2023年12月14日木曜日

聖書に登場する「ガザ」

Strong's Hebrew 5804 עַזָּה  Azzah

コンコルダンスによると、私たちがガザと呼んでいる(ヘブライ語ではガザではなくアザというらしい)地名は、旧約聖書の中に21回登場します。

この地名はStrong's  Hebrew 5794 עַז azに由来するもので、

5794番のDefinition(定義)は strong, mighty, fierceで、
fierceを日本語にすると獰猛(どうもう)な、凶暴な、激しい、すさまじい、猛烈な、荒れ狂う、不快な、ひどい・・・だそうです。

口語訳聖書ではガザではない地名になっている場合もありますが、
5804番が含まれているとされる箇所を以下に引用します。

 

創世記 10:19

カナンびとの境はシドンからゲラルを経てガザに至り、ソドム、ゴモラ、アデマ、ゼボイムを経て、レシャに及んだ。 
HEB: גְרָ֖רָה עַד־ עַזָּ֑ה בֹּאֲכָ֞ה סְדֹ֧מָה

申命記 2:23

またカフトルから出たカフトルびとは、ガザにまで及ぶ村々に住んでいたアビびとを滅ぼして、これに代ってそこに住んでいる。)
HEB: בַּחֲצֵרִ֖ים עַד־ עַזָּ֑ה כַּפְתֹּרִים֙ הַיֹּצְאִ֣ים

ヨシュア記 10:41

ヨシュアはカデシ・バルネアからガザまでの国々、およびゴセンの全地を撃ち滅ぼして、ギベオンにまで及んだ。 
HEB: בַּרְנֵ֖עַ וְעַד־ עַזָּ֑ה וְאֵ֛ת כָּל־

ヨシュア記 11:22

それでイスラエルの人々の地に、アナクびとは、ひとりもいなくなった。ただガサ、ガテ、アシドドには、少し残っているだけであった。
HEB: יִשְׂרָאֵ֑ל רַ֗ק בְּעַזָּ֛ה בְּגַ֥ת וּבְאַשְׁדּ֖וֹד
NAS: only in Gaza, in Gath,

ヨシュア記 15:47

アシドドとその町々および村々。ガザとその町々および村々。エジプトの川と大海の海岸までが、その境であった。
HEB: בְּנוֹתֶ֣יהָ וַחֲצֵרֶ֗יהָ עַזָּ֥ה בְּנוֹתֶ֥יהָ וַחֲצֵרֶ֖יהָ

士師記 1:18

ユダはまたガザとその地域、アシケロンとその地域、エクロンとその地域を取った。
HEB: יְהוּדָה֙ אֶת־ עַזָּ֣ה וְאֶת־ גְּבוּלָ֔הּ

士師記 6:4

イスラエルびとに向かって陣を取り、地の産物を荒してガザの附近にまで及び、イスラエルのうちに命をつなぐべき物を残さず、羊も牛もろばも残さなかった。
HEB: עַד־ בּוֹאֲךָ֖ עַזָּ֑ה וְלֹֽא־ יַשְׁאִ֤ירוּ

士師記 16:1(口語訳では16章2節)

「サムソンがここにきた」と、ガザの人々に告げるものがあったので、ガザの人々はその所を取り囲み、夜通し町の門で待ち伏せし、「われわれは朝まで待って彼を殺そう」と言って、夜通し静かにしていた。
HEB: וַיֵּ֥לֶךְ שִׁמְשׁ֖וֹן עַזָּ֑תָה וַיַּרְא־ שָׁם֙

士師記 16:21

そこでペリシテびとは彼を捕えて、両眼をえぐり、ガザに引いて行って、青銅の足かせをかけて彼をつないだ。こうしてサムソンは獄屋の中で、うすをひいていたが、 
HEB: וַיּוֹרִ֨ידוּ אוֹת֜וֹ עַזָּ֗תָה וַיַּאַסְר֙וּהוּ֙ בַּֽנְחֻשְׁתַּ֔יִם

サムエル上 6:17

ペリシテびとが、とがの供え物として、主に償いをした金の腫物は、次のとおりである。すなわちアシドドのために一つ、ガザのために一つ、アシケロンのために一つ、ガテのために一つ、エクロンのために一つであった。
HEB: לְאַשְׁדּ֨וֹד אֶחָ֔ד לְעַזָּ֤ה אֶחָד֙ לְאַשְׁקְל֣וֹן

列王記上 4:24

これはソロモンがユフラテ川の西の地方をテフサからガザまで、ことごとく治めたからである。すなわち彼はユフラテ川の西の諸王をことごとく治め、周囲至る所に平安を得た。
HEB: מִתִּפְסַח֙ וְעַד־ עַזָּ֔ה בְּכָל־ מַלְכֵ֖י

列王記下 18:8

彼はペリシテびとを撃ち敗って、ガザとその領域にまで達し、見張台から堅固な町にまで及んだ。
HEB: פְּלִשְׁתִּ֛ים עַד־ עַזָּ֖ה וְאֶת־ גְּבוּלֶ֑יהָ

歴代誌上 7:28

エフライムの子孫の領地と住所はベテルとその村々、また東の方ではナアラン、西の方ではゲゼルとその村々、またシケムとその村々、アワとその村々。 
HEB: וּבְנֹתֶ֔יהָ עַד־ עַיָּ֖ה וּבְנֹתֶֽיהָ׃
KJV: also and the towns thereof, unto Gaza and the towns
INT: towns far Gaza towns

エレミヤ書 25:20

もろもろの寄留の異邦人、およびウズの地のすべての王たち、およびペリシテびとの地のすべての王たち、(アシケロン、ガザ、エクロン、アシドドの残りの者)、
HEB: אַשְׁקְל֤וֹן וְאֶת־ עַזָּה֙ וְאֶת־ עֶקְר֔וֹן

エレミヤ書 47:1

パロがまだガザを撃たなかったころ、ペリシテびとの事について預言者エレミヤに臨んだ主の言葉。
HEB: פַרְעֹ֖ה אֶת־ עַזָּֽה׃ ס

エレミヤ書 47:5

ガザには髪をそることが始まっている。
アシケロンは滅びた。
アナクびとの残りの民よ、
いつまで自分の身に傷つけるのか。
HEB: קָרְחָה֙ אֶל־ עַזָּ֔ה נִדְמְתָ֥ה אַשְׁקְל֖וֹן

アモス書 1:6

主はこう言われる、
ガザの三つのとが、
四つのとがのために、
わたしはこれを罰してゆるさない。
これは彼らが人々をことごとく捕えて行って、
エドムに渡したからである。
HEB: שְׁלֹשָׁה֙ פִּשְׁעֵ֣י עַזָּ֔ה וְעַל־ אַרְבָּעָ֖ה

アモス書 1:7

わたしはガザの石がきに火を送り、
そのもろもろの宮殿を焼き滅ぼす。
HEB: אֵ֖שׁ בְּחוֹמַ֣ת עַזָּ֑ה וְאָכְלָ֖ה אַרְמְנֹתֶֽיהָ׃

ゼパニヤ書 2:4

ともあれ、ガザは捨てられ、
アシケロンは荒れはて、
アシドドは真昼に追い払われ、
エクロンは抜き去られる。
HEB: כִּ֤י עַזָּה֙ עֲזוּבָ֣ה תִֽהְיֶ֔ה

ゼカリヤ書 9:5

アシケロンはこれを見て恐れ、
ガザもまた見てもだえ苦しみ、
エクロンもまたその望む所のものが
はずかしめられて苦しむ。
ガザには王が絶え、
アシケロンには住む者がなくなり、
 אַשְׁקְל֜וֹן וְתִירָ֗א וְעַזָּה֙ וְתָחִ֣יל מְאֹ֔ד
 וְאָ֤בַד מֶ֙לֶךְ֙ מֵֽעַזָּ֔ה וְאַשְׁקְל֖וֹן לֹ֥א

2023年12月13日水曜日

イザヤ書30章26節の解釈(12)「七日の光」

והיה אור הלבנה כאור החמה

ואור החמה יהיה שבעתים

כאור שבעת הימים

ביום חבש יהוה את שבר עמו ומחץ מכתו ירפא׃

イザヤ書30:26 
(ヘブライ語聖書から引用) 

月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。
(口語訳聖書を引用)

 

 

七つの日の光(口語訳、新改訳)、七日分の光(聖書協会共同訳)、七日の光(直訳)になる、とは何なのか。

 

単純に七倍になった事を言い換えているだけだとも考えられますし、
実際、自分はずっとそう考えて読んできたのですが、

ゆっくりじっくりと読んでみると、何かがおかしい。

 

読者はまず「月の光は日の光のようになり、」という言葉を読み

月の光は日の光のようになるというイメージを膨らませるわけです。

ああ、月が日のように明るくなるのかというイメージを読み取るわけです。

そして続いて「日の光は七倍となり、」とかいてあるので、

月も明るくなるけれども、太陽の光は7倍になるのか、と

それはそれはギラギラとまぶしい7倍の光となった太陽のイメージを心に描くわけです。

 

で、そこで終わっていれば、そういう話だという事でなるほどね、昼も夜も明るいねという事になるわけですが

そこでは終わらず「七つの日の光のようになる。」と言うわけです。

ヘブライ語で見ますと、「日の光は七倍となり、」という言葉の後にくる「七つの日の光のようになる。」という言葉はヴァヴで接続されていませんので、

新たな話をしているわけではなく、直前に書かれている太陽の話か、もしくはその前の月の光の話も含んだ話(つまり月と太陽の光の変化)を「七つの日の光のようになる。」という表現で受け、まとめているようにも思えるのですが、

七つの日の光はどう読んでも七日間seven daysの光と読め、

石のようにコチコチの頭を持つ私には

「七日という言葉は日数であって光の量を表さない」としか思えないわけです。

それでもどうしても光の量を表すのだと考えるなら
一日分の光を1単位としてそれの7倍ということなのか、とか思ってみるわけですが

それだと七日間の光とは「一日分の光が七日間照射される」という話になってしまい、太陽光の量には何の変化も起こっていないことになってしまうわけです。

ならば、月や太陽の変化が7日間なのかと考えたらどうかと考えましたが、
だったら別の言い方でもっと簡潔に直接的に表現した方が正確に伝わるはずです。

ドツボにはまった感がありますので

 

とりあえずまずはいつもの調べ学習のパターン。ヘブライ語聖書で

שבעת הימים七日seven days という言葉を含む箇所をコンコルダンスで拾い上げます。

 

創世記 7:10

こうして七日の後、洪水が地に起った。
HEB: וַֽיְהִ֖י לְשִׁבְעַ֣ת הַיָּמִ֑ים וּמֵ֣י הַמַּבּ֔וּל

出エジプト記 13:7

種入れぬパンを七日のあいだ食べなければならない。種を入れたパンをあなたの所に置いてはならない。また、あなたの地区のどこでも、あなたの所にパン種を置いてはならない。 
HEB: אֵ֖ת שִׁבְעַ֣ת הַיָּמִ֑ים וְלֹֽא־ יֵרָאֶ֨ה

士師記 14:17

彼女は七日のふるまいの間、彼の前に泣いていたが、七日目になって、サムソンはついに彼女に解き明かした。ひどく彼に迫ったからである。そこで彼女はなぞを自分の国の人々にあかした。 
HEB: עָלָיו֙ שִׁבְעַ֣ת הַיָּמִ֔ים אֲשֶׁר־ הָיָ֥ה

1 歴代誌 9:25

またその村々にいる兄弟たちは七日ごとに代り、来て彼らを助けた。
HEB: לָב֨וֹא לְשִׁבְעַ֧ת הַיָּמִ֛ים מֵעֵ֥ת אֶל־

2 歴代誌 30:22

そしてヒゼキヤは主の勤めによく通じているすべてのレビびとを深くねぎらった。こうして人々は酬恩祭の犠牲をささげ、その先祖の神、主に感謝して、七日のあいだ祭の供え物を食べた。
HEB: הַמּוֹעֵד֙ שִׁבְעַ֣ת הַיָּמִ֔ים מְזַבְּחִים֙ זִבְחֵ֣י

イザヤ書 30:26

さらに主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日には、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。
HEB: כְּא֖וֹר שִׁבְעַ֣ת הַיָּמִ֑ים בְּי֗וֹם חֲבֹ֤שׁ

エゼキエル書 45:23

祝い日である七日の間は、七頭の雄牛と、七頭の雄羊の無傷のものを、七日の間毎日、燔祭として主に供えよ。また、雄やぎを罪祭として日々ささげよ。 
HEB: לַיּ֔וֹם שִׁבְעַ֖ת הַיָּמִ֑ים וְחַטָּ֕את שְׂעִ֥יר

エゼキエル書 45:25

七月十五日の祝い日に、彼は七日の間、罪祭、燔祭、素祭および油を、このように供えなければならない。
HEB: כָאֵ֖לֶּה שִׁבְעַ֣ת הַיָּמִ֑ים כַּֽחַטָּאת֙ כָּעֹלָ֔ה

 

 

ドツボの度合いがいっそう増した感ww

特にこれと言って・・・

気付けないのはわたしだけ?(;´Д`A ```

 

 

 

もしかして「七日の光」とは何か慣用句的なものなのでしょうか?

直前の七倍とかそういう数字の表現とは関係なく、

「七日の光」単独で共通理解できるようなそういう表現?

直前の「七倍」という数字が「7という数字」つながりで

「七日の光」という言葉について異邦人読者に疑問を抱かせにくい一体感、ナチュラル感、聖書っぽさを醸し出しているのだけれども実際には「七倍」とは全く関係のない独立した言葉であって、

 

うーん・・・たとえば

 

例文1 彼は、朝ご飯を食べながら、「そんなの朝飯前だ」と言った。

例文2 彼は、夕ご飯を食べながら、「そんなの朝飯前だ」と言った。

という二つの文があったとして、

日本語ネイティブであれば、「朝飯前」という言葉は「簡単である」という意味だと知っていますから、その前にどんな言葉があっても「そんなの簡単だ」とわかるわけですが

朝飯前という言葉を文字通りの「朝ごはん前」と読んでしまうと、

例に挙げた二つの文は???ということになり

人によっては勝手に言葉を補って

「そんなの朝飯前にやった」と「完了形」でとらえてしまうかもしれない、というような

 

聖書ヘブライ語ネイティブではないゆえの誤解をしているのではないか・・・

 

 

で、とにかく何かしら読解の手がかり足がかりになるものはないかしらということで

12月5日の記事の最後に書いた謎サイトの文章を読んでみることにしました。

שבעת הימים

この文字列を検索にかけたところ、想像していたのとは異なる検索結果が現れて…というのが12月5日の記事の最後だったわけですが

 

אור שבעת הימים – חב"דפדיה 七日間の光

שבעת הימים – ויקיפדיה 七つの海

 

 

יום(日)ではなくてים(海)と読んでしまって「七つの海」というのはさすがにイザヤ書の場合文脈に沿わないと思うので、
「七日間の光」という記事の方(ハバド・ハシディズムの教えについて書かれているChabadpediaにおけるשבעת הימים)をグーグル翻訳の力を借りて読んでみました。ハバド・ハシディズムがどういう教えなのかはよくわかりませんが、「七日間の光」という言葉にヘブライ語を知る人たちが何を感じるのか知りたいのです。

 

すると、まず最初にこんなことが書いてありました。



בפי חז"ל 賢者?

 

全体を一括で翻訳すると日本語に訳された言葉の意味が全く見えなかったので、

一語一語、そしていくつかの言葉をまとめて翻訳してもらったりいろんなことをして読んでみたのですが

ドツボから今度は大海のど真ん中に引きずり出されたような(笑)

しかし、やはり「七日間の光」という表現は見出し語となりうる一つの決まり文句というか、ヘブライ語聖書を読む人々が共有する特別な表現であるということに気付かされました。
ちょっとまだはっきりと言える段階ではないのですが、

ただ、これが創世記の初めのところで神さまが創造された「光」を指す言葉なのだと認識されているのだとすれば、

 

そこにはまだ罪などはないわけで

これは以前、エデンの園とイエスさまという記事を書いたときに


「ヨハネによる福音書3:16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」 

トーラーを持たない私がこの言葉を聞いたとき、
この言葉は、自分の現在の立ち位置を原点として未来という一方向だけに限りなく伸びる半直線をイメージさせました。
そして、「死んでも死なない」という意味での「永遠の命」そして漠然とした「天国」を思い描いたわけですが、
トーラーを持つ人々がこの言葉に出会った場合、
おそらく線は自分の立つ原点を中心に、未来だけではなくはるか遠い創造の昔にも向かっているのです。
そして、こんなメッセージを聞くことになるのです。
「エデンの園に帰れるのだ!
神さまは御子によって人間を再びエデンの園に戻してくださった!
神さまとの断絶が完全に終わったのだ!」

と書きましたが、

ちょうどそれと同じような気分で語る

「創造」の時の光というのが「七日間の光」であって

だとすれば

月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。
(口語訳聖書を引用)

というのは、

「月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、」というところで

イザヤの気持ち、イザヤの言わんとしたことはいったん終了して

そういう「月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、」となることで

創世記の初めのようになる、つまりこの「七日間の光」という言葉のあとの「いやし」の内容につながっているということなのかもしれません。

ביום חבש יהוה את שבר עמו ומחץ מכתו ירפא׃

(9)の記事でも書いた事の繰り返しになりますが

月の光日の光の話の後にあるのは、単語の意味を並べてみればこういうふうになっているわけで

 

「その日」

「包む」

「主(神聖四文字)」

אֶת

「壊れている、破滅状態、(クラッシュしている)」

「彼の民」

「そしてひどく傷ついている(砕け散っている)」

「虐殺、疫病、刃物や銃による傷」

「完全にいやす」

 

そして、「包む」というのは「ろばにくらを置く」という事であり、

「ろばにくらを置く」というのはすなわち

ろばがろばとしてそのやるべきことをやるために必要な準備ですから

イスラエルにはいろいろなことがあったけれども、

 

月がうんぬん日がうんぬん・・・というようなことがあり

このようにして「七つの日の光のように」なったので

彼らは癒され、

創造の初めのあるべき姿となり

彼らは彼らのなすべきことを行うようになる

 

ということでしょうか。

 





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2023年12月11日月曜日

イザヤ書30章26節の解釈(11)いったんまとめます

今日は、イザヤ書30章26節について「いったん」まとめようと思っています。
まだ「7日分の光」という言葉について納得できていないので、今後も調べ学習は継続していこうと思っておりますが、とりあえず現段階ではどんな理解に至ったのか、という事を記録しておこうと思います。


とその前に、今朝創世記16章を読みながら少々思ったことがあったのでその話から。

口語訳聖書の創世記16章を「日本語の聖書」様サイトより引用させていただきます。

16:1アブラムの妻サライは子を産まなかった。彼女にひとりのつかえめがあった。エジプトの女で名をハガルといった。 16:2サライはアブラムに言った、「主はわたしに子をお授けになりません。どうぞ、わたしのつかえめの所におはいりください。彼女によってわたしは子をもつことになるでしょう」。アブラムはサライの言葉を聞きいれた。 16:3アブラムの妻サライはそのつかえめエジプトの女ハガルをとって、夫アブラムに妻として与えた。これはアブラムがカナンの地に十年住んだ後であった。 16:4彼はハガルの所にはいり、ハガルは子をはらんだ。彼女は自分のはらんだのを見て、女主人を見下げるようになった。 16:5そこでサライはアブラムに言った、「わたしが受けた害はあなたの責任です。わたしのつかえめをあなたのふところに与えたのに、彼女は自分のはらんだのを見て、わたしを見下さげます。どうか、主があなたとわたしの間をおさばきになるように」。 16:6アブラムはサライに言った、「あなたのつかえめはあなたの手のうちにある。あなたの好きなように彼女にしなさい」。そしてサライが彼女を苦しめたので、彼女はサライの顔を避けて逃げた。
16:7主の使は荒野にある泉のほとり、すなわちシュルの道にある泉のほとりで、彼女に会い、 16:8そして言った、「サライのつかえめハガルよ、あなたはどこからきたのですか、またどこへ行くのですか」。彼女は言った、「わたしは女主人サライの顔を避けて逃げているのです」。 16:9主の使は彼女に言った、「あなたは女主人のもとに帰って、その手に身を任せなさい」。 16:10主の使はまた彼女に言った、「わたしは大いにあなたの子孫を増して、数えきれないほどに多くしましょう」。 16:11主の使はまた彼女に言った、「あなたは、みごもっています。あなたは男の子を産むでしょう。名をイシマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞かれたのです。 16:12彼は野ろばのような人となり、その手はすべての人に逆らい、すべての人の手は彼に逆らい、彼はすべての兄弟に敵して住むでしょう」。 16:13そこで、ハガルは自分に語られた主の名を呼んで、「あなたはエル・ロイです」と言った。彼女が「ここでも、わたしを見ていられるかたのうしろを拝めたのか」と言ったことによる。 16:14それでその井戸は「ベエル・ラハイ・ロイ」と呼ばれた。これはカデシとベレデの間にある。
16:15ハガルはアブラムに男の子を産んだ。アブラムはハガルが産んだ子の名をイシマエルと名づけた。 16:16ハガルがイシマエルをアブラムに産んだ時、アブラムは八十六歳であった。

創世記16章(口語訳)

創世記という書には、この世界の根本、土台、そもそも、という事が書かれています。

良いか悪いか、読者の納得がいこうがいくまいが、誰がどんな評価をすることになろうがそんなことにはおかまいなく、書かれているわけです。

そしてこの創世記の16章もそう割り切って読まないとやっていられないストーリーの一つだと私は思っています。

このくだりさえなければ、と思わない日はないわけです。

 

しかし「要するに」
人間というものは、年齢も経験も立場もへったくれもなく、

もっと言えば創造主との関係性や距離感にも関係なく

欲に駆られて創造主の言葉を改変したり曲解したり無視したりという罪を犯し

罪を犯せば必ずトラブルが起こって、
遅かれ早かれ、経路はともかく「死」に至る。

が、創造主が愛であったゆえに
完全な滅びに至る前に
最適なタイミングで軌道を正され今日の世界がある。

 

 

だとすれば、イザヤ書30章26節もそうであるということです。

 

まずは25節から読んでいきます。
「大虐殺」というキーワードがまずあるわけですが
これは主が容認されているからこそ起こり得たことです。
言い換えると、
イスラエルは、契約のとおりであればいずれそうなるだろうとわかっているにもかかわらず欲に駆られて創造主の言葉を改変したり曲解したり無視したりという罪を犯したので報いとしての「死」がもたらされた、ということです。

そしてそれは、敵の剣による場合もあるし、疫病である場合もあるし、
いずれにしても、神の民は壊れてボロボロになっているわけです。

 

しかし、同時に、「塔」も倒れるのです。
イスラエルが頼りにした神さま以外の国や物、
より頼んでも何の助けにもならない「塔」もすべて倒れてしまう。
30章の初めから読むとそのあたりのことが読み取れます。

そして、大虐殺と塔のすべてが倒れる事態の前後関係は

当然のこととして、塔=要塞が倒れたからそれに守られていた人々が死に至るはずで、
要するに、イスラエルがより頼んでいたものは何の役にも立たなかったということです。

イザヤは「月」という語にバベルの塔建設のために使ったれんがと同じ文字列の語を使うことで、ここにおける「塔」という言葉と「バベルの塔」に関係があることを読者に伝えます。

「ユダヤ古代史」によると、バベルの塔建設をさせたリーダー、ハムの孫のニムロデ(ニムロド)は、彼らの繁栄が
創造主のおかげではなく、
彼ら自身の剛勇(アレテー)によることを納得させたとありますが、


Strong's Hebrewで、(バベルの)塔=ミグドルの前後の単語(文字列の似ている単語)に目を留めてみると
  
4022. meged מֶגֶד excellence 優秀
4023. Mgiddown מְגִדּוֹן a tower 塔
4023a. migdol a tower 
4023b. Megiddon or Megiddo a place in Manasseh 

ミグドルの一つ前には同じく塔を表すミギドウン、そしてもう一つ前には人間の優秀さを意味するメゲドがあり、

ミグドルの一つ後にはヨハネの黙示録に現れるハルマゲドンに含まれる地名であるメギドン(メギド)があります。

つまり、ヨハネが黙示録に置いて言及したハルマゲドンとはイザヤ書30章26節に由来するものであり、ハルマゲドンとは第一義的にはイスラエルが
創造主である神さまにより頼むことなく大国や人間が手で作ったものにより頼むことによってはじまりもたらされる大量死、大虐殺のことです。
従って、イスラエルが頼りにしたもの「塔という塔は」倒れてしまうことになります。

 

そして26節「月の光が日の光のようになる」という言葉について

月は月です。日ではないのです。

月には月の役割そして能力というものがあります。
しかもここで言う「月」は神さまが創造された「月」ではなく、人工物であるれんがです。バベルの塔を作り上げたうちの一つのれんがです。(れんがは単数形である)

その発する光を「日の光」のようにするとすれば、

月は恒星ではありませんから日の光を反射して光っているわけで、

「日の光」をれんが一つに照射するという事になります。

ここで言う「日(太陽)」は「激怒」という意味を持つ単語と文字列が同じものなので、

「激怒」の光をれんがに向かって照射するという事になります。

激怒ではないただの光だったとしても、れんがの一つに過ぎないものに太陽のエネルギーは完全にキャパオーバーです。
そう、太陽一つ分の光であっても受け止めきれないでしょうに、日の光は7倍になるという事ですから

ただの土の塊であったれんがは

焼き尽くされて跡形もなくなってしまう。

 

 

大いなる虐殺の日、やぐらの倒れる時、すべてのそびえたつ山と、すべての高い丘に水の流れる川がある。
さらに主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日には、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。

イザヤ書30章25、26節

 

 





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2023年12月8日金曜日

イザヤ書30章26節の解釈(10)悪い光なんてあるのか?

イザヤ書30章26節をずーっと考え続けてる中で、困っているのは「光」という単語です。

これまでの人生経験・・・いや、聖書のメッセージを聴いている中で「光」は闇の対極であって、100パーセント良いものとして教えられてきたからです。

聖書辞典も眺めてみましたが、案の定、悪い意味での「光」なんてないわけです。

 

 

なんかないかなあ・・・と考えていて気付いたのは目の前のディスプレイ。

これ、私の目に悪いw。長時間じっと眺めていると片頭痛を催すし、そもそもまぶしすぎて不快なのでメガネをかけて使っております。

最近の研究ではブルーライトカットグラスをかける方が悪いとか言う説もあるようですが、私は自然光であっても強い光を浴びると閃輝暗点を起こすので、駄目なものは駄目ということで、サングラスやブルーライトカットグラスは友達です。そう、ブルーライトで虫が死んでしまうという研究もありましたし・・・ってブルーライトは聖書とは関係ないわけですが

そんなことを考えていて気付いたのは「~の光」という表現。

たとえ「光」が良いものであったとしても「~の」に当たる部分が悪であればその光は悪なのではないかと。

(苦し紛れのこじつけか)

 

神さまの「栄光」もあるが悪い集団の長の「栄光」だってある

とそこまで考えたときパウロが言ってた言葉を思い出しました。

新改訳聖書を30年近く読んでおりましたので、こういう時に思い出すのは新改訳聖書の言葉なのですが、太陽の栄光もあり月の栄光もあり星の栄光もあります・・・というところ。第一コリントの15章。著作権の関係があるので口語訳から引用します。

コリント人への第一の手紙15章41節
日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。 

栄光の話であって光ではないとは思いますが、

光にもいろいろあると言えばあるのではないか、と。

 

確信を持って言っているわけではないので今後10年間でまた話が変わっていくのかもしれませんが、現時点の思い付きと思い込みとして、そういう「~の光」という
修飾語が付くことによって

また、その光を受け止める人々の状況などによって

「性質の異なる光」というものがある、と

 

一般的には光と言ったら好ましいものではあるけれども

だいたい、この夏の尋常ではない暑さを思えば

暑さではなく「熱さ」であり、

いつになってもやむ気配もなく、

…12月になってもまだ20度に行きそうで…

太陽の光がこんなに恐ろしいものなのかと

白く筋の入った新米をとぎながら思っているわけです。

 

 


光という言葉をヘブライ語の聖書で眺めてみました。

 

 

 

イザヤ書30章26節に登場する「月の光は日の光のように」

というところはどういうふうに書かれているかというと

אור הלבנה כאור החמה

 

意味は

אור 

הלבנה the

כאור のように

החמה the日(太陽)

で、

אורという言葉は122回聖書に登場しているのですが、

כאורという表現になるとわずか3回しかないのです。

言い換えると、「光のようになる」という聖書の箇所は3か所しかないということです。
で、3回のうち2回はイザヤ書にあります。

光という言葉は聖書の中ではほとんどの場合(122回中52回)
אור’ō·wrオウル という何も付かない状態で現れるのですが、
イザヤ書には文字がついていることがあり
…ヨブ記もいろいろついている気がしますが

時代の問題だったり、書の性質の問題だったり、いろいろあるとは思うのですが
イザヤ書はトーラーの学びというか、トーラーでしっかり単語の基本を押さえていないと読み解けない仕様になっているような気がします。(個人の感想です)

 

אור’ō·wrオウルという語の使われ方


bā·’ō·wr — 1 回 ヨブ記
bə·’ō·wr — 7 回 ヨブ記1回、詩篇3回、箴言1回、イザヤ書1回、ミカ書1回
bə·’ō·wr·ḵā — 1回 詩篇
ḵā·’ō·wr — 1回 詩篇
hā·’ō·wr — 7回 創世記3回、士師記1回、ネヘミヤ記1回、伝道の書2回
kā·’ō·wr — 1回 ハバクク書
kə·’ō·wr — 3回 箴言1回、イザヤ書30章26節に2回
lā·’ō·wr — 7回  創世記1回、ヨブ記2回、イザヤ書2回、ミカ書1回、ゼパニヤ書1回
lə·’ō·wr — 13回 ヨブ記2回、イザヤ書7回、エレミヤ書3回、ハバクク書1回
lə·’ō·w·rêḵ — 1回 イザヤ書
lə·’ō·w·rōw — 1回 ヨブ記
mê·’ō·wr — 1回 ヨブ記
’ō·wr — 52回
’ō·w·rām — 3回  ヨブ記1回、イザヤ書1回、エレミヤ書1回
’ō·wr·ḵā — 1回 詩篇
’ō·w·rêḵ — 1回  イザヤ書
’ō·w·re·ḵā — 2回  イザヤ書2回
’ō·w·rê·hū — 1回 ヨブ記
’ō·w·rî — 1回 詩篇
’ō·w·rîm — 1回  詩篇
’ō·w·rōw — 4回 ヨブ記2回、イザヤ書1回、エゼキエル書1回
ū·ḵə·’ō·wr — 1回  サムエル記下
way·yā·’er — 1回  詩篇
wā·’ō·wr — 1回 イザヤ書
wə·hā·’ō·wr — 1回  伝道の書
wə·’ō·wr — 7回 ヨブ記1回、詩篇3回、イザヤ書2回、エレミヤ書1回
wə·’ō·w·rōw — 1回 ヨブ記1回

 

 

 

さて、

כאור のように

ということばについてですが、

この言葉は上に書いた通り聖書の中にはこの形で3回出てきます。

でそのうち2回はイザヤ書ですがもう一つ箴言にこの形の言葉が登場します。

正しい者の道は、夜明けの光のようだ
いよいよ輝きを増して真昼となる。
箴言4章18節

この箴言の言葉を眺めていて思ったのは、

夜明けの光のようだ、というのは夜明けの光ではないということです。

「正しい者の道は夜明けの光のようだ」と書かれているものを読んで

正しい者の「道」が夜明けの「光」になってしまう様子を思い描く人はいないということです。

イザヤは、そういう「ストレートではない」文学的な表現を、この30章の箇所と限らず多く用いているわけです。

だとすると、

「月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。」

というこの箇所は天体である月の光や太陽の光の話をしているわけではなく、

れんがと同じ文字列の「月」という言葉を用いたり、

激怒という言葉と同じ文字列の「日(太陽)」という言葉を使うことで

 

イエスさまがたとえ話をなさったように
「謎」を提示しているのかもしれません。

 

そして

預言者のことですからそもそも「謎」が標準仕様であるのに

すべては解明しつくされていて、注解や講解を読めばちゃちゃっと理解できるものだと思い込んでいた私の態度が間違いだったのだと思います。

 

 





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イザヤ書30章26節の解釈(1)実はレアな単語だったのです

イザヤ書30章26節の解釈(2)出来事の順番がおかしいと思うのは私だけ?

イザヤ書30章26節の解釈(3)太陽と月の役割

イザヤ書30章26節の解釈(4)新約聖書で「太陽」と「月」という言葉を探してみた

イザヤ書30章26節の解釈(5)単純な話

イザヤ書30章26節の解釈(6)七倍という言葉

イザヤ書30章26節の解釈(7)よくわからないのでもうしばらく考えます

イザヤ書30章26節の解釈(8)主は激怒しておられる・・・と思うのは私だけ?

イザヤ書30章26節の解釈(9)bind saddled rule しかし gives relief

イザヤ書30章26節の解釈(10)悪い光なんてあるのか?

イザヤ書30章26節の解釈(11)いったんまとめます

イザヤ書30章26節の解釈(12)「七日の光」

イザヤ書30章26節の解釈(13)引き続き「七日(間)の光」について

イザヤ書30章26節の解釈(14)「太陽のような月」それは偽物だ!

イザヤ書30章26節の解釈(15)本物の夜明けはやってくる、必ず


2023年12月7日木曜日

イザヤ書30章26節の解釈(9)bind saddled rule しかし gives relief

「光」という言葉が何を言っているのかずっと考え続けているのですが、どうもよくわからないので、先に
Strong's Hebrew 2280 חָבַשׁ 
について書きたいと思います。
Definitionとしては to bind, bind on, bind upと書かれているこの言葉、どこに書いてあるかというと

イザヤ書30章26節
さらに主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日には、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。

bind upということなので、包帯をしっかり巻くというような意味なのだとは思うのですが、聖書のほかの箇所で調べてみるとなんとなくイメージが違う。

まず、聖書の中で一番初めに2280番が登場するのは創世記で

 創世記22:3
アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。

太字にしましたが「ろばにくらを置き」というところが該当箇所です。

2280番は聖書の中に33回登場するのですが、

で、この「ろばにくらを置き」という翻訳がつけられているのは全部で13回。

民数記 22:21

士師記 19:10

サムエル記下 16:1

サムエル記下  17:23

サムエル記下  19:26

列王記上 2:40

列王記上 13:13(2回)

列王記上 13:23

列王記上 13:27(2回)

列王記下 4:24

そして、ろばにくらを置く以外の翻訳としては

 出エジプト記29:9
彼ら、すなわちアロンとその子たちに帯を締めさせ、ずきんをかぶらせなければならない。祭司の職は永久の定めによって彼らに帰するであろう。あなたはこうして、アロンとその子たちを職に任じなければならない。

「帯を締めさせ」の方が2280番のように考えがちですが、帯を締めるという単語は別にあって、2296番חָגַר英語でもgirdというbindではない単語が使われています。

で、ここまでのことを踏まえて2280番の意味を考えると、

bindという英語を聞いてまず思うであろう「ひもでしっかり縛る」というニュアンスよりも「かぶせる」というニュアンスがあり、

もう少し踏み込むと、「ろばにくらを置く」とかアロンとその子たちに「頭巾をかぶせる」という行為は、
所有者、使用者が、そのものをそのものの使命や立場にふさわしく、くらを置いたり頭巾を「かぶせて整える」というようなことなのかもしれないと思います。
(書きながら、かぶりものについて書かれている第一コリント11章のところを思い出したのですが、ユダヤ人の男性のキッパーのことを考えると一コリント11章がなんだかよくわからない
。。。と言えてしまう今日この頃。Wikipediaによると「キッパー」は神に対して頭を隠すことで神に対しての謙遜の意思を表す意味があるそうです。)

 

2280番חָבַשׁの話に戻ります。

2280番の言葉は、NASB(New American Standard Version)  の翻訳語として以下のような語がカッコ内の数字の頻度で充てられているそうです。

bandage (1), bandaged (1), bind (5), binds (2), bound (3), dams (1), gives relief (1), healer (1), rule (1), saddle (3), saddled (10), wound (1), wrapped (3).

最も多いのがsaddle(d)であるということはお分かりいただけると思うのですが、
面白いのは

gives relief (安心を与える) healer(いやす人)というような単語と並んで
rule(ルール、治める、統治する)という単語があることです。

 

以前詩篇23篇に登場する「杖」ついて書いた事がありますが


「羊飼いが見た詩篇23篇」
W・フィリップ・ケラー 著/ 舟喜順一 訳
という本の110ページから123ページ、
「あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです」という項で

羊が「所有者の支配と権威の下に入る」ということは
「所有者である彼の注意深い、細かい、直接の検査を受けるということ」
だと学ばせていただいたことがあります。

 

悪王に支配されるということは締め付けられる負の要素しかありませんが

善王の支配に入るということは安心を得られることです。

 

 

さて、口語訳聖書のイザヤ書30章26節において、2280番は以下のような太字の箇所だと書きましたが、

イザヤ書30章26節
さらに主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日には、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。


「さらに主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日には、」
と訳されているところを単語の順に並べるとこうなります。


「その日」

「包む」←2280番

「主(神聖四文字)」

אֶת

「壊れている、破滅状態、(クラッシュしている)」

「彼の民」

「そしてひどく傷ついている(砕け散っている)」

「虐殺、疫病、刃物や銃による傷」

「完全にいやす」

 

翻訳者は、日本語話者の理解しやすさと「宗教の教典」ゆえの品位を第一に考えて訳したのだろうなあと察するわけですが

イザヤが語っている場面は相当ひどい状態のようです。

 





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2023年12月6日水曜日

イザヤ書30章26節の解釈(8)主は激怒しておられる・・・と思うのは私だけ?

どうしてこんなに近くにあった言葉を見落としたのかわかりませんが
イザヤ書30章26節の「日(太陽)」2535番 חַמָּה chammah

と同じ文字列ではあるけれども発音の異なる2534番

 חֵמָה chemah

この言葉を含む聖書の箇所を読むと、月の光が日の光となりとか七倍になるとか言う話が間違いなく悪い話であることが分かります。(日本語の引用聖句は口語訳)

神さまが怒っておられる話ばかりで日本語の聖書でも怒り怒りとたくさん書いてあって、どこがその単語に該当しているのかわからない!

なので、複数回怒りだの憤りだのが登場している引用箇所では該当箇所として太字にした部分が間違っているような気がしますが

とにかく怒っておられる。
ハムにヘーが付いた文字列の単語は怒りを表しているのです。

2534番の言葉は全部で122箇所あるのですが、

トーラーとイザヤ書のところだけ引用します。

 

創世記27:44
あなたの兄の怒りが解けるまで、しばらく彼の所にいなさい。
 אֲשֶׁר־ תָּשׁ֖וּב חֲמַ֥ת אָחִֽיךָ׃

レビ記26:28
わたしもあなたがたに逆らい、怒りをもって歩み、あなたがたの罪を七倍重く罰するであろう。 
 וְהָלַכְתִּ֥י עִמָּכֶ֖ם בַּחֲמַת־ קֶ֑רִי וְיִסַּרְתִּ֤י

民数記25:11
「祭司アロンの子なるエレアザルの子ピネハスは自分のことのように、わたしの憤激をイスラエルの人々のうちに表わし、わたしの怒りをそのうちから取り去ったので、わたしは憤激して、イスラエルの人々を滅ぼすことをしなかった。
 הֵשִׁ֤יב אֶת־ חֲמָתִי֙ מֵעַ֣ל בְּנֵֽי־

申命記9:19
主は怒りを発し、憤りを起し、あなたがたを怒って滅ぼそうとされたので、わたしは恐れたが、その時もまた主はわたしの願いを聞かれた。
 מִפְּנֵ֤י הָאַף֙ וְהַ֣חֵמָ֔ה אֲשֶׁ֨ר קָצַ֧ף

申命記29:23
――全地は硫黄となり、塩となり、焼け土となって、種もまかれず、実も結ばず、なんの草も生じなくなって、むかし主が怒りと憤りをもって滅ぼされたソドム、ゴモラ、アデマ、ゼボイムの破滅のようである。――
 יְהוָ֔ה בְּאַפּ֖וֹ וּבַחֲמָתֽוֹ׃

申命記29:28
そして主は怒りと、はげしい怒りと大いなる憤りとをもって彼らをこの地から抜き取って、ほかの国に投げやられた。今日見るとおりである』。
אַדְמָתָ֔ם בְּאַ֥ף וּבְחֵמָ֖ה וּבְקֶ֣צֶף גָּד֑וֹל

申命記32:24
彼らは飢えて、やせ衰え、
熱病と悪い疫病によって滅びるであろう。
わたしは彼らを獣の歯にかからせ、
地に這うものの毒にあたらせるであろう。
 בָּ֔ם עִם־ חֲמַ֖ת זֹחֲלֵ֥י עָפָֽר׃

申命記32:33
そのぶどう酒はへびののよう、
まむしの恐ろしい毒のようである。
 חֲמַ֥ת תַּנִּינִ֖ם יֵינָ֑ם

 

イザヤ書27:4
わたしは憤らない。
いばら、おどろがわたしと戦うなら、
わたしは進んでこれを攻め、
皆もろともに焼きつくす。
 חֵמָ֖ה אֵ֣ין לִ֑י

イザヤ書34:2
主はすべての国にむかって怒り、
そのすべての軍勢にむかって憤り
彼らをことごとく滅ぼし、
彼らをわたして、ほふらせられた。
 כָּל־ הַגּוֹיִ֔ם וְחֵמָ֖ה עַל־ כָּל־

イザヤ書42:25
それゆえ、主は激しい怒りと、
猛烈な戦いを彼らに臨ませられた。
それが火のように周囲に燃えても、彼らは悟らず、
彼らを焼いても、心にとめなかった。
 וַיִּשְׁפֹּ֤ךְ עָלָיו֙ חֵמָ֣ה אַפּ֔וֹ וֶעֱז֖וּז

イザヤ書51:13(二か所)
天をのべ、地の基をすえられた
あなたの造り主、主を忘れて、
なぜ、しえたげる者が滅ぼそうと備えをするとき、
その憤りのゆえに常にひねもす恐れるのか。
しえたげる者の憤りはどこにあるか。
 הַיּ֗וֹם מִפְּנֵי֙ חֲמַ֣ת הַמֵּצִ֔יק כַּאֲשֶׁ֥ר
 לְהַשְׁחִ֑ית וְאַיֵּ֖ה חֲמַ֥ת הַמֵּצִֽיק׃

イザヤ書51:17
エルサレムよ、起きよ、起きよ、立て。
あなたはさきに主の手から憤りの杯をうけて飲み、
よろめかす大杯を、滓までも飲みほした。
 אֶת־ כּ֣וֹס חֲמָת֑וֹ אֶת־ קֻבַּ֜עַת

イザヤ書51:20
あなたの子らは息絶えだえになり、
網にかかった、かもしかのように、
すべてのちまたのすみに横たわり、
主の憤りと、あなたの神の責めとは、
彼らに満ちている。
מִכְמָ֑ר הַֽמְלֵאִ֥ים חֲמַת־ יְהוָ֖ה גַּעֲרַ֥ת

イザヤ書51:22
あなたの主、おのが民の訴えを弁護される
あなたの神、主はこう言われる、
「見よ、わたしはよろめかす杯を
あなたの手から取り除き、
わが憤りの大杯を取り除いた。
あなたは再びこれを飲むことはない。
 קֻבַּ֙עַת֙ כּ֣וֹס חֲמָתִ֔י לֹא־ תוֹסִ֥יפִי

イザヤ書59:18
主は彼らの行いにしたがって報いをなし、
あだにむかって怒り
敵にむかって報いをなし、
海沿いの国々にむかって報いをされる。
 כְּעַ֣ל יְשַׁלֵּ֔ם חֵמָ֣ה לְצָרָ֔יו גְּמ֖וּל

イザヤ書63:3
「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。
もろもろの民のなかに、
わたしと事を共にする者はなかった。
わたしは怒りによって彼らを踏み、
憤りによって彼らを踏みにじったので、
彼らの血がわが衣にふりかかり、
わが装いをことごとく汚した。
בְּאַפִּ֔י וְאֶרְמְסֵ֖ם בַּחֲמָתִ֑י וְיֵ֤ז נִצְחָם֙

イザヤ書63:5
わたしは見たけれども、助ける者はなく、
怪しんだけれども、ささえる者はなかった。
それゆえ、わがかいながわたしを勝たせ、
わが憤りがわたしをささえた。
 לִי֙ זְרֹעִ֔י וַחֲמָתִ֖י הִ֥יא סְמָכָֽתְנִי׃

イザヤ書 63:6
わたしは怒りによって、もろもろの民を踏みにじり、
憤りによって彼らを酔わせ、
彼らの血を、地に流れさせた」。
 בְּאַפִּ֔י וַאֲשַׁכְּרֵ֖ם בַּחֲמָתִ֑י וְאוֹרִ֥יד לָאָ֖רֶץ

イザヤ書66:15
見よ、主は火の中にあらわれて来られる。
その車はつむじ風のようだ。
激しい怒りをもってその憤りをもらし、
火の炎をもって責められる。
מַרְכְּבֹתָ֑יו לְהָשִׁ֤יב בְּחֵמָה֙ אַפּ֔וֹ וְגַעֲרָת֖וֹ

 

 



おいおいおいおいと言いたくなるような箇所ばかりで。

あの綴りである「日(太陽)」の光が七倍って

激怒が七倍になる感じじゃないですか!?

ああ大変!

でも

間違いないことは

神さまは従う者には怒るはずがない。

ニムロドのような者たちへの怒りですよね。

 

 

それにしたって

なんで私は「月の光は日の光日の光は七倍」というこの箇所をほんわか良いムードな感じにとらえていたのでしょうか40年も!

本当にこれって・・・アレのことなんですか?アレの・・・

 

 

あ、聖句を思い出した

わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。ヤコブの手紙3章1節

(;´Д`A ```

 





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イザヤ書30章26節の解釈(5)単純な話

イザヤ書30章26節の解釈(6)七倍という言葉

イザヤ書30章26節の解釈(7)よくわからないのでもうしばらく考えます

イザヤ書30章26節の解釈(8)主は激怒しておられる・・・と思うのは私だけ?

イザヤ書30章26節の解釈(9)bind saddled rule しかし gives relief

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2023年12月5日火曜日

イザヤ書30章26節の解釈(7)よくわからないのでもうしばらく考えます

本当はこういうことをしたらいけないのだと思うのですが・・・
口語訳聖書のイザヤ書30章23節から26節までの文をヘブライ語聖書での並び順に入れ替えて言葉も少々変えて並べてみたいと思います。23節24節は入れ替えの必要がないと思えるのでいじりません。

 

(23)主はあなたが地にまく種に雨を与え、地の産物なる穀物をくださる。それはおびただしく、かつ豊かである。その日あなたの家畜は広い牧場で草を食べ、
(24)地を耕す牛と、ろばは、シャベルと、くまででより分けて塩を加えた飼料を食べる。

(25)すべてのそびえたつ山と、すべての高い丘に水の流れる川がある。

 

大いなる虐殺の日、やぐらの倒れる時
(26)月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七日分の光

 

その日主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる

変更前の文章

(23)主はあなたが地にまく種に雨を与え、地の産物なる穀物をくださる。それはおびただしく、かつ豊かである。その日あなたの家畜は広い牧場で草を食べ、
(24)地を耕す牛と、ろばは、シャベルと、くまででより分けて塩を加えた飼料を食べる。
(25)大いなる虐殺の日、やぐらの倒れる時、すべてのそびえたつ山と、すべての高い丘に水の流れる川がある。
(26)さらに主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日には、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。

 

次に、
この文の流れに注目してください。

大いなる虐殺の日、やぐらの倒れる時
月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七日分の光のようになる。
その日、主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる

 

これを

(1)から(6)で書いた内容と以前書いた「バベルの塔とハルマゲドン」という記事を踏まえて読み直してみます。

(1)から(6)で書いた事

この節で使われている「月」「日(太陽)」という言葉はほかの箇所にはあまり出てこない単語で表現されていて、「月」という言葉はバベルの塔を造るために使った「れんが」と同じ文字列であり、「日(太陽)」という言葉はノアの息子であるハムの名前の後に神聖四文字に二回使われているהヘーというヘブライ文字が付いているものである。
ノアの息子であるハムの名前の後に父なる神さまを表すאアレフというヘブライ文字が付いている単語がダニエル書にあってそれは「激怒」と訳される。
七倍という言葉は災いや復讐などの時に使われている言葉である。

 

「大いなる虐殺の日、やぐらの倒れる時」
虐殺という言葉はהרגヘレグで、הרハル=山という意 に גギメル=ラクダを表す文字で大きいというニュアンスが込められることが多い が付いている

やぐらという言葉はヘブライ語ではミグダルの複数形でמגדליםミグダリムとなっている。

Strong's Hebrewで、この単語の前にあるいくつかの単語に目を留めてみると
 
4022. meged מֶגֶד excellence 優秀
4023. Mgiddown מְגִדּוֹן a tower 塔
4023a. migdol a tower
4023b. Megiddon or Megiddo a place in Manasseh 

メギドンまたはメギドという地名は「塔」という言葉に大変近い音(綴り)

 

「大いなる虐殺の日、やぐらの倒れる時」を合体させるとヨハネの黙示録16章にあるハルマゲドンという言葉になる可能性が高い。

 

「月の光」「日の光」
ここでいうところの「月」は、その文字列がバベルの塔を建設するために人間が作った「れんが」と同じであるということと、前節にバベルの塔を思い起こさせるミグダルが登場する事や
30章26節と全く同じ「月」「日」というレアな単語を使用しているイザヤ書の24章23節の箇所を考えあわせると、天体としての月ではない可能性が高いのではないかと思う。

 

 

 

 

イザヤ書24章23節について

こうして万軍の主がシオンの山
およびエルサレムで統べ治め、
かつその長老たちの前に
その栄光をあらわされるので、
あわて恥じる。
イザヤ書24章23節

この箇所の大きな特徴としては月と日が擬人化されているということです。

月は「あわて」というところにあるヘブライ語は
Strong's Hebrew 2659חָפְרです。

2659番はイザヤ書1章29節でも使われているのですが
偶像崇拝者がどうなるのか、ということを描写する「恥じ」という表現用いられています。

あなたがたは、みずから喜んだかしの木によって、
はずかしめを受け
みずから選んだ園によって、恥じ赤らむ。

 

次にイザヤ書24章23節の

日は「恥じる」というところにあるヘブライ語は
Strong's  Hebrew 954בּוּשׁです。
これもイザヤ書1章29節で使われていて、口語訳聖書でははずかしめを受けと訳されています。

イザヤ書におけるほかの用例を探しましたら、イザヤ書19章9節の「恥じる」という言葉も 同じStrong's  Hebrew 954でした。

練った麻で物を造る者と、
白布を織る者は恥じる

イザヤ書19章は「エジプトについての託宣」が書かれているところです。

 

 

そういう恥ずかしめだったりというものを24章23節の月や太陽は受けるとイザヤは語るわけですが、そうなってくると、単なる文学的な表現としての月と太陽の擬人化ではなく、月や太陽に関係する偶像崇拝を象徴しているのではないかと考えたくなります。

イザヤ書3章16節から23節にはこのような言葉があり

主は言われた、
シオンの娘らは高ぶり、
首をのばしてあるき、目でこびをおくり、
その行くとき気どって歩き、
その足でりんりんと鳴り響かす。
それゆえ、主はシオンの娘らの頭を
撃って、かさぶたでおおい、
彼らの隠れた所をあらわされる。
その日、主は彼らの美しい装身具と服装すなわち、くるぶし輪、髪ひも、月形の飾り、 耳輪、腕輪、顔おおい、頭飾り、すね飾り、飾り帯、香箱、守り袋、 指輪、鼻輪、 礼服、外套、肩掛、手さげ袋、薄織の上着、亜麻布の着物、帽子、被衣などを取り除かれる。

太字にしましたが、「月形の飾り」という言葉があります。
この言葉はヘブライ語ではשַׂהֲרֹןサハロンといい、コンコルダンスで調べると、この箇所のほか士師記に二度登場するものだということがわかります。

 

士師記8:21
そこでゼバとザルムンナは言った、「あなた自身が立って、わたしたちを撃ってください。人によってそれぞれ力も違いますから」。ギデオンは立ちあがってゼバとザルムンナを殺し、彼らのらくだの首に掛けてあった月形の飾りを取った。

 

士師記8:26
こうしてギデオンが求めて得た金の耳輪の重さは一千七百金シケルであった。ほかに月形の飾りと耳飾りと、ミデアンの王たちの着た紫の衣およびらくだの首に掛けた首飾りなどもあった。

 

ヨブ記31章にもこんな箇所がありますが

わたしがもし日の輝くのを見、
または月の照りわたって動くのを見た時、
心ひそかに迷って、手に口づけしたことがあるなら、
これもまたさばきびとに罰せらるべき悪事だ。
わたしは上なる神を欺いたからである。31章26節~28節

選ばれ愛されている民であるにもかかわらず
創造主であるまことの神さまを主と仰がず
偶像(月)崇拝の罪を犯す者がたくさんいたのだということを改めて認識できる箇所かと思います。
ヨブ記31章26節で「日」と訳されているところは太陽ではなく
 אוֹרという単語が使われています。翻訳聖書では日の光のように訳されていることがありますが基本的には創世記1章3節のところで創造された「光」が אוֹרオウルです。

ヨブ記31章26節で「月」と訳されているところはיָרֵחַで、イザヤ書30章26節に登場するレアな単語ではありません。メジャーな方の象形文字のような絵文字のような「月」という単語です。
だとすると、イザヤは月を崇拝しているという表現をするためにレアな単語を使ったわけではないということだと思います。メジャーな単語を使っても表現可能であったにもかかわらずあえてレアな単語を用いたということになるのだということになろうかと思います。

つまり、イザヤは、あえてレアな単語を使うことでその単語でしか伝えることのできないメッセージを盛り込もうとしたのではないでしょうか。

 

 

月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七日分の光

月という天体は創造の初めに神さまがどんな役割を与えたのかということについては(3)で確認しましたが、
創世記1章に、月は夜をつかさどる光、と書いてあります。

しかしそのような役割を持っているはずの月の光は日(太陽)の光のようになってしまうとイザヤは語ります。



大虐殺の時、塔という塔が倒れ、倒れればそこは塔の形を成さないれんがの山になるのでしょうが、そのれんがの光が日の光のようになるというのです。れんがが太陽になるのではなく、れんがの光が太陽の光のようになる。

ただし、この「太陽」もレアな単語חַמָּהで、明るさよりも「熱さ」を意識させる語ですから、月が昼の担当になるのではなく、夜のままで熱い太陽の光を放つということでしょうか。
「そして光、太陽 7倍」
七倍となる日の光というものが月の光の変化したものを指すのか、月とは異なる昼の天体である太陽を指すのかわかりにくいのですが、
レアなחַמָּהが連続して使われ、それが7倍だと言っていますので、別の天体の話を始めたようには思えないのですが、もしも日の光を発するようになってしまった月とは別の天体としての太陽だったとしても、七倍の熱は尋常ではありません。そして、七倍とは、(6)で書いたように怒りや復讐わざわいという意味で使われることの多い表現ですので、少なくともこれは楽しく素敵な光景を描写しているわけではありません。

そして七日の光…なのですが

七倍という言葉の補強なのかなんなのかちょっとよくわからないのですが

七日分と訳したところにはこういう言葉があります

שבעת הימים

で、この文字列を検索にかけたところ

想像していたものとは異なる検索結果が現れました。

אור שבעת הימים – חב"דפדיה 七日間の光

שבעת הימים – ויקיפדיה 七つの海

 

 

調べ学習も考察も終わることはありません。

 





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イザヤ書30章26節の解釈(2)出来事の順番がおかしいと思うのは私だけ?

イザヤ書30章26節の解釈(3)太陽と月の役割

イザヤ書30章26節の解釈(4)新約聖書で「太陽」と「月」という言葉を探してみた

イザヤ書30章26節の解釈(5)単純な話

イザヤ書30章26節の解釈(6)七倍という言葉

イザヤ書30章26節の解釈(7)よくわからないのでもうしばらく考えます

イザヤ書30章26節の解釈(8)主は激怒しておられる・・・と思うのは私だけ?

イザヤ書30章26節の解釈(9)bind saddled rule しかし gives relief

イザヤ書30章26節の解釈(10)悪い光なんてあるのか?

イザヤ書30章26節の解釈(11)いったんまとめます

イザヤ書30章26節の解釈(12)「七日の光」

イザヤ書30章26節の解釈(13)引き続き「七日(間)の光」について

イザヤ書30章26節の解釈(14)「太陽のような月」それは偽物だ!

イザヤ書30章26節の解釈(15)本物の夜明けはやってくる、必ず


2023年12月3日日曜日

イザヤ書30章26節の解釈(6)七倍という言葉

さらに主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日には、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。
イザヤ書30章26節(口語訳)

 

BIBLE HUBを眺めていましたら、

2528番にはחמאという言葉がありました。
これはחמハムにאアレフ(神さまを表す文字)が付いているわけですが
これはダニエル書3章だけに登場する言葉で
「激怒」という意味だそうです。(神さまを後ろに置いているんだもの、そりゃ激怒だわ)

で、その該当箇所(わずかに二か所)を眺めていましたら、ちょっと気になる言葉がありました。(以下すべて引用は口語訳聖書より)

ダニエル書3:13
そこでネブカデネザルは怒りかつ憤って、シャデラク、メシャクおよびアベデネゴを連れてこいと命じたので、この人々を王の前に連れてきた。

ダニエル書3:19
そこでネブカデネザルは怒りに満ち、シャデラク、メシャクおよびアベデネゴにむかって、顔色を変え、炉を平常よりも七倍熱くせよと命じた。

 

3章19節の方に「七倍熱くせよ」という言葉があるのですが

「七倍」という言葉はイザヤ書30章26節にもありましたね!

 

そこで、今日は口語訳聖書における「七倍」という言葉を日本聖書協会の聖書本文検索を利用して調べてみました。

 

 

すると、「七倍」という文字列を含む箇所は旧約聖書のみに存在し、それは以下の6書であるということがわかりました。

創世記
レビ記
詩篇
箴言
イザヤ書
ダニエル書

 

具体的には

創世記は4章15節の「カインを殺す者は七倍の復讐」という箇所と

4章24節の「カインのための復讐が七倍ならば、レメクのための復讐は七十七倍

 

レビ記は26章に4か所あって、

18節「わたしはあなたがたの罪を七倍重く罰する」

21節「わたしはあなたがたの罪に従って七倍の災をあなたがたに下す」

24節「あなたがたの罪を七倍重く罰する」

28節「あなたがたの罪を七倍重く罰する」

 

詩篇は79篇12節に

「主よ、われらの隣り人があなたをそしったそしりを
七倍にして彼らのふところに報い返してください。」

箴言には6章31節に

「もし捕えられたなら、その七倍を償い、
その家の貨財を、ことごとく出さなければならない。」

 

そしてイザヤ書は30章26節の箇所で、
「日の光は七倍

最後のダニエル書は上に引用した3章19節の箇所で
「炉を平常よりも七倍熱くせよ」

 

 

イザヤ書30章26節ではぼんやりとしている「七倍」という言葉の持つ意味合いが

はっきりしたような気がしました。

 





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2023年11月30日木曜日

イザヤ書30章26節の解釈(5)単純な話

さらに主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日には、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。
イザヤ書30章26節

月の光は日の光のようになり・・・

日の光は七倍となり・・・

ということをここのところずっと考え続けておりました。

で、今朝目が覚めた瞬間私は実に単純なしかし重大なことを見落としていたことに気付きました。

 

太陽が7倍って

光量であれ熱量であれどっちでもいいですが、

地球上の生物は生存不可能ではないでしょうか。

 

太陽は一つでよいのです。

それがベストだから

神さまはそうされたのです。

 

としたら、変える必要は無いわけです。

 

じゃあ、なぜ変えるのか。

 

 

 

と考えると、

これはあまりよい状況には思えないのですが・・・

 

 

7という数字に良いイメージがあるので、日の光が7倍になると言われると良いイメージに引っ張られがちですが、

 

太陽は一つで十分でありその状況がトーブなのですから

 

たとえ7という数字がそこにあったとしても

 

7倍が良いとは思えません。

 

だとすると、これはわざわいではありませんか?

 





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2023年11月27日月曜日

イザヤ書30章26節の解釈(4)新約聖書で「太陽」と「月」という言葉を探してみた

イザヤ書31章26節の太陽と月にに関係するところが新約聖書にないものか探してみることにしました。

 

ギリシャ語で太陽はStrong's Greek 2246

ἥλιος hélios

新約聖書には32箇所あります。以下すべて口語訳聖書から引用します。

書名をカタカナで書いたところは月Strong's Greek 4582 σελήνη  selénéが同時に登場する箇所です。
書名を英語で書いたところは太陽と月とセットではない箇所です。

 

 

マタイ5:45 こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。

 

Matthew13:6 が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。

 

 

Matthew 13:43 そのとき、義人たちは彼らの父の御国で、太陽のように輝きわたるであろう。耳のある者は聞くがよい。

 

Matthew 17:2 ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔はのように輝き、その衣は光のように白くなった。

 

マタイ24:29 しかし、その時に起る患難の後、たちまちは暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。

 

Mark 1:32  夕暮になりが沈むと、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのところに連れてきた。

 

Mark 4:6 が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。

 

Mark 13:24 その日には、この患難の後、は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、

 

Mark 16:2 そして週の初めの日に、早朝、の出のころ墓に行った。 

 

Luke 4:40 が暮れると、いろいろな病気になやむ者をかかえている人々が、皆それをイエスのところに連れてきたので、そのひとりびとりに手を置いて、おいやしになった。

 

ルカ 21:25 またと月と星とに、しるしが現れるであろう。そして、地上では、諸国民が悩み、海と大波とのとどろきにおじ惑い、

 

Luke 23:44 時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ。

 

使徒 2:20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、
はやみに
月は血に変るであろう。

(ヨエル 2:31主の大いなる恐るべき日が来る前に、日שֶׁמֶשׁは暗く、月יָרֵחַは血に変る。)

 

Acts 13:11 見よ、主のみ手がおまえの上に及んでいる。おまえは盲になって、当分、の光が見えなくなるのだ」。たちまち、かすみとやみとが彼にかかったため、彼は手さぐりしながら、手を引いてくれる人を捜しまわった。 

 

Acts 26:13 王よ、その途中、真昼に、光が天からさして来るのを見ました。それは、太陽よりも、もっと光り輝いて、わたしと同行者たちとをめぐり照しました。

 

Acts 27:20 幾日ものあいだ、太陽も星も見えず、暴風は激しく吹きすさぶので、わたしたちの助かる最後の望みもなくなった。

 

1 コリント 15:41 の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。

 

Ephesians 4:26 怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、が暮れるようであってはならない。

 

 

James 1:11 たとえば、太陽が上って熱風をおくると、草を枯らす。そしてその花は落ち、その美しい姿は消えうせてしまう。それと同じように、富んでいる者も、その一生の旅なかばで没落するであろう。

 

Revelation 1:16その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。

 

黙示 6:12 小羊が第六の封印を解いた時、わたしが見ていると、大地震が起って、太陽は毛織の荒布のように黒くなり、月は全面、血のようになり、

 

Revelation 7:2 また、もうひとりの御使が、生ける神の印を持って、の出る方から上って来るのを見た。彼は地と海とをそこなう権威を授かっている四人の御使にむかって、大声で叫んで言った、

 

Revelation 7:16 彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。

 

黙示 8:12 第四の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれて、これらのものの三分の一は暗くなり、昼の三分の一は明るくなくなり、夜も同じようになった。

 

Revelation  9:2 そして、この底知れぬ所の穴が開かれた。すると、その穴から煙が大きな炉の煙のように立ちのぼり、その穴の煙で、太陽も空気も暗くなった。

 

Revelation 10:1  わたしは、もうひとりの強い御使が、雲に包まれて、天から降りて来るのを見た。その頭に、にじをいただき、その顔は太陽のようで、その足は火の柱のようであった。

 

黙示 12:1  また、大いなるしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、足の下に月を踏み、その頭に十二の星の冠をかぶっていた。

 

Revelation 16:8 第四の者が、その鉢を太陽に傾けた。すると、太陽は火で人々を焼くことを許された。

 

Revelation 16:12  第六の者が、その鉢を大ユウフラテ川に傾けた。すると、その水は、の出る方から来る王たちに対し道を備えるために、かれてしまった。

 

Revelation 19:17  また見ていると、ひとりの御使が太陽の中に立っていた。彼は、中空を飛んでいるすべての鳥にむかって、大声で叫んだ、「さあ、神の大宴会に集まってこい。

 

黙示 21:23  都は、や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。 

 

Revelation 22:5  夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。

 

 

 

 

ギリシャ語で月はStrong's Greek 4582 

σελήνη  seléné

新約聖書に9回登場します。

太陽は単独で現れることのある言葉でしたが、月は必ず太陽とセットで登場していました。

 

マタイ 24:29  しかし、その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。

 

マルコ 13:24  その日には、この患難の後、日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、

 

ルカ 21:25  また日とと星とに、しるしが現れるであろう。そして、地上では、諸国民が悩み、海と大波とのとどろきにおじ惑い、

 

使徒 2:20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、
日はやみに
は血に変るであろう。

(ヨエル 2:31主の大いなる恐るべき日が来る前に、日שֶׁמֶשׁは暗く、月יָרֵחַは血に変る。)

 

1 コリント 15:41  日の栄光があり、の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。

 

黙示 6:12  小羊が第六の封印を解いた時、わたしが見ていると、大地震が起って、太陽は毛織の荒布のように黒くなり、は全面、血のようになり、

 

黙示 8:12  第四の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、の三分の一と、星の三分の一とが打たれて、これらのものの三分の一は暗くなり、昼の三分の一は明るくなくなり、夜も同じようになった。

 

黙示 12:1  また、大いなるしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、足の下にを踏み、その頭に十二の星の冠をかぶっていた。

 

 

黙示 21:23  都は、日やがそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。

 

 

 

 

新約聖書からわかったことのまとめ

月という言葉は太陽とセットで登場するが、太陽は単独で登場することがある

太陽はほとんどの場合暗くなる方向に変化する

ただし、

ルカ 21:25 また日と月と星とに、しるしが現れるであろう。そして、地上では、諸国民が悩み、海と大波とのとどろきにおじ惑い、

この箇所では「しるし」という言葉が用いられているので、どういう変化があるのかはわからない。

また、

Revelation 16:8 第四の者が、その鉢を太陽に傾けた。すると、太陽は火で人々を焼くことを許された。

この箇所では明るさについては言及していないが「焼く」ということなので、通常の温度とは異なる「異常な高温状態」になるということだろうと思う。

 

そういえば、

詩篇19篇において二種類の太陽という語が登場していて、

その響きは全地にあまねく、
その言葉は世界のはてにまで及ぶ。
神はשׁמשׁのために幕屋を天に設けられた。詩篇19:4(口語訳)


それは天のはてからのぼって、
天のはてにまで、めぐって行く。
そのחמה暖まりをこうむらないものはない。詩篇19:6(口語訳)

 

イザヤ書30章26節に書かれている「太陽」

Strong's Hebrew 2535 חמה は暖まりと訳されていた。

 

とすると、イザヤ書30章26節の「太陽」の変化とは
ヨハネの黙示録16章8節で言及されているもの「温度の変化」ということに近いのだろうか。

ただしここには月という語は登場しないので断定はできません。

 





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2023年11月24日金曜日

イザヤ書30章26節の解釈(3)太陽と月の役割

創世記1章14節から19節までを口語訳聖書から引用します。

神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。そのようになった。神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。 神はこれらを天のおおぞらに置いて地を照らさせ、昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。神は見て、良しとされた。 夕となり、また朝となった。第四日である。

神さまが太陽と月を造られたという箇所です。

神さまはいったい何のために太陽と月を造られたのかというと

まずは分けること。「昼と夜とを分け」と書いてあります。

分けるため、というところにはלהבדילという言葉があります。

元の単語はבדלバダル(分けてわかれさせる、区別する)という言葉です。

להבדיל lə-haḇ-dîl という形では聖書にトータル3回登場していて

この創世記1章14節以外にはレビ記11章47節とエゼキエル書42章20節にあります。

 

これは獣と鳥と、水の中に動くすべての生き物と、地に這うすべてのものに関するおきてであって、 汚れたものと清いもの、食べられる生き物と、食べられない生き物とを区別するものである。レビ記11章46,47節

 

 

このように、四方を測ったが、その周囲に、長さ五百キュビト、幅五百キュビトのかきがあって、聖所と、俗の所との隔てをなしていた。エゼキエル書42章20節

 

 

בדלバダル この言葉こそがトーラーを表していると私は思っています。

トーラーをギリシャ語のノモスであると勘違いし、律法と訳し、がんじがらめに縛るものだという認識で長い間居りましたが、トーラーは縛るものなのではないのです。

 

20年以上前、私の娘は新築の家に引っ越した2週間後にアトピーを発症しました。また、その後の経緯からも、シックハウス症候群(化学物質過敏症)の疑いを持たざるを得ませんでした。
どんなものであれ病気になると、私たちはそれまでの生活をそのまま続けることができなくなるわけですが、化学物質に過敏であると判断した私がまず行ったことは
家中のよろしくなさそうな揮発性化学物質が使用されているという疑いのあるものをすべて撤去することでした。(家の引っ越しは金銭的な問題で不可能でした)

結果、わが家では木製の家具やクローゼット、押し入れがすべて使えなくなり、布団も衣類もすべてのものが収納庫の外に出されることとなりました。

 

イメージしてください。あなたの家の収納庫が無くなった状態を。収納庫に収納されていたすべてのものが目の前にごちゃごちゃに積まれている状況を。

 

トーラーが無い状態というのは、そういう状態のことだと思います。

 

 

神さまに似たものとして造られた私たちは、ごちゃごちゃに積まれているものをまず用途に応じて分けないでしょうか。

例えば目覚まし時計は玄関ではなく寝室に。部屋全体を照らす照明器具はテーブルの下ではなく天井に取り付ける。

 

そして、そういう表に出しておいて使うものとタンスや押し入れなどにしまっておくものも分けるわけです。(しまうときにも自分なりのルールで物を分けるでしょう?)

 

しかしタンスやクローゼットや押し入れなど一切が使えなくなった時、

 

目覚まし時計は寝室に、照明器具は天井に取り付けることまでは可能なのですが、表に出したままにしておくものと必要になるまで見えない場所にしまうものの区別ができないという混乱に陥りました。

 

トーラーは秩序を与えるものです。

縛り付けるのではなく、分けるためのルールです。

生物学の土台となるような分類学という学問がありますが、
神さまが一番初めにアダムにやらせた「名前を付ける」という行為はまさに分類です。

神さまが造られたたくさんの生き物が名前を持たない状態で存在していた時に
神さまは生き物をアダムのところに連れてきて名前を付けさせるわけですね。
名前を付けるために最も重要なことは、これとそれには何らかの違いがあると気付くことです。空を飛んでいるものと飛べないものという違い、陸を歩いているものと水中にいるものという違い、初めはそういう大雑把なところから入り
やがて空を飛んでいるものの中にも大きさが違うとか色が違うとかくちばしの形が違うとか食べ物が違うとかいろいろな違いが見いだせるようになるはずです。

どういう「違い」があるのか、その「違い」に基づいて名前を付ける
そうやって人は「違い」を意識し、その違いに基づいて「名前」で呼ぶことができるようになる。
神さまはアダムに「違い」の存在を意識させ、教育しているのです。

私たちも小さな子供にまずは「名前」を教えますね。りんご、みかん、犬、鳥・・・

動物と人間、他者と自己、

分けるという行為、区別するという行為
それがトーラーです。上にレビ記11章46節47節をלהבדיל lə-haḇ-dîl という言葉が使われている箇所として引用しましたが

これは獣と鳥と、水の中に動くすべての生き物と、地に這うすべてのものに関するおきてであって、 汚れたものと清いもの、食べられる生き物と、食べられない生き物とを区別するものである。レビ記11章46,47節

 

違いを「分かる」ことによって食べられるものか食べられないかという具体物の区別ができるようになります。

具体物の区別ができるようになったら次は抽象的なことがらを区別していく、私たちが子供たちを教育するときに行うことと同じ、それがトーラーです。

律法について悪い評価をする人々に考えてほしいのは、「縛る」と言われるようなルールは「トーラー自体」なのか「解釈段階での問題」なのか、
そして、「そのルールを守らねばならないのは誰なのか」ということです。

上に引用したレビ記は誰のためのルールでしょうか。レビ記の初めにはこう書いてあります。

主はモーセを呼び、会見の幕屋からこれに告げて言われた、「イスラエルの人々に言いなさい、レビ記1章1,2節

主は、モーセを呼んで「イスラエルの人々に言いなさい」とおっしゃっています。
ですからイスラエルの人々が聴くべき守るべきルールであるということです。

律法の一点一画は滅びないのですから、イスラエルはイスラエル、それ以外はそれ以外ということに変化はないはずです。

置換神学のせいでイスラエルを「真のイスラエルであるクリスチャン」などと「読み替える」ようなことをするからおかしなことになるわけで、

神さまは筋の通った何の変更もないお方なのですから

ごちゃまぜにしてはいけないのです。

混ぜるからおかしくなるのです。神の言葉に混ぜ物をしてはいけないのです。

イスラエルは申命記14章2節に書かれているような民です。

あなたはあなたの神、主の聖なる民だからである。主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。

 

だから大変なのです。だからイスラエルは大変。責任が重いのです。

 

 

さて、超絶前置きが長くなりましたが、

今日は前回の記事に関連して太陽と月の役割の話です。

トーラーである創世記で、神さまは太陽と月の区別と役割について語られています。

神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。そのようになった。神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。 神はこれらを天のおおぞらに置いて地を照らさせ、昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。神は見て、良しとされた。 夕となり、また朝となった。第四日である。

創世記1章14節から19節までを再度引用しましたが

わずかこれだけのところに重要な秩序、区別、ルールともいうべきことが書かれています。

「天のおおぞらに」日本語で読むと読み流してしまいがちですがヘブライ語では「天」と「おおぞら」は別の単語できちんと区別されています。

言い換えます。天(シャマイム)と空(ラキア)は別物。ラキアのところに光があります。

で、ラキアのところにある光は
昼と夜を     להבדיל     区別し、
לאתת     しるしとなり、
למועדים    季節のため(直訳すると「定められた時」のため) 
לימים ושנים    日のため年のため       にあるというのです。

そして、ラキアのところにあって、地を
להאיר  照らす
למאורת  光となれ

そして大きい光に
昼をלממשלת  つかさどらせ
小さい光に
夜をלממשלת  つかさどらせ
星も造られ

神はこれらをラキアに置いて
地をלהאיר  照らさせ

昼と夜とをלמשל  つかさどらせ

光とやみとをלהבדיל  分けさせられた。

 

לラメドという文字がそれぞれ言葉の頭に付いています。色と大きさを変えて書きましたが、聖書の本文ではそんなふうにはなっていません。ご了承ください。

לラメドという文字は、ウィキペディアによれば、「牛を追うための突き棒」からできた文字だそうです。また、לラメドという「文字の名前」と同じ文字列である
למד という単語には「学ぶ」という意味があります。

 

ヘブライ語聖書を見ると、1章14節から19節までのこれほどの箇所の言葉の頭にそれぞれלラメドがわざわざつけられていて

(私はヘブライ語に関する参考書や文法書を見たことがありませんのできれいな一対一対応の日本語ですっきりと表現することはできませんが)

לラメドが言葉の頭につけられているときには、それはちょうど「牛が牛飼いに追われる」ときのように、神さまから「神さまのお決めになったまっとうな道」をあゆませられる、すなわち個々の被造物独自の役割、使命がלラメド以降の言葉で表現されているように感じます。

そして、これがトーラーに書かれた決まり事、ルールです。

確かに細かいかもしれません。

 

しかし、このルールのどれが取り去られたとしても世の中は大混乱となるでしょう。

実際、

トーラーで定められていたルールを

破壊しようとして、もしくは壊した結果いろいろな混乱が起きています。

トーラーで定められた「普遍的なルール」は取り去ってはいけない。

(ex.元素の構成する粒子や元素の持つ性質は神さまの定められたルールDNAの塩基配列は神さまの定められたルール

トーラーに定められたものを破壊するものは神さまの敵
クリスチャン用語でいえば反キリストです。

破壊すればどうなるか。

エレミヤ書4章23節記されたような創造前の混沌、茫漠となるのです。

 





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イザヤ書30章26節の解釈(7)よくわからないのでもうしばらく考えます

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イザヤ書30章26節の解釈(14)「太陽のような月」それは偽物だ!

イザヤ書30章26節の解釈(15)本物の夜明けはやってくる、必ず


2023年11月22日水曜日

イザヤ書30章26節の解釈(2)出来事の順番がおかしいと思うのは私だけ?

イザヤ書30章25節と26節のところを口語訳聖書とヘブライ語聖書から引用します。

 

 

30章25節 大いなる虐殺の日、やぐらの倒れる時、すべてのそびえたつ山と、すべての高い丘に水の流れる川がある。

והיה על כל הר גבה ועל כל גבעה נשאה פלגים יבלי מים

ביום הרג רב בנפל מגדלים׃

 

 

30章26節 さらに主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日には、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。

והיה אור הלבנה כאור החמה ואור החמה יהיה שבעתים כאור שבעת הימים
ביום חבש יהוה את שבר עמו ומחץ מכתו ירפא׃

 

 

前の記事では太陽と月と訳されている単語について調べて分かったことを書きました。

きょうは、そういう細かい話以前のこと、イザヤ書30章25、26節の「国語の読み取り」的な話についていつも思っていることを書きたいと思います。

 

まずは「大いなる虐殺の日」というもの提示され、そういう日があるのだな、と考えるわけですね。そして次に「やぐらの倒れる時」という言葉が句点で区切られて書かれているので、この二つの内容の関係性はどうなのかと考える。

で、「虐殺とやぐらが倒れるということが同時に起こる」と言いたいのか「大いなる虐殺の日とはつまりやぐらが倒れる時」と言いたいのか、よくわからないなあ、と毎回思うわけです。

しかし、日本語というのは最後まで読まないと意味が分からないものだ、という長年の経験がありますから、そういう分からなさのモヤモヤをいつも抱えたまま「やぐらの倒れる時」のあとの句点に目が行き、

句点があるから無意識に期待するわけです。「大いなる虐殺の日、やぐらの倒れる時」という二つもの条件設定をされた上での句点、だからきっと「その時」にどうなるのかという事が、次に書いてあるはずだと。

ところが、どう「なる」わけではなく、句点の前には全くなにも言ってはいなかったのように山と丘に川が「ある」と言い放つわけです。

「ある」ということになると、「大いなる虐殺の日、やぐらの倒れる時」の以前から川という存在が山や丘にセットされていて、つまりそういうセットがなされたら「大いなる虐殺の日、やぐらの倒れる時」に至るということ?

なんだかすっきり読み取れないのです。

まあ、預言なんだからそれで良し、と言われるのでしょうが。

 

 

ただ、ヘブライ語聖書を見るとなんだか印象が違ったのです。

上に引用しましたが25節の一語目והיה 「そして、あるよ~」と言ってます。

「あるよ~」なんて軽く言ってみましたが、実際にはそんな軽いものではないようにも思えます。ヘブライ語の文字をご覧ください、神聖四文字の順番の入れ替わったものです。
いやあ、そんなもの山のようにあるでしょうと思われる方も多いとは思いますが、
そもそもヘブライ語で「そして、ある」という言葉がこういう文字列で表現されることには深い意味があるに違いないと私は思っています。
創世記の各文の文頭にセットされているוヴァヴと同様、世の初めから永遠に途切れることなく存在する神の国を表現していると思えるוヴァヴにはじまり、
アブラムがアブラハムになるときに与えられた文字であるהヘーが二つある間に見える小さなיヨッド。まるで、聖い風を取り入れることのできる窓をそっと開けたら、そこに小さな小さな神さまの救いの右の御手が見えたかのようです。
そういう文字列、והיהが「そして、ある」と日本語に訳しているヘブライ語です。
神さまがかつて石の板に文字を刻んで与えてモーセに渡してくださったことを思うと、
きっと一文字一文字、思いを込めて、私たちに伝えてくださっている、と私には思えるのです。

で、

「そしてなにがあるの?」って思って次を見ると

על כל הר 右側から「アル カル ハル」と読みます。
調子のよい韻を踏んだ言葉の3連続ですがアルは上 カルは全て ハルは山 です。
 

全部読むとごちゃつくので省略しますが、
要するに25節のスタートでヘブライ語は大虐殺なんて言ってないわけです。まずあるのは24節までのストーリーを裏切らない内容で、口語訳聖書で言っているところの

「すべてのそびえたつ山と、すべての高い丘に水の流れる川がある。」
という部分が25節の最初にあるわけです。

せっかくだから23節からつなげてみましょうか?

23節 主はあなたが地にまく種に雨を与え、地の産物なる穀物をくださる。それはおびただしく、かつ豊かである。その日あなたの家畜は広い牧場で草を食べ、

24節 地を耕す牛と、ろばは、シャベルと、くまででより分けて塩を加えた飼料を食べる。

25節の初めの文「(そして)すべてのそびえたつ山と、すべての高い丘に水の流れる川がある。」

で、そういうここまでの話があって「その日」という殺戮の話につながっていくわけです。

 ביום הרג רב בנפל מגדלים

ביום その      

הרג 殺戮

רב  大きな

בנפל 倒れる    

מגדלים 塔という塔(複数≒ים海 の水がたくさんあるようにたくさんの)

  

 

ただ、新しい聖書協会共同訳でも口語訳と同じ順番に書かれていて

大いなる殺戮の日、塔という塔が倒れる時に
そびえ立つすべての山、高いすべての丘に
水の流れる水路ができる。(聖書協会共同訳)

順番なんてどうでもよいですか?出来事が網羅されていればそれでよいですか?

新しい聖書の方では「水路ができる」と言っているので、口語訳聖書の「ある」よりは読みやすいというか納得しやすいというか。・・・いや、意味が変わっている。

ん?あ、もしかして・・・ヘブライ語から直接翻訳していないのかな・・・

英語から日本語にしているの?えー?

 



どんな言語であれ、おそらくは言いたいことから言い始めるだろうし、少なくとも時系列は意識するよね?とか思うのですが

ま、仕方ない 

気を取り直して26節に行きます。

30章26節 さらに主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日には、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。

25節を読んで続けて26節を読んでいたわけです。ま、普通ですよね。
で、そうするとね、脳内は前の節の影響を受けるわけですよ。
(そうかそうか、川なり水路なりができて、その次に「主がその民の傷を包み・・・」って書かれているから水でいやされるのかなあ、水の少ないところだから水が豊富っていいよね)とか思っていたわけです、私は。

ところが、ヘブライ語聖書で26節の初めに何が書いてあるのかというと、傷を治す話ではないのです。

26節の一語目והיה

25節と同じですね「そしてあるよ~」って言ってます。
また何かがあるらしい。
神さまが何かをもたらして存在させるらしいのですね。
何があるの?と思って次を見るとאורと書いてあります。これはという単語です。そして次に出てくるのが前回の記事で「れんが」と同じ綴りだと書いた

לבנה」です。
上に引用したヘブライ語の26節、という単語と前回の記事で取り上げた「」、「」、に該当する単語の色を変えてみましたが

いずれにしましても、26節の初めにあるのは月と太陽の光の話です。そしてその話の次に、

ביום その日 がまた登場するわけです。で、その日、

神聖四文字であられる方がいやしてくださる、という話が書いてあるのです。

 

細かく読めば注意深く読めば読み取れるのですから問題ないと言えば問題ないのかもしれませんが、話があっちに行ったりこっちに行ったりしていると、私たちの脳は関連のある内容を勝手にくっつけて理解しがちです。

「月」がバベルの塔の「れんが」と同じ綴りであるというようなことがあるのだとすれば、そのあたりがきちんと伝わるような文の並びにしないと
神さまのメッセージが正しく伝わらないことになるような気もします。

 

前節からつながるような川(水路)の話があって、

その次に「大虐殺」と「塔」が倒れる話、
次の節に行くと「塔」に関連するかのようにバベルの塔の「れんが」と同じ綴りの「月」の光とハムの入った「太陽」の光の話、

そして最後に傷ついた「主の民」がいやされるというストーリーがあり

27節に続いていく

 

イザヤを通して神さまが何を語られたのか

 

「聖書のみ」という信仰を長く続けておりましたのでね

原典ではないものには誤りがあるんだから細かいことなどどうでもいいだろう

という気にはやはりなれません。

原典に近いところにヘブライ語聖書があるのならば

極力それに沿って読み取りたいとおもいます。

 





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さらに主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日には、月の光はの光のようになり、の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。
イザヤ書30章26節(口語訳)

前回חמハム(חם)という言葉がハマスという言葉に含まれているという話を書きましたが

そういう視点を持つとき、イザヤ書30章26節の「日(もしくは太陽)」という言葉にもחמハム(חם)という言葉が含まれている、ということになります。

 

「日(もしくは太陽)」と訳されているヘブライ語は多くの場合、絵文字のような象形文字のようなキラキラしたイメージを感ずることのできるこちらの単語

 Strong's Hebrew 8121 שׁמשׁが使われています。

שׁמשׁという語はEnglishman's Concordanceによれば聖書中に134回登場しているようです。

しかし、イザヤ書30章26節で「日」と訳されている言葉は聖書中に6回しか登場していないレアな単語です。

イザヤ書30章26節の「日」はStrong's Hebrew 2535です

Strong's Hebrew 2535 חמה 

Englishman's Concordanceを見ると、この単語が登場する6回のうち3回はイザヤ書に現れているということがわかります

Strong's Hebrew: 2535. חַמָּה (chammah) -- heat, sun


口語訳聖書から2535番が登場する箇所を引用します。
太字にしたところが2535番を訳したと考えられるところです。

ヨブ記30:28
わたしはの光によらずに黒くなって歩き、
公会の中に立って助けを呼び求める。

詩篇19:6
それは天のはてからのぼって、
天のはてにまで、めぐって行く。
その暖まりをこうむらないものはない。

雅歌6:10
「このしののめのように見え、
月のように美しく、太陽のように輝き、
恐るべき事、旗を立てた軍勢のような者はだれか」。

イザヤ書24:23
こうして万軍の主がシオンの山
およびエルサレムで統べ治め、
かつその長老たちの前に
その栄光をあらわされるので、
月はあわて、は恥じる。

イザヤ書30:26
さらに主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日には、月の光はの光のようになり、の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。

(七つの「日」とは太陽のことではなく日数)

 

 

聖書は古い書物であり、長い長い時間をかけて66巻がそろったわけですので、そういう書物にありがちなこととして、時代による言葉の変化というものがあります。
また、レアな単語である2535番がトーラーに現れていないということを考え合わせると、それほど一般的な言葉ではなかったのかもしれないとも思えます。

ただ、間違いなく言えることは
詩篇19篇を見ると、その一つの詩の中に両方の単語が登場しているので、

その響きは全地にあまねく、
その言葉は世界のはてにまで及ぶ。
神はのために幕屋を天に設けられた。詩篇19:4(口語訳)


それは天のはてからのぼって、
天のはてにまで、めぐって行く。
その暖まりをこうむらないものはない。詩篇19:6(口語訳)

4節に登場する「日」という言葉はשׁמשׁで6節の方にあるのはחמה です。

 

詩篇19篇が書かれた瞬間には二つの言葉は共存していたと考えられます。
「日(もしくは太陽)」と訳されている二つの単語はどちらかからどちらかの語に移行していったという性質のものではなく、
どこかの瞬間に二つの言葉となり、
それら二つには古代ヘブライ語を使う人々にとってはきちんと認識できる何らかの「違い」があり、使い分けていたと考えられるような気がします。
口語訳聖書においても詩篇19篇だけは
あまりに近い場所にふたつの「日(もしくは太陽)」と訳される単語があったからでしょうか4節のשׁמשׁは「日」と訳し、6節のחמהは「暖まり」と訳し分けられています。

イザヤ書でも13:10、38:8、41:25、45:6、49:10、54:12、59:19、60:19、60:20に登場する太陽にはשׁמשׁが使われており、複数イザヤ説を考慮するとしても、前半部分においてשׁמשׁחמהという二つの言葉は共存していたことになります。というか、こういうことを考慮するからこそイザヤは複数存在すると言われるのだ、と納得し、また少し昔の自分の信仰から遠ざかったような気がしました。

 

さて、ここまでは太陽の事ばかり書いてきましたが、実は「月」=moonについても、イザヤ書30章26節にはメジャーではないこんな単語が使われています。

 Strong's Hebrew 3842 לבנה

 

日本語聖書の中で「月」と訳されているところには、実はこの3842番ではない単語

 Strong's Hebrew 3394ירחが多く使われています。


例えば創世記37章9節にこんな箇所がありますが

ヨセフはまた一つの夢を見て、それを兄弟たちに語って言った、「わたしはまた夢を見ました。日と月と十一の星とがわたしを拝みました」。

「日と月と」と訳されている箇所にはこう書いてあって

השמש והירח

日のところにはשמשとあり、月というところはירחとあります。
ירחשמשのように絵文字のような単語で、文字を右から眺めると、新月から満月になっていくように・・・私には見えます。

この3394番は聖書中に26回登場します。

一方イザヤ書30章26節にある月という言葉

 Strong's Hebrew 3842 לבנה は

聖書中にわずか3回しか登場しません。
לבנה が使われているのは以下の箇所です。

雅歌6:10
6:10「このしののめのように見え、
のように美しく、太陽のように輝き、
恐るべき事、旗を立てた軍勢のような者はだれか」。

イザヤ書24:23
こうして万軍の主がシオンの山
およびエルサレムで統べ治め、
かつその長老たちの前に
その栄光をあらわされるので、
はあわて、日は恥じる。

イザヤ書30:26
さらに主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日には、の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。

そして、この3箇所はすべて上に書いたレアな単語חמハム(חם

入った太陽חמה とセットで登場しています。

 

 

もっとも、レア単語でない絵文字のような太陽と月もセットで登場することが多いような気がします。

例えば詩篇にはこのような箇所があります。

 

彼は日と月とのあらんかぎり、
世々生きながらえるように。
彼は刈り取った牧草の上に降る雨のごとく、
地を潤す夕立ちのごとく臨むように。
彼の世に義は栄え、
平和は月のなくなるまで豊かであるように。
詩篇72篇5~7節(口語訳)

 

わたしはわが契約を破ることなく、
わがくちびるから出た言葉を変えることはない。
わたしはひとたびわが聖によって誓った。
わたしはダビデに偽りを言わない。
彼の家系はとこしえに続き、
彼の位は太陽のように常にわたしの前にある。
また月のようにとこしえに堅く定められ、
大空の続くかぎり堅く立つ」。〔セラ
詩篇89篇34~37節(口語訳)

この二つの箇所は両方ともレアではない象形文字のような絵文字のような

שמש太陽ירח

という単語が使われています。
この詩篇における太陽と月は
神さまの被造物であるけれども私たち人間のような短い命ではないものとしてのたとえというか「永遠」というニュアンスをもたせてセットで登場しているわけですよね?

 

ただ、いつでもそういう良い感じの意味でשמש太陽とירח月が登場しているわけではなく

ヨブ記にはこんな箇所があって

わたしがもし日の輝くのを見、
または月の照りわたって動くのを見た時、
心ひそかに迷って、手に口づけしたことがあるなら、
ヨブ記31章26,27節(口語訳)

これは実は「日」と訳されているのはここまで書いてきた「日(太陽)」ではなく「光」という単語が使われているのですが「月」はでレアではない方のירח月という単語で、

いずれにしてもこの箇所では被造物である日と月を拝む行為=偶像礼拝 についての描写であるわけです。

聖書に登場する「太陽と月」という単語にはそういう場合もあります。

 

そんなことも踏まえながらイザヤ書30章26節の話に戻りますが

 

イザヤ書30章26節に登場する「月」と訳されているレアな単語

Strong's Hebrew 3842 לבנה

 

実は、発音(母音)こそ違うものの、
3842番と完全に同じ文字列を持つ3843番という単語があるのです。

Strong's Hebrew 3843 לבנה

3843番、これは、何を隠そう創世記11章3節、
バベルの塔の話に登場する「れんが」です

彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。 

バベルの塔を造る場面における「れんが」という言葉と
イザヤ書30章26節に登場する「月」という言葉は
同じ文字列を持つ単語
なのです。

イザヤ書30章25節では「塔」に言及しているわけで、

「塔」の話の後に「れんが」と同じ文字列の「月」

とても気になります。

 

 

 

 

ちなみに

イザヤ書には3843番の「れんが」に該当する単語も2箇所つかわれていまして

1箇所目は9章10節の「かわら」というところ、これが3843番です。

すべてこの民、
エフライムとサマリヤに住む者とは知るであろう。
彼らは高ぶり、心おごって言う、
かわらがくずれても、
われわれは切り石をもって建てよう。
くわの木が切り倒されても、
われわれは香柏をもってこれにかえよう」と。
イザヤ書9章9、10節(口語訳)

2箇所目は65章3節の「かわら」、これが3843番です。

わたしはわたしを求めなかった者に
問われることを喜び、
わたしを尋ねなかった者に
見いだされることを喜んだ。
わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、
「わたしはここにいる、わたしはここにいる」と。
よからぬ道に歩み、
自分の思いに従うそむける民に、
わたしはひねもす手を伸べて招いた。
この民はまのあたり常にわたしを怒らせ、
園の中で犠牲をささげ、
かわらの上で香をたき、
墓場にすわり、ひそかな所にやどり、
豚の肉を食らい、
憎むべき物の、あつものをその器に盛って、
イザヤ書65章1~4節(口語訳)

 

חמハム(חם)の入ったחמה太陽と

「れんが」לבנהと同じ文字列לבנהである月

 

イザヤ書30章26節の見え方が少し変わるような気がしませんか?

さらに主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日には、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。
イザヤ書30章26節(口語訳)

 





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イザヤ書30章26節の解釈(2)出来事の順番がおかしいと思うのは私だけ?

イザヤ書30章26節の解釈(3)太陽と月の役割

イザヤ書30章26節の解釈(4)新約聖書で「太陽」と「月」という言葉を探してみた

イザヤ書30章26節の解釈(5)単純な話

イザヤ書30章26節の解釈(6)七倍という言葉

イザヤ書30章26節の解釈(7)よくわからないのでもうしばらく考えます

イザヤ書30章26節の解釈(8)主は激怒しておられる・・・と思うのは私だけ?

イザヤ書30章26節の解釈(9)bind saddled rule しかし gives relief

イザヤ書30章26節の解釈(10)悪い光なんてあるのか?

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2023年11月14日火曜日

Strong's Hebrew 2555 Definition: violence, wrong

時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。
創世記6章11節(口語訳)

ותשחת הארץ לפני האלהים ותמלא הארץ חמס׃

Strong's Hebrew 2555 Definition: violence, wrong

חמס 

 ḥā·mās

 

 

ちなみに例のテロ組織はחמאסと表記するそうです。

חמאס – ויקיפדיה

 

そしてノアの息子のハムはחמסからסサメフを取って

חם

ḥām

 

 

今日は

חמס

この語を含む聖書の箇所を調べました

 

そこで神はノアに言われた、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう。
創世記6章13節(口語訳)

 

シメオンとレビとは兄弟。
彼らのつるぎは暴虐の武器。
創世記49章5節(口語訳)

 

あなたは偽りのうわさを言いふらしてはならない。あなたは悪人と手を携えて、悪意のある証人になってはならない。
出エジプト記23章1節(口語訳)

 

もし悪意のある証人が起って、人に対して悪い証言をすることがあれば、
申命記19章16節(口語訳)

 

2555番の言葉はトーラー以外預言書などにも登場しますので

いくつかピックアップし口語訳聖書から引用します

 

彼は暴虐を行わず、
その口には偽りがなかったけれども、
その墓は悪しき者と共に設けられ、
その塚は悪をなす者と共にあった。イザヤ書53章9節

 

見よ、主の手が短くて、
救い得ないのではない。
その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。
ただ、あなたがたの不義が
あなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。
またあなたがたの罪が
主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。
あなたがたの手は血で汚れ、
あなたがたの指は不義で汚れ、
あなたがたのくちびるは偽りを語り、
あなたがたの舌は悪をささやき、
ひとりも正義をもって訴え、
真実をもって論争する者がない。
彼らはむなしきことを頼み、偽りを語り、
害悪をはらみ、不義を産む。
彼らはまむしの卵をかえし、くもの巣を織る。
その卵を食べる者は死ぬ。
卵が踏まれると破れて毒蛇を出す。
その織る物は着物とならない。
その造る物をもって身をおおうことができない。
彼のわざは不義のわざであり、
彼らの手には暴虐の行いがある。
イザヤ書59章1~6節

 

主は正しき者をも、悪しき者をも調べ、
そのみ心は乱暴を好む者を憎まれる。詩篇11篇5節

 

詩篇140篇

聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌
主よ、悪しき人々からわたしを助け出し、
わたしを守って、
乱暴חֲמָסִ֣ים人々からのがれさせてください。
彼らは心のうちに悪い事をはかり、
絶えず戦いを起します。
彼らはへびのようにおのが舌を鋭くし、
そのくちびるの下にはまむしの毒があります。〔セラ
主よ、わたしを保って、
悪しき人の手からのがれさせ、
わたしを守って、わが足をつまずかせようとする
乱暴חֲמָסִ֣ים人々からのがれさせてください。
高ぶる者はわたしのためにわなを伏せ、
綱をもって網を張り、
道のほとりにわなを設けました。〔セラ
わたしは主に言います、「あなたはわが神です。
主よ、わが願いの声に耳を傾けてください。
わが救の力、主なる神よ、
あなたは戦いの日に、わがこうべをおおわれました。
主よ、悪しき人の願いをゆるさないでください。
その悪しき計画をとげさせないでください。〔セラ
わたしを囲む者がそのこうべをあげるとき、
そのくちびるの害悪で彼らをおおってください。
燃える炭を彼らの上に落してください。
彼らを穴に投げ入れ、
再び上がることのできないようにしてください。
悪口を言う者を世に立たせないでください。
乱暴חָמָ֥ס人をすみやかに災に追い捕えさせてください」。
わたしは主が苦しむ者の訴えをたすけ、
貧しい者のために正しいさばきを
行われることを知っています。
正しい人は必ずみ名に感謝し、
直き人はみ前に住むでしょう。

ידעת כי יעשה יהוה דין עני משפט אבינים׃

わたしは主が苦しむ者の訴えをたすけ、
貧しい者のために正しいさばきを
行われることを知っています。

אך צדיקים יודו לשמך ישבו ישרים את פניך׃
正しい人は必ずみ名に感謝し、
直き人はみ前に住むでしょう。

2023年9月24日日曜日

「פר」という言葉の周辺

ביום ההוא כרת יהוה את אברם ברית לאמר לזרעך נתתי את הארץ הזאת מנהר מצרים עד הנהר הגדל נהר פרת׃

引用したのはヘブライ語聖書の創世記15章18節です。

創世記15章18節には「ユーフラテス」という言葉があります。これは日本に暮らす私たちにとってもおなじみの「大きな川」であり、こういう古代のヘブライ人たちと「イメージを共有できる名詞」が出てきたらヘブライ文字の持つニュアンスを考察するチャンスだと思い、Strongのコンコルダンスで「ユーフラテス」の周辺にある言葉を眺めてみました。

 

まずユーフラテスという言葉は
Strong's Hebrew 6578 פְרָת です。

פペーとרレーシュとתタヴの3文字からできています。

文字の読み方から考えるとユーフラテスの「フラテ」という部分に該当するのだと思います。

で、ユーフラテス「川」という言葉は

נהר פרת で、つまり、נהר ナハル の部分が「川」という意味です。

נהרにはהר ハルという言葉が含まれていますが、הרはハルマゲドンでおなじみのハル「山」のことです。
山の前にנヌンがくっついているのが「川」だとするとנヌンという文字の持つニュアンスも考察することができるような気がします。

פרתに戻ります。

Strongのコンコルダンスでפרת という言葉の前後を眺めたところ、

פרというものがひとつのかたまりで、そこにいろいろな文字がくっついているという雰囲気がつかめました。

私はいつもヘブライ語の単語を「関数」を考えるときのように眺めています。
元となる「何か」に「一文字足したら」意味がどう変化していくのか、ということを調べ、文字それぞれのニュアンスを解読していくのです。

今日はפרという言葉からスタートし、一文字足された単語を調べます。

פרはコンコルダンスの6499番で、young bull と書いてありました。bullとは去勢していない雄牛ということなので、繁殖能力の旺盛なイメージを持てばいいのでしょうか。

そして、Strongコンコルダンスで6500番、つまりפרの次の単語は

פראでした。これはbe fruitfulとありますので、実り豊か、実りが多いということです。

一方、こんな単語もありました。Strongコンコルダンス6505番

פרד a mule muleとはラバのことです。ラバというのは雄のロバと雌のウマの交雑種で、繁殖力はありません。

פרה Strongコンコルダンス6509番これもbe fruitfulとありますので、実り豊か、実りが多い。同じ綴りの6510番は a heiferで、これはまだ子を産んでいない若い雌牛のことですから6499番と同じような状況の牛でこちらは雌を表しているのだと思います。

פרח Strongコンコルダンス6524番 これはto bud, sprout, shootということで、植物が芽を出すことを表しているそうです。

פרט Strongコンコルダンス6528番 これはレビ記19章10節に出てくる言葉で、ブドウ畑の「落ちた実」のことです。

פרי Strongコンコルダンス6529番 これはfruit 果実です。

פרך Strongコンコルダンス6531番 これはharshness, severityということで、きびしさということを表しています。

פרס Strongコンコルダンス6539番 これはペルシャです。

פרע Strongコンコルダンス6544番 これはlet go, let alone、ほかにact as a leaderリーダーのようにふるまうという意味があります。そしてこれにהヘーが付くと

פרעה Strongコンコルダンス6547番 Paroh 日本語の聖書ではパロまたはファラオと書かれているエジプト王の称号です。

פרץ Strongコンコルダンス6556番 これは以前の記事に取り上げたことのある単語ですが創世記 38:29に登場するペレツ 破裂という意味です。この言葉を意味が分かっているとペレツ ウザという名であったりペレツィムという山の名前だったりバアル・ペラツィムという言葉が出てきたときに言葉からなにがしかのイメージがわいてくるかと思います。

 

ちなみに、日本語の表記だと区別しにくいのでペリシテという単語も近いところにあるような感じになってしまいますがペリシテはפלשׁתと書き、פרから始まる言葉ではありません。רはRでלはLという違い、という感じです。

פלという二文字でできている言葉はStrongコンコルダンスには存在していません。פלのあとにאアレフの付いたものから登場します。

 Strong's Hebrew 6381 פָלָא 

これは動詞で、優れている、または並外れたものであるということを表すそうです。

6382番には同じ綴りで「驚くべき」という単語もあります。

 

 

話がそれました。

今日の調べ学習によって一文字一文字どういうイメージになるかという細かい考察をすべて書き記すことはしませんが、

一文字だけ、以前にも書いた事のあるדダレトについて書こうと思います。

ウィキペディアを見ると「扉」が起源である文字だということがわかりますが

この文字は、その前にある単語の意味をひっくり返す文字です。

繁殖力が旺盛な牛だとか実りが多いという意味を持つ単語の後ろについて今回は繁殖力のないラバという動物を表していました。

ほかにも父という意味のאָבアブという単語だったり

新緑という意味のאֵבエブという単語の

つまりאבという綴りの単語の後にדダレトがくっつくと

אבד これはNASBの翻訳語としては
annihilate (2), annihilated (1), been lost (1), broken (1), corrupts (1), destroy (33), destroyed (15), destroying (2), destroys (2), destruction (2), dying (2), fail (1), fails (1), give up as lost (1), lacking (1), lost (12), make vanish (1), makes to perish (1), no (2), obliterate (1), perish (61), perished (16), perishes (7), perishing (2), ruined (4), surely perish (3), take (1), utterly destroy (1), wandering (1), wastes (1), wiped (1).

破壊とか滅びるとかさんざんなことになります。

この単語を見るたびに思うのはヨハネの黙示録3章20節にあるラオデキア教会のイメージです。

見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。(口語訳)

神さま(アバ=父)の前にドアがある、
神さまがドアの外に締め出されている

 

ヨハネの黙示録に登場するアバドンという言葉は

אֲבַדּוֹןですかね?

 

ほかにもדダレトがくっつくと意味がひっくり返る単語

251、252番のאחは「兄弟」という意味ですがこれにדダレトがくっつくと

 אֶחָד 

これは「1」という意味です。