民のなかで残るもの、オリブの木の打たれた後の実のように、ぶどうの収穫の終った後にその採り残りを集めるときのようになる。

14 彼らは声をあげて喜び歌う。主の威光のゆえに、西から喜び呼ばわる。

15 それゆえ、東で主をあがめ、海沿いの国々でイスラエルの神、主の名をあがめよ。

16 われわれは地の果から、さんびの歌を聞いた、「栄光は正しい者にある」と。

しかし、わたしは言う、「わたしはやせ衰える、わたしはやせ衰える、わたしはわざわいだ。欺く者はあざむき、欺く者は、はなはだしくあざむく」。

17 地に住む者よ、恐れと、落し穴と、わなとはあなたの上にある。

18 恐れの声をのがれる者は落し穴に陥り、落し穴から出る者はわなに捕えられる。天の窓は開け、地の基が震い動くからである。

19 地は全く砕け、地は裂け、地は激しく震い、

20 地は酔いどれのようによろめき、仮小屋のようにゆり動く。そのとがはその上に重く、ついに倒れて再び起きあがることはない。

21 その日、主は天において、天の軍勢を罰し、地の上で、地のもろもろの王を罰せられる。

22 彼らは囚人が土ろうの中に集められるように集められて、獄屋の中に閉ざされ、多くの日を経て後、罰せられる。

23 こうして万軍の主がシオンの山およびエルサレムで統べ治め、かつその長老たちの前にその栄光をあらわされるので、月はあわて、日は恥じる。

 

23節を読むと黙示録を思い出しますね。

 

ヨハネの黙示録21章23、24節(口語訳)

都は、日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。諸国民は都の光の中を歩き、地の王たちは、自分たちの光栄をそこに携えて来る。 


2022年2月4日金曜日

ヨハネの黙示録22章とאת

 研究者でもないし論文でもないし、ということで今日もかなり無責任なことを書きますが、

今日のタイトルにしたאת

Strong's 853. eth

創世記1章1節を読むといきなり登場するこの言葉、下のリンク先を見ていただければ分かることですが
https://biblehub.com/text/genesis/1-1.htm

英語の欄が空欄となっているのです。

なんじゃこりゃ、という感じの言葉。


しかもこの単語、相当な頻度で登場するわけです。

ただ、この単語の初見の段階で、これは黙示録に出てくるあれでは?と思ったわけです。
アルファでありオメガであるというあの御言葉。

わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。
ヨハネの黙示録22章13節(口語訳) 


見たままのそのままの印象なわけですが。
黙示録はギリシャ語からの翻訳だからΑΩですがそのままヘブライ文字にすれば853番になりそうだなあ、と。

 

じゃあ、始めであり終わりであるというのはどういう意味なんだろうか、それよりも前はなくそれよりも後はないというのはどういう意味なんだろうか。

で、創世記を書き写しながらこの言葉が登場するところにマークを入れてみたところ、
まずは上にリンクをはった1章1節を見ていただくと「הַשָּׁמַ֖יִם」(天)の前と「הָאָֽרֶץ」(地)の前にあるのですね。
そして次に登場するのが4節「הָא֖וֹר」(光)。
で、光を造られた神さまはおっしゃるわけです、כי טוב これは完ぺきだ!素晴らしい!とっても良い!!

そんな風にチェックを入れながら2か月くらいたったあたりで、私の目にはאתという単語が「神さまブランドのロゴマーク」のように見えてきました(笑)

אתこれは神さまが愛を込めて作ったものです!とってもとっても素晴らしい出来です!品質は保証します!完璧です!
そしてそのブランドマークを見るたびに私の脳内にこんな言葉が現れるようになりました。

את不足しているものは何もない。付け加えることは許さない!余計なものは何もない。取り除くことは許さない!」

 

そして気づきました。これも黙示録22章だ、と。

 

 

この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。
ヨハネの黙示録22章18、19節(口語訳)

 

 

以上、御言葉以外のすべては個人の感想です。学説でも何でもないのでご注意ください。

メリバの水

思うところがあって今日は民数記20章を読みました。 

イスラエル人の全会衆は、第一の月にツィンの荒れ野に入った。そして、民はカデシュにとどまった。ミリアムはそこで死に、その地に葬られた。
地名の「カデシュ」、見た瞬間、ヘブライ文字のクフが付く単語に違いない、と気付きました。調べてみると、やはりStrong's 6946. Qadesh קָדֵשׁでした。sacred神聖という意味です。

さて、そこには会衆のための水がなく、彼らはモーセとアロンに詰め寄った。

「水」がない。

「荒れ野」における「水」問題。
私たちの人生(信仰生活)でも繰り返されるこの問題。

「水」「水とは?」「水はどこにある?」「水は誰が下さる?」

福音書でも話題になるこの問題はTorahを読めばきちんと書かれています。


主はモーセに告げられた。「杖を取り、あなたと兄アロンは会衆を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたは彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に水を飲ませなさい。」

忍耐深い神さまはモーセにリーダーとして行うべきことを指示されます。

「岩」!

岩については以前調べ学習しました。

そして、ここで使われてる岩という単語は岩と言っても סֶלַע selaなので、英語で言えばcragのこと。険しい岩山。

「岩」は調べ学習でも書いた通り、ダビデもイザヤもハバククも、

「より頼むことができる揺るがないお方」を表現するために用いていたたとえです。

「岩に向かって、水を出せと命じなさい」と新共同訳聖書には書いてあるところをヘブライ語聖書で見ると

אתה ואהרן אחיך ודברתם אל הסלע לעיניהם ונתן מימיו והוצאת להם מים מן הסלע והשקית את העדה ואת בעירם׃

「あなたとあなたの兄アロンは岩に言いなさい 彼らの目の前で そして出る 水 岩から そして飲ませる (אֶת)会衆と (וְאֶת)動物たちに」

神さまがこの言葉をもって伝えられたことは、

「岩に言うと岩から水が出て飲める」ということです。

カデシュにとどまっている強い渇きを覚えた民たちがモーセに渇きを訴えたら「岩」のところに行くわけです。そして、神さまと民の間に立つ仲介者であるモーセは「岩」に言う、つまり民はモーセの向こうにいらっしゃる、見えないけれども恵み深い憐み深い「神さま」に仲介者モーセが話しているのを聴くわけです。
そして、死にそうなくらいのどが渇いて苦しむ自分たちを満たしてくださるのはほかの誰でもない「神さま」ご自身であるということを再度認識することができるはずだったわけです。
よりたのむに値する大きな岩、神々と言われる偶像とは比べることのできない唯一絶対、全能なるお方である!飲んでも飲んでも尽きることなく、渇くことのない水を与えてくださるお方!自分たちはその神さまとともにいるのだ、ということを、うなじのこわい民であってもそれはそれなりに改めて認識できるはずだった。

しかし、モーセは

モーセとアロンは会衆を岩の前に集めて言った。「聞け、反逆する者たちよ。私たちがあなたがたのために、この岩から水を出さなければならないのか。」

と語り、あたかも自分の力で水を与えているような発言をしたわけです。この瞬間、彼は彼の行動の根拠であった神さまの御言葉を民に正しく伝える仲介者ではなくなり、次の瞬間、言われていないことを行なったわけです。

モーセが手を上げ、杖で岩を二度打つと、水がたくさん湧き出たので、会衆も彼らの家畜も飲んだ。

神さまは「岩」に言えとおっしゃったのに「岩」を二度も叩いた。

岩を「叩いた」のです!

モーセは神さまから言われた通りに語らず行わなかった。仲介者として失格です。

そして岩を叩くという行為は岩なる主を冒とくする行為です。


この出来事は現代のキリスト教指導者に対する警告でもあります。

本当に神さまはあなたにそう言ったのか


注意深く注意深く私たちは神の言葉を調べていかなければいけません。



2022年2月3日木曜日

【調べ学習】弓とヘブライ文字ק(クフ)

小羊がその七つの封印の一つを解いた時、わたしが見ていると、四つの生き物の一つが、雷のような声で「きたれ」と呼ぶのを聞いた。そして見ていると、見よ、白い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、弓を手に持っており、また冠を与えられて、勝利の上にもなお勝利を得ようとして出かけた。
ヨハネの黙示録6章1、2節

 

今朝は創世記の9章6節を新共同訳で読んでいて、ちらっとひだりがわに目をやると「虹」という文字がありました。で、ああ、そろそろ全文書き取りにも「虹」が出てくる頃だわ、と思ったらヘブライ語で虹とはどういう文字で書かれるのか気になって気になってどうしようもなくなり、ついに誘惑に負け?朝食前のいそがしい時間帯なのにBIBLE HUBを見てしまいました。

Strong's7198. qesheth

קֶשֶׁת

https://biblehub.com/hebrew/7198.htm

スマホでアクセスしてわずか1分、7198番が「虹」であるということをBIBLE HUBは教えてくれました。
さらにその数秒後、この7198番のこのヘブライ語が、この箇所以外のどこに使われているのかということをEnglishman's Concordanceによって知ることができたのですが
ちょっとびっくりしました。

コロナ禍になってから何十回となく読み返したハバクク書3章9節の「弓」といういう言葉はこの7198番だったのです。

 

 

 

ハバクク書3:9

 

HEB: עֶרְיָ֤ה תֵעוֹר֙ קַשְׁתֶּ֔ךָ שְׁבֻע֥וֹת מַטּ֖וֹת

NAS: Your bow was made bare,

KJV: Thy bow was made quite naked,


 

 

 

 

 

あなたの弓は取り出された。

 

矢は、弦につがえられた。〔セラ

あなたは川をもって地を裂かれた。(口語訳聖書)

 

だからどうした?と言われそうですが、

私には以前から心に引っかかっている「弓」問題と「ヘブライ文字ק(クフ)」問題というものがあり、

 

「弓」問題↓

【調べ学習】白い馬に乗っている者の冠(黙示録6章と黙示録19章)
https://kyudochu.blogspot.com/2019/04/619.html

白い馬に乗っているのが本物なのか偽物なのかという話なのですが、この時もBIBLE HUBを使ってけっこう一生懸命調べた記憶はあるんですが、「冠」に気が行っていたせいか「弓」について調べていない。抜けてるんですよね。

 

「ヘブライ文字ק(クフ)」問題↓

「待ち望む」という言葉について(2)
https://kyudochu.blogspot.com/2022/01/blog-post_6.html

ヘブライ文字ק(クフ)についてウィキペディアで調べるとこう書いてあるのですが
「文字名称はヘブライ語でサルを意味する語(קוף kof)と同じであり、サンプソンはサルの頭を描いた文字に由来するというが、異論もある。ウィリアム・オルブライトは不明とする。」

本当にクフは「サルの頭の形が起源」なのでしょうか。
古代人がサルの頭というものについてどういう思いを抱いていたのか察することができないのでこういう言い方をするのは良くないような気もしますが、クフという文字はサルの頭よりも「聖い」気がするのです。(詳細は「待ち望む」という言葉について(2)に書きました)

また、忘れてはいけないのは、クフについては「サルの頭」説のほかに、「針の穴」説があり、これはウィキペディアの「フェニキア文字」という項を見ると書いてあるわけですが「針の穴」と言えばイエスさまのおっしゃったこの御言葉を思い出すわけです。

それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
マタイによる福音書19章23、24節(口語訳)

 

 ウィキペディア「フェニキア文字」より↓

 

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%8B%E3%82%AD%E3%82%A2%E6%96%87%E5%AD%97

 

 

大きなものだったり偉大なものにつかわれているג(ギメル)というヘブライ文字を含む文字列גמלであらわされるラクダが、究極の狭き門である針の穴を通っていくという話を改めて考えると、ヘブライ文字ק(クフ)は、不要なものをすべてそぎ落としてこそ入ることのできるような「聖さ」を表現しているような印象を受けます。(個人の感想です)

ちなみに、קクフという「文字」が最初に登場するのは創世記1章5節でした。
Strong's7121. qara קָרָא 

神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。(口語訳)

口語訳聖書で「名づけ」と翻訳されているところに使われているので5節には二回登場しています。
https://biblehub.com/text/genesis/1-5.htm

Strong's7121. qara קָרָאはNEW AMERICAN STANDARD BIBLEにおける翻訳ではこんな風に訳しているそうです。カッコ内は回数。


become (1), become famous (1), call (121), called (301), calling (11), calls (17), cried (24), cries (1), cry (19), crying (2), dictated* (1), famous* (1), gave (4), given (1), gives (1), grasps (1), guests (4), invite (6), invited (14), live (1), made a proclamation (1), make a proclamation (1), men of renown (1), mentioned (3), name* (4), named (12), named* (62), offer it terms (1), proclaim (28), proclaimed (17), proclaiming (3), proclaims (2), read (35), reading (2), reads (1), screamed (2), screamed* (1), shouted (1), spoken (1), sues (1), summon (6), summoned (14), summoning (1), summons (2).

そして、同じ1章5節にはもうひとつクフの使われている単語があって、それは

Strong's 1242. boqer בֹּקֶר 

「朝」という意味がある言葉です。

 

さて次に「弓」問題の話。

「弓」という単語が「虹」と同じ文字列で表現されているすると、
たしかに形状は🌈似ていますのでね、両者が同じ文字列になるということはありそうですし、そもそも英語で虹は(rain)bowですから、英語の翻訳聖書を読んでいる人々ならば弓と虹が同じ文字列であったとしても、だから何?ということにもなりそうですが、日本語の翻訳聖書を読んでいる私としては弓と虹を関連付けようなどと思ったことは全くなかったものですから本当に驚いてしまったわけです。
また、考え続けている「ヘブライ文字ק(クフ)」問題と絡めて、
קという文字がもしも「契約の虹」に深い関わりをもつようなことがあるとすれば「弓」という言葉を含む旧約の預言や、新約で唯一「弓」という語の登場する黙示録の白い馬に乗る騎士に関して、解釈に多少の影響があるのではないか、と思ったわけです。
古代の聖書の国の人々はこの二つの単語をどういうイメージでとらえたのだろうか、弓という言葉が出てきたときに、その武器をどういうものであるととらえたのだろうか、と。

例えば、

この「弓」とか「虹」にあたる単語が「契約の虹」の次に登場するのは創世記21章のところであるとコンコルダンスにありましたので、口語訳聖書から引用してみます。

 

そこでアブラハムは明くる朝はやく起きて、パンと水の皮袋とを取り、ハガルに与えて、肩に負わせ、その子を連れて去らせた。ハガルは去ってベエルシバの荒野にさまよった。
やがて皮袋の水が尽きたので、彼女はその子を木の下におき、
「わたしはこの子の死ぬのを見るに忍びない」と言って、の届くほど離れて行き、子供の方に向いてすわった。彼女が子供の方に向いてすわったとき、子供は声をあげて泣いた。
神はわらべの声を聞かれ、神の使は天からハガルを呼んで言った、「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神はあそこにいるわらべの声を聞かれた。
立って行き、わらべを取り上げてあなたの手に抱きなさい。わたしは彼を大いなる国民とするであろう」。 
創世記21章14~18節(口語訳)

「矢」という言葉の「あたり」に使われていました。「あたり」と書いたのは、日本語では矢と書いてあるあの場所はヘブライ語では矢とは書いていなくて、
הרחק כמטחוי קשת

 הרחק a distance

כמטחוי the shot

קשת of a bow

と書いてあります。
翻訳された方としてはおそらく、原典の言わんとしていることを日本語ユーザーにわかりやすく伝えるためには「弓」という語を使って表現するよりも、「矢」という言葉を補って、「矢」が飛んで落ちるという一連の動きを感じながら距離感をつかめる表現にした方が良いと思ったのでしょう。
このストーリーはこのあと「神はわらべと共にいまし、わらべは成長した。彼は荒野に住んで弓を射る者となった。21章20節(口語訳)」というところに到達するわけですが、ストーリーの流れを追うためには前に弓が登場しようとそうでなかろうと関連性は追えるわけで、そういう点では問題のない翻訳だとは思います。
ただ、もしもヘブライ語聖書の著者が「弓」という言葉に何らかのニュアンスやエレメントを入れ込んでいた場合、見落としてしまうことになりそうです。

 

2022年2月1日火曜日

【調べ学習】666

666という数字、日本語の聖書で六百六十六と訳されているのは、ギリシャ語の聖書で算用数字が使われていないからですが

おそらくヨハネは黙示録をギリシャ語で書いたのではなくヘブライ語で書いた…と思うのでこんな風に書いているんだと思います六百六十六を。

שֵׁשׁ מֵאוֹת וְשִׁשִּׁים וָשֵׁשׁ

右側から読むとこう読めます
שֵׁשׁ מֵאוֹת 
six hundred

שִׁשִּׁים 
sixty

שֵׁשׁ 
six

 

六百と六十の、そして六十と六の間に挟まっている縦棒のような文字はヴァヴで、英語ではandと訳します。

ヘブライ文字はものの形から作られた文字であることが知られていますが、
聖書ヘブライ語の単語にも見るからに形から作られたように見える単語があり

例えば「太陽」を意味する単語のうちの一つにはこんなのがあります。

שֶׁמֶשׁ

いかにもキラキラしてそうな文字שが両脇に配置されているわけです。
まあ、これ以外にも太陽を表す言葉はあるので、こういうものもある、というだけの話ですが。

さて、コンコルダンスを眺めていたらこんな単語がありました。

「六」と綴りが同じ単語です。
שֵׁשׁ Strong's Concordance8336

これは英語で言うとbyssusなんだそうです。まさに物の形から来てる感じ。気持ち悪いです😩
ところで、byssusってなんだかご存じですか?ぜひ調べてみてください。画像検索がおすすめ。

 

もっともこのbyssusという英語が充てられているStrong's Concordance8336の単語は日本語聖書では「亜麻布」とに翻訳されていて検索すると出てくるbyssusとは異なります。

https://biblehub.com/hebrew/8336.htm

 

 

だから何かって?

だから、単なる調べ学習です。

 

 

 

ちなみにשׁשׁという綴りの単語は「6」と訳されているものだけではなく

8337b. shesh アラバスター

があります。

アラバスターについてウィキペディアにはこう書いてあります。

アラバスター(Alabaster)は美しい白色の鉱物の変種のひとつ。

その特徴的な美しい白さゆえに、アラバスターは白いものの形容として、例えば英語では"alabaster skin"(白く滑らかな肌)といった表現で詩や歌などで使われている。

ウィキペディアの「アラバスター (曖昧さ回避) - Wikipedia」のページにはほかに固有名詞としてのアラバスターについて書かれています。

・アラバスター (漫画) - 手塚治虫の漫画作品。
・若林商店が開発し、B&Hラボが販売した、におい濃度測定用ガス検知器の名。
この装置の開発にも関わった発酵学者小泉武夫が、臭い食べ物の臭さを比較するための計測に用い、計測値を「アラバスター単位」(Au)として著書などで紹介している(Template:臭い食べ物参照)。「アラバスター単位」は国際的に広く認められた「においの単位」ではない。
・アラバスター (アラバマ州)(英語版) - アメリカ合衆国アラバマ州にある地名。
・ウィリアム・アラバスター(英語版) - 16-17世紀イギリスの詩人、宗教作家。

 

 

だから何かって?

だから、単なる調べ学習です。

バベルの塔とハルマゲドン(1)

全地は同じ発音、同じ言葉であった。時に人々は東に移り、シナルの地に平野を得て、そこに住んだ。彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、言われた、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。これによってその町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を乱されたからである。主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた。
創世記11章1~9節


ויאמרו הבה נבנה לנו עיר ומגדל וראשו בשמים ונעשה לנו שם פן נפוץ על פני כל הארץ׃
11:4בראשית

有名なバベルの塔のお話を口語訳聖書から引用しました。
4節を青い文字色にしましたが、
その箇所をヘブライ語聖書で見て、興味深い言葉を見つけました。 

מגדל ミグダル 塔

Strong's Hebrewでは4026番です。

Strong's Hebrewで、この単語の前にあるいくつかの単語、つまり、綴りの似た単語に目を留めてみたところ気になることがありました。

4022.    meged   メゲド מֶגֶד excellence 優秀、卓越性
4023.    Mgiddown ミギドウン מְגִדּוֹן a tower 
4023a.  migdol  ミグドル a tower 塔
4023b.  Megiddon or Megiddo メギドン または メギド a place in Manasseh マナセにある場所

4023番b
つまり、ハルマゲドンのマゲドンの部分にあたる「メギドン」または「メギド」という地名はヘブライ語で考えると優秀だとか塔だとかという単語の綴りと共通して
מגד 
という三文字をを含んでおり、
英語のアルファベットで該当する子音の文字を書くならば
MGD




だとすると
おそらく、

聖書ヘブライ語を理解できた昔の人々(黙示録の著者を含む)にとってMGDという音、そして文字を見たときの印象は「バベルの塔」と共通の「人間としての」優秀さと卓越した能力を感じるのではないかと思ったのです。

つまり、「ハルマゲドン」という言葉を当時の人々が耳にした場合、
もちろんまずメギドという地名の持つ歴史的な事件を思い起こさせることになるのでしょうが、それだけではなく、その向こうにある「バベルの塔」と関連付けるのではないか、と。つまりそれは、巨大な塔、優れた塔、を創造主ではなく人間の知恵と力で作り上げ、いつかは創造主以上のものとなる!神さまの支配下になど居続けない!と考える者たち迎える結末を思い出させられることになるのではないか、ということです。
実際のメギドは丘なのに、ハルという「山」と意味の単語を用いることで、地名ではないメギドであるということに気付かせようとする意図があり、ハルという言葉も、もしかしたら「山」以外の何かについて語っていて
わかる人にはわかるメッセージ

ヨハネの黙示録1章3節にはこう書いてあるので
この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである。

つまり、朗読された言葉を聞くだけで理解できる対象に向けて書かれているわけですから
書き手、朗読者、聞き手、この三者は共通して持っている暗号解読表のようなものがあるわけです。
しかし、特別な解読表の存在を考えるのは無理がありますから
だとすればתנ"ךタナック(タナハ)。



そう考えつつ
イザヤ書をヘブライ語で読むと気付く事ですが
イザヤ書30章25節、この箇所が黙示録のハルマゲドンに似ているような気がします。
イザヤ書30章25節26節については後日改めて書く予定なので
ここにはイザヤ書30章25節のところを少しだけ。


והיה על כל הר גבה ועל כל גבעה נשאה פלגים יבלי מים ביום הרג רב בנפל מגדלים׃

大いなる虐殺の日、やぐらの倒れる時、すべてのそびえたつ山と、すべての高い丘に水の流れる川がある。 (口語訳)
大いなる殺戮の日、塔という塔が倒れる時に
そびえ立つすべての山、高いすべての丘に
水の流れる水路ができる。(聖書協会共同訳)
口語訳聖書を読んでいるとよくわかりませんけれども聖書協会共同訳聖書を読むと、「塔という塔が」というふうに訳されていて、そこがמגדלים ミグダリム。
ミグダが MGDです。そして語尾のלים「リム」という音に含まれるים「イム」はたくさんある様子を表す言葉です。(エロヒムという言葉が複数なのかという問題などにおいて単純に複数を表しているとは思えないと私個人としては思っていますが
そしてここには「山」という言葉が登場しますがこれはהר ハルです。ハルマゲドンのハルですね。
ただ、実はそれよりも注目したいのは「虐殺」という言葉で
הרגヘレグという言葉がそれです。
הרハルにגギメルという文字が付くと「虐殺」という意味になるわけです。

したがって、この預言の言葉によると、

たくさんの人が殺されるその日は塔という塔が倒れる時
ということになり、そこにヨハネの黙示録で書かれている「ハルマゲドン」という言葉がうっすらと見えてくるような気がするのです。
戦いによって数多くの見張りのやぐらが倒れたと考える方が素直な読み方なのかもしれませんが
MGDにバベルの塔のようなものを思うならば、
その日にはバベルの塔「のようなもの」がたくさん倒れるというメッセージが聞こえてくるような気がするのです。
・・・人間たちが頼みにしていた優れたもの、神さまを超えられると思うくらいのものがことごとく倒れてしまう・・・そういう時がやってくる

そんなふうに読めるような

気がしました。

そして、そう読むと、
エレミヤ書31章の
主はこう言われる。
もし、上においては天が測られ
下においては地の基が究められるなら
私もイスラエルのすべての子孫を
彼らのあらゆる行いのゆえに
退けることもありえよう――主の仰せ。
この御言葉に、
黙示録のハルマゲドンという言葉の奥にあるものと同一のものを見いだすことができるような気がするのです。





参考までに、他にとかとか書かれている箇所が預言書にはないかと探してみたところ


イザヤ書32章14節にこんな言葉がありました。

宮殿は捨てられ、にぎわった町は荒れすたれ、丘と、やぐらとは、とこしえにほら穴となり、野のろばの楽しむ所、羊の群れの牧場となるからである。
ここにはちょうど「丘」という言葉が出てきますが、これは、
  Strong's Hebrew 6076 עֹפֶל ophel オフェルというヘブライ語です。
上に引用したイザヤ書32章14節は口語訳ですが、
聖書協会共同訳でここの箇所はこう訳されています。
宮殿は捨てられ、町のにぎわいはうせ
高台と見張りの塔は、いつまでも獣の住みかとなり
野ろばが喜ぶ所、羊の群れが草を食む所となる。
「丘と、やぐらとは」という箇所が「高台と見張りの塔は」となっています。
ヘブライ語の「オフェル」は多くの場合、要塞化された丘または高台で要塞化された都市の一部という文脈で使用されるそうです。

「丘」と「塔」

しかし、ここに使われている「塔」という言葉はMGDではなく
 Strong's Hebrew 975 בּחן bakh'-an バカン
で、「高台(丘)と見張りの塔は」は
  עפל ובחן
オフェル ワ バカン 
「ワ」はヴァヴという一文字、で、andと訳します。

ちなみに
Strong's Hebrew 975のבחן bakh'-an バカンという語は、
聖書の中ではたった一度だけ、このイザヤ書の32章14節にしか登場しないことになっているのですが、
全く同じ綴りで読み方の異なる単語があります。
同じ綴りだと似た意味を持つことが多いので974番を調べてみると
Strong's Hebrew 974 בחן baw-khan' バウカン
この単語は聖書の中に29回登場していて、
意味としては to examine, try 調べる、試す となっています。
イザヤは32章14節において、「調べるとか試す」という意味を込めて「塔」という表現をしている・・・のかもしれません。
と言っても何が何やら訳が分からないので974番が使われている聖句を引用してみます。

例えばゼカリヤ書13章9節(引用聖句は口語訳)
わたしはこの三分の一を火の中に入れ、銀をふき分けるように、これをふき分け、金を精錬するように、これを精錬する。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『彼らはわが民である』と言い、彼らは『主はわが神である』と言う」。
この御言葉の中の「銀をふき分けるように、これをふき分け、」というところの「ふき分ける」「ふき分け」という言葉がそれぞれ974番のבחןです。

そして他には(口語訳聖書から引用します)

あなたがたをこうしてためしてみよう。パロのいのちにかけて誓います。末の弟がここにこなければ、あなたがたはここを出ることはできません。創世記42章15節

あなたがたのひとりをやって弟を連れてこさせなさい。それまであなたがたをつないでおいて、あなたがたに誠実があるかどうか、あなたがたの言葉をためしてみよう。創世記42章16節

わが神よ、あなたは心をためし、また正直を喜ばれることを、わたしは知っています。
歴代誌上29章17節

朝ごとに、これを尋ね、絶え間なく、これを試みられるのか。
ヨブ記7章18節

主よ、わたしをためし、わたしを試み、わたしの心と思いとを練りきよめてください。
詩篇26篇2節

試されてますね(笑)





実際のメギドという場所は地形的に「丘」であって
「山」ではないのですから
ハルと書かずオフェルとし「オフェルメギド」たって良かったような気がしますが、
そうしていないのはやはり「ハル」と表現して伝えたいことがなにかあったのでしょう。

ハルは546回も旧約聖書にある言葉です。
山という語が聖書の中でどういう意味で使われることがあるかということを考えたり
ハルマゲドンという語の直前に登場するストーリーから察しなさい、と言っているような気がします。


そして「マゲドン」=MGDは塔、
塔と言えばバベル(バビロン)、

さらには塔と言う意味の「バカン」から「バウカン」を連想すると、

終末に起こる大殺戮の原因や
それによって引き起こされる「試み」
そして、試みられ「分けられていく」人々・・・

また、B.C.15世紀のメギドの戦い(トトメス3世率いるエジプト軍とカデシュ王率いるカナン連合軍との戦い)もイメージできる人々にとっては、
そう、
カデシュとはヘブライ語でקָדֵשׁ 「神聖である」という意味なので、


・・・もっともっといろいろなことを思うのかもしれません。



ヨハネの黙示録を朗読してもらって聞いただけで理解できる人々にとっては

私たちが考えるよりも深いメッセージが聞こえる
そんな気がします。


虹は「雲」の中に

神はノアおよび共にいる子らに言われた、「わたしはあなたがた及びあなたがたの後の子孫と契約を立てる。またあなたがたと共にいるすべての生き物、あなたがたと共にいる鳥、家畜、地のすべての獣、すなわち、すべて箱舟から出たものは、地のすべての獣にいたるまで、わたしはそれと契約を立てよう。 わたしがあなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起らないであろう」。さらに神は言われた、「これはわたしと、あなたがた及びあなたがたと共にいるすべての生き物との間に代々かぎりなく、わたしが立てる契約のしるしである。すなわち、わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが雲を地の上に起すとき、にじは雲の中に現れる。こうして、わたしは、わたしとあなたがた、及びすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた契約を思いおこすゆえ、水はふたたび、すべて肉なる者を滅ぼす洪水とはならない。にじが雲の中に現れるとき、わたしはこれを見て、神が地上にあるすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた永遠の契約を思いおこすであろう」。 そして神はノアに言われた、「これがわたしと地にあるすべて肉なるものとの間に、わたしが立てた契約のしるしである」。
創世記9章8~17節 (口語訳)

日本語の聖書でこの箇所を読むとき、私の頭の中では勝手な要約が行われていたということに最近気づきました。

・肉なるものは洪水で滅ぼされることはない
・その契約のしるしは虹

そして、そんなふうに要約をしながら、目線は常に「虹」に行っておりました。

(もっとも、要約してしまうのは、ここの箇所に限ったことではなく、あらすじと教訓めいたものを覚えて実生活に適用するのがクリスチャン生活だと思っておりました。)


2020.11.23朝 @わが家の上



しかしヘブライ語聖書でこの箇所を読んでみて
今回は(次回はまた次回で視点が変わるかもしれませんが)
「虹」という言葉より「雲」という言葉がとても気になりました。

 

「すなわち、わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが雲を地の上に起すとき、にじは雲の中に現れる。」

この御言葉の中に登場する「雲」という言葉は

עָנָן   Strong's Hebrew  6051 aw-nawn'です。
https://biblehub.com/hebrew/6051.htm

עアインというヘブライ文字は目の形が変化してできたものだということですが、
木のことをעֵץと言ったり、空を飛ぶ鳥のことをעוֹףと言ったりするので、
目は身体の高い位置にあるから「高いところにある」ものに使われる文字なのかな?だから雲もעから始まるのかな?とか思うわけですけれども(個人の感想です)

空の高いところに見える「雲」をあらわす単語עָנָןは、

Englishman's Concordanceによると
創世記9章13、14、16節に登場したあと、次に現れるのは出エジプト記13章21節22節なのです。

主は彼らの前に行かれ、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照し、昼も夜も彼らを進み行かせられた。昼は雲の柱、夜は火の柱が、民の前から離れなかった。

 

まあ、雲は雲で同一の単語表現だからこそ雲と訳されているはずですからあれも雲、それも雲で当然ではあるのですが、出エジプト記13章と同一の「雲」という言葉が大洪水の後の「虹」の箇所にあるということなど全く考えたこともありませんでしたし、この創世記の箇所では、上で言った通り毎度毎度「虹」ばかりに気持ちが行っておりましたからちょっと驚きました

 

で、いつものようにStrong's Hebrew  6051の前後にある似た綴りを持つ単語を調べてみたところ、このようなものを見つけました。

6031 עָנָה to be bowed down or afflicted ひれ伏す、または苦しむ
6032 עֲנָה to answer 答える
6033 עֲנָה poor 貧しい

6035 עָנָו poor, afflicted, humble, meek 貧しい、苦しんでいる、謙遜な、柔和な
6037 עַנְוָה gentleness, meekness やさしさ、柔和さ

6040 עֱנִי affliction, poverty 苦しみ、貧困
6041 עָנִי poor, afflicted, humble 貧しい、苦しんでいる、謙虚な

6045 עִנְיָן occupation, task ←コヘレト1:13ほねおらせられる苦しい仕事

6059 עָנַק to serve as a necklace ←申命記15:14惜しみなく与える、詩編73:6首飾

 

 

これまで、出エジプト記の「雲の柱」という言葉を読んでも、「ああ、雲の柱か」程度の感想を持つだけで、深く考えたことはなかったのですが、
すべてのものをお造りなられた全知全能の神さまが、イスラエルのそばを片時も離れることなく、そこに在られ、イスラエルを導かれる、
その時に民の目に見えるのが「雲」なのですから
ヘブライ語で「雲」表す語の周辺に「貧しい、謙虚、柔和、苦しみ」というような意味を表す言葉が並んでいるのは、
民とともにあるために貧しくなってくださった神さまであり、
高いところに在って知らんぷりするような神さまではなく
謙虚になってくださった神さまであり、
柔和な神さまである、
からこその周辺ワードかもしれない、と思ったのです。(個人の感想です)

そしてそれはまさに十字架の主ご自身み姿ではありませんか!
目には見えない全知全能の神さまが、
人が見上げたらはっきりと見える「雲の柱」を見せてくださったこと、
そして契約のしるしである虹を「雲」の中に置いてくださったこと、
トーラーの初めの初めからイエスさまご自身が見える!

 

わたしは雲の中に、にじを置く。 

これがわたしと地との間の契約のしるしとなる。 

わたしが雲を地の上に起すとき、にじは雲の中に現れる。

 

 


主はイスラエルを愛し、インマヌエルであり、永遠の契約を結んでくださった。
そのしるしである「虹」は
主が地上に雲を起こされるとき、雲の中に現れる。

「雲」という言葉の周辺にある言葉を思いながら
「主が地上に雲を起こされる」という言葉の意味をもう一度考えつつ
イエスさまがはじめに来られた時のことを思い浮かべつつ

また、物理的にあり得ないわ~と思いながら繰り返し読んでいたマタイによる福音書24章30節についても考えつつ

雲について静かに思いをめぐらした本日。

そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。
マタイによる福音書24章30節