2025年2月26日水曜日

創世記1章1節(4)左から読んだら

בראשית ברא אלהים את השמים ואת הארץ 


今朝は創世記1章1節を眺め始めた瞬間ふと思ったのです。

בראバラって、逆から読んだらきっとアラブだよね?



 בראバラとはStrong's Hebrew 1254で定義は創造する形作るということですが 

ではארבアラブは?


 Strong's Hebrew 693ארבアラブ




大元の意味は混ぜること混ざるこということで、そこから
→交わる→保証人になる行為、誓約や交換
→貿易と移住、異文化交流

という意味になったのだそうです。
で、同じ文字列でも読み方の違うエレブには「暗くなる」または「夕方になる」といういみがあり、待ち伏せするとか潜むという意味になるそうです。


以前、ベレシートと冒頭に書かれているトーラー そして「聖」という記事で私は創造のプロセスと「聖」という概念の近似性、すなわち「分ける、分離させる、切り離す、」ということこそが「聖」であり、そのおおもとになっているのが「創造」におけるויבדלヴァ・ヤブデル「そして神さまは分ける」である、ということを述べましたが、
創世記における「創造する」という意味を表すבראバラと真逆の綴りを持つ
ארבアラブは、意味においても to mix 混ぜること混ざること
つまり、完全に真逆であることがわかり、

たいへんな驚きと、

またひとつヘブライ語聖書を読むための手がかりが与えらたことに感謝しました。


マタイによる福音書7章8節(口語訳)
すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。


ちなみに、 ארבהこれはアルベーと読みイナゴの大群のことだそうです。

Brown-Driver-Briggsによるとアッシリア語ではארבに「荒廃させる」という意味があるそうで(;´Д`A ```

聖書の時代には、イナゴは神さまの力と裁きの現れと見なされ、人々に悔い改めを呼びかけるためによく使われたので最後にהヘーが付いているのでしょうか

(個人の感想です(;^_^A

2025年2月25日火曜日

創世記1章1節(3)14文字だった

 食器棚のガラスの飛散防止のために貼っているヘブライ語の創世記1章1節、毎日台所に行くたびに眺めることになるわけですが、

眺めるたびにいろいろなものが見えてきます。(無責任なヒマ人ならではの言葉w)


これが創世記1章1節ですが(ヘブライ語は右から左に文字が並んでいます)

בראשית ברא אלהים את השמים ואת הארץ


これまでに書いた事のあることとしては
冒頭の、一般的には「はじめに」と訳される「ベレシート」
בראשית ベレシート   の中に 「契約」「家」があるという話。


ברית   ブリット 契約
בית     ベイト 家

そして、
בריתブリットを半分に切ったものは
בר息子と、ית神さまの御手が完了させた完全なもので
ブリットをその二つに分けたその間にאש炎(創世記15章17節に初出する語)を入れるとבראשיתベレシートになる、という話
→「ベレシートと冒頭に書かれているトーラー そして『聖』」

で、
今朝は何を見たのかと言うと、1節を二つに分けた文字の数。

בראשית ברא אלהים
エロヒムまでで14文字
את השמים ואת הארץ
そして後半も14文字

「初めに神さまが創造された」ベレシートからエロヒムに至る文字が全部で14文字
そして後半の
「天と地」というところが全部で14文字。


14だあ!マタイの冒頭の14代だあ!と、
まだ暗い朝の4時台、あっちこっちの痛みを忘れてひとり台所で大盛り上がり(笑)
で、前半14文字の中央にברバルをみつけ、バルはバルナバのバル、息子だぁ!
そうなるとברバルのあとのאアレフ(神さまを表す無音の文字)も含めた
בראが「神の息子」にしか見えなくなる私。
(בראは「創造する」という意味の動詞なのですが…)

そしてクリスチャンを40年以上やっている人間が芋づる式に思い出すのはダビデの名前。
דודダビデという名前はヘブライ文字דダレトが4番目の文字で数字の4を表し、
ヘブライ文字וヴァヴが6番目の文字で数字の6だから4+4+6で14というマタイの冒頭の14代の関する話も思い出し、
とうとうカチャーシーのように踊り出してしまったワタシ。


そして後半の14文字は7文字7文字で分かれることにも気付き
את השמים     「天」を表現したヘブライ語が7文字
ואת הארץ        「そして地」を表現したヘブライ語が7文字


美しい美しすぎると大騒ぎ!
(だれもいない部屋の中、一人で騒いでいるアラ還主婦!)

ちなみにאתの意味は、このブログで何度も書いておりますが、「わからん」ということになっているようです。(私の脳内では勝手に訳しておりますが)





そして、あらためて前半14文字を見返して、

神さまの家、神さまの契約、神さまがクリエイトする、
神さまの息子、完全で尊い神さまご自身
が見えてきて、また一人大盛り上がり!
楽しすぎて、お赤飯炊こうかしらと思うほど。


ついでに、

後半の14文字の中心に見えるםメムソフィートとוヴァヴをつなげ、
םメムソフィートというものは単語の一番後ろに付くときの形なので、
語末形のソフィートではない普通のמメムを頭にしてそれにוヴァヴを付けた単語を作ると
מメムとוヴァヴでמוミウ(ミュー)となり、
ミューか、ギリシャ語のμミューになるぞ!とか思って調べてみたら
本当にヘブライ語のその二文字でギリシャ語のμミューを表すらしいと
ウィキペディアで確認しました。(笑)

μミューはギリシャ語のアルファベットの12文字目、
なので、Α(α)アルファが始めを象徴しΩ(ω)オメガが終わりを象徴するように
Μ(μ)ミューは真ん中を表していたらしい
ということもウィキペディアのμについてのページ(ヘブライ語)で知りました。

そして、
μミューと言えば素粒子のミューオン、ミュー粒子
創造の初めの天と地の中間に「ミュー粒子」を見つけた気分となり(笑)

アダムが名付けた被造物のうちの一つの名前として「ミュー粒子」を見たような気分になってとてもとても楽しくなった朝でした。😊

2025年2月20日木曜日

箴言30章1節 ウカルについて調べてみた

לְאִֽיתִיאֵ֑ל לְאִ֖יתִיאֵ֣ל וְאֻכָֽל׃
箴言30章1節のウカルについて

今日、創世記18章8節を眺めていたら
文末にוַיֹּאכֵֽלוּという言葉があることに気付きました。
ヘブライ語の文末にもヴァヴの付いた動詞が来ることがあるんだ、しかもאכלが、と思い、
コンコルダンスを見ることにしました。すると、
Strong's Hebrew 398אכלにもヴァヴの付いたואכל
つまり、Strong's Hebrew401番である箴言30章1節の「ウカル」と同じ綴りのものが存在していました。(当然と言えば当然ですが)

 
398番のואכלには読み方の異なる二つの言葉がありました。
wə·’ā·ḵalと読むものが12箇所
(以下すべて口語訳聖書から引用させていただきます。)

主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。
創世記3:22

あなたはそれを持って行って父に食べさせなさい。父は死ぬ前にあなたを祝福するでしょう」。
創世記27:10

今から三日のうちにパロはあなたの頭を上げ離して、あなたを木に掛けるでしょう。そして鳥があなたの肉を食い取るでしょう」。
創世記40:19


それは地のおもてをおおい、人が地を見ることもできないほどになるであろう。そして雹を免れて、残されているものを食い尽し、野にはえているあなたがたの木をみな食い尽すであろう。
出エジプト記10:5(2回)

アロンとその子たちは会見の幕屋の入口で、その雄羊の肉と、かごの中のパンとを食べなければならない。
出エジプト記29:32


また人がもしすべて汚れたもの、すなわち人の汚れ、あるいは汚れた獣、あるいは汚れた這うものに触れながら、主にささげた酬恩祭の犠牲の肉を食べるならば、その人は民のうちから断たれるであろう』」。
レビ記7:21



あなたの家畜が産むものや、地の産物を食って、あなたを滅ぼし、穀物をも、酒をも、油をも、牛の子をも、羊の子をも、あなたの所に残さず、ついにあなたを全く滅ぼすであろう。
申命記28:51

わたしが彼らの先祖たちに誓った、乳と蜜の流れる地に彼らを導き入れる時、彼らは食べて飽き、肥え太るに及んで、ほかの神々に帰し、それに仕えて、わたしを軽んじ、わたしの契約を破るであろう。
申命記31:20

こうしてエホヤキンはその獄屋の衣を脱ぎ、一生の間、常に王の前で食事した
列王記下25:29

その国民は食い尽くす、あなたの収穫と食料を。彼らは食い尽くす、あなたの息子と娘を。彼らは食い尽くす、あなたの羊の群れと牛の群れを。彼らは食い尽くす、あなたのぶどうといちじくを。あなたが頼みとする城壁に囲まれた町を彼らは剣によって打ち破る
エレミヤ書5:17

こうしてエホヤキンは獄屋の服を脱いだ。そして生きている間は毎日王の食卓で食事し
エレミヤ書52:33


そしてwā·’ă·ḵalと読むものがひとつだけあって
それはエゼキエル書43:8
彼らはその敷居を、わが敷居のかたわらに設け、その門柱を、わが門柱のかたわらに設けたので、わたしと彼らとの間には、わずかに壁があるのみである。そして彼らは、その犯した憎むべき事をもって、わが聖なる名を汚したので、わたしは怒りをもって、これを滅ぼした。


2025年2月14日金曜日

箴言30章1節 私(試)訳

 דברי אגור בן יקה המשא נאם הגבר לאיתיאל לאיתיאל ואכל׃

マサの人ヤケの子アグルのことば。イティエルに告げ、イティエルとウカルに告げたことば。
箴言30章1節(新改訳2017)

マッサの人ヤケの子アグルの言葉。その人はイテエルに向かって言った、すなわちイテエルと、ウカルとに向かって言った、

箴言30章1節(口語訳)

ヤケの子アグルの言葉。託宣。この人は言う、神よ、わたしは疲れた。神よ、わたしは疲れ果てた。
箴言30章1節(新共同訳)

ヤケの子アグルの言葉。託宣。その人は言う。神よ、私は疲れた。神よ、私は疲れた。吞み尽くされてしまいそうだ。
箴言30章1節(聖書協会共同訳)


昨年8月ごろからあれこれ調べたり考え続けてきた箴言30章1節について
本日は 私(試)訳してみました。



דברי אגור בן יקה המשא נאם

ヤケの子アグル

(すなわち トーラーを良く学び知識が豊富で人々にトーラーを教えるソロモン)による

重い預言の言葉

הגבר

勇敢で強じんな男

לאיתיאל לאיתיאל ואכל׃

自分を完全無欠な王だと考えている者ואכלウカル

もしくは

自分を完全無欠な王だと考えている者ואכלとウカル

に対して:







לאיתיאל לאיתיאלを「自分を完全無欠な王だと考えているואכלウカル」もしくは自分を完全無欠な王だと考えている者ואכלとウカルと訳した理由


箴言30章1節の発話者は、神さまからのהמשא נאם「重い預言」としてこの言葉を語っていることから、これは「人間に対する」深刻な言葉であると判断した。
次に、המשא נאםの後の一語目がהגבר「戦士または戦士のように強じんな男」という表現であることから、その人物は自分に自信のある人物であり、また、その強さゆえに人々の尊敬を集めるような立場にある者ではないかと推察した。
ただ、王であることを示したり王を表すような具体的な表現はないし、二節以下の言葉を翻訳聖書で読んでしまうと、あれやこれやの寄せ集めのようなとりとめのない箴言集になってしまうので訳が分からなくなってしまうが、重い預言、すなわち託宣をわざわざ何の権力も無い一般人に向けて書くはずがないと思うので、人々に大きな影響を与えるような立場の人間に向けて書かれたものであると考えるのが妥当かと思った。
もっとも、
王を意のままに操る事が出来るような立場にいる男の存在が世の中に無いとは言えないが。

いずれにしてもその男は創造主であられる神さまに反逆する者。だからこそ重い預言、その者にとって恐怖を感じるような預言、神さまの言葉が下されるわけだ。

そういうことを考えながら


לאיתיאלという単語の解釈に移った。

以前読んだ資料も参考にし

同時に、私がいつも行っている「この単語を一枚の絵として眺めて考えた場合」

what I say...
神さまはヘブライ語聖書を異邦人クリスチャンにも読めるように設計しているはずだから、こむずかしい文法など分からなくてもぜったい理解できるはず!というとんでもない「仮説」をたてて検証し続けている
で、本日までのところ、
ヘブライ語のアルファベット22文字の意味をウィキペディアを使って把握、あとはひたすらクリスチャンとして教わってきた知識を総動員してひたすら眺め、毎日毎日考えていると、どこかから突然ふんわりと風が吹いてくるようになんとなくどことなく意味が分かるようなシステムになっている、というような気になっている。例を挙げればいろいろあるが、最もシンプルでわかりやすかったのは

אבד
これはアバ父よ、のアバ、アブであるאב「父」に、דダレト=扉(ドア)がくっついた単語だから、
ヨハネの黙示録のラオデキア教会の話だと気付き、ああ、あの神様をドアの外に追いやっている教会、つまりはその末路を想像すればよい、と。」


以前書いたようにこの単語לאיתיאלは左右対称になっていて

中心にあるのは「完全や完成」を表すヘブライ文字の一番最後の文字תタヴである。

そして
לאיתיאלという単語はתタヴの両側に
神さまのは右の御手であるיヨッドが配置されていて
תタヴは一見すると両側のיヨッドに囲まれて守られているように見える。が、

このתタヴが表している者は、自分の左にיヨッドとאל神さまを置いている。

ヘブライ語は右から左に書いていく言葉なので、

左においてあるものは右のものよりも後ということになるからתタヴが表している者は

神さまの右の御手(救いの御手)であるיヨッドと

神さまを表す言葉であるאלエルを自分よりも後ろに置いているということになる。


つまり、「完全や完成」を表すはずのתタヴが「神さまの御力や神さまご自身に対して非常に不遜である」

という本来ならばありえない事態がそこに見える。

神さまを後ろに置く事が不遜に感ずることについての根拠:

協会訳では詩編54編5節や86編14節、新改訳では詩篇54篇3節や86篇14節


そして、そういう不遜である「完全」な者תタヴの右側(先頭)にלאがあるので、 

לאは否定や禁止命令を表すから、このתタヴで表されている者は禁止命令を第一に掲げている者である可能性がある。禁止~禁止~!ダメ―ダメ―!ということでおなじみの男、というような、人々を法律でがんじがらめにして、自分firstな政治を行っている独裁者なのかもしれない。


以上のような「絵画的な」捕らえ方をしなかったとしても

固有名詞のように見えるלאיתיאלについて
一文字目のלラメドを通常の前置詞のようにとらえ
つまりלラメドがאיתיאלの前につけられたものとし、

אית については、את の間にיヨッドが入っていると考えれば

・・・もっとも、Strong’s Hebrew853番のאתとはいったい何なのかわからないということになっている現状では解釈することはできないのだが

אתを黙示録にあるアルファでありオメガ、つまり、最初であり最後であるととらえれば、
すなわち、
אתとは神さまの尊い御言葉トーラーによって完成された付加不許容、付加不必要なものであるというような、私自身の説をとると、(また結局独自解釈になってしまうけれども)
減らすことも付け加えることもしてはいけないという
神さまの御計画通りに御言葉によって造られた被造物תタヴの前に
もう一つ神の救いの右の手であるיヨッドを入れることで、
「神の救いの御手が働いた結果」ということをいっそう強調し
「この者はתタヴとされたのだ」と読めるわけだが、
תタヴの後ろにיヨッドが置かれ、さらには
神さまを表す言葉であるאלまでもがその後ろに置かれているということから

この者がתタヴ=完全だというのは

神さまからの本当の評価ではないけれども、たとえば「その時代の中で」

「全知全能であられる神さまの御心として」その男の存在がゆるされているということなのかもしれない。

さらに、לאיתיאלが二度繰り返されているので、強調されている意味である考えられるから

その男は不遜の極みであって、自分を創造主であられる方と同列、またはそれ以上だと考えているのかもしれないと思い、「完全」という語をいっそう強調するために「完全無欠」という言葉を充てたらいいのではないか、と考えた。


(そのとき、アラジンの「完全無欠のロックンローラー」という曲のタイトルが脳内に思い浮かんだという事実は否定できないのと、聖書とその関連書籍しか読まないような生活を40年も続けているので日本語の語彙が少なすぎると感じた。
このごろ自分はいつも翻訳聖書の批判ばっかりしている気がするけれども、翻訳とは実に難しい作業だと思う。しかも、単なる翻訳ではなくて聖書を全く知らない日本語を使う人々に対して「キリスト教を布教」する目的があるとしたら、直訳とは異なっても仕方がないのかもしれない、と思うようにもなった。が、聖書のみ、という信仰を持っていた自分にとって、
もちろんそれは「原典において」のことだ、とは考えていたけれども、ブレズレンの群れにいて暗誦するほどに手元の聖書を読み続けていた自分にとって、「秋の夜長に聖書の比較」で知った事実は本当に本当にショックな出来事だった。
秋の夜長に聖書の比較の後、使徒28章26,27節に引用されているイザヤ書6章9,10節の言葉が素直に読むとギリシャ語でもヘブライ語でもなんか違うのでは、ということも知り・・・以降、頭痛と腹痛で生活に支障が出るようになってしまった😷メンタル弱すぎ…というか自分にとっての根幹の問題ですから)




最後に、ואכלウカルを固有名詞にした理由について

ואכלウカルを動詞「אכל食べる」であると考えて一文字目を接続詞のוヴァヴであると考えてみたが、いったい何と何を連結させて「そして食べる」と言っているのかということがどうしてもつかめなかった。


「לאיתיאל לאיתיאל」そして「ウカル」という人 に対する託宣

לאיתיאל לאיתיאל が「ウカルと同一人物」という可能性も残しておきたい。

が、いずれにせよウカルは固有名詞がいいような気がする。



今後もっともっとトーラーや預言書等々を読み進め

更なる考察の上 変更する可能性は大いにありますが、本日のところはこれで・・・


2025年2月6日木曜日

エリヤの「ほら穴」に見る事が出来る「聖」

その所で彼はほら穴にはいって、そこに宿ったが、主の言葉が彼に臨んで、彼に言われた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。 列王紀上19章9節


ベレシートと冒頭に書かれているトーラー そして「聖」 https://kyudochu.blogspot.com/2024/12/blog-post_16.html

をはじめとして聖ということというカテゴリで書いたことを心に留めながら列王記上19章辺りを読み返してみると

エリヤの「ほら穴にはいる」という行動はまさに「聖」となるための行動なのだ、と思ったのです。

19章3節のところにある「そこでエリヤは恐れて、自分の命を救うために立って逃げ、」という言葉を読めば、たしかにエリヤは恐れて逃げたということではあるのですが、逃げた先で天使に養われて元気になったあと、
神の山であるホレブ山に行き、彼はほら穴に入るわけですね。

「ほら穴に入った」というところはヘブライ語聖書では

 אל המערה とかいてあり、

אל エルは前置詞で「~の中に」と訳し、ほら穴に当たる部分はמערהで、その言葉の前に定冠詞theのように訳すとされるהヘーがついている形です。

ただ、深読みをすると、たしかにאלエルは前置詞なのでしょうが、その文字は
אלהיםエロヒムの初めの二文字であるאלエルであり、
אלエルのルは、לラメド=突き棒 ですから、

神さまの山であるホレブに行き、神さまに押されるようにその方向に入っていくという気分のような意味合いを感じ、

そしてその入っていく先はהヘー(アブラムがアブラハムになった時のハであり、神聖四文字のうちの二文字である文字)が頭と語尾に付いたהמערה ハ・メアラーです。

「ほら穴」という日本語を充てるのは申し訳ないような気分になるのは私だけでしょうかww


מערהメアラー ほら穴 についてStrongの辞書を見ると

ほら穴は埋葬や家として利用するほか、
ダビデがサウルから逃れるためにアドラムの洞窟 (サムエル記上 22:1) とエンゲディの洞窟 (サムエル記上 24:3) に隠れたというように「隠れ家、避難場所」として利用することが書かれていました。

列王記上19章におけるエリヤの場合は、
主にお会いするためのほら穴、神さまの言葉を聞くためのほら穴です。
天使に養われて元気を出し、四十日四十夜かけてやってきた神の山のほら穴です。
岩なる神さまのほら穴!

ざわざわした世、心が騒ぎ乱される混乱の世、トーラーによって与えられた秩序とは異なるごちゃまぜの暗闇を離れる事が出来る 
「ほら穴」。

たった一人そのほら穴に入り神さまの言葉を待つ預言者エリヤ。

イエスさまの「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。」という言葉

そして、パウロが言う「祈に専心するために、しばらく相別れ、」という言葉を思い出します。

聖であられる主の言葉を聞くためには聖でなければならないからです。

「イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、『あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。レビ記19章2節

 


「聖である」とは何か?「聖」とは何か?「聖」となるとは何か?

聖とは

「世」という熱狂、「世」という大多数、「世」とよばれる一般とは「異なる」という事です。

なぜなら「神聖な」という意味を持つギリシャ語は
ἅγιος hágios ハギオスで、
ハギオスの核となる意味は「異なる」だからです。

世と異なる者とならなければ神さまの御性質に似たものにはなれない。

神さまは世とまったく異なるお方だからです。

だから大多数から分離して独りになる。熱狂から離れて一人になる、
静かにほら穴に入って

本物の主の言葉を聴こうとして待つ。


列王記上19章のことを考えていたので

 去年10月に書いたדממהデママの話を思い出しました。


→主の御声 https://kyudochu.blogspot.com/2024/10/blog-post.html


2025年2月5日水曜日

創世記1章1節(2)ベレシートの中に「家」もあった

大きなsinkholeの被害であったり、とんでもない大雪であったり、毎日ほんとうに心がつらく苦しい日々です。何をすることもできませんがただただお祈りしております。


 

今日もまた台所で創世記1章1節を眺めておりました。

בראשית

ベレシートの中にבריתブリット(契約)という言葉が見えるということを前に書きましたが、
https://kyudochu.blogspot.com/2024/12/blog-post_16.html
そんなことを言ったら
בית ベイト
だってあるじゃない、と思いました。

ベイトとは

ベツレヘムのベツ
ベツサイダのベツ

「家」です

ביתは Strong's Hebrewの1004,1005,1006番です。

Strong's Lexiconによれば
ベイトとは、
・主に家や寺院などの物理的な構造物や住居を指し
避難場所であり、コミュニティ、もてなしの場、
礼拝の場を象徴する。
・特定の家(「ダビデの家」など)に関連する家族や家系を含む世帯を表すこともある。
・「主の家」と呼ばれるエルサレムの神殿は、礼拝の場の中心であり、
神がその民の中に住まわれていることを表していた
 
というようなことが書かれていました。


ベレシートの中にベイトがある、と考えると
ベレシートつまり我々が創世記と呼んでいるものは
神さまの家について書かれている
それはまさに神の国
ベレシートとはその初めの物語だと考えられそうです。

2025年2月3日月曜日

創世記1章1節(1) エレツ ハアレツ 神の国と神の義

 さっきまた台所に貼ってある創世記1章1節を眺めていました。

そういえばイスラエルの新聞にハアレツというのがあったなあとか思いながら
Strong's Hebrew 776 הארץを眺めていました。

הארץハアレツ
ハはアブラムがアブラハムになった時に付いたハ、神聖四文字のうちの二文字であるハ
הヘーというヘブライ文字。
人はהヘーをtheと訳してしまうけれども、
הヘーは神さまの息。
命を吹き込まれた大地ארץエレツ(アレツ)が הארץハアレツ
הארץハアレツ 神さまの創造された「大地」につけられた名前。
神の国の領土。


ぼんやり眺めていたらふとマタイによる福音書6章33節が思い出されました。
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。
(聖書協会共同訳)

 

אは神さま
רレーシュで「頭」だから「一番初め」
ץはメルキツェデクのツェ、צדקツェデクのツェだから「義」


神さまの創造された「大地」につけられた名前には
そもそもそういう意味が見えるんだなあ・・・と思った朝でした。




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「祝福」という言葉について(2)申命記28章 祝福と呪い

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マルコによる福音書1章17節「人間をとる漁師」とヘブライ語「צדק」
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