2016年12月12日月曜日

偶像(2)

最近私は「羊飼いが見た詩篇23篇」という本を読んでいるのですが、
詩篇23篇でダビデが「主は私の羊飼い」とたとえたその深い意味を学ぶ面白さにすっかりはまってしまいました。
羊という動物の性質や行動の細かいことを知れば知るほど、羊飼いとたとえられたお方のいっしょうけんめいな愛を感じます。

例えば41ページのこんな記述や

「(略)予期しなかった小さな犬をちょっと見ただけで(略)二百頭を越える私の羊は(略)逃げた。」「(略)無力で、臆病で、弱々しい、ただ逃げることしかできない動物」

71ページ

「(略)最も強い、時にはもっとも健康な羊でさえ、倒れて、死傷することがありうる」

69ページ

「ひっくり返って、自分で起き上がることのできない羊(略)立ち上がろうとしてもがく中で皮がむけてくる。(略)持ち主がかなり短い時間のうちにそこに到着しないと、羊は死ぬ。」

転びやすい性質を持つ「私」という羊が、うっかり転び、ひっくり返った挙句に起き上がれず、狂ったようにもがいているとき、羊飼いである主は何をおいても飛んできて抱きかかえて起こしてくださるお方なのだ、何回転んでもやさしく起こし、傷だらけの体に薬をを塗って、おいしい露にぬれた青草を毎日毎日食べさせてくださる。だからこそ今もこうして生きていられるんだ、と本当にうれしくなりました。


さて、

今日のタイトルは「偶像」であります。

実はこの本の42ページにこんな文章がありました。
42ページ

「時が経つにつれて、羊にとっては、私が野にいるのを見るほど、心やすまり、安心させられることはないことに私は気づいた。主人、持ち主、保護者がそこにいることで、彼らは何よりも安らぎを感じた。」

そこを読んだとき「ああそうか、だからクリスチャンは偶像をつくってしまうのだ」という思いに至ったのです。
「羊にとっては、私が野にいるのを見るほど、心やすまり、安心させられることはないことに私は気づいた。」と書かれていますが、ここです、羊のこの性質が「無意識下の悪意なき裏切りの自覚なき偶像」を作り出してしまうのです。

人間の目にはっきりと見えたお方イエスさまが地上にいらっしゃらない今、
もちろん私たちには聖霊さまが与えられているわけですが
神さまを「五感で感じられない」という問題は、特に偶像の国「日本」で生まれた羊に取っては大きな不安定要素になるのです。
で、
教会の十字架を見るとほっとする、とかいうことになったりし、
それがエスカレートすると
十字架のペンダントを身につけたり握りしめていると幸せな感じになる、とか、
牧師や伝道者の言葉を神の言葉であるかのごとく扱ったり、神の言葉を取り次ぐ通りよき管にすぎない者たちを神のごとく絶対視するようになるわけです。
そして、牧師や伝道者の側も、結局はただの人間ですから、嫌われるより好かれたいし馬鹿にされるより尊敬されたいから地上の諸々の権威を着ようと努めたり、この世で評価を受けている何物かを神の言葉に混ぜ込む、とか、そういうことをし始めるわけです。

もちろん本人たちには偶像の自覚はないのです。
救いにとって重要な「十字架」なんだから何の問題はないと思い、
聖職者たち教職者たちを尊敬するのは当然のことなんだし、彼らはよく聖書を学んでいるから彼らの語る言葉は絶対だ、と思う。
そして、地上に生きているんだから地上の権威はいろんな意味で重要だ、と考えている。たとえば、著名な学者や政治家や芸能人が信者であれば「教え」に信頼を得やすいし、科学という言葉を混ぜたり、学歴のある人や士業の信者が語れば「教え」に箔が付く、みたいな。

しかし、それらはちょっとした拍子にズレて偶像となってしまう。






神さまは、目で見えないし手ではさわれないお方です。しかし、
神さまは「ことば」であられ、御言葉によって私たちと豊かな交わりを持ってくださいます。
神さまご自身には私たちが認識できるような形はありません。しかし、
神さまは「ことば」によって創造された素晴らしいものをたくさん見せてくださいます。
それで私たちは信じ、満足し、喜べるはずなのです。

もっともっと個人的に神さまの「ことば」を求めていくこと、
やはりそこが最も大切なことなのだと思います。

 

2016年12月8日木曜日

残りの者(1)

黙示録3章1~3節
3:1サルデスにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。
『神の七つの霊と七つの星とを持つかたが、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる。 3:2目をさましていて、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたのわざが、わたしの神のみまえに完全であるとは見ていない。 3:3だから、あなたが、どのようにして受けたか、また聞いたかを思い起して、それを守りとおし、かつ悔い改めなさい。もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。(口語訳)


私は30年以上の間「新改訳聖書」を読んでおりましたので気づきませんでしたが、口語訳もしくは新共同訳聖書を開くと3章2節に「残りの者」という表現があるのです。
 
「目をさましていて、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。(口語訳)」

新改訳聖書では、ここを「ほかの者」と訳しているのですけれど、ギリシャ語聖書にはこう書かれています。
λοιπὰ (loipa)

Strong's Concordanceでこの語句を見ると、
Short Definition: left, left behind, the remainder
Definition: left, left behind, the remainder, the rest, the others.
とあって、the othersという訳語をあてることに問題はないのですが、
left, left behind, the remainder, the rest,というニュアンスを持つ語だと理解すると少々話が変わります。というのは、

旧約聖書に書かれているところの「残りの者」という言葉には、神に従っていたからこそ滅ぼされずに地上に残されたものたちという意味があるからです。
たとえばノアの箱舟のストーリーにおける滅ぼされた者と残った者との違い、
ほかには列王記上19章のところ、そこではエリヤのエピソードの中で、神さまがこのように語ってくださる場面があるのです。
「また、わたしはイスラエルのうちに七千人を残すであろう。皆バアルにひざをかがめず、それに口づけしない者である 列王記上19:18(口語訳)」

ここにある「残す」という言葉はヘブライ語でוְהִשְׁאַרְתִּ֥י wə·hiš·’ar·tî
この語はこの形でゼパニヤ書3章12節に登場します


3:12わたしは柔和にしてへりくだる民を、
あなたのうちに残す
彼らは主の名を避け所とする。
3:13イスラエルの残りの者は不義を行わず、偽りを言わず、
その口には欺きの舌を見ない。
それゆえ、彼らは食を得て伏し、
彼らをおびやかす者はいない」。


ほかに、
「残りの者」という表現が多用されているイザヤ書から10章20~23節のところを引用してみます。
 
10:20その日にはイスラエルの残りの者と、ヤコブの家の生き残った者とは、もはや自分たちを撃った者にたよらず、真心をもってイスラエルの聖者、主にたより、
 10:21残りの者、すなわちヤコブの残りの者は大能の神に帰る。
 10:22あなたの民イスラエルは海の砂のようであっても、そのうちの残りの者だけが帰って来る。滅びはすでに定まり、義であふれている。
 10:23主、万軍の主は定められた滅びを全地に行われる。

שְׁאָ֤ר šə·’ār


ただ、ここに挙げたような表現を見るだけでは黙示録3章2節の「残りの者たち」新約における「残りの者たち」が本当に同一のものなのかぼんやりしていますね。


こんなときにこそ、パウロの聖書解説!

上に引用した列王記上19章の御言葉について、パウロがローマ人への手紙11章で解説してくれているところがあります。
 
「しかし、彼に対する御告げはなんであったか、「バアルにひざをかがめなかった七千人を、わたしのために残しておいた」。それと同じように、今の時にも、恵みの選びによって残された者がいる。11:4~5」

「残りの者」という言葉には神さまの恵みによって選ばれ、滅びずにまだこの地上にいる者という意味があるのだ、ということがわかります。




2016年8月13日土曜日

二羽の雀

二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。
マタイによる福音書10章29節


今日、祈っているとき、マタイ10:29のみことばがふと心に浮かびました。
私たちの天の父は小さな小さなすずめたちのいのちもこころにかけていてくださるお方なのだなあと思いました。
 
アダムによって罪が入って以来、
人はお母さんのお腹の中で存在し始めた瞬間から身体にも心にも弱さを抱えるようになりました。
それで、身体も、心も、病み、苦しまなければならなくなりました。
しかし、それは神さまがうっかり目を離したり私たちのことを忘れてしまわれたからではないのだ、ということを
マタイ10章のみことばは語ります。

あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。

このみことばを読みながら同時にヨブ記の2章にある神さまとサタンのやりとりを思い出すと「なぜ」と問いたくなることもありますが、
しかし、全地全能のお方に自分のような小さな者がたずね、なにがしの回答を得たところで、レベルが違いすぎてきっと理解できないのです。
 
ただ、覚えておかなければならない忘れてはいけない間違いのない確かなことが一つ。
ヨブの件についてもそして私たちの苦しみに関することについても神さまは「許可」を出されているのだ、ということ。
 
身体を病み、その結果として万一主のみもとに召されることになったとしても、
心を病み、その結果として万一主のみもとに召されることになったとしても、
 
それは、神さまが決して無関心であったわけでも、
うっかりしていたわけでも、
失敗したわけでもない。
 

 許可を出されたから。

 
愛する者を苦しめるほどの意味と価値がそこに在ったから。
 
 
二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。
マタイによる福音書10章29節
 

2016年8月1日月曜日

新しいのか古いのか

そして、イエスはたとえを話された。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。
また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。
新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。
また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」
ルカによる福音書5章36~39節

3日間、ルカによる福音書5章の後半部分で足踏みをしていました。

昔、「新しい服の布」「新しいぶどう酒」と言われているのは「イエスさまの教え」のことで、イエスさまの教えは力強く発酵する新しいぶどう酒のような力に満ちた教えであるから、既存の律法主義的なユダヤ教=古い革袋 の中には収められない?のだ、と教わったなあ…と思い、そうそう、そういう話だった、ということで読み終えようと思ったのですが、ふと見たら「もう一節」ありまして
 
また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」
ルカによる福音書5章39節


ずっと前からこの節もあったはずなのですが(そりゃ当然)
しかし、マタイによる福音書9章やマルコによる福音書2章には無いのと、
5章38節までのところについて昔習った「解説の印象」がとても強かったので「分かったつもりになっていて」飛ばして読んでいたような気がしてきました。

いや、読んではいたのだけれどもなんの違和感を感じなかったのだと思います。
が、今回はどうしたことかとても違和感を感じたのです。
 
で、一日中39節のことを考えていたのですが、分からないスパイラルに陥ってしまったので、ちょうど休日だった夫に久しぶりに聖書の質問をぶつけてみました。
 
すると彼は聖書を開くこともなく
「古いぶどう酒=ユダヤ教 ということで、当時のユダヤ教指導者たちが 新しいもの=イエスさまの教え を欲しがらないという意味だよ」と即答。

あまりにもあっさりと「当然」という顔で言われたのには驚きましたが、
「…たしかにそう教わったんだ」と思い、夫の言葉にとりあえず肯いたのではあります。
しかし家事を終えて一段落し、聖書を読み返すとまた違和感。

最近私は新共同訳を通読に使っているので、そのせいかもしれないと思い
じゃあ、新改訳に戻って読んでみましょうと、新改訳を数回読み返したら違和感がおさまった感じがしたのですが、
新共同訳に戻って数回読み返すとまた違和感がぶり返す。
どうしてそういう違いが出て来るのか分からないのですが、
もしかすると私の脳の中では…新改訳の御言葉についてはその一文一文が、かつて聴いたメッセージとしっかり固く結びついていて動かしようがないのかもしれません。


まあ、とにかく、違和感の原因が気になるので、新共同訳の御言葉を単なる「言語」として眺めてみることにしました。


で、気付いたのは、39節が「また、」という接続詞で始まっているということと、古いお酒を良いものとして評価しているというのが違和感の原因だ、ということです。

もしも「また」という接続詞ではなく「しかし」で始まっていれば、
前に提示された「新しいぶどう酒」に対立する「古いぶどう酒」ということになり、古いものにこだわっている人を批判してるように聞こえるのですが、
「また」で始まってしまうと、前に語ったものと同じような内容の話が追加されるだろうと予測しながら「また」以降の話を聞くことになるので、
これまで例示された二つの「新しい=イエスさまの教え=良いもの」に加え、もう一つ同様の何かが示されるのだろうと予測する。
ところが、同じことを言いかえるような付け加えの話ではなく、古いものを良いものとして評価する展開に!

うーーん

じゃあ、たとえば、
39節の話で古い物を良いと評価しているのは「イエスさま」ではなく、古いお酒を飲んだ「人」だと考えましょう。
古いお酒を飲んだらおいしかった、と。新しい物よりも古い物の方が良いと知っているから新しい物は要らないと「その人が思った」と。そういうイエスさまではない「人」の感覚的なものについて語っていると考えれば、イエスさまの教えを受け取らない人々への批判という理解に到達できるかもしれません。
でもそういう解釈はできないわけです。
なぜならイエスさまは「古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。」と、かなり断定的におっしゃっているのです。断定的におっしゃっていると思えるのは「だれも~しない」という表現によるわけですが、
なので、「かたくなな一部の人が」新しいぶどう酒を拒否するというよりは一般論としてだれもが「古いものの方がよい」と思っているという話なのですよね。つまりイエスさまも古いぶどう酒の良さを認めていらっしゃる。

うーーーん

何かがおかしい。

どうも納得がいかないので、33節から39節まで通して考えなおしてみることにしました。

人々はイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは、飲んだり食べたりしています。」そこで、イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」そしてイエスはたとえ話を話された。「だれも新しい服から布きれを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」
ルカによる福音書5章33~39節

だれも新しい服から布きれを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。
また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。
また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。

あれれ?
イエスさまの教えって「新しい」側に入っていますか?


「だれも新しい服から布きれを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。」っていうところの「だれも」に「神さまは」という言葉を代入し…古い服がユダヤ教だと考えるなら、…古い布で継ぎを充てなければなりませんよね?







このたとえ話が語られたのはこういう指摘があったときのことでした。

人々はイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは、飲んだり食べたりしています。」 で、この指摘の前にもイエスさまは
「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」
と言われていました。
また、このたとえ話のあとには有名な安息日の論争。
イエスさまはユダヤ教の指導者たちから
「律法や慣習を無視する新しい教えをひろめている」と思われていたわけですよね。

むむむ

これって

イエスさまは、「新しい教えをひろめている」わけではないよ!!と語られているのではないでしょうか?

よく考えてみれば、マタイによる福音書5章17節にあるように、
イエスさまというお方は律法を完成するために来られたわけですよね?
だとしたらイエスさまの教えは「新しい教え」ではない。
完成という言葉はもともとあるものに足りなかった最後のピースを入れて完成する、という事ではありませんか??

そうだそうだ。
道であり真理でありいのちであるお方は、
父なる神さまと同じお方であって、
一番始めにおられた方です。
そして昨日も今日もそして永遠に変わらないぶれのないお方であったはずです!

イエスさまはメシア(救い主)なのであって、新しい宗教の開祖ではありません。
イエスさまは世界の始めから存在していた生ける御言葉であって、宗教改革者ではありません。
つまり、ユダヤ教の指導者たちがイエスさまのことを「良くない新しい教えを説く者」と評価するのは間違っている、ということではありませんか?
本家本元はイエスさま。ユダヤ教の指導者たちこそが本筋からずれた人たち。
ずれているのにずれていると気付かず、行くところまで行ってしまって、でも自分たちは正しいと信じているから、
古くて正しいものを見て「新しい教え」とか、「変だ」と思っているということを
イエスさまは指摘しておられるのではないでしょうか。



エレミヤ書、いちじく、ザアカイさん

今日はエレミヤ書の7章8章が通読箇所でした。

エレミヤ8:13
「私は彼らを、刈り入れたい。
―主のみ告げ―
しかし、ぶどうの木には、ぶどうがなく、
いちじくの木には、いちじくがなく、
葉はしおれている。
わたしはそれをなるがままにする。」


少し前からいちじくが気になり、


新約聖書マタイの福音書21章に出てくる葉ばかりが茂っている「いちじく」をイエスさまが枯らしてしまわれたところと、創世記3章に出てくるアダムとエバが自分たちが裸であると知ったときにいちじくの葉をつづり合わせて腰のおおいをつくった、というあたりが気になって仕方がないというのが気になりだしたきっかけだったのですが



今日の、「私は彼らを、刈り入れたい。」という神さまの言葉にマタイ21章で空腹を覚えられたというイエスさまを見た気がしたのです。

イエスさまが空腹を覚えたとマタイ21章のストーリーは
イエスさまのふるまいを見て「あまりにも身勝手」だと感じる人が信者にもいないわけではなく、信者ではない人に至っては「人間だもの」と嘲笑。
しかし、そんなふうに言われてしまうイエスさまが異様に思えて…絶対何か深い意味が、見落としていることがあるに違いないと長い間思っておりまして・・・そういう気持ちを持ちつつ本日に至っております。

今日エレミヤ書で8章13節のみ言葉を読んだとき、ここに至るストーリーから考えると、本当に、本当に神さまのイスラエルに対する思い、悲しみが伝わってきて、そうしたなかで「私は彼らを、刈り入れたい。」ということばにつながっていくということを感じるわけなんですが、イエスさまの空腹という話ももしかしたらここにつながってくるのではないだろうかと。

ただ、エレミヤ書のこのみ言葉では、「いちじくの木には、いちじくがなく、
葉はしおれている。」ということで、マタイ21章とは異なり、葉がしおれているのです。マタイ21章ののいちじくは葉が茂っていますのでちょっと違います。


そうするとまた思い出すのが創世記のいちじくの葉。


創世記では、あのあと、神さまが皮の衣をアダムとエバのために作ってくださって着せてくださったんですね。
この件について、善良なキリスト教徒であったときに繰り返し何度も教えられたことは、「皮の衣を作るためには動物の犠牲が必要だった」ということです。
裸であると知ったのは彼らが神さまの言葉に従わなかったから。そして、その結果彼らは目が開かれていちじくの葉をつづり合わせたもので覆った。しかし神さまはそのいちじくの葉ではなく皮の衣を作って着せてくださった=罪の結果を動物の犠牲をもって覆ってくださった。
なので、いちじくの葉というのは、人間的に考えて罪をごまかせそうなものということであり、神さまとしては認めることが出来ないものということになるような。


とすると、マタイの所に描かれているいちじくは葉が茂っているから、罪をごまかそうとする人間の行動がみちみちていて、エレミヤ書のいちじくは葉っぱすらしおれているからもうどうしようもないほどに、汚れ果てている??

そのあたりはまだイマイチよくわからないのですが

でも今日は、読みながらもうひとつの「いちじく」に気付きました。
それはザアカイさん。

イエスさまといちじくの話をマタイ以外の福音書でも読もうと思い「四福音書の調和」という昔々に購入した小冊子(福音書のエピソードが時系列で表になっている)を眺めていると、
イエスさまが実のないいちじくに出会った話はマタイとマルコにしかないのですが、エルサレム入城と宮きよめの記事の配置から、ルカではおそらく19章の辺りだと気付きまして、そのあたりには何かなかったかなとルカの19章を開いてみたところ、そこに現れたがあのザアカイさん。
ザアカイさんのエピソードと言うのは四福音書ではルカにしかないわけですが、
ザアカイさんと言えば「いちじく桑」にのぼってイエスさまと出会った人です。
呪われたいちじくのストーリーの代わりに登場したのかと思えてしまうザアカイさんのストーリー。
いちじく桑という植物はいちじくの木のようなおいしい立派な実をつけることはないけれども、ちゃんと食べられる実をつける樹木で
その木に生(な)っていた?ザアカイさん(笑)

いちじく桑にのぼっているザアカイさん。渇き、求める彼の姿。
その姿を見つめるイエスさまの優しい目。

「私は彼らを、刈り入れたい。」エレミヤ書のみ言葉、神さまの声が聞こえます。

葉ばかりが茂っているいちじくの木ではなく、
イエスさまに心の底から出会いたかったザアカイのいるいちじく桑。

「私は彼らを、刈り入れたい。」

イエスさまの孤独

今日の聖書通読はマルコによる福音書14章でした。
 
 

再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。
マルコによる福音書14章41、42節

 
イエスさまが捕らえられる直前の様子をマルコは描きます。

 
「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。」
私はこの言葉を読むたびにイエスさまの深い孤独を感じます。
 
親しい仲間たち=弟子たち は眠っている。
しかも、自分を裏切って敵の手に渡すのは弟子であるユダです。
十字架は「人」の罪の身代わりです。「さばき」です。
父なる神さまとの断絶です。
 
…主は、人間となられた主イエスは、完全な孤独です。
 
しかし、

 
本当は、人間とは孤独なものです。
孤独以外のなにものでもない。
「本当は」と書いたのは、
通常は「孤独」なんて感じないことが多いからです。
でも、何かあった場合、
私のような落ちこぼれ孤羊は痛いほど感じます。
ああ、孤独だ・・・と。
もっとも、囲いの中にいても同じだったのです。
だからこそ外に出てしまったような気もします。
喜びであれ、ましてや苦しみを
真の意味で人と分かち合うことなど
出来るものではなかったのだという絶望、孤独。
 
 
東日本大震災のあと、「絆(きずな)」という言葉がもてはやされ、SNSでつながることが流行しましたが、
悟った者のように語らせてもらえば、
どんなにたくさんの人とつながろうと、むしろ、つながればつながるほど孤独を感じるものです。 
なにかイレギュラーなことが起こればなおのこと
ひとりぼっちであるという事実と感覚は増幅して襲い掛かってきます。
親がいてきょうだいがいて親族がいたとしても同じ。
SNSより少し上質な「つながり」は
上質であると思えば余計に失望させられる。
 
 
人に期待し、人を頼っても、
結局人は何もしてくれないし、
逆に自分だって
精一杯行ったつもりでも
誰も満足している様子ではなく・・・
 
 
 
 
そういう孤独、そして無力感を
人間であるイエスさまは徹底的に味わってくださった。
イエスさまは神さまであられるのに、人間の絶望を知ってくださった。
 
 
 

先日、
NHKのこころの時代「釜ヶ崎で福音を生きる~神は小さくされた者の側に~」
という番組を見ました。
その番組に登場された本田哲郎神父は新共同訳聖書の翻訳にもたずさわられた方でありますが、個人としても聖書を翻訳しておられ、番組では神父の個人訳聖書からいくつかのみことばが取り上げらていました。
本田神父の訳はどれをとってもとても心に残る、そして目から鱗が落ちるようなものだったのですが、特に「山上の説教」がとても心に残りました。
 
 
心底貧しい人たちは、神からの力がある。
天の国はその人たちのものである。 
死別の哀しみにある人は、神からの力がある。
その人は慰めを得る。 
抑圧にめげない人は、神からの力がある。
その人は地を受け継ぐ。 
解放に飢え渇いている人は、神からの力がある。
その人は満たされる。平和のために働く人は神からの力がある。
その人は神の子と呼ばれる。
番組で、本田神父はこう語っておられました。
神さまはイスラエルを「選ぶ」のにあたって、彼らが人数が多かったから選んだのではなく、むしろ彼らの人数が少なく貧弱だったから選んだ、つまり彼らの「弱さ」を選んだ。(申命記7章6節参照)
そして、神さまの「力」は弱さの中にあって発揮される。だから弱いときにこそ強い。
神さまの力というのは、弱さを知っている人、痛み、苦しみ、さびしさ、くやしさ、怒りを知っている人に発揮されるのだ、と。
 
 
 

 
イエスさまの孤独、
それは神さまと断絶した罪人たちが、「きれいごと」という名で彼らを覆っているありとあらゆるものをはぎ取られあらわになった「孤独」の総和だったのかもしれないと今日は聖書を読みながら思いました。

私たちが孤独を深く感ずるとき、イエスさまの十字架は私たちにより近づき、
私たちが「もうだめだ」と絶望するとき、むしろその時こそが私たちに神さまの力が現れる。
 
中途半端な幸せではない神さまから与えられる究極の幸せが、小さくされた、弱くされた人々にあるのだ…と

【調べ学習】いちじくについて

「いちじく」について調べ学習をしました。
 
イエスさまが「いちじくの木を呪って枯らしてしまう話」というのが、今通読しているマルコの福音書をはじめ他の福音書にもあるわけですが、
何度読んでも変な話だとしか思えないのですよ。だってね、イエスさまはまず空腹を覚えられ→いちじくの木のところに行って実がないと知り→呪っていちじくの木を枯らす
ってね、簡単にストーリーは展開していくわけですが、でもイエスさまが荒野の試みで空腹だったときどうであったか、5000人給食のあたりの話とのからみではどう考えればいいのか、とか考えると、腹が減って食えなかったから枯らしちゃったというそんな簡単な話であるはずがない。
で、教会や集会でもこれはね、と「解釈」を習ったことはあるのですが、「解釈」ではなく、また、辞書的なものでなく、聖書のみことばをひたすら読んで読み取ったらどう読めるのか大変に興味があったのです。
 

 
今回の調べ学習の手順は、


エレミヤ書8章13節に出て来る「いちじく」という語を手がかりにおなじみBible Hubでまず原語(ヘブライ語)を検索。
http://biblehub.com/jeremiah/8-13.htm
つぎに、その言葉が聖書(旧約)のどこに使われているかを調べ、
http://biblehub.com/hebrew/8384.htm
その全ての箇所を読むことでどういう印象を持つことになるのか、やってみました。
 
原語はתְּאֵנִים Transliteration(音訳)すると 「teenah」だそうです。
で、この語は聖書の中に39回登場。
以下聖書の箇所と括弧内はその箇所のざっくりした内容です。
括弧内にA、,Bと書いてあるものは、聖書を読んでいて気になった箇所で、この下にAグループBグループ二つのグループに分類して、日本語聖書を引用しています。
 
創世記3:7(葉)
民数記13:23(エシュコルの谷)
民数記20:5(A)
申命記8:8(B)
士師記9:10(たとえ話)
士師記9:11(たとえ話)
列王記上5:5、新改訳聖書ではⅠ列王記4:25(B)
列王記下18:31(B)
列王記下20:7(B)
ネヘミヤ記13:15(安息日を汚す)
詩編105:33(A)
箴言27:18(いちじくの番人)
雅歌2:13(B)
イザヤ書34:4(A)
イザヤ書38:21(B)
エレミヤ書5:17(A)
エレミヤ書8:13(A)
エレミヤ書24:1、2、3、5、8(民をいちじくに見なす)
エレミヤ書29:17(民をいちじくにたとえる)
ホセア書2:12(A)
ホセア書9:10(イスラエルの先祖をいちじくの初生りにたとえる)
ヨエル書1:7、12(A)
ヨエル書2:22(B)
アモス書4:9(A)
ミカ書4:4(B)
ナホム書3:12(ニネベの要塞)
ハバクク書3:17(A)
ハガイ書2:19(B)
ゼカリヤ書3:10(B)
 
 
Aグループ
 
民数記20:5 いちじくも、ぶどうも、飲み水さえもないではありませんか。(出エジプト時の不平)
 
詩編105:33 主はぶどうといちじくを打ち国中の木を折られた。(出エジプト前のエジプトで)
 
イザヤ書34:4 天の全軍は衰え、天は巻物のように巻き上げられる。ぶどうの葉がしおれ、いちじくの葉がしおれるようにその全軍は力を失う
 
エレミヤ書 …ぶどうやいちじくを食い尽くす。お前が頼みとする砦の町々を剣を振るって破壊する。
 
エレミヤ書8:13 ぶどうの木にぶどうはなく、いちじくの木にいちじくはない。葉はしおれ、わたしが与えたものは彼らから失われていた。
 
ホセア書2:14 (新改訳では2:12) いちじくとぶどうの園を荒らす
 
ヨエル書1:7 わたしのぶどうの木をあらし、わたしのいちじくの木を引き裂き
 
ヨエル書1:12 いちじくの木は衰え
 
アモス書4:9 いちじくとオリーブの木はいなごが食い荒らした。しかしお前たちはわたしに帰らなかった。
 
ハバクク書3:17 いちじくの木に花は咲かず
 
 
 
 
Bグループ
 
申命記8:8 小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地(神さまのたまわる良い地を描写)
 
列王記上5:5(新改訳ではⅠ列王記4:25)ぶどうの木の下、いちじくの木の下で安らかに暮らした。
 
列王記下18:31「わたしと和を結び、降伏せよ。そうすればお前たちは皆ぶどうといちじくの実を食べ、自分の井戸の水を飲むことができる。」(アッシリアの王の言った言葉)
 
列王記下20:7、イザヤ書38:21 イザヤが「干しいちじくを取ってくるように」と言うので、人々がそれを取って患部に当てるとヒゼキヤは回復した。
 
雅歌2:31 いちじくの実は熟し、ぶどうの花は香る。恋人よ、美しい人よ、さあ立って出ておいで。
 
ヨエル書2:22いちじくとぶどうは豊かな実りをもたらす
 
ミカ書4:4 自分のぶどうの木の下いちじくの木の下に座り脅かすものは何もない
 
ハガイ書2:19 ぶどう、いちじく、ざくろ、オリーブはまだ実を結んでいない。しかし、今日この日から、わたしは祝福を与える。
 
ゼカリヤ書3:10 その日には、と万軍の主は言われる。あなたたちは互いに呼びかけてぶどうといちじくの木陰に招き合う。
 
 
 
コンコルダンスに挙げられていた聖書の箇所を創世記から順番に読んでいって、まずは「そんなの当然でしょ」と言われるかもしれませんが、日本とは異なりごくごく当たり前なものとしていちじくが存在しているということが分かりました。(たとえ話等に用いることが出来るような、人々が皆その植物の名を出されると共通に理解し合えるなにかを持っている。)
ただ、当たり前な存在ではあるのですが、どうでも良いものという扱いではなく、大切な作物。
上のBグループに分類したみ言葉を読むと、
いちじくの木や実があるということが、喜びがあふれ、平安であり、つまり神さまから大いに祝福されているということを表しているのだと受け取れます。また、ヒゼキヤ王の病が干しいちじくによって癒されたことや他の預言書のみ言葉からは、いのちを得ること=回復というイメージもあるように感じます。
しかも、グループに分類しなかった以下のみ言葉を踏まえるならば、
エレミヤ書24:1、2、3、5、8(民をいちじくに見なす
エレミヤ書29:17(民をいちじくにたとえる
ホセア書9:10(イスラエルの先祖をいちじくの初生りにたとえる
いちじく(植物名)=イスラエル(民族=ヘブライ人)
であり、したがって、いちじくに実があるとか無いとかいうことはイスラエル(民族)のことを語って実があるとか無いとか語っていると考えるのが妥当なのかと思います。
 
 
Bグループに対してAグループに分類したみ言葉は、読んでいてBグループの逆だな、と感じたものを列挙したのですが、
 
まずは出エジプト中の事として、いちじくの実がない=食べられない、食べるものがない=苦しい状態を表現している民数記のみことばが一つ。
そして次の詩編のみ言葉は、出エジプト直前のエジプトで神さまがぶどうといちじくを打ち、国中の木を折られたという話。このいちじくはイスラエルのことではなく、豊かだったエジプトを表現するためにあげられているのだと考えられますが、その豊かさをその悪のゆえに神さまが打たれたということで、神さまのさばきと言いましょうか、イスラエルを守るために、そしてしるしのため、神さまが人間の営みそして自然の営みに介入されたということです。
いずれにしましても、いちじくの実が無いということは、喜びも平安もなく、神さまから見捨てられた状態を表現するときの象徴的なできごと、もしくは、実際に実は無いし木も枯れるのかもしれませんが、とにかくイスラエルを愛し選んでくださったまことの神さまと断絶した状態の表現であることがうかがえます。
 
 
マルコによる福音書11章12節から始まるいちじくの木を呪うお話は、
今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように
とイエスさまが語られてから
いちじくの木が根元から枯れているのを見た。
という記述に至る間に、実はいわゆる「宮きよめ」の出来事が書かれています。
 
「こう書いてあるではないか。
『わたしの家は、すべての国の人の
祈りの家と呼ばれるべきである』
ところが、あなたたちは
それを強盗の巣にしてしまった。」
マルコによる福音書11章17節
 
上に書いたBグループのいちじくの記述とあわせて考えるならば、
イエスさまが見たいちじくの木には実が無く葉しかなかったという表現で
まずイスラエルが神さまと離れている断絶しているという状態を象徴的に、もしくは現実の問題として「葉しかなかった」と表し、
次に、宮きよめの様子を記述することで、イスラエルが現状でどんなに堕落しているのかが二段構えでわかるわけです。
また、あの常に穏やかなイエスさまが神殿から商人を追い出し腰掛けをひっくり返す=神さまによる実力行使=裁き ということが連想されるなか、同時に「あのいちじくの木が枯れた」ということを改めて記述することで、神さまと断絶してしまっているイスラエルへの裁きというものを、聖書をよく知る人々にはイメージできるのだと思いました。
 
 
ただ、もう一つ、
聖書をよく知る人にはイメージできることがある、と思いました。
上の方で
創世記3:7(葉)
と書いたのですが、何だよ(葉)ってwwということですが、
これは、あのアダムとエバの話のところです。罪を犯したアダムとエバ(当時はエバという名はなく女だった)がまず始めにやったことはいちじくの葉で腰を覆うということでした。
いちじくの葉で腰を覆った二人=神さまの言いつけを守らず蛇の言うことを聞き目が開け裸であると悟った二人に
 
主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。
創世記3章21節
いちじくの葉ではなく、動物を犠牲にし、「皮」の衣を着せてくださったのですね。
 
宮きよめ、そしていちじくを枯らすという神さまの怒りと裁きを示されたイエスさまでありますが、
そう、この後イエスさまはいよいよ十字架にかかられる。
現状として神さまと断絶しているイスラエル、というだけでなく、アダムによって人間に入った罪、その罪のゆえにエデンの園=神さまの楽園、パラダイスから追放され、
罪が罪を産み、罪は熟しに熟し、様々な問題が次から次へと発生し、苦しみ悲しむすべての人々のためにイエスさまは血を流されるのです。
いちじくの葉で腰を覆ったあの瞬間から続いた全ての問題に終止符が打たれる。本物の犠牲、神さまのおひとり子イエスさまの死、イエスさまという「衣」を神さまは私たちに着せてくださる!
 
 
ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」
そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」(もし赦さないなら、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちをおゆるしにならない。)
マルコによる福音書11章21~25(26)節
 
そうするとこの箇所はどう読めるのでしょう。
何も考えずにこの箇所だけを独立させて読むならば、「何でも与えられると信じて祈れば与えられる」という御利益宗教的な話で終了しそうですが、前段の全てのことを踏まえてこの箇所に到達するとき、まずペトロの言った言葉には小さな子どもが驚いて「先生見て見て!」と報告しているのとは違うのかもしれないということに気付きます。ペトロはいちじくの木が枯れるということはどういう事なのか、イエスさまがどうしてそんなことをなさったのか、全てのことを察した上でそう語ったと想像できるのです。そして、そのいちじくが枯れたあの日、あのあと先生はこうおっしゃったのだとマルコは筆を進めるわけです。
マルコの記したイエスさまの第一声は「神を信じなさい」という言葉でした。
「…そう、先生は神を信じなさいとおっしゃったのだ。
先生はいつもそうだった。
神さまを信じること、それが最も大切だと言っておられたのだ。
神さまを信じない、神さまから離れてしまった結果、神殿は強盗の巣になってしまい、いちじくは枯れてしまったのだ。」

神さまを信じるということ、そして神さまから赦されて神さまとの交わりを回復するということがどれほどのことであるのか
神さまを信じず神さまから赦されず交わりを回復できないということがどういうことであるのか

マルコの記録してくれた言葉を通してつくづく思い知らされたような気がしました。


【調べ学習】塩について

マルコ9章49節「すべては、火によって、塩けをつけられるのです。」の「塩」という言葉についてギリシャ語を調べました。
いつものようにhttp://biblehub.com/です。
はじめに
Berean Study Bibleの英語の訳。
For everyone will be salted with fire.
 
will be saltedに該当するギリシャ語は
ἁλισθήσεται.
で、聖書には3回登場するそうです。
マタイ5章13節「何によって塩けをつけるのでしょう」
マルコ9章49節「塩けをつけられる」
もう一箇所も、マルコ9章49節…ん???
 
ここで、さっそく「知らなかったこと」の発見。
 マルコの9章49節は
新改訳では
「すべては、火によって、塩けをつけられるのです。」
と書いてあり、
また多くの英語の聖書も
will be salted
ἁλισθήσεται.
という言葉は1回だけ使われているのですが、
以下1回登場する聖書の聖句
New International Version
Everyone will be salted with fire.
English Standard Version
For everyone will be salted with fire.
Berean Study Bible
For everyone will be salted with fire.
New American Standard Bible 
"For everyone will be salted with fire.
以上。
 
ところが新改訳聖書や上に引用した聖書とは異なり
ἁλισθήσεται.
という言葉が2回使われているものがあるのです。
King James Bible
For every one shall be salted with fire, and every sacrifice shall be salted with salt.
International Standard Version
Because everyone will be salted with fire, and every sacrifice will be salted with salt.
Jubilee Bible 2000
For every one shall be salted with fire, and every sacrifice shall be salted with salt.
King James 2000 Bible
For every one shall be salted with fire, and every sacrifice shall be salted with salt.
Darby Bible Translationダービー訳も入れてみました(^O^)
For every one shall be salted with fire, and every sacrifice shall be salted with salt.
 
で、Bible Hubのギリシャ語聖書も
ἁλισθήσεται.
が2回書かれているので、この語が3回登場するというふうにカウントしているのですね。
 
will be saltedとかshall be saltedが2回書かれているみことばを読みますと、
すべての人」は火によって塩けをつけられるであろう
そして
すべてのsacrificeいけにえ」は塩によって塩けをつけられるであろう
という対句のような感じになっているのですね。
 
で、後半の「すべてのsacrificeいけにえ」は塩によって塩けをつけられる、というみことばは
レビ記2章13節とエゼキエル書43章24節を思い出させますよね。
あなたの穀物のささげ物にはすべて、塩で味を付けなければならない。あなたの穀物のささげ物に、あなたの神の契約の塩を欠かしてはならない。あなたのささげ物にはいつでも塩を添えてささげなければならない。
レビ記2章13節
あなたは、それらを主の前にささげ、祭司たちがそれらの上に塩をまき、全焼のいけにえとして主にささげなければならない。
エゼキエル書43章24節
 
やはり土台は旧約聖書
ヘブライ語だ!ということで、
…なにしろBible Hubならワンクリックで検索できてしまいますからヘブライ語の「塩」も調べてみました。
me·laḥって言うんだそうですよ。מֶ֔לַח
で、レビ記とエゼキエル書と同じこの言葉が使われているのは、
創世記19章26節「の柱」
レビ記2章13節 上の引用参照
民数記18章19節「永遠のの契約」
士師記9章45節「民を殺し、町を破壊して、そこにをまいた。」
Ⅱサムエル8章13節「の谷」
Ⅱ列王記2章20節「新しい皿にを盛って」
Ⅱ列王記2章21節「エリシャは水の源のところに行ってをそこに投げ込んで」
Ⅱ列王記14章7節「の谷」
Ⅱ歴代誌13章5節「の契約」
ヨブ記6章6節「味のない物はがなくて」
詩篇60篇1節(新改訳聖書では1節の前)「の谷」
エゼキエル43章24節 上の引用参照
ゼパニヤ書2章9節「の穴」
 
 
と、ここまで調べて書いて、
塩とは、聖書を読む上で、
これまで考えていた以上に重要な物、
聖書信仰を理解する上で鍵となるような物なのではないかと思うに至りました。
これまで、通読していてもあまり疑問に思ってはいなくて、
「永遠の塩の契約」???そんなのあったっけ??(゜д゜;)という…
ひどいですよね。何回聖書読んでるんだいおまえはーと怒られそうです。ヽ(;´Д`)ノ
まあ、神さまはげんこつゴツンなんてことをなさる方ではないのでね、
これを機に知ればいいこと、ということで。σ(^_^;)
まったくねえ、けっこう飛ばして読んでいるんですよね。
話の筋だけ追っている。
 
というわけで、
「永遠の塩の契約」ググりました。
そうしましたら、
B.F.P.Japan という特定非営利活動法人のサイトにものすごくわかりやすいお話がありまして、
「契約の塩」http://www.bfpj.org/know/teachingletter/?id=92
前編と後編があるのですが、
読ませていただきまして、感動したというか、
自分は聖書や聖書の世界についてまったく知らないのだということがあまりにもはっきりと知らされて、
しかし、読ませていただいたことで新しく知ることが出来、
何だか本当にうれしくてたまらない感じになりました。
なんでしょうねえこのワクワク感は。
 
 
すべては、火によって、塩けをつけられるのです。塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。
マルコの福音書 9章49,50節 (新改訳聖書)
 
人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩けがなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。
マルコによる福音書 9章49,50節 (新共同訳聖書)
日本語の聖書二つのみ言葉とギリシャ語聖書を比較してみました。
 
πᾶς (everyone)
γὰρ(indeed)
 πυρὶ (with fire)
ἁλισθήσεται, (will be salted,)
καὶ (and)
πᾶσα(every)
 θυσία(sacrifice)
 ἁλὶ (with salt)
ἁλισθήσεται.(shall be salted.)
 
καλὸν(Good [is])
 τὸ (the)
ἅλας·(salt,)
 ἐὰν(if) 
δὲ (however)
τὸ (the)
ἅλας(salt)
 ἄναλον(unsalty)
 γένηται, (becomes,)
ἐν(with)
τίνι (what)
αὐτὸ (it)
ἀρτύσετε; (will you season?)
ἔχετε(Have)
ἐν(in)
 ἑαυτοῖς( yourselves)
ἅλας(salt,)
 καὶ (and)
εἰρηνεύετε(be at peace)
 ἐν(with)
 ἀλλήλοις.(one another.)
 
 
「すべては、火によって、塩けをつけられるのです。塩は、ききめのあるものです。」
「人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。」
まず、この部分についてギリシャ語の単語一つ一つを調べてみると、(上の括弧内に書いた英語は英語の聖書と対応させたものですが、それとは別に単語の一つ一つを辞書で確認してみると)新共同訳の方がより直訳に近いという印象を受けました。
καλὸνを新改訳では「ききめがある」と訳していますが、辞書的な言葉の定義としては beautiful, as an outward sign of the inward good, noble, honorable character; good, worthy, honorable, noble, and seen to be so.で、マルコ9章50節については
καλόν τό ἅλας (is an excellent thing)だそうです。 
 
しかし、それにしても、「塩」について調べてみて、
特に初めて「塩の契約」という言葉を意識するようになった結果、
これまで自分が思い描いていた「塩と言えば腐敗防止」というだけの塩についての認識では足らない、と思うに至りました。

神がともにいてくださるということ

新共同訳をメインの聖書として読むことにしました。

で、
今日はマルコによる福音書の11章1~7節を読みました。
もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。
マルコによる福音書11章3~6節(新共同訳)

 
聖書を読み慣れている人にとって、そして聖書の神さまを既に信じている人にとってこの箇所は、取り立てて違和感を覚える場所ではないかもしれません。
しかし、初めて聖書を読む人にとっては、とても不思議な感覚を覚える箇所なのではないか、と思うのです。
 
イエスさまが二人の弟子をいま使いに出そうとしておられます。
イエスさまは弟子にまだだれも乗ったことのない子ろばを連れてきてほしいのです。
で、イエスさまは言うのです。「向こうの村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばが見つかるから、それをほどいて持ってきてね」と。
ほどいて持ってきてね??勝手にほどいて持ってきたら泥棒じゃん、と思うわけですが、そういう読者や、おつかいに行く弟子たちのために、イエスさまは持ってきちゃうにあたっての注意点をあらかじめ伝えて下さるわけです。
 
もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」(3節)
 
この箇所を読むといつも同時に思い出す箇所があります。
イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都に行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入っていく家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
マルコによる福音書14章13~16節
 
現代ならば、スマホを使い、予約サイトで予約したのだろうと考えられるわけですが
そんなのがある時代ではありませんのでね、
もちろん電電公社時代の黒電話だってありませんよ。
じゃあ、いったいどういうからくりなんだ、と思うわけです。
 
 
 
最近思うのは、

この子ろばの件や席の整った二階の広間の件に、弟子たちは「葦の海の奇跡(出エジプト記14章)」を思いだしたかもしれないということです。
 
海辺に宿営しているイスラエルに襲いかかろうとするエジプト軍。
恐れて主に向かって叫ぶイスラエルの人々。
恐れてはならないと語るモーセ。
そしてモーセに語られる神さま。
「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。…わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。…」
イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。
出エジプト記14章19,20節
常にイスラエルの先を行ってくださった神さま。まさにあの時と同じように神さまは自分たちの先を行き整えてくださるのだ。だから、そこに子ろばがあり、二階の広間は整っていた——
 
イエスさまが十字架にかかられた後、きっと彼らは思い出したに違いありません。いつもイエスさまといっしょにいたころのことを。
ああ、いろんな不思議なことがあったよなあ…と。いろいろ不思議ではあったのだけれど、記憶に新しいあのこと、子ろばのこと、二階の広間のことって・・・
 
ああ、主は、自分たちが全く知らない間に準備しておいてくださる方なのだ。あの時、主はずーっと私たちといっしょに、目と目を合わせてお話しできる距離にいたはずなのに、いつの間にか遠くの子ろばも二階の広間も準備してくださった。小さな日常の様々なことを主は心にかけ、私たちの先を行き、備え、私たちを導いてくださった。
そして小さな事だけではない。すべてにおいて、そう、思い出すべきは葦の海の奇跡だ。だから、歴史として記録されるような大きな問題が起こるような時であっても主は間違いなく信じる私たちの前を先立っていかれる。そして、主は先に立つだけではなく
先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、(19節)
私たちを敵の手から守ってくださる!
 
 
 
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられました。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
ルカによる福音書22章31.32節
 
いまふと、聖書に目を落としましたら、扇風機の風にふかれたせいでしょうかマルコではなくルカの福音書の22章が開かれてありました。
あ、イエスさまはペトロのために、あらかじめ祈ってくださっていましたね、そういえば。
イエスさまがあまりにも先に行き過ぎたお話をなさるので
ペトロは「え゛~~~~!!先生どうしてそんなことおっしゃるんですかー!!私は信仰捨てませんよぉ!!」という具合でありましたが、
イエスさまは弱い私たちが途方に暮れることのないようにあらゆる場面で先に行ってくださる方なのですね。先に行き、今ここで共にあり、そして移動して後ろにも立ってくださる方。
 
神さまがともにいて下さるというのはそのような鉄壁の守りの中にいるということなのですね。
三次元空間に立つ私たちはそのことに気がつかないで、不信仰で、叫びがちですが
 
「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
…感謝ですね。

偶像(1)

今朝は通読箇所の他に黙示録の七つの教会のところを読みました。

で、ちょっと気になった「ニコライ派」という言葉。どんな教えのことなのかと検索してみましたら、中学生の頃ほぼ毎日聴いていたラジオ番組のサイトにとてもわかりやすい説明があり感謝でした。
http://www.jesus-web.org/radioprg09/prg_box190_20090325.htm

…偶像。



一瞬、「偶像かあ。じゃあ私には関係ないこと」という思いになりました。
しかし次の瞬間、いや、待てよ、偶像って…



クリスチャンは、おそらく偶像なんて拝まないでしょう。金メッキされた像とか、石を削った物とかその手の物など聖書の言葉を知っているクリスチャンが「通常は」そんな物を拝むはずなんて無いと思います。
しかし、
「偶像」が文字通りの「像」でなかったならば、偶像を避けることは難しいかもしれません。









先日、私は一本の動画を見ました。それは以前所属していた集会で人気のあった伝道者の方の動画でありました。
しかし、視聴し始めてそれほど経たないうちに、私はその動画を見なければよかったと後悔しました。
https://youtu.be/FBtiC7m4GS4?t=11m56s

実はそのメッセージには、原発に関連した内容が含まれていました。
伝道者の彼は軽い調子で「福島でがんは増えていない」と語りました。

医師でも研究者でもない、ご自分で調査をしたわけでもないはずの彼がなぜそんなことを断言できるのか知りませんが、彼は「福音」を語るために上がった壇の上からそう聴衆に語りました。





しかし私は、岡山大学の津田敏秀教授の論文により福島では少なくとも甲状腺がんは増加していると認識しています。
もっと言うとそれは福島だけの問題ではなく、群馬県内に住む私の親族でも成人の一人が膀胱がん、別の一人が心疾患、別の三人に謎の大きな腫瘤(ピンポン玉大)がそれぞれ身体の数か所にでき、そしてさらに別の二人の「男性」は甲状腺の疾患を発症しました。
申し添えるなら、がんについては家系的にそういう疾患が多いわけではなく、腫瘤についても甲状腺疾患についても初めてそういう病名を親族から聴いたので驚いているのと、彼らに共通する考え方や生活習慣がこういう文章を書いている私自身とは真逆・・・というかそれ以上の積極性を感ずるものであったので、悲しみと恐怖を覚えているわけであります。
また、甲状腺専門を標榜する医院の新しい看板を高崎市や伊勢崎市で目にしました。

甲状腺がんの発生と原発事故の因果関係を否定する学者がいることは知っていますが、これは公害病をはじめ、私も経験しましたが薬害や予防接種による健康被害などが起こるたびに必ず繰り返される「被害自体の存在の有無と被害者と認定するか否かの問題」ということと同じなのだろうと思っています。
そういう将来を見据えて、今は国の持てる力を結集して「因果関係はなかった」ことにしようとしているのでしょう。研究者や医療者も、国がつぶれない限りにおいては国に恩をっておく方が得でしょうから、一生懸命ですよね。
放射線による被害は、きわめて特異的である「甲状腺がん」でさえこれほどもめるのだとすれば、それ以外のことについては、
なにしろ現代社会における人体のことです、有害な化学物質の影響だって山ほどある上に心の問題もあるわけですから、誰が見ても明らかだと言えるような直接的な因果関係の証明はできないのかもしれません。

被害に遭われた方は本当に悲惨だと思います。こういうことによる被害は、被害自体の悲惨さだけでなく、信頼していたものに次々と裏切られる大きな悲しみが伴うものだからです。








さて、

伝道者である彼の話は続きます。

節電でエアコンがなくて暑かった→電気要るよね→原発要るよね 
放射能を怖がる人々は「感情的」だと批判。
「原発が事故を起こす確率はきわめて低い」と、
嘲笑うかのごとく語る伝道者

共に笑う聴衆


本当にこれは神さまからのメッセージ動画ですか?

この地球を造られた主は、人間が排出し続ける処理することのできない猛毒についてどう思っていらっしゃると思いますか?

もちろん、罪人のなす事だからこのことに限らず所詮何をやったって完ぺきではない、たとえ原発を動かさなかったとしても、生きて動いているということ自体が害悪だ、というような発想が罪を自覚した者としてないとは申しませんけれども、

だから仕方ないんだ、だから何をやったって良いんだ、人間が生きていくためには仕方ないんだ、今生きている我々が快適に生活ができればいいんだ、あとは野となれ山となれだ、
で良いのですか。

そう言うと…ナルドの香油の話が出てくるのかな。
そして、「身体の弱い人々にエアコンは必要なのだ」とか「福音集会を快適にすることを主は喜ばれる」とか言うのかな。


しかし、事故から5年経ってもまだまだ放射性物質を放出し続けている、全然アンダーコントロールなんかじゃない福島、収束なんてしていない福島、作業員の方々が連日とてつもない被ばくを強いられている福島を抱えているこの国で、「次の事故が起こる確率は低いんだよ」と言って原子力発電を推奨することが、本当に、本当に御心なんでしょうか。
いや、次の事故などという遠い未来のことを語るような口調で言っていられる状況ではありません。余震だけでも年がら年中揺れ続けている福島のことです。再びとんでもない事態があそこで起こるかしれません。
そして、もしそうなったら

日本は終わりです。


そもそも、この狭っ苦しい島国で、世界の活火山の約1割がある日本で、世界の地震の2割が日本周辺で発生しているのに原子力という選択肢があるということ自体がおかしかったのです。そのことに早くから気付いていた人々は以前からいろいろな事態を想定して指摘をなさっていたわけですが、
原子力は資源の乏しい日本を救うクリーンなエネルギー、
安心安全、
プルトニウムは飲んでも大丈夫!
みたいなキャンペーンによって洗脳された「私のような馬鹿」は全く分からなかったのです!痛い目に遭ってみなければ分からない馬鹿!
本当は福島の事故を引き起こす前に気付くべきだったのです!
そして気付いたら角笛を吹くべきだった!
しかしそれが出来なかったから取り返しの付かない大きな事故を起こしてしまった!!


動画の一時停止ボタンを押しました。

クリスチャンなのだから土台は一緒だろうと思って動画を見始めたわけですが土台が違っていることに気付いたからです。

彼が土台としていたのは「科学的」と呼ばれる「非科学」なものでした。
「科学的に」云々と人が語るとき、語っている人はたいてい科学者ではありません。
自分の言葉に箔をつけるために「科学的」という言葉を使うのです。
そして、「科学」とは絶対的なものでないことを「科学的に」と語る人は知りません。
だから「科学的に」という言葉に絶対的な力があるような論調になるのです。
「科学」とは日々刻々と変化しているものであり、謙虚なものです。
機会のある方はぜひ本物の科学者の語る言葉をお聞きください。
大きな大きな不思議な不思議な「自然」を見続け、聴き続け、考察し続けている科学者たちは人間の小ささを良く知っています。
「経験的にはこうであり、これまで90パーセント以上の確率でこうであったが・・・」
ある日突然「そうではなくなることがある」と彼らはよく知っているからです。
そして、まだまだすべてのことが分かっているわけではないからこそ研究者は研究を続けているわけです。研究者が存在しているのは研究のネタが尽きていないからであって、ネタが尽きていないということであればすべてのことをわかっているわけではないということ。



私は彼の姿が大きく映っていたテレビのスイッチを切りました。






厳しい基準をクリアして記者を集めてスイッチ入れたら警報機鳴って赤っ恥。
最高水準の科学が聞いてあきれた。









あなたがたは、ひとつかみの大麦のため、少しばかりのパンのために、まやかしに聞き従うわたしの民にまやかしを行い、死んではならない者たちを死なせ、生きてはならない者たちを生かして、わたしの民のうちでわたしを汚した。
エゼキエル書13章19節




唯一の被爆国であり、どこの国の人々よりも核の恐ろしさを知っていたはずなのに、福島第一原発事故後、この罪深い国は「放射性物質の取り扱いのイロハのイ」すら完全に無視し、汚染された地域の経済活動を止めず放射能を全国に拡散させてしまいました。

ひとつかみの大麦のために
あることはないことにされ、
オリンピックの誘致までし、
真実を語れば風評被害だと大声で封じ込められ、
少しばかりのパンのために死んではならない者たちを死なせる道を選びました。

さらにこの国は、国防のためになにがなんでも核を手放したくはなく、
この国の一流大学の研究者や評論家に、巧みな言葉を語らせて
大丈夫ではないのに大丈夫だと信じさせ
無条件に安全ではないのに無条件に安全であるかのごとく語り
民の心を偽りの言葉で満たしてしまったのです。

そして、ついには伝道者さえも
主の御言葉を取り次ぐべき講壇で・・・
ああ、その瞬間「科学」はまぎれもなく偶像となり、
彼は神さまの権威を引きずり下ろした。




主にある者にとっての「科学」とは、
大前提として、主の造られた秩序をそして被造物を破壊してはならないのです。
破壊するのは破壊者が成すことです。
破壊者=悪魔とかサタンとか言われているもの の思いは「罪」です。
罪とは、先々のことを考えず、今ここに生きる自分さえエアコンにスイッチを入れられればいいという身勝手なものです。

もちろんクリスチャンは禁欲主義になれなどと神さまから言われてはいません。しかし、私たちに与えられている自由は神さまの定められた秩序の中でのものです。エデンの園は楽園でありましたがそこにも創造主である神さまの定められたルールがありました。そのルールは人間に命を与えゆたかに守り、保つものでありました。逆に言えばそのルールを破る者は命を失い、楽園から放り出される。
また、人間は神さまに似たものとして造られましたから創造力に富み、他の被造物とは比べものにならない極めて高い能力を持っています。しかし、その能力を行使するにあたってもルールがあるのです。「バベルの塔」を作ってはいけない、それが主の教えです。

ですから、世の人の言う「科学」によって何か一つの結論が得られたとしても、それが神さまの御心からずれているならば、例えば被造物を破壊するものであったり、
弱い者を苦しめるものであるなら、どんなに素晴らしい技術であれ、それは用いない。
もしも、当初はそういう危険が分からず、悪意はなく、良かれと思って利用していたら大きな失敗を犯してしまったというのなら、
…人間は不完全ですからそう言うことは多々あるわけですけれども、そういう場合には方向転換をする。すなわち悔い改める。
これが聖書を土台とする者の「行い」ではないでしょうか。






ところで、伝道者の彼は動画の中で放射能は見えないし云々と語っておられましたが
そうですね、たしかに放射能自体は肉眼では見えません。
しかし本当は、神さまはしっかりと肉眼でも見えるようにしてくださっているんですよ。
神さまが造られた声なき弱き小さな被造物を通して。

放射能により突然変異したムラサキツユクサ




この小さな被造物から
神さまの声が聞こえませんか?

自分は人間
これは植物

ではありませんよ。遺伝子はいっしょですよ。
中学生にも高校生にも授業で教えますよ。
デオキシリボ核酸ね。塩基はアデニン、グアニン、シトシン、チミンね。
DNAはとっても大切なものですから
神さまは、素敵な二重らせんというデザインにして、傷付いても修復する力を生き物にお与え下さったのですよ。
これも高校で教えますよね。どうやって修復するのかということもね。

しかし、そのような素晴らしいシステムを備えていたにもかかわらず
植物たちはこのような姿になってしまった!
彼らは神さまの定められた姿を保つこと、
神さまが与えてくださった美しい姿を発現することが出来なくなった!

・・・伝道者の方がよく知る群馬県でのことですよ。


そして、容易に観察できる形質に異常は起こっていないように見えたとしても、生殖細胞のDNAに異常が起こっているならば子孫に何を伝えることとなるのか

ばらまかれた放射性物質から出る放射線による害とは、そういうものです。

がんが増えたの増えないのという一点において断定的にものを語り人々を間違った方向に導いてはいけない。
しかも実際にはがんは増えている。それも子どもたちのがんが。
高齢者ががんになるのはアダムによってもたらされた事情による身体のシステム上それはそれほど稀なことではありません。しかし、子どもががんになるというのは全く日常的なことではない。それは誰もが心に置いておくべき事です。

子どもの甲状腺がん。
…そんな幼いがん患者が
そんな特異的ながん患者が
あんなにたくさんいるという事態が
あるわけなんかないのですよ。

甲状腺ホルモンの材料として必要なヨウ素として放射性ヨウ素を取り込んでしまった幼い命。代謝が活発な幼い命。
ああ!






それにしても、がんを患う人の数が増えたとか増えていないとかそういう言い方を彼はされましたが、
闘病中の患者さんとご家族の方たちの存在を無視するその言葉
…がんで愛する方を亡くされた方の言葉とはとても思えませんでした。
その点でも私は大きな大きなショックを受けましたし、

本当に、がっかりいたしました。











科学もそうですが、伝道者も偶像化されがちです。

この時代、皆さま本当にお気を付けください。
100パーセント間違っていることを言っているならだれでもわかるのです。
そうではないから・・・

主の教会を傷つけるような場所でこの言葉を発することにならなかったことに感謝いたします。

2016年7月1日金曜日

30年間悩んでいる「大きい石臼に首を」の話 3


また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼に首をゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。
マルコの福音書9章42節
 

高校のクラスメートの一人に、いつも難しそうな本を読んでいる女の子がいました。彼女の親族の方が著名な思想家であったことから、彼女は宗教や思想、そして哲学についていろいろと興味を持っているようでした。
同じクラスとはいえ、一クラス45人、女子ばかりが集合しているその空間で、私たちには長い間接点はありませんでした。趣味の合う者同士、気の合う者同士、が友だちになるのは当然の流れですから、哲学なんてものに一切興味のない自分にとって、彼女と何かを分かち合うとか話そうという動機がなかったからです。
 
ところが、ある日。
そのころの私は、学校の近くにあった「キリスト集会」の高校生会に出席するようになっていたのですが、聖書の話が難しくて分からないので予習しようと思い、学校の図書館にあったバークレーの聖書注解を、(禁帯出だったので毎朝図書室に通って)ノートに写していたのです。で、いつものように図書室に行ってごそごそやっていたところ、そこに「彼女」がやってきて声をかけてくれたわけです。

 
「聖書をお読みになるの?」
 
お読みになるっていうレベルじゃないんだけど…まあ、ちょこっとな、ちょこっと。週に10節程度のもの…ん?なんて答えればいいんだ、こういう場合…
「ぁ、少しだけ。最近学校の近くの教会に行き始めたから。」
 
「ぁ、教会。あ、そうなのね。私はキリスト教を信じるつもりはないので布教とかはしていただかなくてもよろしいのですけど、それにしても聖書ね、新約聖書ですけれど一箇所どうしても腑に落ちないところがあるのよね。」
 
「はぁ…。腑に落ちないんですか?」
 
「そう。殺すな自殺はするな、っていう教えであるはずの聖書がね、そう教えていたはずなのに、大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい、だとか、片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさいというような残酷なことを言い出すのよね。それまでのイエスとは明らかに様子が違うのよ。まあ、〒#¥*※◯&#℃%‰♪…(ムズカシイ言葉がいろいろあったので細かい記憶がない)」
 

当時の私は、だいたい、彼女の言っていたお話が聖書のどこに書いてあるかも知りませんでしたので、彼女の疑問に答える事なんて出来ませんでした。
そして、あれから30年以上経ち、ようやく私は先日
30年間悩んでいる「大きい石臼に首を」の話 1という記事を書き、「自分の疑問」を持つに至りました。

ん?

「あれから30年以上経ち、ようやく私は彼女の疑問に答えられるようになりました」じゃないのかって?
 
違うんですよ。私はこの箇所を読むたびに、まずは相当の長きにわたって、いったい彼女は何が「腑に落ちない」のだろうと悩み続けていたのです。
彼女が疑問を持っているということの意味が分からないわけです。

1の記事で私は「お話とか聞いたことがないわけじゃないんですけど、ほら、お話を聞くっていう行動は、完全に受け身でしょう。だから、知りたいと思うことが聞けるワケじゃないのですよね。」と書いたのですが、
正直言って、教会とか集会という場所で聖書のお話を聞き続けていると、読み方、というか、解釈がかたまってくるわけです。なになにと言えばなになに、という具合に、反射的に浮かぶことが固定化されて、それ以外のことがまったく思い浮かばなくなる。
しかし、もしも本当に聖書が生きて働かれる神さまのみ言葉であるなら、それではおかしいわけです。34年前の彼女がそうであったように、自分なりに感じる何かというものがあっていいはずなのです。もちろん世界共通の解釈というものの存在は否定しません。しかしそれだけではない自分だけが持つ思いとか疑問とかそういうものはあって当然なのではないでしょうかね。
 
さて、
 
 
また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼に首をゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。
マルコの福音書9章42節
 

30年間悩んでいる「大きい石臼に首を」の話 1で書いた私の疑問である
「大きい石臼に首をゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがまし」だと言われちゃった人とは具体的に誰のことなのか、そして、「むしろ~ほうがまし」という表現がありますが、いったい何と比較して「まし」なのか
ということについてたった今、上の文章を書いている最中に突然答えが思い浮かびました!

「大きい石臼に首をゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがまし」だと言われちゃった人とは38節で名前が出ているヨハネを筆頭にしたお弟子さんたちのことだと思います!
('◇')ゞ
理由は、まず39節の「やめさせることはありません」というイエスさまのみ言葉ですね。このみことばによって、イエスさまがお弟子さんたちを叱っていらっしゃるということがわかるわけなのです。(それについては、30年間悩んでいる「大きい石臼に首を」の話 1の冒頭=イントロ部分 に書きました)
 
そして、次のポイントとして、9章の38節から始まる段落はずーっと9章の最後までつづくわけなので、イエスさまはワンテーマで語り続けておられると考えられる。
とすると、やはりここは38節が話のきっかけとなっていろいろと弟子たちに対して注意しておられる場面なのではないか、と思えるわけです。
で、昨日も書きましたが、43節以降、他人をつまずかせる話ではなくなり、自分にとってつまずきとなるものがあるのなら切り捨てろ、という話になるのですが、それは、このところ弟子たちの心の中にあらわれてきた高慢な思いや態度を切り捨てなければいけないと叱っていらっしゃるのではないかと。

その点と、また、41節の「弟子だから」と言って水を飲ませてくれる人の受ける報いということも踏まえると、「むしろまし」という表現は

「弟子」はキリストに準じて扱われるような立場に置かれているにもかかわらず、高慢な思いや偏狭な考え方を持ってイエスさまを信じる小さい者たちのひとりにつまずきを与えるのなら、このまま今のように弟子という立場のままでいるのではなく、むしろ大きい石臼に首をゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。
という表現における「むしろ まし」という比較級だったのではないでしょうか。
その上で主はこう語られた。
「もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら…」
今のおまえたちのその態度、思い、その原因は何なのだ?手か?足なのか?目か?
ならばそれを切り落としてでも…

イエスさまは43節ではこうおっしゃいます。
「いのちに入るほうが、」
そして45節
「神の国に入るほうが、」
あなたにとってよいことです、と。
 
弟子は特別な立場の人たちですから、
いえ、お弟子さんたちを本当に主は愛しておられましたから、
彼らにはわかってほしかったのだと思います。
なにしろ間もなく十字架です。
イエスさまの言葉が厳しくなるのも無理はないと思います。
でもイエスさまは
大きい石臼に首をゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましだなんて
「実際に彼らにそうなってほしい」なんてもちろん微塵も思ってはいなかった。

あ、ついでに、彼女の疑問に対する答えも出たようです。

30年間悩んでいる「大きい石臼に首を」の話 2

また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼に首をゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。
マルコの福音書9章42節
このマルコの福音書9章42節の箇所というのは、他にマタイ18章とルカ17章に似ている箇所があるのですが、
実は、マタイとルカの箇所を読む時には悩まないで通り過ぎることができるのです。しかしマルコの福音書だとムムムっとなる。
なぜそうなるのか、と言いますと、ここに至るストーリーの構成が違うからなのです。
 
マタイはこの石臼問題の直前に「天の御国で一番偉いのは子どものように自分を低くする者」というストーリーを一本入れ、「このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。」と結論づける。そしてすぐに「しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、…」と続くから、一般論としての「漠然とした小さい子どもにつまずきを与える話」として読み流すことが出来るのです。
また、ルカは、マルコにあるような誰が偉いかとか悪霊を追い出している者を見たけれどやめさせた話というのは石臼の話よりもずーっと前の9章に出て来るのです。それで、石臼の話はずいぶんあとの17章に唐突に登場するのですね。しかも石臼の直前の話は「金持ちとラザロ」の話。というわけで、ルカのみ言葉は内容としては同一のように見えますが、マタイやマルコとは「文脈」が異なりますのでルカの17章は同列に扱ってはいけない気がします。ルカはむしろ9章が同じ「時」の話のように見えます。
 
 
最近私は聖書のストーリーを映像作品にしたものを何本か見る機会を得ました。で、素晴らしいなあ、と感謝したのでありますが、感謝しつつも実は少々の不満を感じたのです。
何が不満だったか?
それは、私が聖書を読んで思っていたイメージと、役者さんの演技がかなり違うものだったからです。←生意気なことを言ってやがる
まあ、そんなのは仕方のないことですけどね、ちょっと不満に思えてしまいました。
 
同じ小説を題材にしても監督さんによって全く別の映像作品に仕上がるということは普通にあるわけですが、それはどうしてそういうことになるかと言えば、同じ作品を読んでも理解というか解釈というかそういうところに違いがあるからですよね。論文ならばそういうことが起こらないように記述するわけでありますが、そうでないものは解釈する余地というものが残されているわけで、そのためにいろいろな違いが生ずるのであります。
 
なぜ突然「映像作品」の話を持ち出したのか、と言いますと、各福音書のストーリー配列の違いということについてももしかしたら同じような事情があるのではないかと思ったからです。
福音書というのは、イエスさまという方の近くにいた人たちがイエスさまが語られたことや行われたことを書いたものです。聖霊さまの助けがあって書いたものに違いありませんが、人の手を通して書かれたということもたしかなことです。
人は、ものを書くにあたって、頭でものを考えます。そして書く。もちろん、聖書の場合、そのすべてにわたって神さまが働かれていると信じますが、執筆者はロボットではありませんから現代に生きるクリスチャンの書いたものがそうであるように、書かれた「文章」にはその人の人生が映し出されたりその人の理解や解釈というものが現れるのではないか、と思うのです。よく、各福音書の違いについて、執筆された目的や理由の違いという観点でお話しされるのを聞きますが、もちろん著者の心の中にそういうことは存在していると思いますが、その著者だからこそ選び出せる言葉、表現、そういったものがないはずはないと私は思っています。
 
で、ふと思ったのは、このマルコの書物だけに見られるストーリーの配置はマルコとしてのイエスさまについての理解だったのかしら、と。
いや、理解とかそういうものでなく、もし時系列に忠実だったというだけであったら、それはそれで大きな事だ、と今気付きました。
ストーリーが、マルコが書いたとおりの順番でいろいろ起こったのであったら、このみ言葉は
また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼に首をゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。
マルコの福音書9章42節
やはりマタイやルカの福音書のように一般論として読んではいけないのではないか。
 
弟子たちが道々だれが一番偉いかと論じ合っていた
→イエスさまがひとりの子どもを連れてきて「このような幼子たちのひとりを…」と教えられる
→ヨハネが、イエスさまの名を唱えて悪霊を追い出している者をやめさせた報告
→やめさせてはいけないとイエスさまは語り、反対しない者は味方だと説く
→キリストの弟子だからというので水一杯でも飲ませてくれる人には報いがあるのだと説く
→「また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼に首をゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。」
→あなたの手がつまずきとなるなら…
 
もしも「大きい石臼に首をゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです」という言葉で話が終わっていれば、なんとかマタイの福音書のような「一般論」として片付けることが出来るかもしれません。しかし、「誰かにつまずきを与える」という話から「自分がつまずく話」に変わってしまうから一般論として片付かないのです。(わかりにくいですよね、少しずつ説明を広げていきますからね)
マタイだって同じ「つまずかせてしまう話」から「自分がつまずく話に変わっている」ストーリー展開じゃないか、と思われるかもしれませんが、
マタイには直前に弟子たちが道々だれが一番偉いかと論じ合っていたという場面がないのですね。論じ合ってはいないが唐突に「だれが偉いか」イエスさまに聞くという展開になっているのです。論じ合っている場面があるのとないのでは大分印象が変わります。
 
 
 
 
 
マタイ17章、マルコ9章、ルカ9章、その全てに記録されているいわゆる「変貌の山」の体験をしたペテロ、ヤコブ、ヨハネたちでしたが、そのあと弟子たちには「悪霊を追い出せなかった」事件が起こります。「ああ、不信仰な世だ。」と嘆かれるイエスさま。そしてその事件のあと、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる。」とイエスさまが話されるわけですが
このお話に対する弟子たちの反応についてマタイとマルコでは書き方が全く異なるのです。
 
マタイ「彼らは非常に悲しんだ。」
マルコ「しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。」
 
マタイとマルコは深いところでは同じニュアンスのことを語ってはいます。しかし、「イエスに尋ねるのを恐れていた。」と語るマルコは、こういう彼らの具体的な心の動きを描写をすることによって、
「ああ、このとき弟子たちの心は、主と大きな距離があったのだ。悪霊を追い出せないことを、不信仰だと嘆かれた主。しかし弟子たちは全く分かっていなかったのだ!」
という、イエスさまの十字架を実際に経た今となって彼の心の中にわき上がる、とてつもなく深い悲しみを語っているように思えるのです。
そして、その上に!
マルコはたたみかけるように弟子たちの行動を書きます。「弟子たちは道々だれが一番偉いかと論じ合っていたのだ」と。しかも、イエスさまから「道で何を論じ合っていたのですか。」とたずねられたのに「彼らは黙っていた」と。
 
マタイやルカの福音書では感じられない後悔と悲しみの声が聞こえてくるように思えました。
 
「先生、私は本当にダメなヤツでした!先生が十字架の苦しみを受けようとしておられたのに、私はなんにも分かっていなかった。
しかもあのあとヨハネは先生にむかって、得意になって報告をした。『私たちの仲間じゃないのに、先生の名を唱えて悪霊を追い出している者がいたからやめさせたのだ』と。
私たちは選ばれた弟子だ、先生のお側に仕えてきた弟子だ、たとえ話の意味だって教わった弟子だ、パリサイ人や律法学者とは違う、力あるわざを行うことのできる神の子イエスさま、メシアであるイエスさまに選ばれた弟子だ。この国を建て直す王のしもべだ、特別な人間だと思っていたんです。」

30年間悩んでいる「大きい石臼に首を」の話 1

ヨハネがイエスに言った。「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。」
しかし、イエスは言われた。「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行いながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。
マルコの福音書9章38~40節
引用したのは新改訳聖書第3版です。
ふと疑問がわき、またマルコの9章に戻ってきてしまいました。
疑問がわいたのはこの直後の箇所だったのですが、そこを調べるためにBible Hubで検索してみたところ、今日引用した新改訳聖書の訳に?(はてなマーク)がついてしまったので、忘れないよう記録しておくことにしました。
 
 
New International Version
"Teacher," said John, "we saw someone driving out demons in your name and we told him to stop, because he was not one of us."
"Do not stop him," Jesus said.

King James Bible
And John answered him, saying, Master, we saw one casting out devils in thy name, and he followeth not us: and we forbad him, because he followeth not us.
But Jesus said, Forbid him not
 
New American Standard Bible 
John said to Him, "Teacher, we saw someone casting out demons in Your name, and we tried to prevent him because he was not following us."
But Jesus said, "Do not hinder him
 
 
しかし、イエスは言われた。「やめさせることはありません。
……
という箇所について
「彼を止めるな、禁止するな、邪魔をするな」と「英語」のイエスさまはおっしゃっています。
 
これだと、新改訳聖書の「やめさせることはありません」ということばとはちょっと意味が変わってきますよね。
「やめさせることはありません」という言葉には、ヨハネの言った「やめさせた」という行為に対する強い否定がない。だから、ヨハネの行動に対して一定の理解を示しつつイエスさまの名を唱えて悪霊を追い出している者については一応許容するという雰囲気。「いいんだよ、ヨハネ。そういう人がいた場合は、やらせとけばいい」的な。
一方、「英語」のイエスさまはヨハネの行為を叱っている感じがします。彼(イエスさまの名を唱えて悪霊を追い出している者)を止めるな、禁止するな、邪魔をするな、と。
些細なことかもしれませんが、このあとの42~50節を読むためにこの辺りの違いは重要かもしれないと思いました。
http://biblehub.com/parallel/mark/9-39.htm
 
新共同訳聖書の方ではこんな訳し方がされています。
ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。……」
そう、新改訳で「私たちの仲間ではない」という表現がされているところについても「弟子たちに従わない」という言い方をしている聖書もあり、
訳によって微妙な表現の違いがあるのですよね。







ちょっとイントロが長くなってしまいましたが、タイトルに書いた 石臼問題に入りたいと思います。 
   
また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼に首をゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。
マルコの福音書9章42節
毎日とにかく二章読むという日々の聖書通読を、章の数を決めずにとにかくゆっくり読む方式に最近変更したのでありますが、以来、わからない事があまりにも多すぎて、なかなか先に進めません。
で、今は何が分からなくて止まっているのかと言いますと、まずはマルコの9章42節。上に引用したみ言葉です。
そんなことを言ったらきっと、
「え?なんで?読んだとおりじゃないの?」と言われると思うのですが、
実は私この箇所については、今回の通読で初めて引っかかった、と言うわけではなく30年間も(厳密に言うと34年間)引っかかりつづけている人なんです。お話とか聞いたことがないわけじゃないんですけど、ほら、お話を聞くっていう行動は、完全に受け身でしょう。だから、知りたいと思うことが聞けるワケじゃないのですよね。
 
 
さて、テーマがぼけそうなので、34年前の出来事については、あとで書くことにしますが、
いったいこのみ言葉の何が分からないのか、と言いますと、大きい項目としては2つ。
「大きい石臼に首をゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがまし」だと言われちゃった人とは具体的に誰のことなのか、そして、「むしろ~ほうがまし」という表現がありますが、いったい何と比較して「まし」なのかということです。
えー??って思いました?くっだらねえなあって思います?(;^_^A
悩むだけ損?
 
まあ、そういうくだらないことに引っかかるやつなんですよ、私は。
で、引っかかったままずーっと考えている。
 
 
 
 
 
それではまず、文を細かく読んでみます。
 
「また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、(略)海に投げ込まれたほうがまし」
 
「つまずき」とは何か。
つまずくとは、道をてくてくてくてくずーっと歩いている時、予想していなかった想定していなかった何かが道に突然現れ、避けるための覚悟や避けるために必要なテクニックがないためにその物体に接触するに至り、よろけたり、転んだり、またそのことによって傷を負ったりする可能性のあることですよね。
で、み言葉で語られているところの「つまずき」について具体的に考えると、「わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与える」と書かれていることから、「イエスさま(まことの神さま)を信じる信仰」を「道」としてとらえ、「信仰」生活を継続するにあたって「よろけたり、転んだり、またそのことによって傷を負ったりする可能性のあること」をもたらすことを「つまずきを与える」と表現しているのだと思います。
では、つまずきを与えられてしまう「小さい者たち」とは誰か。
この箇所の少し前の36節にはイエスさまがひとりの子どもを弟子たちの真ん中に立たせ腕に抱き寄せて「だれでも、このような幼子を…」と言っておられるところから、じゃあ、「子どもたち」か。
いや、大人だってつまずくことはあるのだから、小さい者とは「大きい」ものがあっての「小さい」ものというような相対的な考え方なのでしょう。じゃあ、だれが大きくて、だれが小さいのでしょうか。
たとえばⅠコリント8章のパウロの言葉
その弱い人は、あなたの知識によって、滅びることになるのです。
コリント人への手紙 第一8章11節a
この辺りではないでしょうか。
 
 
 
 
「むしろ大きい石臼に首をゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。」
 
「石臼」についてギリシャ語聖書の検索をしてみるとこの単語はμύλοςでマルコのこの箇所とマタイ18:6に登場します。http://biblehub.com/greek/3458.htm
ちなみにルカ17:2の石臼はμυλικὸς、あとはマタイ24:41μύλῳ (ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ…)、黙示録18:21μύλινον(ひとりの強い御使いが、大きい、ひき臼のような石を取り上げ、海に投げ入れて言った。)黙示録18:22μύλου(…ひき臼の音も、もうおまえのうちに聞かれなくなる)
というわけで、このマルコの箇所は予想通りというか終末の「さばき」のイメージで語られているのだろうと思います。
で、次は問題の「むしろ~のほうがましです」という表現。何と比較して「まし」だと言うのか。
参考にするため英文聖書で該当箇所を引用します。
New International Version
"If anyone causes one of these little ones--those who believe in me--to stumble, it would be better for them if a large millstone were hung around their neck and they were thrown into the sea.
NIVでは「まし」というのをit would be better for themと言っています。it would be betterですから、「それをした方が彼らにとって良い」ということですよね。大きい石臼に首をゆわえつけられて、海に投げ込まれることが彼らにとって良いことなのですか?( ̄_ ̄ i)それって良いどころか最悪の刑ですよね。。(;°皿°)
 
New Living Translation
"But if you cause one of these little ones who trusts in me to fall into sin, it would be better for you to be thrown into the sea with a large millstone hung around your neck.

English Standard Version
“Whoever causes one of these little ones who believe in me to sin, it would be better for him if a great millstone were hung around his neck and he were thrown into the sea.

Berean Study Bible
Whoever causes one of these little ones who believe in Me to stumble, it would be better for him to have a large millstone hung around his neck and to be thrown into the sea.

Berean Literal Bible
And whoever might cause to stumble one of these little ones believing in Me, it is better for him rather if a heavy millstone is put around his neck, and he has been cast into the sea.

New American Standard Bible 
"Whoever causes one of these little ones who believe to stumble, it would be better for him if, with a heavy millstone hung around his neck, he had been cast into the sea.

King James Bible
And whosoever shall offend one of these little ones that believe in me, it is better for him that a millstone were hanged about his neck, and he were cast into the sea.
ギリシャ語聖書を見るとこのit would be betterという部分はκαλόν という語で、http://biblehub.com/greek/kalon_2570.htm
コンコルダンスを見ると英語の聖書でgoodと訳さえている箇所がこのκαλὸνと言うギリシャ語が使われているようだということがわかったのですね。( ̄Д ̄;;
(小一時間考え続ける…)
καλόνって何だ?
Short Definition: beautiful, good, worthy
Definition: beautiful, as an outward sign of the inward good, noble, honorable character; good, worthy, honorable, noble, and seen to be so.

2016年6月18日土曜日

主は寛容なお方(4)「感じたことを感じたままに感じたとする」

「ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。答えなさい。」
すると彼らは、こう言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったかと言うだろう。
だからといって、人から、と言ってよいのだろうか。」
―彼らは群衆を恐れていたのである。というのは、人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。
そこで彼らは、イエスに答えて、「わかりません」と言った。
マルコの福音書11章30~33a節
 
 
私の頭の中に現れた変な等式
律法学者やパリサイ人の義にまさる義=天の御国に入れる
子どものように神の国を受け入れる=天の御国に入れる
 
A=B、B=CならばA=Cで、
律法学者やパリサイ人の義にまさる義=子どものように神の国を受け入れる
 
にこだわってこのところの通読でマルコの福音書を少しずつ読み進めているわけですが、
今日もまた「これだよ、これ」というみ言葉に出会うことになりました。
冒頭に引用したマルコの福音書11章のみ言葉がそれです。
 
これは、イエスさまと祭司長、律法学者、長老たちとのやりとりが書かれている箇所ですが、イエスさまの問いに対して「わかりません」と答えた彼ら。これは「子どものように」の対極だ、と思いました。
わからなくて「わかりません」と言うのなら子ども。しかし、そうではなくて、事が自分にとって有利になるよう考えた結果の「わかりません」という言葉。
 
別の箇所でイエスさまはこんなことを言われたことがあります。
わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。
ヨハネの福音書14章11節
これともまた別の箇所で「見ずに信じる者は幸い」とイエスさまはおっしゃったことがありますが、もしも見たのなら、(「見る」とは肉体の目で見ると言うことだけではありません、あっ、と何かを得る瞬間感じる瞬間というものをは与えてくださる)
だいたい、イエスさまが地上を歩まれていたあの時代には、福音書に書かれているようなこと=わざ を皆が実際に体感出来たわけです。そういうことを「見て」しまったのなら、当然そのことによって何かを感ずるはずです。
しかし、祭司長、律法学者、長老たちはどうだったでしょうか。
ちょうど、現代日本の「神を神とはしない」大人たちが、子どもたちの甲状腺がんが増えたのに増えてはいないと言い張るようなのと同じ、自分の都合にあわせて見えることも見ないことにしてしまうわけです。
見ずに信じるどころか見ても聞いても起こったことを起こったこととして認めない。そして自分たちの権威や知識を振りかざして正しく判断している人たちの邪魔をし、それでも済まずついには殺そうとする。
イエスさまを捕らえるためにやってきた時、大祭司のしもべの耳をペテロが切り落とし、イエスさまがいやしてくださったのに、それでもイエスさまは捕らえられる。
聖書に詳しく、神を第一にしてそうな権威のある聖職者は、神を神としない偶像の国日本、まことの神さまを神としない日本の権威と全く同じ事をしたわけです。
どこまでもどこまでも利益を追求し、神さまから最も遠いところに立っている。
 
 
感じたことを感じたままに感じたとする、そこに損得勘定などなにもなく、「すごい!」「うれしい!」「おいしい!」と言えること、
そして、白い花が咲いているのをみて、「あ、白いお花。白くてきれい」と言えること。
「その白は白だと思うかもしれないけど、厳密に言ったら白ではないよ。しかもその花のように見えているところは花ではなくて厳密に言ったら…」とか言わないこと。
 
そういう態度で神の国を受け入れることが「子どものように神の国を受け入れる」ということ。
 
 
 
ところで、
「ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。答えなさい。」
すると彼らは、こう言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったかと言うだろう。
だからといって、人から、と言ってよいのだろうか。」
―彼らは群衆を恐れていたのである。というのは、人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。
そこで彼らは、イエスに答えて、「わかりません」と言った。
マルコの福音書11章30~33節b
祭司長、律法学者、長老たちとは異なり、群衆は、「ヨハネは確かに預言者だと思っていた」とここには書かれています。この部分だけをピックアップすると、祭司長、律法学者、長老たちは神の国に入れず群衆は神の国に入れるという印象を持ちますが、聖書をこのあと読み進めていくと分かるように「群衆」の声はやがてイエスさまを十字架につけろと言う声になっていくのです。まるで「種蒔きのたとえ」で語られる岩地。み言葉を聞くと、すぐに喜んで受けるが、根を張らないで、ただしばらく続くだけ。
世の中の空気(ムード)や、祭司長、律法学者、長老たちという見たくれだけはソレっぽいにせものの声に聞き従うことなく、本物のみ言葉をよく聴いてしっかり根を張っていきたいものです。
 
 
―彼らは群衆を恐れていたのである。というのは、人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。
そこで彼らは、イエスに答えて、「わかりません」と言った。そこでイエスは彼らに、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい」と言われた。
マルコの福音書11章32節b~33節
 
寛容の極みである言葉なる神さまから「話すまい」と言われる=神さまとの断絶、永遠の断絶
 
そういうことにならないように。

主は寛容なお方(3)「子どものように、自分を低くする者」とは

前回まではマルコの福音書10章15節の「子どものように神の国を受け入れる」
ということばを読んでいましたが、今日は関連するみ言葉としてマタイの福音書18章のみ言葉を読んでみることにしました。
マルコの福音書の10章15節に対応している箇所はマタイの福音書19章14節のところだと思うのですが、
イエスさまが「子どもたち」のことを具体的にどのようであるとお考えになっているのかがはっきり書かれているのがマタイの18章4節なので、そのことについて考えようと思いました。
 
 
そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、
言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。
だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。
マタイの福音書18章1~4節
「だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」
イエスさまは、子ども=自分を低くする者 だと言われています。
しかし、…子どもって自分を低くしているだろうか??
実はずっとこの新改訳聖書の「自分を低くする者」という言葉が引っかかっているのです。
引っかかったまま放置し続け30年。(;^_^A
だって、そう書いてあるんだからそうなんだよ、と納得しなくてはならないまま30年。
しかし!つい最近知ったBible Hubという素敵なサイトがあるじゃないか!そう、2016年のオバサンはついに誰かが作って下さった素敵なサイトによって、完全にあきらめていたギリシャ語で聖書を読むということが出来るようになったのでありました。
世の中が英国のEU離脱の件で大騒ぎしている最中、みんながどよーんと不安いっぱいの顔でいるのに、ひとりうきうきへらへらとパソコンに向かいマタイ18章4節をBible Hubに入力してオバサンmet Greek word at last!!!
ταπεινώσειという言葉なんだそうですよ。で、マタイ18章4節の他、マタイ23章12節に出て来るらしい。
だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。
というみ言葉の後半の方の「低くする」が全く同じ形。ταπεινώσειというのは英語ではwill humbleなので、前半の方の「低く」は「低くされ」という受動態なのでちがう形の言葉ταπεινωθήσεται,になるみたいです。
 
で、これでは結局「低く」という言葉しか新改訳の中では見あたらないので
ταπεινώσειではなく、ταπεινόωという言葉で調べることにしました。
ταπεινόωは14箇所あって、マタイ18:4 、23:12のほかにルカ 3:5(山と丘は低くされ)ルカ14:11(自分を高くする者は低くされ)ルカ18:14 (自分を高くする者は低くされ)​
Ⅱコリント 11:7(自分を低くして報酬を受けずに)Ⅱコリント12:21(はずかしめる)
ピリピ2:8(自分を卑しくし)ピリピ4:12 (貧しさの中にいる道も知っており)
ヤコブ4:10(へりくだり)Ⅰペテロ 5:6(へりくだり)
 
 
やっぱり子どもはへりくだって低くなっているんだろうか…
 
 
と、そこまで考えて
30年の謎がするっと解けた!(と思った)
 
 
 
わかった、そうじゃないんだ。
「大人」であるのに「子どものように」なるってことだ。
 
「子ども」と呼ばれる年代の人たちが、へりくだっていて素晴らしい模範的な人っていうことじゃないんだ。
何でも出来る大人になって、いっぱしの口もきける大人になった、
だ・け・ど・
そうなんだけど、そういう大人でありながら低くなる、
へりくだって小さく小さくなるってことなんだ。
 
「子どものように、自分を低くする者」
というのは、
子どもっていうのは自分を低くしていて素晴らしいからそういう子どもの真似をして低くしなさいね、って言っているのではなく、
経験を積んでそして学問を修めた大人になっても、自分は子どものような小さいものだ、取るに足らないちっぽけな者なんだと考え、そういう態度でいなさいよ、ってことなんだきっと。
神さまが、人となって来てくださったその「へりくだり」だ。

主は寛容なお方(2)「子どものように神の国を受け入れる」ということの真意

イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」
イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。
戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」
すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」
イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。
イエスは、見回して、弟子たちに言われた。「裕福な者が神の国に入ることは何とむずかしいことでしょう。」
弟子たちは、イエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。「子たちよ。神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。
金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」
イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」
マルコの福音書10章17~27節
 
 
 
前回の「主は寛容なお方」という記事で、私はこんな「変な」等式を書きました。
 
律法学者やパリサイ人の義にまさる義=天の御国に入れる
子どものように神の国を受け入れる=天の御国に入れる
 
A=B、B=CならばA=Cで、
律法学者やパリサイ人の義にまさる義=子どものように神の国を受け入れる
 
何の話を書いていたかというと、「どんな人が神の国に入れるのか」という話です。
マタイの福音書5章には、私たちの義が律法学者やパリサイ人の義にまさる義でなければ天の御国に入れないと書かれていたが、
マルコの福音書10章には、子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできないと書かれていたので、
ならば、律法学者やパリサイ人の義にまさる義=子どものように神の国を受け入れる という等式が書けるのか?と思ったわけです。
 
ポワーンとわいてくるイメージみたいなものを文章にして人に伝えるというのはなかなか難しいので、もうちょっと言葉を足しますね。
 
私は、イエスさまが「マタイとマルコで語られた二つの言葉」だけをピックアップして考えた場合に、神の国に入るために必要なチケット(条件)は何だと言っておられたか?ということを考えたのです。
マタイの福音書では「律法学者やパリサイ人の義にまさる義」が必要なチケットだ、と言っておられ、
マルコの福音書では「子どものように神の国を受け入れる」ということが必要なチケットだ、と言っておられるのですが、
ならば、天の御国に入るには両方のチケットが必要なのか、片方のチケットだけで良いのか、ということになりますよね。
 
で、もしも、両方のチケットが必要ならば、マタイでもマルコでも、とにかくどの場面においても二つセットにしてお話ししてくれなければおかしいわけです。なぜなら、場面場面で、弟子以外のそこに参加しているメンバーは変わっているわけですから、
「私は、Aっていう条件で入れるって聞いた」
「えー??私はそんなこと聞いてないよ。Bだって言ってるの聞いたよぉ」
という事件が勃発してしまうかもしれない。
とすると、チケットを2種類持っていなければいけないということはないだろう、と。
で、だとした場合、今度はこういう問題が生ずるわけです。
チケットAとチケットBの質や難易度の問題。
もしこの二つにそういった差があると、よろしくないんじゃないかと。(欠席者のために追試の問題を作る教員的な発想です)
 
で、ならば、パッと見は異なるかもしれないけれどAとBは等しいものなのだと考えることができれば、全てがクリアできるのではないかと思ったわけです。
「天の御国に入れる条件はAだよ」とある場所で何人かの人に言って、
「天の御国に入れる条件はBだよ」と別の日に別の場所で別の聴衆に語られたとしても
AとBが同じ物であるなら全く不公平ではないことになります。
 
なので、
律法学者やパリサイ人の義にまさる義=子どものように神の国を受け入れる
なのかな、と。
 
 
さて、補足はこのくらいにして次に行こうと思うのですが、
…というか、なぜまたあえてしつこく補足をしたのか、と言いますと、
今朝、いちばん始めに引用した箇所を読んでいた最中のことでしたが、
律法学者やパリサイ人の義にまさる義=子どものように神の国を受け入れる
というこの変な等式が、じつはちっとも変な発想でなかったということに気付いたからなのです。
 
マルコの福音書10章17~27節には、天の御国に入れる話ではなく、「天の御国に入れない」という話が書いてあります。
直前に書かれていた天の御国に入れる条件としての「子どものように神の国を受け入れる」ということに対立するものとしてここに描かれたのは「金持ち」。
イエスさまは、「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」と言われるのです。
 
この「金持ち」の話を読んだとき、私は「あっ」と思いました。
 
この金持ちの人、律法学者とかパリサイ人に似てる~~
ルカ16章に書かれている「金の好きなパリサイ人」という話を思い出したというのもありますが、
イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」
めっちゃ真面目っぽいこの感じとか
 
 
「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」
 
と言っちゃうこの感じ
なんだか律法学者とかパリサイ人っぽい~~
 
そして、次の箇所を読んだとき、子どものように神の国を受け入れるということがいったいどういうことなのか、その真意が見えてきました。
イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。
イエスは、見回して、弟子たちに言われた。「裕福な者が神の国に入ることは何とむずかしいことでしょう。」
金持ちの彼は、「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」と言っていることで分かるとおり、彼は、自分には「何かできる」と考えているのです。そして何かをすれば永遠のいのちを得られると思っているのです。
でもそうじゃないわけです。永遠のいのちはイエスさまのいのちによってしかいただくことは出来ない。
だからイエスさまは彼を優しく見つめておっしゃるわけです。あなたには、欠けたことが一つあります、と。
ではイエスさまがおっしゃりたかった彼が永遠のいのちを得るために欠けていた一つのこととはいったい何なのか。
それは、イエスさまについて行って、イエスさまのいのちをいただくということ以外にはありません。
 
しかしイエスさまは「自分は永遠のいのちを得るために何か出来る」と考えている彼のためにまずこうおっしゃった。「帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。」と。もちろんこれは、キリスト教の教義を知っている誰もが分かるとおり、永遠のいのちを得るための「条件」であるはずはない。しかし、彼は「何かできる」と考えていたからイエスさまは彼にこうおっしゃったのですね。
じゃあ財産を売り、ほどこしをすることに何の意味があるかと言えば、それは主が仰せられたとおりで、「そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。」ということ。
 
 
イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。
イエスは、見回して、弟子たちに言われた。「裕福な者が神の国に入ることは何とむずかしいことでしょう。」
弟子たちは、イエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。「子たちよ。神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。
金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」
イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」
すると彼は、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去ってしまうのです。
なぜですか?
財産を手放せなかったから?
 
彼はどうすれば良かったのでしょう。
本当は財産なんて手放さなくたって良かったのではありませんか?
だいたい、聖書の神さまは豊かな人を否定なんてしていません。
旧約聖書を読めばよく分かりますが、聖書に登場する神から祝福を受けた人は裕福です。
神さまは私有財産を否定したり、貧しいのを推奨しているのではなく、いつもいつも心の問題や態度のことをおっしゃっています。不正をしてまで私腹を肥やしたり、その不正も、弱い人を虐げるような不正であったりそういうのは良くないのだと。
ですから彼は
イエスさまの元を立ち去らなくて良いんです。ただ、
「先生ごめんなさい。私には財産を手放すことが出来ません。施すことが出来ません。」
それで良かったのではありませんか?
「何かできると考えていましたが、できません。だから永遠のいのちはあきらめなければなりませんか?」
そうたずねれば良かったのではありませんか?
 
で、ここで思い出したのです。「子どものように神の国を受け入れる」というみことばを。
 
泥でよごれた服のまま、「イエスさま~!!」
ジャムでベタベタになった手のまま、「イエスさま~!!」
なんにも出来ない、なんにも分からない、そのままでイエスさまのもとに飛び込んでいく
 
 
幼い子どもたちは
力もなく、知識も少ないから、
一生懸命にやっているつもりであっても上手に出来なかったり何か抜けや欠けがあるものです。でも幼い子どもたちにも上手に出来そうなことはあります。
甘え、受け、受けたら喜び、笑うこと。
 
人間は、どんなに立派な人であれ神さまから見れば子どもです。
神さまは人が胎内にいる時から白髪になるまでの全てをご覧になっているのですから、どんなに気取ったって、たかがしれているのです。しかも罪がありますしね。
人間なんてそんな者なのですから
見栄なんて張らず、
神さまに遠慮なく甘え、与えてくださるものを受け、喜ぶ、
それで良いのだと思います。
神さまはないところからとるような方ではないのです。
出来ないことをしろと強要される方ではないのです。
 
 
体裁をつくろうとか、きれい事を言うとか、
そんなことは要らないから、
着物(形)ではなく心を引き裂く、そうやってに立ち返る
イエスさま何にも出来ない失敗ばかりの私をゆるしてくださいと
その言葉だけを神さまは待っておられるのだと思います。
そして、その言葉を私たちが心の底から涙をもって絞り出したとき
神さまはぐちゃぐちゃドロドロの私たちめがけて走り寄り
どうしようもない「子ども」である私たちを抱きしめてくださる。
 
 
…それが「子どものように神の国を受け入れる」ということの真意であり、
同時に「律法学者やパリサイ人の義にまさる義」なのではなかろうかと。
 
 
たとい私がささげても、
まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。
全焼のいけにえを、望まれません。
神へのいけにえは、砕かれた霊、
砕かれた、悔いた心。
詩篇51篇17節

主は寛容なお方(1)「神の国は誰のものなのか」

クリスチャントゥデイを読んでいたら、「パキスタンのイスラム教徒たち、キリスト教会再建を支援」というニュースに出会いました。
http://www.christiantoday.co.jp/articles/21180/20160617/pakistan.htm
 
パキスタンのキリスト教徒たちが、パンジャブ州にあるゴジュラで賛美歌を歌う。ゴジュラはキリスト教徒居住地の近くにある。2009年、1人のイスラム教徒の暴徒による襲撃事件が起きた。キリスト教徒の1家族7人はじめ10人が殺され、数十の家々や四つの教会が放火された。
この記憶を癒やす異教徒間の協力が始まっている。異教徒同士の対立があまりにも頻繁に起こる国家で、イスラム教徒とキリスト教徒が一緒になってキリスト教会の会堂を建築しているのだ。
(続きはクリスチャントゥデイのサイトで)
素晴らしい!
本当に感謝なことです。
 
このニュースを読んだとき、
マルコ9章41節にあるイエスさまのみ言葉が思い出されました。
 
あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。
 
「あなたがたがキリストの弟子だからというので」
という言葉のニュアンスとこのニュースの話は異なるかもしれませんが、
キリスト教徒を助けてくださっているパキスタンのイスラム教徒の方たちにゆたかな報いがございますように。
 
 
 
 
ところで、
あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。
というイエスさまのみ言葉を読むたびに思うのは
寛容なお方であるということです。
こういう言い方をしたら怒られるかもしれませんが
イエスさまはクリスチャンにはない自由さ寛容さを持っておられると感じます。
まあ、イエスさまは神さまですから、
神さまご自身ですから権威がありますからね、
ご自身のみ言葉がルールとなるわけですが、
一方クリスチャンはタダの人間でありますから、
与えられたルール内でああじゃないこうじゃないと必死に判断し、
また一生懸命聖書の行間を読んでゴチャゴチャやっておりますからね、
コレハ聖書的に正しいとか正しくないとか
気付いたときには寛容さが失われてしまっているのかもしれません。
 
この「水一杯」の話だけでなく、他にも十字架の場面で起こった出来事を見るとき
「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
ルカの福音書23章42,43節
「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
とは寛容のきわみではないかと思うわけですが、
しかし、これはイエスさまだから言えたことばで、クリスチャンには出来ない宣言です。
このケースは、メシアが人と、ダイレクトに会話をし、
神の御心としてこの人を受容したから「パラダイスにいます」と断言できたわけですが、
クリスチャンが、例えば日本国内で日本人を相手にして話をする場合なら
たとえ十字架の上にいたとしても!「四つの法則」を早口で説明し始めるのかもしれません。
 
 
そんなことを考えつつ、聖書通読を進めておりましたら、
今朝はマルコの福音書の10章で、こんな箇所でありました。
 
さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れてきた。ところが弟子たちは彼らをしかった。
イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国はこのような者たちのものです。
まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れるものでなければ、決してそこに、入ることはできません。」
そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。
マルコの福音書10章13~16節
興味深いことに、人々が子どもたちをイエスさまのみもとに連れてきたら弟子たちが彼らをしかった、ということからこの場面はスタートします。
弟子たちはどういう思いでそんな行動を取ったのでしょうか。
私が弟子の立場であったら、
そうですねえ、自分が「偉い先生」のお側に仕える立場であったら、「ちょっと子どもは…」と思うかもしれません。いろいろイエスさまとお話ししたい人たちを優先するでしょうかねえ。それに、子どもがいたらその場が騒がしくなってしまってお話どころではなくなってしまいますからね。教会や集会に集っていた頃のことを考えれば、子どもたちは別室でビデオでも見ていてもらいますか。
しかし、その弟子の様子をご覧になったイエスさまは「憤って、彼らに言われた」のです。
 
「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国はこのような者たちのものです。
まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れるものでなければ、決してそこに、入ることはできません。」
 
神の国はこのような者たちのもの?
子どものように神の国を受け入れるものでなければ、決してそこに、入ることはできません??
 
 
神の国が誰のものであり、どんな人が入れるのかということについて、別の所でイエスさまはこう断言しておられたはずです。
 
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。
マタイの福音書5章3,10,20節
あらら、ここではA=B、B=CならばA=Cということが成り立たないのでしょうか?
どう考えればいいのかな…。
 
神の国がどのような人のものであるかということについては、
マタイの時よりも一つ可能性が増えたね、ということに出来ますけれど、
天の御国に入れるか入れないかという事については
「~でないなら入れない」という言い方がされておりますのでね、
可能性が増えた、というわけにはいかないような気がするのですよ。

律法学者やパリサイ人の義にまさる義=天の御国に入れる
子どものように神の国を受け入れる=天の御国に入れる
 
A=B、B=CならばA=Cで、
律法学者やパリサイ人の義にまさる義=子どものように神の国を受け入れる
???
 
マタイの福音書を読んでいるとき、「律法学者やパリサイ人の義にまさる義」とはすなわち主の十字架によって与えられる義であり、それを理解し信じることだ、と思ったのですが、
律法学者やパリサイ人の義にまさる義=子どものように神の国を受け入れる
となると、
「主の十字架によって与えられる義を理解し信じる」ということに付帯、否、イコールとされて行ってきたような諸々の儀式等々がどんどん削られていき、もっと言えば、理解すべきとか信ずるべきとされているコムズカシイことの一切がそぎ落とされて不要となってしまうのではないかと。何しろ子どもは信じるにあたりそれほど細かいことを考えないでしょうから。
うーん。
 
(私は子ども時代に、素直にしているつもりであっても素直ではないと言われいつもいつも母から叩かれていましたので、子どものようにとは「素直になることだ」という説は、絶対にないな、と思っています←特殊な理解かな)
 
 
 
 
まあ、でもよく考えてみれば、コムズカシイことの一切がそぎ落とされて不要となってしまうというのは、「ignoranceは全く責めに値しない」ととれるローマ14章とほぼ同義ですよね。
 
しかしそれでもまだ何か
律法学者やパリサイ人の義にまさる義=子どものように神の国を受け入れる
という等式が成り立つという事に違和感を覚えるのは、
イエスさまが最初に来られたときから、人間にとって見れば相当な時間の経った今、いわゆる「キリスト教」と名づけられた「宗教」には、まるで「歴史は繰り返すのだ」と言っているような律法主義的な贅肉が上乗せされてしまったからなのかもしれません。または、知らず知らずのうちに敵によってばらまかれた「パン種」のたぐいが上等な小麦粉の中に混ぜ込まれ、キリストの香りなのか、おいしいパンの香りなのか区別しにくくなってしまった、そんな気もします。
神さまの前にきよくありたい、正しくありたいという思いが強くあったとしても、
神の箱を手で押さえようとしたウザにパッと注意のできない、
そして、
「下がれ、サタン。」
と一瞬の判断でペテロに向かって言われたイエスさまのように言えない人間は
垢をため、無駄な肉を無駄と思わず蓄えて、一歩一歩成人病へと突き進み
気付いたときにはイエスさまが教会の外に立ってドアを叩いているというような状態に(黙示録3:20)なってしまうのかも?しれません。
 
なにしろ黙示録の7つの教会は
預言されていること…ですものね。
 
 

2016年5月1日日曜日

【調べ学習】聖書に書かれている「鳥」と「からし種」について(冒頭に2022年の追記あり)

2022年8月に書いた追記
2016年のこの頃はまだギリシャ語やヘブライ語聖書を読むことは完全に無理でした。…でも読みたかった…本当に読みたかった。そう求めていたこの日、たまたま?BIBLE HUBというサイトに出会ったのでありました。ここから人生が変わったと言っても過言ではない
 

今日の聖書通読はマタイ13章でした。
先日、旧約部分を読み終えてから、「毎日2章ずつ通読」というのをやめ、「基本は1章、でも足踏みしたり戻ったり」という読み方に変えたのでなかなか先に進みません。でも、1章の系図のところなど焦らずにひとりひとり確認してから進むことが出来たので良かったと思いました。  
というわけで、今日は一応13章を読む日だったのですが
「からし種」のところ(32節)でつかえてしまったので、また止まることにしました。
 

イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、
どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来てその枝に巣を作るほどの木になります。マタイ13章31、32節

 
ここの箇所は、何度もお話を聴いたことのある場所で、メッセージでも聖書研究でも 「天の御国の生命力の強さ」を表すというプラスのイメージで習ってきたのですが、ちょっとだけ、ちょっとだけなのですが疑問がわいたのです。
 
一つはヨハネの黙示録のみ言葉とのからみで

倒れた。大バビロンが倒れた。そして、悪霊の住まい、あらゆる汚れた霊どもの巣くつ、あらゆる汚れた憎むべき鳥どもの巣くつとなった。ヨハネの黙示録18章2節より

 
もう一つはエゼキエル書31章のみ言葉との絡みでどうかと。

(略)その小枝にはあらゆる鳥が巣を作り、(略)それゆえ神である主はこう仰せられる。そのたけが高くなり、そのこずえが雲の中にそびえ、その心がおごり高ぶったから、(略)

まあ、黙示録のところは、倒れた後の話ですし、しかも倒れたのは大バビロン。エゼキエルのところは、杉の木の話で、…いずれにしてもからし種の木は倒れていませんので、絡めたところでどうってことはないとは思うのですが、
からし種のたとえの次に来る話がパン種の話で…
一応、マタイのパン種だけは良い意味で「ふくらます」のだと、これもまた何度も何度も習ったのですが、
どうしてここのパン種だけ例外的に良い意味なのぉ??と高校生の頃からずーっと思っていまして(^_^;)天の御国が悪いわけもないんですが。
でもそういう疑いを持ったままなので、ついにからし種までが変な意味に感じてきてしまったのかもしれません。(^O^)
  
聖書を読んでいて、鳥にはそんな悪いイメージはないのですが、「あらゆる汚れた憎むべき鳥どもの巣くつ」という黙示録の表現を見ると、何かを見落としているのかも…と思います。
 
 
気にしすぎかなあ。
 
 
まずは、創世記とレビ記あたりから鳥について確認してみました。
 

あなたは、すべてのきよい動物の中から雄と雌、七つがいずつ、きよくない動物の中から雄と雌、一つがいずつ、
また空の鳥の中からも雄と雌、七つがいずつを取りなさい。創世記7章2、3節

 

こうして、主は地上のすべての生き物を、人をはじめ、動物、はうもの、空の鳥に至るまで消し去った。それらは、地から消し去られた。ただノアと、彼といっしょに箱舟にいたものたちだけが残った。創世記7章23節

 
 

また、鳥のうちで次のものを忌むべきものとしなければならない。これらは忌むべきもので、食べてはならない。すなわち、はげわし、はげたか、黒はげたか、
とび、はやぶさの類、
烏の類全部、
だちょう、よたか、かもめ、たかの類、
ふくろう、う、みみずく、
白ふくろう、ペリカン、野がん、
こうのとり、さぎの類、やつがしら、こうもりなどである。レビ記11章13~19節
 

次に、Bible Gateway
https://www.biblegateway.com/
でギリシャ語の聖書を見ることにしました。人生初!(^O^)
とは言ってもギリシャ語はアガペーとアフィエイミと、アルファベットを一文字一文字読む?ことしか知りませんので、まずは英語の聖書で該当箇所(今回はマタイの13章と黙示録の18章で「鳥」という語を調べたい)を検索し、検索できたら、書名をギリシャ語聖書に変換してギリシャ語聖書の該当箇所ににたどり着こうという作戦です。
 
 
まずはマタイ13章から
 
31 He told them another parable: “The kingdom of heaven is like a mustard seed, which a man took and planted in his field. 32 Though it is the smallest of all seeds, yet when it grows, it is the largest of garden plants and becomes a tree, so that the birds come and perch in its branches.”
 Matthew 13:31.32New International Version (NIV)
 
31 Ἄλλην παραβολὴν παρέθηκεν αὐτοῖς λέγων· Ὁμοία ἐστὶν ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν κόκκῳ σινάπεως, ὃν λαβὼν ἄνθρωπος ἔσπειρεν ἐν τῷ ἀγρῷ αὐτοῦ· 32 ὃ μικρότερον μέν ἐστιν πάντων τῶν σπερμάτων, ὅταν δὲ αὐξηθῇ μεῖζον τῶν λαχάνων ἐστὶν καὶ γίνεται δένδρον, ὥστε ἐλθεῖν τὰ πετεινὰ τοῦ οὐρανοῦ καὶ κατασκηνοῦν ἐν τοῖς κλάδοις αὐτοῦ.
ΚΑΤΑ ΜΑΤΘΑΙΟΝ 13SBL Greek New Testament (SBLGNT)
 
 
 
 
 
次に黙示録18章
 
 After this I saw another angel coming down from heaven. He had great authority, and the earth was illuminated by his splendor. 2 With a mighty voice he shouted:
 
“‘Fallen! Fallen is Babylon the Great!’
She has become a dwelling for demons
and a haunt for every impure spirit,
a haunt for every unclean bird,
a haunt for every unclean and detestable animal.
3 For all the nations have drunk
the maddening wine of her adulteries.
The kings of the earth committed adultery with her,
and the merchants of the earth grew rich from her excessive luxuries.”
Revelation 18New International Version (NIV)
 
Μετὰ ταῦτα εἶδον ἄλλον ἄγγελον καταβαίνοντα ἐκ τοῦ οὐρανοῦ, ἔχοντα ἐξουσίαν μεγάλην, καὶ ἡ γῆ ἐφωτίσθη ἐκ τῆς δόξης αὐτοῦ. καὶ ἔκραξεν [a]ἐν ἰσχυρᾷ φωνῇ λέγων· Ἔπεσεν, [b]ἔπεσεν Βαβυλὼν ἡ μεγάλη, καὶ ἐγένετο κατοικητήριον [c]δαιμονίων καὶ φυλακὴ παντὸς πνεύματος ἀκαθάρτου καὶ φυλακὴ παντὸς ὀρνέου ἀκαθάρτου [d]καὶ φυλακὴ παντὸς θηρίου ἀκαθάρτου καὶ μεμισημένου, ὅτι ἐκ τοῦ οἴνου τοῦ θυμοῦ τῆς πορνείας αὐτῆς [e]πέπτωκαν πάντα τὰ ἔθνη, καὶ οἱ βασιλεῖς τῆς γῆς μετ’ αὐτῆς ἐπόρνευσαν, καὶ οἱ ἔμποροι τῆς γῆς ἐκ τῆς δυνάμεως τοῦ στρήνους αὐτῆς ἐπλούτησαν.
 
ΑΠΟΚΑΛΥΨΙΣ ΙΩΑΝΝΟΥ 18SBL Greek New Testament (SBLGNT)
 
 
 
初めてのギリシャ語聖書。!(^^)!
黙示録の方が簡単そうに見えるのでまずはそっちで「鳥」を探してみます。
καὶ ἔκραξεν ἐν ἰσχυρᾷ φωνῇ λέγων· Ἔπεσεν, ἔπεσεν Βαβυλὼν ἡ μεγάλη, καὶ ἐγένετο κατοικητήριον δαιμονίων καὶ φυλακὴ παντὸς πνεύματος ἀκαθάρτου καὶ φυλακὴ παντὸς ὀρνέου ἀκαθάρτου καὶ φυλακὴ παντὸς θηρίου ἀκαθάρτου καὶ μεμισημένου,
パッと見て、バビロンっぽいのはすぐに見つかったので
あと、分かっているのは、日本語で「倒れた」に該当する語は2回、「あらゆる」が2回「汚れた」が2回、「巣くつ」が2回あるはず。
καὶは6回←なんだろうこれ。φυλακὴ παντὸςは2回ἀκαθάρτουは3回…と複数回登場するものを消していって、グーグルで言葉を検索してみると、
ὀρνέουって言う語が鳥らしいと判明(^O^)
 
 
グーグルで検索したときに出てきた、ここの↓サイトの検索結果を見ました。
http://lexicon.katabiblon.com/?search=%E1%BD%80%CF%81%CE%BD%E1%BD%B3%CE%BF%CF%85
 
 
しかし…マタイの福音書の方にその語句はない。
ならば少なくとも黙示録とは違う言葉で「鳥」と表現しているのだということがこの瞬間判明。
でももっとちゃんと知りたいのでさらに検索をしていたところこんなサイトを発見
http://biblehub.com/interlinear/matthew/13-1.htm
このサイトがどういうサイトなのかなんだかよくわかりませんが
なんとなく便利そうなので←図々しい
使ってみると、マタイ13章ではπετεινὰという語で「鳥」を表現していると判明。
 
で、黙示録の検索の時に見たサイトでこの語句も検索してみたら
こちらの鳥という語句は
Mt 6:26空の鳥を見なさい
Mt 8:20狐には穴があり、空の鳥には巣があるが
Mt 13:4道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。
Mt 13:32空の鳥が来て、その枝に巣を作る
Mk 4:4種が道ばたに落ちた。すると鳥が来て食べてしまった。
Mk 4:32空の鳥が巣を作れるほどになります。
Lk 8:5空の鳥がそれを食べてしまった。
Lk 9:58狐には穴があり、空の鳥には巣があるが
Lk 13:19空の鳥が枝に巣を作りました。
Acts 10:12四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた。
Acts 11:6地の四つ足の獣、野獣、はうもの、空の鳥などが見えました。
 
で使われていると。(ナント便利なサイトでしょうか!)
 
一方、黙示録の方で使われていた鳥ὀρνέουという語は
新約では黙示録18章2節でしか使われていないらしく、
旧訳で該当する箇所は申命記の4章17節に出て来る「鳥」だと。
 

堕落して、自分たちのために、どんな形の彫像をも造らないようにしなさい。男の形も女の形も。
地上のどんな家畜の形も、空を飛ぶどんな鳥の形も、申命記4章16、17節

 
 
再度biblehub.comの方にもどってこんどは語句検索してみたところ、ὀρνέουという語はEnglishman's Concordanceによると
 
ὄρνεα
ὀρνέοις
ὀρνέου
という変化形?を合わせると計3回登場していて、
しかしやはり全て黙示録で、
Revelation 18:2
GRK: φυλακὴ παντὸς ὀρνέου ἀκαθάρτου καὶ
 
Revelation 19:17
GRK: πᾶσιν τοῖς ὀρνέοις τοῖς πετομένοις
 
Revelation 19:21
GRK: πάντα τὰ ὄρνεα ἐχορτάσθησαν ἐκ
 
19章の2箇所について言えば日本語の聖書で確認したところ、ざっくり言えば「肉食の鳥」のようでした。
で、肉食の鳥と言えば、ということで黙示録の12章14節にある「大鷲(おおわし)」が思い出されまして、biblehub.comで調べてみたところ(biblehub超便利!)ギリシャ語ではἀετοῦと言うのだそうです。 ってことはアレですね、
聖書では、必要に応じてレビ記のようにしっかり分類された名前を伝える場合と
イメージとしてこんな感じの鳥だということを単語の違いで伝える場合があって、
マタイ13章で使われていた鳥という語は漠然とはしているけれど、少なくとも汚れたイメージや肉食で怖いイメージの鳥ではない。
一方黙示録で使われていた鳥は、日本語にすればタダの鳥ですが、偶像に絡んでくるような汚れたイメージの鳥であるということですね。
だとしたら、鳥という単語で見た限りでは、からし種のたとえの鳥の巣は嫌な感じの意味はなく、素直に「ことりさんが巣を作りましたよー」という感じで語って良いわけですね。
 
あー心が軽くなった(^-^)
 
 

 

 
 
さて、次はからし種です。
今、からし種について調べようと思って、そうだ、昔の聖書事典があった、と思って本棚から1985年発行のいのちのことば社「新聖書事典」を持ってきてみたのですが、からし種の前に「とり」について見てみたところ「一般に翼のある動物を言う」という説明に始まって15行。今日私が知りたかったことはこの事典では調べられなかったようです。
 
さて、そんな事典でからし種を調べてみます。
 
「今日(こんにち)、からし種と言われるものに、2種ある。第1に、イエスがからし種ほどの信仰と言われたのは、くろがらしの種子であろう。(略)ところが、今日イスラエルでからし種の木と言われるのは、きだちたばこと言われるもので、(略)種子は大変細かく、くろがらしの100分の1より、まだ小さい。しかし、これは元来南アメリカ原産のもので、イスラエルに古くからあったものではない。しかし、あまりにも細かい種子であるので、今日ではこれがそのからし種だと言い伝えられられている。エルサレム周辺はもとより、ヨッパにもエーゲ海の島々にも、アメリカにも、その強い生命力を持って分布圏を広げている。(略)」
 
 
ならば、
「くろがらし」がからし種ですね。
 
 
 
 
ウィキペディアより

クロガラシ(英語:black mustard)は、アブラナ科アブラナ属の一年生植物。種子を香辛料として利用するほか、野菜またはハーブとして利用される。 地中海沿岸原産で荒れ地などに自生している野草だが、現在では帰化植物として世界的に分布している。
草丈が非常に高く、成長すると2.4メートルに達する。表面が毛羽立った多肉質な茎を持ち、茎の頂に花弁が4枚の黄色い花をつける。葉は大きいが、カラシナやシロガラシと違い毒性があり食用に適さない。冷涼な気候を好み、温暖な気候だと日中しおれてしまうこともある。
果実が実ると、茎に密着する点で他のアブラナ属と区別できる。また開花期もアブラナ属の中でもっとも遅く、日本で栽培した場合、5月近くになる。
クロガラシは先史時代の遺跡からも発見されており、香辛料としての歴史はシロガラシより古く3000年前からとも言われている。聖書の喩え話に登場する「からし種」(マタイ13:31-32など)はクロガラシの種を指すという説もある
(バーバラ・サンティッチ; ジェフ・ブライアント; 山本紀夫訳 『世界の食用植物文化図鑑』 柊風社、2010年。ISBN 9784903530352。)
現在マスタードの原料としてはほとんど利用されていない(粒マスタードに用いられるのは本種ではなく、セイヨウカラシナの一種であるブラウンマスタードである)。草丈が高く種子が落ちやすいため機械収穫に向かないことも工業化できない一因となっている。風味はシロガラシよりも鼻に抜けるような辛み感が強く、ピクルス液やインド料理ではマスタードオイルやギーの風味付けとして用いられている。
種子は褐色で黒芥子(コクガイシ)と呼ばれ、他のカラシ種子と同様に、健胃、去痰、鎮咳の漢方薬として用いられる。ヨーロッパでは筋肉痛の湿布薬としても用いられた。

 
 
 
背丈は2.4メートルという事で問題ない気はするのですが、


もしも今私たちが目に出来るブラックマスタードが改良種であるならば、作物を改良する場合、たいていは扱いやすいコンパクトサイズで収量重視になっているはずですから、イエスさまの時代の植物のデザインとは違うかもしれません。聖書の植物を考えるとき、これは忘れてはいけないことですよね。
 
あと考えられるとすれば、鳥は種類によっていろんなところに巣を作っているはずだから
日本でもヒバリとかは…
もちろん、イエスさまはからし種が大きくなるから鳥が巣を作るとおっしゃっていますので
ヒバリのように草の根元に穴を掘る形式の巣ではおかしいのでありますが。
 
(イスラエルの鳥を検索中…)
 
 
よしこれなんかどうだ!
Palestine sunbird
https://en.wikipedia.org/wiki/Palestine_sunbird
 
ウィキペディアにリンクを貼りましたが、
小さくてとても可愛い鳥です。
 
 
 

 

 
今日の結論。
 
 

とりあえずは、これまで習ったとおりだったということで納得しました。