2015年8月18日 ネヘミヤ記8章「再び」
2022年2月25日 ネヘミヤ記8章10節、しつこく3回目
2012年10月16日 ネヘミヤ記8章
「さらに、ネヘミヤは彼らに言った。「行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい。きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」ネヘミヤ記8章10節後半(大型聖書新改訳第3版)
「別訳『主を喜ぶことは、あなたがたの力であるから。』」
「主を喜ぶことはあなたがたの力です。」と書いてあります。これは別訳の方ですね。
ついでにもう一冊。口語訳「主を喜ぶことはあなたがたの力です。」
ただ、12節を読むと、新改訳の第3版にもこう書いてあります「こうして、民はみな、行き、食べたり飲んだり、ごちそうを贈ったりして、大いに喜んだ。これは、彼らが教えられたことを理解したからである。」教えられたことを理解した彼らがとった行動は「大いに喜んだ」のですから、「私たちが主を喜ぶ」…のかなあ… わからないなあ。
「Do not grieve,for the joy of the Lord is your strength」え?…なんだこれは。ちょっと待ってくださいね
「neither be ye sorry;for the joy of the Lord is your strength」「主の喜び」が「あなたがたの力」? 主ご自身が喜ぶと力になる?
「and be not grieved and depressed for the joy of the Lord is your strength and stronghold」これもまた「the joy of the Lord」=「your strength」
The Lord's Joy is Our Strengthネヘミヤ記の8章10節が引用されています。「The Lord's Joy」って言っていますねえ。中学で習ったアポストロフィエスです。「主の喜び」イコール「私たちの力」。
「It is a promise of God that His joy will be your strength.」これも神さまご自身の喜びが私たちの力となると言ってますよね。
2015年8月18日 ネヘミヤ記8章「再び」
まあ、ゆっくり通読しておりますので、2015年8月にやっとのことでネヘミヤ記が再びやってきたというわけなのですが、
また今日もネヘミヤ記8章を読みまして例の箇所が登場しました。
「さらに、ネヘミヤは彼らに言った。「行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい。きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」8章10節後半前回はこの箇所の最後の部分 「あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」とされている新改訳聖書の翻訳と他の聖書の翻訳の違いに混乱していたわけでありますが
今朝は、前回のようにいろいろな聖書をひっくり返すことはやめ、ひたすらに新改訳聖書の8章を繰り返し読んでみました。
結果、今朝の判断としては「主を喜ぶことはあなたがたの力」という前回引用した新共同訳聖書のように「感じ」ました。(まあ、そう感じてしまったとすると、新改訳の訳し方を飛び越えた読み方になってしまうのですが。また3年後には変わるかもしれない
どうして今朝はそう読んだかと言いますと、
1
9節を読むと、律法のことばを聞いて泣いていた民に向かってネヘミヤとエズラとレビ人たちが「悲しんではならない。泣いてはならない。」と言っているわけです。そして、10節の最後から二番目の文を見るとここでも「悲しんではならない」という言葉が繰り返されます。じゃあどうすればよいのでしょうか?…喜びなさいってことですよね。2
「あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」の文末には「~からだ」という言葉が付いています。「~からだ」と言うからには、この一文によってこの文より前に書かれている何かについての理由が説明しているはずです。ではいったいどこら辺を説明しているのかなあと探したのですが、主が喜ばれる「あなたがたの力」とは…行って食べて飲んで贈って悲しまない泣かないという力でしょうか。…「~からだ」と言っているこの一文がいったい何を説明しているのかがわからない。
また、12節を見ると、「民はみな、行き、食べたり飲んだり、ごちそうを贈ったりして、大いに喜んだ。これは、彼らが教えられたことを理解したからである。」とあるわけですが、民は食べたり飲んだりすることで喜び、ごちそうを贈ったりすることで喜んだのであって、食べて、飲んで、贈って、という行動と別に独立して大いに喜ぶという行動を取るのはちょっと不自然か…と思ったのですね。そうすると、民は諸々の行動(食べたり飲んだりetc.)にともなって楽しくなって喜んだのではないかと。
だから、8章10節でネヘミヤが言いたかったのは民はみな「喜びなさい」という事だったのではないかと思ったのです。主が喜ぶのではなくて、あなたがた(私たち)が喜ぶ。主のために聖別した日なのだから主を喜ぶ。主ご自身の素晴らしさを覚えて喜ぶ、主の恵みを覚えて喜ぶ。、
2022年2月25日 ネヘミヤ記8章10節、しつこく3回目
「さらに、ネヘミヤは彼らに言った。「行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい。きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」
新改訳聖書 ネヘミヤ記8章10節
彼らはさらに言った。「行ってごちそうを食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分けてあげなさい。今日は、我らの主の聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜びとすることこそ、あなたがたの力であるからだ。」
新共同訳聖書 ネヘミヤ記8章10節
あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。
なのか
主を喜びとすることこそ、あなたがたの力である。
なのか
前回がおよそ7年前、そして前々回が10年前、でついに2022年、ヘブライ語聖書を眺める段階がやってまいりました。
ויאמר להם לכו אכלו משמנים ושתו ממתקים ושלחו מנות לאין נכון לו כי קדוש היום לאדנינו ואל תעצבו כי חדות יהוה היא מעזכם׃
ヘブライ語聖書は 創世記の初め=初めの初め あたりだけしか眺めていない超初心者でありますけれども、この段階で何かわかるでしょうか。
お!カドゥーシュקדוש見つけました、そしてその単語のあとには創世記で何度も登場するヨム「日」にהのついたהיוםがありますから「聖別された日」「聖なる日」が
קדוש היום
で、そのあとがלאדנינו「主の」だから
ということは、それよりも前はともかく(難しいのでともかくww)
10年間知りたかった箇所はそのあとの辺にあるはずです!(パズルを解くのと同じ感覚で読んでおります ワクワク!)
ואל תעצבו
אלこれは、「~してはならない」と訳せる言葉
そして、この言葉の次の言葉עצבは「悲嘆にくれる」というような意味があります。
なのでאל תעצבוは「悲しんではならない」という訳になるわけですがאלの前にוヴァヴがついているので
創世記を読んでいるとずっとそうなのですが、文頭にוヴァヴがついている場合、
ヴァヴは英語で言えばandなので「それで~それで~」と途切れてはいない感じの文章にはなるのですが「気分的には切れている」のです。ヴァヴから次のヴァヴの間で一つの話は完結するシステムのような気がするのです。もちろん、次のヴァヴ以降の内容が前段との関係性はゼロであるというわけではないのですが、一つの文がヴァヴによって次の文と途切れなくつながっていく、時間には切れ目がないという感じ。
そういう仮定で読むと、「悲しんではならない」という命令(指示)はその命令(指示)よりも前の「聖別された日」「聖なる日」よりも、その「悲しんではならない」という指示の後の言葉との関係の方が強いので、
悲しんではならない → 喜ぶ
と並べられているような気がします。
何をくどくど言っているのかと言いますと、上の二つの翻訳だとどちらも「悲しんではならない」という言葉が唐突に独立しているような、読み手として、またはその場面にいた人々のうちの一人としてどうとらえればよいのかちょっとあいまいに感じるのです。
で、おそらくそのあいまいさの原因は
悲しんではならないと言った後にあるこの言葉かもしれないと思いました。
כי חדות
כי חדותのあとに神聖四文字が登場しているため
例えばイザヤ書30章15節の冒頭部分のような形ととらえると
כי כה אמר אדני יהוהכיのあとに動詞אמרが来て、動詞のあとに主語である御方のお名前が配置されるというような読み方をすると イザヤ書のこの部分は「主なる神、イスラエルの聖なる方はこう言われる」と訳すわけですから
כי חדותは
כי、喜ぶ、神さまのお名前 の順に書いてありますから
「神さまが喜ばれる」と訳したくなる気分にもなるとは思います。が、
じゃあ何を喜ぶのかということを考えると「力」なのですが
ネヘミヤ章8章10節の最後に出てくる「力」という語について調べると
מעז
これはイザヤ書17章10節などで
あなたは救いの神を忘れ去り
自分の砦である岩を心に留めることはなかった。
それゆえ、あなたが好みの植木を植え
そこに他国の枝を挿し
「砦」と訳されるような「力」ですから
(参考)https://biblehub.com/hebrew/4581.htm
神さまによる「力」ではあり得ても
人間のちょっとした頑張りによって出せる力であるはずはなく、
少なくとも「あなたがたの力」と訳してしまうのはちょっと無理な感じがします。
「あなたがたの軍事力」・・・無い。
ならば新共同訳のような訳が良いのかと考えもしたのですが
どうもしっくりこないのです。
なぜかというと、10節の最後のこの箇所に出てくる
יהוה היא מעזכם
この単語
היא
https://biblehub.com/hebrew/1931.htm
これが、この言葉の前に出てくる神聖四文字なる御方について強調するために用いられた代名詞なのではないかと思ったからです。
そういうことにすると、
神さま(神聖四文字なるお方)היא「ご自身が」מעזכם力であると最後の部分で述べているのではないかと。
で、そう考えると、
「悲しみ嘆いてはいけない。
(上等な肉を食べ甘いぶどう酒を飲み、聖なる日をみんなで)さあ喜ぼう。
神さま(神聖四文字なるお方)ご自身がわれわれの力(砦)なのだから。」
と読めるような気がします。
あ、今思い出したことですが
ネヘミヤ記8章10節のところ、これって仮庵の祭りのお話でしたよね?
あ~~~!!!これはもしかして!!!
仮庵の祭りに関する教えを引用してみますね。
最初の日に、飾りにする木の実、なつめやしの葉、茂った枝と川沿いのポプラの枝を取りそろえて、七日間、あなたがたの神、主の前で喜び祝いなさい。
年に七日間、あなたがたはこれを主の祭りとして喜び祝いなさい。第七の月にこれを祝うことは、代々にわたって守るべきとこしえの掟である。
レビ記23章40,41節(聖書協会共同訳)
「主の前で」喜んで祝うわけですね!
自分自身が楽しくてうれしくて喜ぶ。
あなたがたの喜びの日、定められた祝いの時、毎月一日には、焼き尽くすいけにえや会食のいけにえを献げ、ラッパを吹き鳴らしなさい。そうすれば、あなたがたは神の前に覚えられる。私は主、あなたがたの神である。
民数記10章10節(聖書協会共同訳)
祭りの日、喜びの日です!
麦打ち場と搾り場からの収穫が済んだなら、七日間、仮庵祭を祝いなさい。
息子や娘、男女の奴隷、町の中にいるレビ人や寄留者、孤児、寡婦と共に、この祭りの時を楽しみなさい。
七日間、主が選ぶ場所で、あなたの神、主のために祭りを祝いなさい。あなたの神、主が、あなたの収穫とあなたの手の業すべてを祝福されるのだから、あなたは心から喜びなさい。
申命記16章13~15節(聖書協会共同訳)
楽しむ!
主が祝福してくださったことを覚えて喜ぶ!
そして結論
ネヘミヤ記8章10節についていろいろな翻訳聖書やそのほかあれこれ読んで以下の3パターンあり、どれなのか、と悩んだ10年前。
パターン1 あなたがたの力を主が喜ばれる
パターン2 主を喜ぶことはあなたがたの力
パターン3 主の喜びはあなたがたの力
私は本当に愚かでした。悩む必要なんかなかったのです。ネヘミヤ記のあの箇所はいったいどんな箇所であったのか、と考えればヘブライ語を読めなかったとしても上の3つのパターンのどれでもないことは明白だったわけです。
明白も明白、
神さまの言葉を読んで仮庵の祭りをやろうとしている人たちは
神さまの言葉を引用しているに決まってますよねえ。
つまり、なんのことはない、悩むこともない、あそこで語られていることは「悲しまないで喜びなさい」ということに過ぎない。なぜなら律法にそう書いてあるからそうせよと言ったというだけの話です。だからこそ、そのあとのところにある通り、人々はそう言われたことを理解して喜んでいたわけです。
こんな簡単な話に気付けなかったのは、
旧約聖書を読まなすぎ!
だからです!