エレミヤ31章33節 ケレブとロゴスとノモスとダバールそしてトーラーと聖霊さま

ベレシートと冒頭に書かれているトーラー そして「聖」という記事の中にも書いた事と重複する部分もあるのですが、
コスメオの訳という記事でマタイによる福音書12章44節を読みながら思い出したことがあったので

そこで、出てきた元の家に帰ろうと言って帰って見ると、その家はあいていて、そうじがしてある上、飾りつけがしてあった。
マタイによる福音書12章44節(口語訳)

もう一度「エレミヤ31章33節」について個人的に考えた事を記しておこうと思います。


その日の後、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである――主の仰せ。私は、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。
エレミヤ書31章33節

ヘブライ語聖書でこの箇所を読むと
כי זאת הברית אשר אכרת את בית ישראל אחרי הימים ההם נאם יהוה נתתי את תורתי בקרבם ועל לבם אכתבנה והייתי להם לאלהים והמה יהיו לי לעם׃

יהוה神聖四文字であられるお方、つまり創造主であるお方が
「トーラー」を人間のקרבケレブに与える と書いてあることがわかります。 

קרבケレブには「真ん中」という意味がありますが、古代ヘブライ人たちにとってその場所は、思考や感情といったものがあふれ出てくる場所です。

その場所にתורתי「わたしのトーラー」をנתתי与えるというのです。

そしてそれはただ単に与えるというだけではなく、
彼らのלבם心に אכתבנה カタブ 
神さまは刻み付ける(書く)だろう と。

(刻み付けるというのは石の板に刻むような形で「書く」ということなので刻印χάραγμαとは違います。)

そしてそのあとにはこうあります。
וそして」להם לאלהים私は彼らのエロヒムと なり、
וそして」לי לעם彼らは私のと なる


で、マタイによる福音書12章44節を読みながら思ったのです。私たちの中央、胸の中、思考や感情といったものがあふれ出てくる場所קרבケレブ、
この場所こそがイエスさまが十字架の血潮できよめてくださった
聖霊さまがお入りくださる
「掃除された空き家」ではないか、と。

エレミヤの預言ではקרבケレブに与えられるものは「トーラー」と書かれています。

聖霊さまではなくトーラーじゃないか、と思うかもしれませんが
聖霊さまとトーラーは本質的には同一です。


それについてはヨハネが福音書の冒頭で解説してくれています。

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった
この言は初めに神と共にあった。
すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。
この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。
彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。
すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った、「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。
わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。
律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。
神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。

言(ことば)は神であり、言(ことば)が肉体となったとすれば
言(ことば)=神さま=イエスさま=聖霊さま    

では言葉とは何でしょう。

「すべてのものは、これによってできた」というのですから、これは「創造」の言葉、つまり、ベレーシート「創世記」の言葉です。創世記はトーラーです。


数学の証明問題ならばこれが最短で、
そうであるがゆえ、
イエスさまのことを「人となられたトーラー」と呼ぶ
という話にもなるわけです。


קרבケレブにトーラーを刻み付けるということは、

קרבケレブにイエスさまを刻み付けるということです。

だとすればそれは聖霊さまを刻み付けるということになります。



ちなみに、

ヨハネによる福音書の冒頭にある「言(ことば)」これはギリシャ語では
よく知られているλόγοςロゴスです。
λόγοςロゴスであってνόμοςノモス(律法)とは書いてありません。

しかし、上で書いたように、等しいものをピックアップしていくと、ヘブライ語で言うところのベレシートいう名のתורהトーラー=創世記 となってしまいます。

ただこれは仕方がないことで、古代ギリシャ哲学において「λόγοςロゴス」とは秩序と知識の原理を指す単語ですからそれはまさに創世記であるわけです。
このブログで何度も何度も書いていることではありますが、
要するに新約聖書の中で「律法」と訳されているギリシャ語「νόμοςノモス」ではトーラーのすべてを包括できないのです。

同様にλόγοςロゴスという言葉も正確にはתורהトーラーとイコールというわけではなく、דברダバール「話された言葉」というヘブライ語の方が近い意味になります。
דברダバールは神の言葉、神の命令、神の約束という意味で用いられることが多いようです。

例えばエレミヤ書15章16節

口語訳聖書から引用します。

わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、
心の楽しみとなりました。万軍の神、主よ、わたしは、あなたの名をもって
となえられている者です。

御言葉と訳されているところがדברダバールです。

דברダバールがλόγοςロゴスであるということを考えながらエレミヤ15章16節を読むと、またヨハネの福音書に戻っていきます。



わたしは命のパンである。
ヨハネによる福音書6章48節


しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。
ヨハネによる福音書6章50節


わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。
ヨハネによる福音書6章51節


天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう」。
ヨハネによる福音書6章58節


דברダバールを食べる=λόγοςロゴスを食べる
=人となってこられたתורהトーラーであるイエスさまを食べる!