マタイによる福音書12章43~45節 コスメオの訳

汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからない。

そこで、出てきた元の家に帰ろうと言って帰って見ると、その家はあいていて、そうじがしてある上、飾りつけがしてあった。

そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を一緒に引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人ののちの状態は初めよりももっと悪くなるのである。よこしまな今の時代も、このようになるであろう」。

マタイによる福音書12章43~45節(口語訳)

汚れた霊は間違いなくイエスさまによって追い出されました。

その結果、汚れた霊がすみかとしていた場所はからっぽになりました。

そして、

賃貸の家から人が退去したことをイメージしてください


部屋に住んでいた者が出て行った後のその部屋には住民だった者の痕跡
汚れだったり、においだったり、
いろいろなものが残っています。

なので、ハウスクリーニング=掃除 が必要になるわけですが、


口語訳聖書で「そうじがしてある」と書かれているところにはギリシャ語で
σαρόωという単語があります。

辞書を見るとこの単語には同義のヘブライ語があるとして
מטאטא Strong's Hebrew 4292の言葉が挙げられていました。

4292番には箒(ほうき)という意味があります。そしてこの言葉は聖書の中ではたった一度だけ登場します。
わたしはこれをはりねずみのすみかとし、水の池とし、滅びのほうきをもって、これを払い除く、と万軍の主は言う」。イザヤ書14章23節
このイザヤ書の言葉も合わせてマタイによる福音書12章について考えるならば、purification=浄化(きよめ)や、さばきに関連するニュアンスをもつ「そうじ」がなされたということですね。

とすると、マタイ12章44節で言うところの「そうじがしてある」というのは
イエスさまがのちに十字架で完成することとなる
神さまと人間の交わりの妨げとなるすべてのものを取り除き、きよめるという 
すべてのことが完了した後のことを指していると考えられます。

なので、マタイ12章43~45節で語られていることはイエスさまが昇天されたあとのことだ、ということになります。

だからこそ、教会ではからっぽにしておかないで聖霊さまが住んでくださるように求めなさいと教えるわけですよね。


しかし、イエスさまが語るのは、なぜかそこに再び汚れた霊がやってきてしまうというストーリーです。しかも、やってくるのは昔住んでいた汚れた霊だけではなく、その霊以上に悪い他の七つの霊だというわけです。


いったいこれはどういうことでしょうか。

(・・・そうか、だから私から悪霊を追い出そうとしてくれた先生がいたというわけでしょうか、30年以上経った今頃悟った)



実はこのマタイ12章43~45節のところで、私にはつい最近まで読み落としていたキーワードがありました。それは「飾りつけ」という言葉です。


そこで、出てきた元の家に帰ろうと言って帰って見ると、その家はあいていて、そうじがしてある上、飾りつけがしてあった。

マタイによる福音書12章44節を口語訳聖書からもう一度引用しました。
「あいていてそうじがしてある」その家にしてあったもう一つのこと。

それは「飾りつけ」です。

かつて教会に通っていた頃、私が読んでいたのは新改訳聖書だったため、12章44節の後半部分には「家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました」とあるだけで「飾りつけ」はありませんでした。(最新版の新改訳2017 にも「飾り付け」はないようです)

ただ、口語訳聖書もそうですが、最新の聖書協会共同訳聖書にも、
そして明治37年の明治元訳聖書にも44節は「我が出し家に歸らん既に來しに空虚にして掃淨り飾れるを見。」と書いてあるのです。




ギリシャ語の聖書でその箇所にはκεκοσμημένονという単語があります。
原形はκοσμέω コスメオ で、
化粧品を表す英語「コスメ」の元になった言葉です。

κοσμέωコスメオは、
「秩序」または「世界」を意味する κόσμος コスモス から派生した言葉なので、「秩序立てて正しい配置にする」という意味があり、こちらの意味をとれば、新改訳聖書のように「きちんとかたづいていました」となるのだと思います。
ただ、新約聖書の中に見られるコスメオという言葉は、
神さまの求めておられることからズレている人々(宗教家たち)の行ないについて述べている場合もあり、

マタイによる福音書23章28、29節

このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の碑を飾り立てて、こう言っている、

マタイ12章44節のコスメオがいったいどちらの意味だと考えることが望ましいのか、
翻訳者にはそのあたりの考察が必要だったのだと思います。

御心にそっているのであればその「飾り」は「秩序立てて正しい配置にする」ということと同義ですが、そうでなければそれは無駄で愚かな行為だということになります。

明治元訳聖書や口語訳聖書、そして聖書協会共同訳聖書で「飾り付(つ)けがしてあった」と訳したのは、おそらく、その文のあとで「汚れた霊」がパワーアップして戻ってきてしまうというストーリー展開があるため、どうしてそうなってしまうのか、それらを呼び込むことになった原因がその家にあったはずだ、ということについて、「聖い霊」であるお方が住まわれていないという最も大きな原因とともに、そうであるがゆえの「マイナスの要素≒飾り付け」が家にはあった、だからそういう飾り付けのある家がneat and tidyであるはずはなく、New American Standard Bibleが訳しているようなput in orderでもなく、
KJVが言うようにgarnish「飾り付け」と訳す

私もその方が良いと思いました。(権威はないけどさww)

「きちんとかたづいていました」という読み方・・・
よくよく考えてみると、
住人がいないはずなのにかたづけるべき「もの」があるというのもおかしなことです。
屁理屈のような気もしますが。
そもそもどうしてそのきちんとしている家に聖霊さまがいらっしゃらなかったのか


まあ、「要するに」どうなのかということが同じならどうでもよいのかもしれませんが、




第47代合衆国大統領という「王」を選んだ人々のことを考えながら過ごす今日この頃です。